17 青い夜風
「俺が四〇回言ったから、無理に返事したわけじゃないんだよな?」
ひとみは当たり前でしょ、と呟いた。ひとみの頬は、薄暗い街灯の下でも分かるほど紅くなっていた。会話が続かない。
「ドラマも観てくれてたんだな・・・知らなかった。」
「うん・・・全部観てる。他のも。」
設楽はにやけそうな顔を必死で取り繕った。
「そ・・・か。ありがとう。」
「正直ね・・・あの相手役の子が羨ましかった。」
マンションが見えた。もうすぐ着く。
「演技だよ。」
「知ってる。でも・・・。」
煌々と照るライトに、辺りが浮かび上がる。玄関口まで来ると、闇に慣れた目が痛む。
エレベーターが三階で停まった時、お疲れ様でした、と言葉を交わして後輩と別れた。エレベーターを降りた後も、さとみは気を遣ってか、二人の後ろを歩いた。しかし三人とも無言で、ドアの前まで来ると、お疲れ様、と挨拶して別れただけだった。
設楽は制服のままベランダへ出た。一瞬、蚊に刺されるかと心配したが、構わなかった。街の方の空が赤紫だ。よく「眠らない街」なんて言うが、ここだってそうだ。二十四時間営業のスーパーに、点々と明かりのともる窓。耳を澄ませば、車や電車の走る音は絶えない。ここは、都会だ。
西川家から話し声が聞こえた。プライバシーも何もあったものではない。窓を開けて網戸にしているので、余計によく聞こえる。どうやらひとみとさとみだけらしく、夫妻の声は聞こえない。
「お姉ちゃんさあ、今のままでいいの?」
「何が?」
お茶か何かをコップに注ぐ音がする。
「せっかく付き合うようになったのに・・・あれじゃあ今までと一緒だよ。」
「そりゃそうだよ。お互いに好きって言ったところで、向こうには仕事があるんだよ。毎日一緒にいれるわけじゃないし、毎週デートするわけでもない。むしろ、今までと一緒ってくらいで普通なの。」
「そんなこと言って・・・ぼやぼやしてたら設楽先輩、とられちゃうよ?うちの部以外にも、先輩のこと好きって人はいっぱいいるんだから。」
「そうなの?」
少し間があった。
「そうだよ、知らないの?私の友達でも、なっちゃんやさえだって・・・。」
後輩の名が挙がった。そうだったのか、と設楽は一人で驚いていた。
「だって設楽先輩は俳優さんだもんね。」
その後さとみは、先にお風呂入るね、と言うと、部屋を出て行った。設楽の目は、暗闇の中見開かれていた。
ああそうか、やっぱそうだよな。諦めに近い気持ちだ。この世に俺を「設楽優輝」でなく、「設楽優基」として見てくれる人は一体何人いるだろう。先輩後輩、果ては同級生にまで、俺を「設楽優輝」だと勘違いしている人はたくさんいる。けど、ひとみは違った。むしろ、「設楽優輝」の存在は、彼女には意味が無い。だからこそ、俺はひとみに惹かれていった。そして、「設楽優輝」の名声におごることなくやってこれた。
設楽は部屋へ戻り、ベッドへ寝転んだ。何ともなかった体が、今は指も動かせないほど重い。けれど、なんとか起き上がってシャワーを浴びに行った。明日からは、ほぼ休み無しで仕事だ。セリフは全て、頭から消え去ったみたいだ。