12 音楽の谷
あと七時間―。十時から始まったリハーサル中、ひとみは時計をちらりと見た。午後六時に演奏会は幕を開ける。時間が経つのが、遅いようで早い。六年生は本番が心配で仕方ないらしく、何人かは朝食を無理矢理食べてきた、と言っていた。きっと、来年はああなるのだろうと思うと、責任感と共にぞっとした。
客席では、今回は裏方として帰って来たОBと設楽、そして一年生がリハーサルを見ていた。今は合同ステージの第二曲目、『セブンティー・アダージョ』が流れている。とても優しいハーモニーの曲で、聴いていると、奏者ですら眠たくなる。きっと観客は寝るだろう。誰がこんな曲を提案して、許可したんだと設楽は内心ぼやいた。背景のスクリーンテストのために、ライトがとりどりに変化する。それを見ていると、本当にまぶたが落ちてくる。隣を見ると、三十代半ばのОBが熟睡していた。再びステージに目を向けると、真っ先に目が行くには、やはりひとみだった。顔が火照ってしまう。最近、月に一度は告白してはフられ、を繰り返している気がする。
「じゃ、お昼にします。一時半集合なのでね、各自遅れないように。休憩はしっかりとって下さいね。」
アンコールの二曲目まで通し終わり、顧問が指揮棒を置いた。急に騒がしくなる。楽器の音、話し声、椅子を動かす音。設楽はゆっくり立ち上がった。ホールの椅子が、音を立てて勝手に閉じる。セッティングを全て済ませてからのリハーサルなので、する仕事がない。笹井に、トランペットの三年生が、クーラーのせいでピッチが狂っていた、と言いに行こうとした。
まだステージの雛壇の上で、ひとみがОBと喋っている。約一年ぶりの再会に、話が弾んでいるようだ。満面の笑みでОBと向かい合っているのを見て、設楽は胸の内に、煙のように渦巻くものを感じた。
「設楽ー、俺のソロどうだった!?」
ステージから飛び降りて来たのは、クラリネット六年生の藤木俊だ。彼は、『組曲 十字軍』第七章で、ソロを任されている。
「全体的には良かったんですけど、音外しましたよね。」
藤木は頭を掻きながら言った。
「あー、やっぱ分かっちゃった?途中で分かんなくなっちゃって。本番やべーなあ。昼のうちにもう一回やっとこう。」
設楽はそれじゃ、と言って笹井の所へ行こうとした。しかし、藤木は設楽の肩に手を回した。
「まあ待ちなって。最近、どうなの?」
「何が、ですか。」
設楽は暑い、と思った。
「とぼけちゃって。聞いたぜ。三九回目言っちゃったって?」
「フられましたけどね・・・っていうか、何で知ってるんですか。」
藤木はきょとんとした。
「笹井が言ってたよ?ああ、弟の方ね。」
設楽はあの野郎、と心の中で呟いた。だが、なぜ笹井が三九回目のことを知っているのだろう。考えられるのは一つ、ひとみが話したのだろう。それならば、いつかの夜の電話の相手も笹井に違いない。だったら、笹井はずっと知っていたはずだ。ひとみが俺のことをどう思っていたか。きっと奴のことだから、知った上で楽しもうとしたに違いない。それは別に構わない。どうせ笹井からひとみの本心を聞いたところで、俺は信じなかっただろうから。
「なあなあ、今日また言うつもりか?」
藤木がにやにやしながら聞く。
「う・・・確かに明日からは仕事ばっかで会えないですけど。何も四〇回目を今日、言わなくても・・・。」
「言っちゃえよ、設楽。」
振り返ると、笹井がいつのまにやって来たのか、立っていた。
「お前、簡単に言うけどなあ・・・。」
設楽は溜め息をついた。言うこと自体は簡単だ。思い切ってしまえばいい。だが、さしたる理由もなく断られるのは辛い。しかも、あの夜ひとみが言ったことが本当なら、なおさら訳が分からない。
「言えよ、設楽。な?」
笹井は、いつになく真剣な顔になった。気圧されそうだ。
「・・・分かった。」
設楽は小さく頷いた。
「よっしゃ、俺も協力しちゃうからね!」
元部長の時岡弘司が、息をきらせながらやって来た。信頼できる人で、元部長というポジションのせいか、人を動かすのも上手く、いつも中心にいることが多い。ただ、ものすごくいたずら好きだ。最近は大人しくしてはいるが、何を考えているか分かったものではない。
「ええっ。時岡先輩、いや、いいですよ。むしろ協力しないで下さい!」
「大丈夫、大丈夫。可愛い後輩を貶めたりはしないって。」
それだけ言うと、時岡は忙しいらしく、走って行ってしまった。何だか、上手くはめられてしまったような気がする。
「ところで、笹井。」
「ん?何?」
設楽は、笹井の襟元をがしっと掴んだ。
「俺が三九回目フられたって、何べらべら喋ってんだよ。」
「げっ、藤木先輩、言っちゃったんですか。」
藤木は面白そうに二人を見ている。
「うん。でも今の状況を見る限り、言わない方が良かったね。」
「でもまあ、周知の事実だし、別にいいだろ?さとみちゃんだって言いふらしてたぜ。」
「まじかよ・・・。」
ということは、もう部員のほとんど全員が、もしかしたらОBまで知っている、ということだ。女子の噂話の伝達力といったら。
藤木はこのやりとりを見ていたが、携帯に届いたメールを見ると、にやりとし、さあ早く昼食にしよう、と言って二人の背中を押した。
楽屋は一階が男性、二階が女性だ。更に木簡と金管・パーカッションに分かれている。一階には幹事室もあり、人の出入りが多い。
設楽は、金管の楽屋で笹井と弁当を食べていた。
「おお、設楽君。『しだれ桜』、観に行ったよ。とても面白かった。」
ОBから声をかけられる。ありがとうございます、と営業スマイルで返す。あれは時代劇にしては大ヒットした。その影響か、若者を狙った時代劇の連続ドラマが始まった。
食べ終えた笹井が、お茶を飲みながら言った。
「これから晩飯調達しに行くけど、お前どうする。」
ホールのすぐ目の前に、大きなショッピングセンターがある。そこでご飯を買い、早めに食べ、本番を迎えるのが恒例だ。
「いや、俺は朝買って来たし、いいよ。出歩いたら面倒くさいだろ。お茶だけ買って来てくれたら助かる。金は払うから。」
笹井は納得した顔になると、分かった、じゃあ木村達と行ってくるね、と財布を持って出て行った。




