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不幸の天才、至福の凡人  作者: 沖津 奏
第1章 Green clover
12/44

12 音楽の谷

 あと七時間―。十時から始まったリハーサル中、ひとみは時計をちらりと見た。午後六時に演奏会は幕を開ける。時間が経つのが、遅いようで早い。六年生は本番が心配で仕方ないらしく、何人かは朝食を無理矢理食べてきた、と言っていた。きっと、来年はああなるのだろうと思うと、責任感と共にぞっとした。

 客席では、今回は裏方として帰って来たОBと設楽、そして一年生がリハーサルを見ていた。今は合同ステージの第二曲目、『セブンティー・アダージョ』が流れている。とても優しいハーモニーの曲で、聴いていると、奏者ですら眠たくなる。きっと観客は寝るだろう。誰がこんな曲を提案して、許可したんだと設楽は内心ぼやいた。背景のスクリーンテストのために、ライトがとりどりに変化する。それを見ていると、本当にまぶたが落ちてくる。隣を見ると、三十代半ばのОBが熟睡していた。再びステージに目を向けると、真っ先に目が行くには、やはりひとみだった。顔が火照ってしまう。最近、月に一度は告白してはフられ、を繰り返している気がする。

「じゃ、お昼にします。一時半集合なのでね、各自遅れないように。休憩はしっかりとって下さいね。」

 アンコールの二曲目まで通し終わり、顧問が指揮棒を置いた。急に騒がしくなる。楽器の音、話し声、椅子を動かす音。設楽はゆっくり立ち上がった。ホールの椅子が、音を立てて勝手に閉じる。セッティングを全て済ませてからのリハーサルなので、する仕事がない。笹井に、トランペットの三年生が、クーラーのせいでピッチが狂っていた、と言いに行こうとした。

 まだステージの雛壇の上で、ひとみがОBと喋っている。約一年ぶりの再会に、話が弾んでいるようだ。満面の笑みでОBと向かい合っているのを見て、設楽は胸の内に、煙のように渦巻くものを感じた。

「設楽ー、俺のソロどうだった!?」

 ステージから飛び降りて来たのは、クラリネット六年生の藤木俊だ。彼は、『組曲 十字軍』第七章で、ソロを任されている。

「全体的には良かったんですけど、音外しましたよね。」

 藤木は頭を掻きながら言った。

「あー、やっぱ分かっちゃった?途中で分かんなくなっちゃって。本番やべーなあ。昼のうちにもう一回やっとこう。」

 設楽はそれじゃ、と言って笹井の所へ行こうとした。しかし、藤木は設楽の肩に手を回した。

「まあ待ちなって。最近、どうなの?」

「何が、ですか。」

 設楽は暑い、と思った。

「とぼけちゃって。聞いたぜ。三九回目言っちゃったって?」

「フられましたけどね・・・っていうか、何で知ってるんですか。」

 藤木はきょとんとした。

「笹井が言ってたよ?ああ、弟の方ね。」

 設楽はあの野郎、と心の中で呟いた。だが、なぜ笹井が三九回目のことを知っているのだろう。考えられるのは一つ、ひとみが話したのだろう。それならば、いつかの夜の電話の相手も笹井に違いない。だったら、笹井はずっと知っていたはずだ。ひとみが俺のことをどう思っていたか。きっと奴のことだから、知った上で楽しもうとしたに違いない。それは別に構わない。どうせ笹井からひとみの本心を聞いたところで、俺は信じなかっただろうから。

「なあなあ、今日また言うつもりか?」

 藤木がにやにやしながら聞く。

「う・・・確かに明日からは仕事ばっかで会えないですけど。何も四〇回目を今日、言わなくても・・・。」

「言っちゃえよ、設楽。」

 振り返ると、笹井がいつのまにやって来たのか、立っていた。

「お前、簡単に言うけどなあ・・・。」

 設楽は溜め息をついた。言うこと自体は簡単だ。思い切ってしまえばいい。だが、さしたる理由もなく断られるのは辛い。しかも、あの夜ひとみが言ったことが本当なら、なおさら訳が分からない。

「言えよ、設楽。な?」

 笹井は、いつになく真剣な顔になった。気圧されそうだ。

「・・・分かった。」

 設楽は小さく頷いた。

「よっしゃ、俺も協力しちゃうからね!」

 元部長の時岡弘司が、息をきらせながらやって来た。信頼できる人で、元部長というポジションのせいか、人を動かすのも上手く、いつも中心にいることが多い。ただ、ものすごくいたずら好きだ。最近は大人しくしてはいるが、何を考えているか分かったものではない。

「ええっ。時岡先輩、いや、いいですよ。むしろ協力しないで下さい!」

「大丈夫、大丈夫。可愛い後輩を貶めたりはしないって。」

 それだけ言うと、時岡は忙しいらしく、走って行ってしまった。何だか、上手くはめられてしまったような気がする。

「ところで、笹井。」

「ん?何?」

 設楽は、笹井の襟元をがしっと掴んだ。

「俺が三九回目フられたって、何べらべら喋ってんだよ。」

「げっ、藤木先輩、言っちゃったんですか。」

 藤木は面白そうに二人を見ている。

「うん。でも今の状況を見る限り、言わない方が良かったね。」

「でもまあ、周知の事実だし、別にいいだろ?さとみちゃんだって言いふらしてたぜ。」

「まじかよ・・・。」

 ということは、もう部員のほとんど全員が、もしかしたらОBまで知っている、ということだ。女子の噂話の伝達力といったら。

 藤木はこのやりとりを見ていたが、携帯に届いたメールを見ると、にやりとし、さあ早く昼食にしよう、と言って二人の背中を押した。

 楽屋は一階が男性、二階が女性だ。更に木簡と金管・パーカッションに分かれている。一階には幹事室もあり、人の出入りが多い。

 設楽は、金管の楽屋で笹井と弁当を食べていた。

「おお、設楽君。『しだれ桜』、観に行ったよ。とても面白かった。」

 ОBから声をかけられる。ありがとうございます、と営業スマイルで返す。あれは時代劇にしては大ヒットした。その影響か、若者を狙った時代劇の連続ドラマが始まった。

 食べ終えた笹井が、お茶を飲みながら言った。

「これから晩飯調達しに行くけど、お前どうする。」

 ホールのすぐ目の前に、大きなショッピングセンターがある。そこでご飯を買い、早めに食べ、本番を迎えるのが恒例だ。

「いや、俺は朝買って来たし、いいよ。出歩いたら面倒くさいだろ。お茶だけ買って来てくれたら助かる。金は払うから。」

 笹井は納得した顔になると、分かった、じゃあ木村達と行ってくるね、と財布を持って出て行った。


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