18 夏の虫
翌朝、設楽は高橋にたたき起こされた。
「高橋さん・・・。いくら合い鍵持ってるからって、まだ朝の七時半ですよ?昨日は定演だったし、今日の撮影は昼から・・・。」
「設楽君、いいから早く!準備して!社長が呼んでるんだ!」
社長が?こんな朝早くから?あの人はなぜかいつも朝六時半には出社するから、この時間に会社にいてもおかしくはない。でも、一体何の用で。
いつも通りのシルバーの乗用車で着いた先で、設楽は唖然とした。
「どういうことですか・・・これ。」
机には何枚か写真が並べてある。原稿もだ。そう、昨日の―。
「いやあ、たまたま面白いものが撮れましてね。」
スーツ姿の中年男性が、黒いソファーに座っている。彼は記者だ。しかも、芸能関係のグラビア担当。設楽は血の気が引いた。写真は市民ホールの裏口、設楽がひとみに告白をした場面、ドラマのワンシーンを再現したもの、更に並んで帰っているところを撮ったものまであった。
「なんだこれ・・・。これじゃただのストーカーじゃないですかっ。」
睨んだが、相手は全く動じない。
「嫌われるのが我々の仕事でして・・・慣れてますよ。まあ、我々も稼いでなんぼですからねえ。」
設楽は高橋が青冷めているのを見た。おそらく、迎えに行かなかったことを後悔しているのだろう。
『しだれ桜』の番宣で、うっかりと三八回フられたことをばらしてしまってからは、暫くは記者がうろついていた。だが、それももうふた月以上前の話だ。ひと月もしないうちに、雑誌の誌面は脱税していたアイドル歌手にばかり向いていった。もう俺のことなんて気にもしていないだろうと思っていたのに、まだはりついている奴がいたなんて。
「で、どうします?」
「え?」
顔を上げた。記者の顔はいたって真剣なのに、どこかいやらしく笑っている気がする。
「あなたはまだ若いですし・・・何より、うちの娘が君の大ファンでね。この記事を載せるか載せないかは、あなたにお任せしますよ。もう入稿の準備も出来てるんで。」
設楽は写真に視線を落とした。幸せそうに笑っているひとみと自分の姿。その横の原稿には、悪趣味なタイトル。
「私も記事を書かないと、養っていけないんですけどね。」
耳に残る声。頭の空洞でこだまする。設楽は目を閉じた。
「これ・・・写真も原稿も買わせて下さい。」
「写真のネガも、ということでいいですかね?」
設楽は無言のまま、こくんと頷いた。
「いくらで買います?」
全く朝から嫌な会話だ。机の上に常備されているメモとボールペンを取り、数字を書いた。記者はそれを鼻で笑うと、スーツの内ポケットからペンを出し、設楽の差し出したメモを取ると、数字を書き直した。
ふざけるな、と言いたくなった。たかが印刷物に誰がこんなに払う?だが、このまま入稿する、と言われればそれまでだ。
「いいでしょう・・・これで買います。」
高橋はメモの数字を確認すると目を見開いたが、すぐに部屋を出て行った。それから暫く気まずい沈黙が流れた。
「情報が漏れたりとかは、ないでしょうね。」
設楽が前髪の奥から軽く睨んだ。
「そりゃあありませんよ。だって、あなたが買わないと言ったら、これはうちのトップだったんだから。」
ドアがバン、と開いて、息を切らせながら高橋が入ってきた。記者の前に行き、どうぞ、と茶封筒を差し出した。記者は中身を確認し、確かに、と言うと内ポケットから白い封筒を出した。高橋でなく、設楽に渡す。最初からそのつもりだったのか。
去り際に、記者がドアのところで立ち止まった。
「一つ、忠告しておきます。・・・いえ、これは私の善意からですが。騒がれたくなければ、大人しくすることです。私もこの仕事長いですからね、いっぱい知ってますよ。雑誌で騒がれた挙げ句、別れたカップルを。そうなりたくなければ大人しくするにこしたことはありません。・・・じゃあ、失礼します。」
「ご忠告感謝します・・・。」
ドアを閉める無機質な音が響いた。あの言葉は信じてもいいのか?人間はいつだって薄情だ。気を許せば、鮮やかに裏切る。少しの沈黙の後、社長が口を開いた。
「設楽君・・・だから言ったんだよ。」
いつになく冷たい社長の物言いに、今まで苛立ちで体から溢れそうな気持ちが、一気に細るのを感じた。この人にこんな顔をさせてしまうなんて。
「・・・すみません。ご迷惑を。」
「いや、もういいよ。これで懲りたろう?私も今朝知ったんだけどね。せっかく彼女と付き合えるようになったんだろう?こんなことで壊れたら一大事だ。」
再び謝る設楽に、もう行っていいよ、と言うと、椅子から立ち上がった。独り言のように呟く。
「私には子どもがいないからね・・・大人になっていく子を見る親は、こんな心境なのかね。」