10 雫道
体育祭も終わり、梅雨前線がかかり、連日のように湿っぽい日が続いている。一歩外に出れば、雨の香りが立ち昇る。
授業も部活も終わり、六時すぎの空は暗い。設楽は紺色の傘を差して、マンションへ帰っていた。どんなに傘を差しても、雨粒は吹き込んでくる。白いカッターシャツに染みを残していく。鞄も、本当は布製品が一番好きなのだが、濡れると中にも染み込む可能性があるので、ビニール製のスポーツバッグだ。水たまりに、自分の黒い影が映った。
学校のグラウンドに沿って、下りの坂道がある。朝は上ぼるのに苦労するが、グラウンド側には花壇があり、薔薇が植えられている。時期になると、満開の薔薇がとても美しい。横に見える景色からグラウンドがなくなっても、坂道はまだ続く。その坂の、ほとんど下りてしまった所に、アジサイが群生している場所がある。そして、そこに一人、女子生徒が立っていた。何をするでもなく、アジサイの前に突っ立っている。水色に、ベージュの直線的な格子模様の傘だ。二、三歩の距離まで近づいた。
「西川・・・?」
ひとみが、ばっと振り返った。大きく見開かれた目が印象的だ。
「設楽君?何してるの?」
「いや・・・家に帰る途中なんだけど。西川こそ、こんな所で何してるの?寒いだろ。」
ひとみは、アジサイに目を戻した。
「んー、特にこれと言ったことはないんだけど。ただ、アジサイが綺麗だなあって思って。」
「アジサイってさ。これ、ガクなんだよね。」
「え、そうなの?」
ひとみが再び設楽を振り向く。
「アジサイってね、面白いんだよ。さすがって言うか。学名は、『ハイドランジア』。ラテン語で水の器っていう意味らしい。和名のアジサイも、『あづ・さあい』が訛って、アジサイになったんだって。」
「あづ・・・?」
一粒、雨が大きな音を立てて、ひとみの傘に落ちた。
「『真の藍が集まる』で、「集・真藍」。つまり、青の集まったものっていう意味。土壌の性質は色を決める要素の一つにすぎないんだけど、酸性の土に生えたアジサイは青くて、アルカリ性だと赤いんだよ。まあ、それはアルミニウムが溶けるかどうかってだけなんだけど・・・。時間が経てば自然と色は赤くなるし。『七変化』ってね。」
興奮して、言葉が次々に出る。
「昔っから変わらないね、花のことになると。」
ひとみが優しい溜め息交じりに言った。設楽は、少し寂しそうな笑顔を無理に作った。
「花は裏切ったりしないから。」
「アジサイってさ、」
ひとみは何事もなかったかのように言った。
「雨と良く合うよね。」
「アジサイは他の花より葉に気孔が多いから、水分が抜けやすくて、それで水を好む・・・梅雨に咲くために生まれたような花だ。その分、切ったら他の花よりもしおれやすいんだけどね。」
「アジサイなくして梅雨はこないけど・・・梅雨なくしてアジサイは咲かないんだね。面白い。」
少しの沈黙があったあとに、ひとみが設楽を見上げた。目が合った瞬間、設楽は無意識に口を開いた。
「俺、君のことが好きだ。」
ひとみが一瞬、面食らったような顔をした。
「ありがとう。」
それしか言わない。けれど、その先にある言葉は言わなくても分かる。設楽はふと我に返って、急に恥ずかしくなった。顔を背けた。どうしてもっとこう、同じ言うにしても、気の利いた言葉が出てこないのか。考えていると、ひとみが優しい笑顔を向けたままで言った。
「帰る?」
その笑顔はまるでヒマワリのようだ、と思いつつ、そうだね、と頷く。荷物持とうか、と言うと、これくらい平気、と返された。今までの流れからしてこうなるなんて、ある意味すごいな、と一人で感心した。
アジサイの上を、カタツムリが足跡を残して這っている。




