11 光の道草
蝉の声が、暑い空気を揺らす。炎天下に影を落とす木の下を、笹井隆宏は大量の楽譜を片手に、もう一方で携帯を握って走っていた。比較的自由な学校で、校内でも携帯の使用は許可されている。夏休みで、人はいない。
「もしもし、設楽君?悪いけど、今コピー済んだから、製本してくれないかな?」
もう二週間も経たないうちに、毎年七月末に開催される、ОBと合同で行う定期演奏会だ。五十人程の生徒だけのステージと、百人に近い、生徒とОBの合同ステージの二つがある。事務は、六年生の最後の仕事。笹井は校内にある売店で、本当はやってはいけないのだけれども、スコアをコピーしてきたところだ。打ち合わせと最終決定は済んでいるので、一曲のスコアをいくつも作り、それに照明やスポットライト、カメラで映してほしいさまざまな指示を書き込んでいく。それをもとに、ОBや業者が仕事をする。仕事は大変だが、演奏会自体も大がかりなもので、毎年千人を収容できるホールがいっぱいになる。企画は全て生徒とОBで三月頃から始めていた。夏休みに入ってすぐ行われる市民ホールを借り切っての合宿も終了し、いよいよ大詰めだ。
「分かりました・・・さっき、『風雲の彼方』は仕上げておきました。ああ、それと、ОBの佐伯先輩から連絡がありましたよ。なんでも、アナウンス原稿で相談があるとか。業者さんから電話も入って、Tシャツも出来たそうですよ。」
演奏会では、生徒だけのステージで、お揃いのTシャツを着る。その年のコンセプトに基づいたデザインだ。
「あっ、それは昼に俺が藤木と取りに行くよ。」
製本テープが足りるか心配だ。設楽の隣では、栄養ドリンクを一気飲みする六年生の姿があった。受験生とは思えない、とぼやいている。
「ありがとう、ホントに設楽君がいてくれて助かったよ。」
設楽は言葉を返せず、準備して待ってます、とだけ言った。休みがとれたのが奇跡的だ。演奏会の日は何があっても休みにしてほしい、と毎年頼んできた。その代わり、他の休みを返上で、撮影が入ったりする。なのに、今年は七月に休める。その分、八月は過密スケジュールだけれど。
外から重い足音が聞こえた。どうやら、笹井隆宏がようやく部室にたどり着いたようだ。擦りガラスにシルエットが浮かぶ。荷物で手が塞がっているようで、開けてくれー、とわざとらしいしゃがれ声がした。
六年生が仕事で忙しい分、後輩を指導するのはひとみ達五年生の仕事だ。中学生も高校生も合同でステージに立つ。さすがに一年生は出せないが、経験の差は大きい。ホールはクーラーが効いていて、どの程度冷えるのかは本番でも分からない。ピッチの微妙な変化に対応出来るか心配だ。
「ああ、そこ。もうちょっと3rdがGを低めに。スタッカートとアクセントをしっかり意識して。」
ひとみがトロンボーンを構え、楽譜を見たまま指示した。これは、二年生には少し難しい曲だと思う。ハーモニーがやたらと多く、かといってピッチに気を付けると、スラーがおろそかになってしまう。本人は必死だし、懸命に練習している姿を何度も見ているので、無理に強く言うこともできない。
パート練習に疲れ、小休憩をとっているひとみ達の前を、スコアを抱えた設楽が通りすぎようとした。
「お疲れさま。何やってるの?」
ひとみは楽譜を見せながら答えた。
「『組曲 十字軍』の、第三章。」
合同ステージで演奏する曲だ。今回は第一章と第三章、そしてなぜかかなり短い第七章を演奏する。この組曲は各章が各回を表す、つまり第三章は第三回十字軍を描く。組曲の中では、金管が一番格好良い曲だ。構成的に、トロンボーンはおそらくサラディンを表現している。
「休憩中?だったら、部室に入った方がいいよ。」
ここは屋根はあるが、差し込む日差しに意味をなさない。
「クーラーも効いてるし、さっきОBの先輩がアイスの差し入れくれたんだ。」
「えっ、本当。」
トロンボーンの六人の目が輝いた。ひとみが、じゃあ休憩延長して、食べに行こうか、と言った。部活自体がフリーダムなのも、この学校の特色の一つだ。上下関係もあまり厳しくない。
部室の机でスコアを製本している設楽の横で、ひとみが棒付きのアイスを頬張っている。
「一口、いる?」
そう言って差し出す。
「いや、俺はいいよ。最後に食べる。ずっとクーラーの中の作業だし。」
その様子を、自分の後輩の一人が純粋な眼差しでじっと見ているのを、ひとみは横目で見た。入部した時から、彼女は設楽のことが気になるのだろう。しかし、設楽はひとみのことを好きだと公言している。彼女は一体どんな心境なのだろう。だが、こればっかりは譲れない。
「設楽せんぱーい、暑いっす。」
サックスを持った三年の男子が、設楽にすり寄った。その体型から、皆に「ぽっちゃん」と呼ばれている。本人も気に入っているらしい。
「暑いなら来んなっ。」
ひとみはその様子を、一歩下がって後輩と一緒に見ていた。
「設楽せんぱーい、俺も暑いー。」
笹井が真似して、設楽に抱きついた。
「ちくしょー、まとわりつくな!暑いんだよ、離れろ!」
「暑いよー。」
二人はなおもすり寄る。
「仕事の邪魔だ、練習しろ。散れ!」
「男子って・・・元気だよね。」
女子の後輩が集まってアイスを食べながら呟いている。
「うん・・・。若いよね。」
ひとみは、笹井とぽっちゃんが羨ましい、と思った。彼はもう一度言ってくれるだろうか。私のことが好きだ、と。胸が、少しだけきゅっとした。