2-1 「施設入学」
一、日付、時刻、場所、いずれも不明
式場壮は車に揺られながら山奥の道路見ていた。かなり退屈だ。細長くて葉がたくさん付いているだけの、名前もわからない樹木など見ていても楽しくない。窓は閉まっているが空気がきれいなような気がした。
車内には壮、絵真、矢島の三人。矢島は運転が苦手だからできるだけ話しかけないでくれと言ったし、絵真はまだ寝ていたし、自分も少し前に起きたところだ。ここがどこのあたりなのか矢島は教えてくれなかった。国家機密だから行き先知ってるのはえらい役人くらいらしい。あなたがそのえらい役人なのかと聞きたかったが、なんとなく失礼に思えて自重した。自分はなぜか新品のズボンに新品のシャツ、ついでに言えば怪我も完治している。あの後何があったのだろうか。何日か経ったのかもしれない。しかし、それを教えてくれそうなものは車内には一つもなかった。
「俺たちはこれからどこに行くんですか?」
隣で寝ている絵真に配慮した低声で問いかける。絵真は自分に寄り掛かって死んだように眠っていて、起きる気配がない。すぅすぅ、という息の音が触れた肩を通して伝わってきたがなんだか複雑な気持ちだ。矢島は危なっかしい運転をしながら助手席に山ほど積まれたチョコレートの山に手を伸ばし、その中から一つ掴んで包み紙を片手でくるくるとひきはがして口の中に放り込む。
「君たち二人がやったことは結構大罪でさ、上もだいぶ怒ってたよ。特に式場くん、君は三人殺ってるからさ、かなりやばかったんだけど、大部分の責任を松岡さんに押し付けたらとりあえず殺さないっていう処置が下った。」
「お手数かけてすみません」
「仕事だからね。大人がみんなこんなだと思っちゃだめだよ」
壮は絵真が起きないようにゆっくりと助手席に手を伸ばしてチョコレートを取ろうとするが取れないのであきらめる。すると矢島は三つほど掴んでこちらに渡してきた。会釈交じりにそれをもらって一つを口の中に放り込む。温い甘さが口いっぱいに広がる。驚異的なミルク味、もっとビターなのかと思ったがそうでもないらしい。どうやら矢島の味覚が子供っぽいのだ、という見当がついた。
「君たちがこれから行く場所は能力者関連の事件に巻き込まれた子たちが暮らしてる施設なんだ。ほら、見えてきた」
矢島が右のほうを指す。そちらをみると山のふもとに普通の学校と大差ないような外見の施設が田畑の真ん中にぽつんと立っているのが見えた。後ろに公営住宅のような建物が建っているから寮なのかもしれない。あの施設で何日過ごすことになるのだろうか、などと考えていると、車がガタリと揺れる。矢島が指をさしたためにハンドルを切り損ねて車体が岩とかすったのだ。その衝撃で絵真は目を覚ます。
「・・・・あ、おはよう。ここ、どこ?」
「おはよう。どこかは俺にもわからないんだけど、とりあえず死なずに済むってさ」
「ふーん、よかったね」
その瞬間、絵真の口からよだれが垂れて壮の新品の制服にたれる。ものすごくびっくりしたが、過剰に反応してはいけない。あくまでも冷静に
「そと綺麗だね」
「うん・・・」
危ない。何とかばれずにすんだらしい。壮は肩に付いた彼女のよだれの処理に困ったが、しょうがないのでそのままにしておくことにした。そんなこと知る由もない絵真は寝ぼけた顔で目をこすっている。
「あれ?服が新品になってる。何かあったの?何も覚えてないんだけど」
「俺もさっき起きたところだからよくわかんないんだけど。あの施設でしばらくお世話になるんだってさ」
壮の指先をぼんやりとした目で追った絵真はその施設の外観をしばらく眺めた後、助手席のチョコレートを発見して手を伸ばし、数十個掴んで自分の膝の上に置きパクパク食べ始めた。壮も少々口さびしくなってチョコレートがほしくなったが絵真の膝の上にあるものはさすがに取れないので助手席にあるのを何個か掴んで口の中に入れる。
矢島はみるみる減っていくチョコレートを見て複雑な表情を浮かべていたが、ふと思い出したように話し始める。
「そういえばさぁ、あの後街でちょっとした事件があったんだけど心当たりない?」
「さあ、逃げることに精一杯でしたから」
「そう、それならいいんだけどさ・・・絵真ちゃんは?」
壮はどうでも好さそうにチョコレートを口の中に入れる。口の中がだいぶ甘くなってきたが水が見当たらないので食べるのをやめる。見ると絵真の周りには空の包み紙が数十個積まれているし矢島も水を飲んだ気配がない。一体どういう体の構造をしてるんだ。
矢島はもう一つかみチョコレートをとって食べる。山がもう崩れてきた。
「私も知りません」
「困ったなぁ・・・あのさ、君たちが戦ってたあたりの商社ビルの中にお爺ちゃんがいたはずなんだけど、式場くん知ってる?巴グループのビルなんだけど」
「いや、僕は商社ビルは一回にちょっと入ったくらいでちょっと・・・」
「私知ってるよ。」
矢島が振り向く。その顔はそれまでの軟さがない。鋭い、仕事をする人間の眼をしている。
「知ってるのか?!じゃあそのお爺さんがどこへ行ったか知ってる?!」
「・・・天国」
「は?」
「殺されたの。黒服の人に」
「・・・ッ!・・・その後変わったことは?!」
「あんまり記憶がないからわからないんです。気付いたら屋上にいました」
「そう・・・ありがとう」
矢島はチョコレートをゆっくりとる。壮は彼の表情が険しいものになっていることをミラーで確認できた。矢島は車を少し減速させながら話し始めた。
「協力ありがとう。君達からも何か聞きたいことない?」
矢島は落ち着きを取り戻し、乱れたネクタイを正した。それでもスーツはよれよれだったが。壮は絵真のほうを向いて「何かない?」というサインを送ったが何の返事もなかったので自分のしたかった質問をする。
「あ、あの、これから俺たちはどうなるんですか?無事に家に帰れるんですか?」
矢島は眉を細めた。車内の空気が停止する。それから落ち着きを払って話しだした。
「国は、君たちを危険視している。かなりね・・・家に帰ることができるとかそんな甘いことは考えない方がいいと思うよ」
「国は俺達を殺そうとしてるんですか?」
壮は真剣な面持ちでミラー越しに聞き返す。矢島もそれ相応の剣幕で話した。
「国だけじゃない。僕が今、君たち二人を殺そうとしても全然不思議じゃない。君たちはもっと自覚すべきだ。敵は君たちが考えているよりももっとたくさんいる。油断したら死ぬ」
「・・・・・・」
言葉には矢島の柔らかさではカバーしきれないほどの厳しさがあった。壮は思わず視線を落とす。思えば確かに自分たちは自分のしたことに無自覚だったのかもしれない。自分にやったことに悔いはないがそのせいで確実に敵は増えたのだ。どうもやるせなかった。
車が止まる。ドアが自動で空いた。絵真は足早に降りる。車の中がうんざりだったようだ。ため息をつきながら壮も降りようとすると絵真は膝の上のにあったチョコレートを抱えて壮に寄こしてきた。まるでポケットに入れて持ち運べとでも言いたげだった。
「あのさ、笹村さん・・・」
「何?敵がいっぱいいることと、このチョコレートとは全く関係ないでしょ?」
不機嫌そうな絵真の顔を壮は視線を落としながら半分だけ見る。
「でも・・・」
「どういう状況になろうと私は私らしく生きるつもりだよ?つかさ君は知らないけど」
「いや、俺は意見とかないから、その・・・同意でいいよ」
なんとなく、そっけなく答える。本当は、「自分は君みたいに強くはないんだ」、と伝えたかったが、それを言う勇気も出なかった。
「ダメ。自分の意思で生きなきゃ生きてる意味ないよ!」
絵真の口調は厳しかったが思いやりに溢れていて心が痛くなった。ただ、彼女の言う「自分の意思で生きる」ということにどうも同意できなかった。誰もが立派な考えを持って生きているわけではな。自分だってなんとなく生きてきたし、今回の件は「生きるため」に頑張っただけだ。「生きる目的」なんて大層なものを掴めるほど自分が大きいとは思わなかった。
だから自分の結論の結論は「絵真について行く」だった。それにのみ従い生きる。何にも考えずにすごい人について行くだけなんて自分はなんて弱い人間なんだと思ったが、同時にこれでもいい気がした。「自分で道を開くより他社に依存する方がうまくやっていける」なんてあさましい計算抜きにして絵真について行くのが正しい道のような気がした。
「う、うん・・・でも。笹村さんと同じでいいよ。ホントに・・・」
「そう?それならとりあえず・・・頑張ろう?それしかないよ」
そういうと絵真は笑って見せた。壮は思わず目線をそらす。こんなキラキラしたもの見れるかという感じだった。そのまま絵真は笑顔のまま矢島のほうを向いて深くお辞儀をする。
「矢島さん!ありがとうございました」
「ああ、うん、がんばってね。」
矢島はとてつもなくどうでもよさそうにチョコレートをほお張っている。それから事務的な口調で「受付で氏名を言えば即入学」ということを伝えた。新品のズボンにチョコレートを詰め切った壮は、パンパンになったポケットに手を添えて軽く会釈する。それから絵真のほうを向く。目の前の少女は入学前の学生のように(実際にそうなのだが)眼を輝かせながら「早く行こう」という雰囲気をガンガン出している。
「・・・行こっか?」
絵真は施設に向かって歩き出す。壮もそれに続いた。
「式場くん」
後ろから矢島の声が聞こえた。まだ何かあるのだろうかと振り向くと顔にチョコレートが当たる。壮は思わず矢島を見た。
「これが銃弾だったら死んでいたよ」
矢島は厳しい表情をしていた。していたが不思議と緊張感がない。口元にチョコレートがついていたからだろうか。
「・・・次から気をつけます」
壮はなぜか笑顔で応えた。矢島も表情を崩した。
「・・・死なないでね。期待してるよ」
「はい」
壮はもう一度軽く会釈してまた振り返り、絵真を追った。
二、 日付不明、午後1時30分、(学校内の時計で確認)ゆうがお学園・教室棟
「そう言えば今日、夏休みのハズだよね?何で学校やってるんだろう・・・」
「私たちが一カ月以上気を失っていたって考え方もできるよね」
「俺、宿題やってないんだけど・・・」
「んー、謝ればたぶん許してもらえるよ、たぶん。」
「ひとつの文に「たぶん」を二回使うと説得力がガタ落ちするんだね・・・」
絵真と壮は学校の見取り図を片手に校舎内を歩き回っていた。受付に行くと無愛想な30前半のもう嬢と言っていいのかよくわからない受付嬢がコーヒーを飲みながら暇そうにしていしていて、今日入学する者だということを伝えたら見取り図一枚を渡してきて「二年一組」とだけ呟かれたので、今、その二年一組を探している。
「ごめん、俺、地図が読めないんだけど」
「心配しないで。私も読めないから」
「心配しかできないよ・・・とりあえず現在地は、一階のトイレ前か」
「同じところ一周してない?」
「二周くらいしている気がする・・・とりあえず階段登らない?」
「目的地ってどこなの?」
「二階じゃないかな?ほら、ここに2Fって書いてあるし」
「Fって何?」
「知らないよ・・・「階」の単位じゃない?」
「でもそれだったら1Fにつき一回とは限らないよ。2Fにつき一階上昇もあり得るよね?」
「ハッ!それは盲点だった・・・」
「ということは目的地は3Fだよ!」
「でも待って、3Fだとすると3×0.5=1.5になるよ?!」
「ということは2=0.5×4だから目指すは4Fということに・・・」
「・・・何やってんだ?」
声がしたので二人が同時に振り向くと男子トイレの入り口に自分たちと同じ制服を着た少年が立っている。身長は壮と絵真の中間ぐらいで平均よりも少し下くらいだった。ハンカチを出し手濡れた手を拭きながら自分の教室に戻ろうとしていた少年はこちらを呆れた顔でこちらを見ていた。
「あ、あ、あの」
壮は慌てて会話しようとしているがどうもろれつが回らない。少年は怪訝な顔をした。
「何の用だ?早く教室戻らないと授業に遅れるんだが」
「あ、あう、あ」
ちゃんと喋れない。どうも意識ばかり先行して声が追い付いていない感じだった。
「2年1組ってどこか知ってる?」
あんまり必死にあうあう言っている壮を見かねて絵真が代わりに聞く。少年は不思議そうな眼で壮を見ながら答えた。
「あんたら、あれか?転入生?」
「そうだけど」
「ふーん・・・」
少年は少し右上を向いて何か考えるような顔をした後、
「連いてこい。俺も同じクラスだから」
と言ってポケットに手を突っ込んで歩きだす。二人もその後に続いた。
「よ、良かったね、いい人そうで。」
「つかさ君、何で君は同年代の子とそんなにも喋れないのかな?」
「いや、それは人それぞれだと思うんだよ。うん、」
「クラスに馴染めそう?」
「・・・無理じゃないかな」
「戦う前から逃げ出す人間を負け犬っていうんだよ」
「負け犬がダメだって誰が決めたのさ?」
道は突き当たって階段に至った。先頭をずかずか歩いている少年は一段飛ばしで上がっていくので二人もそれに合わせて小走りになった。階段を上りきると2Fに着く。少年は急ぎ足でに廊下へと歩いていく。
「ダメだよ!それはまだ一階だから。目的地は4Fでしょ?」
「・・・何をバカなこと言ってんだ?」
少年は絵真の説得を無視して階段を出て一番最初にあった教室に入る。二人も続いて入った。
人数は20人ほどと少なかったが、至って普通の教室だった。まだ授業が始まっていなかったようで生徒たちは互いに談笑している。
「転校生連れてきたぞ!」
教卓の真ん中に立った少年の声で生徒たちの視線は一気にこちらを向く。壮は顔をそらし、絵真は笑顔をつくった。
「それじゃあ、自己紹介頼む」
そう言って生徒は自分の席に着いてしまう。どうしたらいいのかわからない壮は何とかしてもらおう絵真のほうを向くが
「笹村絵真っていいます。これからよろしく。」
相談しようと思っていた相手はもう既にクラスに笑顔を振りまいていた。
そうなると自然にクラスの視線が自分の方に集まる。絵真はもう自分の席だと言われた所に着いて隣の女子と話している。「クラスに溶け込むの早過すぎ」と思ったがクラスの人気者になるには必要なスキルなのだろう。こうなってしまうともう学校の人間でないのは壮一人となってしまった。「早くなんか言えよ」という空気がクラスに充満してきた。まずい。どうにかしないと、頑張って口を動かす。
「あ、ああ、あのっ、式場壮っていいます、そのっ、よろしく・・・・」
まずいまずいまずい。教室の「なんだこいつ?」感が半端じゃない。押しつぶされそうだ。
「ごめん、つかさ君、ちょっと恥ずかしがり屋さんだから。みんなよろしくね」
絵真が立ち上がってフォローした。なんとなく拍手が起きる。そのまま、なんだかよくわからない表情で自分の席らしき場所に座る。とても「ありがとう」と言いたい気持ちだった。冷静に考えてみると最初からフォローしてくれたらよさそうなものだが。
席に座ると机の中に色々入っていた。教科書、ノート、文房具、それと腕時計。とりあえずノートと文房具を一通り机に並べる。「この腕時計はどうするのだろう?」と辺りを見渡すとどの生徒も手首にこれをつけていたのでとりあえずはめてみることにした。
脇腹のあたりをペンでつつかれる。思わず背筋がぞくっとした。そちらの方向を見るとさっきの少年だった。どうやら隣の席だったようだ。(絵真は彼を挟んで向こう側の席、なお既に女子と意気投合中)
「よう、転校生。」
「ど、どうも」
「別にかしこまらなくてもいいぞ。俺そういうの嫌いだから」
「う、うん・・・」
少年は相当ぶっきらぼうな感じで、喋り方からもあまり素行のよさそうな生徒には見えない。しかし、机の上の教科書は神経質なまでに机の端に揃えられていて、そのラインに沿って四角い筆箱がこれまた正確に置かれている。相当綺麗好きなのが予想できた。しかし少年の話し方はやはりぶっきらぼうだ。よくわからない。
「シキバだっけ?数学の式に場所の場?」
「そう」
「変な名前だな・・・俺は鷲見信孝、(すみのぶたか)。鷲を見ると書いて鷲見。よろしく」
「・・・よ、よろしく」
会釈するが、自分でもびっくりするぐらい、例えるならジェットコースターのガクンとなる段差のように高角度な会釈になってしまった。
当然、信孝はこちらを不審そうな眼で見ていたが、何とか緊張に気付いてくれたようで優しい表情をしてくれた(といってもあきれ顔だったが)。それから自分のノートを一枚破り取り、くしゃくしゃに丸めて右手の手のひらに収める。
「面白いもの見せてやるよ」
「?」
得意げな顔をした少年は手のひらを開けて中身を壮の机に置く。それは紙でできた鶴だった。壮は困惑を隠せない。確かに少年は紙をくしゃくしゃにしたはずだったが、その形跡は見られない。そんなことありえないはずだ。そしてもう一つ、その鶴はどこにも折り目がなかった。つまりこの形状はどうやら手作業ではどうやっても作れそうにないということだ。一枚の紙からこんな形を作ることが果たして可能なのだろうか。物理的に無理なはずだ。
「どうだ、驚いた?」
少年は嬉しそうな顔をする。まるで親に自分の絵を見せた子供みたいだった。
「うん、これどうやって…」
「どうやって、って・・・なんとなくわかるだろ?」
「・・・能力?」
「そういうこと。」
信孝が机の上の鶴をまた右手でくしゃくしゃにする。彼が再び手を開くと鶴は元通りの一枚のノートになっていた。それを彼が元のノートに沿って合わせ、右手ですっとこするとノートは破る前のように元通りになっていて破ったという形跡が少しも残っていなかった。
「す、すごい・・・」
「別にすごくないぞ。このクラスの奴らはみんな何かしらの能力を持ってるし、お前もあるんだろ?」
それでも信孝は得意げにペンをくるくる回す。
「ま、まあ・・・」
「なんだ?歯切れが悪いな?まあいいや、今度見せてくれよ」
「あの、俺の能力っていうのは、その何というか、出そうと思って出せるものじゃ・・・」
「ああ、起動型?それならしょうがないな。機会があるときで頼むよ」
「その起動型っていうのは?」
「ん、起動型ってのは、特定の行動を引き金として発動する能力だ。例えば、くしゃみするとかな」
「ふーん・・・」
「そういや、そろそろ授業始まるぞ・・・」
そう言って信孝は前を向く。机の上に数学の教科書が置かれているのを見て壮も同じものを出した。自分が来る前に使っていたものとは少し違った。絵真は相変わらず女子としゃべっている。
少しすると教師らしき男がドアを開けて入ってきた。入ってきた男はみかけない顔を見てちょっと瞼を上げる。
「ああ、転入生か・・・じゃあ今日の授業は無し!適当に遊べ!こいつらと少しでも仲良くしようと思った奴は学校回って説明してやれ。」
そう言って教師はまた教室を出ていった。
「そういうことらしいから、行こうぜ」
信孝は机のものを丁寧に片付ける。それから胸ポケットにペンを一本差し込み、立ち上がって服装を正す。
「そんな感じでいいの?」
「いいんじゃねぇのか?いつもこんな感じだぞ?」
どうやら今日に限ったことではないらしい。それじゃあと壮は席を立つがここではっとする。クラスの大部分は絵真に群がっている。ポテンシャルの差をまざまざと見せつけられたような気分だった。
「ま、そんなもんだって、お前は身分相応にしとけ、行こうぜ」
そう言って信孝は席を立つ。二人の影は他の大多数を残して教室から消えた。
三、7月23日(壮が信孝から聴取)、2時12分、ゆうがお学園・教室棟廊下
ガコリという音が、少し薄暗い廊下に響く。自動販売機の音だった。信孝はしゃがみこんでジュースの缶をとるとその姿勢のまま壮のほうを向く。壮は窓際に寄り掛かっていた。
信孝と一緒に来てみたものの、どうも絵真が心配だ。彼女に群がっていたのはどう見ても中学生だったが一人一人が何かしらの能力を持った能力者なのだ。能力者というとあの黒服達のような人を殺す人間しか思い浮かばなかった。松岡や矢島はいい人だったが、矢島から聞いたところによると自分たちは例外なのだそうだ。矢島が言っていた通りならここも信用できない。しかし、自分が何でこうも彼女を心配しているかといえば自分の自己保身のためで、なんとなく情けなかった。
「お前もなんか飲む?」
「いや、いい・・・」
信孝は怪訝な顔をしたが、一瞬考え込んで、
「そういやおまえと一緒に転校してきた子、気になるのか?」
「う、うん・・物騒なところだって聞いてるし」
壮は、はにかみ気味に視線を落とす。
「まあそうだが・・・でもな」
次に壮が顔を上げた時には、目の前にさっきまでジュースの缶だった金属で出来たゆがんだ造形物があった。割れ目から透明の液体を吹き出しているそれは人の死体に見えるような気がした。
「他人よりも自分の心配しろよ。死ぬぞ」
信孝は少年をにらみつける。彼の予想通りなら壮は少なくとも怯えている、はずだったが目の前の少年の反応はどうも違った。自分自身ではどうしようもないような、いわゆる恐怖の感情が見えてこない。何の変化もないさっきと同じ表情、だが、わずかにその表情に強さが含まれた気がする。しかし、もともとこんな表情だったのかもしれない。
「お、教えてくれてありがとう・・・でも俺は、一緒に生き残るって約束したから・・・」
こいつ、一体何なんだ?信孝はなんだか処理しきれないような思いはいっぱいになった。理解不能。ただのバカなのだろうか?バカだとしてもきっと大バカだ。信孝はあきらめたような表情になって金属の造形物を両手で包み込む。もう一度手を開くと金属は缶へ元通りになっていた。それをポケットに突っ込んで信孝は教室のほうへ歩きだす。ポケットはズボンに不自然な形を全くもって付けていなかった。入れる直前にまた形を変えたのかもしれない
「ったく、まあいいや。ならさっきの子、連れてこいよ」
「えっ、あの、それはちょっと・・・」
信孝が望んでいたはずの意見を持ちかけた途端、壮は手を必死に振って引きとめようとしてきた。確実に焦っている。
「お前呼びに行くとか行かねぇとかどっちなんだ?!」
「でも、あの、人だかりの中に突っ込んでくのは・・・無理」
「・・・・・・一緒に行くか?」
壮はこくりと頷き。信孝を追いかける。
「そういえばさ、お前、お前らは何でここに来たんだ?」
「・・・家でテレビ見てたら家の前に笹村さんが銃を持って立ってて脅されたから一緒に政府の施設に爆弾持っていったら爆破失敗してその後国の役人さんと戦ってここに来た」
「・・・お前、利用されてない?」
「そ、そんなことないよ!笹村さんはいい人だし」
「で、笹村は何で政府施設を襲撃しようとしたんだ?」
「なんかPeace makerに所属してるって言ってたような・・・」
「つかさ君、ペラペラしゃべり過ぎ」
壮は思わずびくっとなったのを見て信孝は結婚詐欺を取り扱った昼ドラを思い出した。教室への階段に行くための曲がり角に笹村絵真は立っている。どうやら壮を探していたようだ。
「そ、その、喋ったことは悪いと思うけど。信孝君はいい人だから・・・」
「お前のいい人への基準甘すぎないか?・・・で、笹村だっけ?あの群がる群衆さん共をどうやって巻いてきたんだ?」
「あ~、あの人は勝手にいなくなったよ。「始まる」って放送があったと思ったら一目散に教室を出て行って・・・」
「本当か!!?」
突然信孝の表情が変わる。それを目の前で見た絵真は驚いたが、一番びっくりしているのはなぜか壮だった。
「何時に「始まる」って?!」
「五分後って言ってたけど・・・」
「五分後か・・・お前ら来い!!」
そう言って信孝はさっきまで歩いていたのと反対の方向に走り出した。全速力ではないが足音を殺しているのがわかる。まるで何かから逃げているように。
「は、始まるって何が?」
「うるさい!今はそんなこと話してるような暇はねぇんだ走れ!」
「つかさ君、行こう!」
「う、うん」
絵真と壮は信孝を追った。
数分走ると後者の三階の隅の部屋に行きつく。もう生徒は残っていないようで、棟全体を不気味な静けさが湛えていた。
現在、三人は壁の前にいる。特に特徴もない、本当に何の変哲もない、壁。他の壁と同じようにしろに面を見せてただ存在しているだけの壁。絵真も壮も首をかしげていた。
「あの、鷲見君?逃げなくていいの?」
「うるせぇぞ、黙ってろ」
信孝は指で壁を四角になぞっていく。さっきまであんなに急いで逃げていたのにかなりゆっくりだった。なぞった面は能力によって金属色の縁を見せていった。
一通り何かを終えたように息をついた信孝は、最後になぞっていた中央部に手を突っ込む。壮は信孝が壁に手を突っ込んだことにびっくりしたがそれが能力であることに納得して落ち着く。常識など最初から通用しないのだ。
信孝が力いっぱい引くと壁が開いた。どうやら壁の裏にはドアが隠されていたようだ。その奥には階段が続いていた。
「・・・・・」
「何をボーっとしてんだ?行くぞ」
「う、うん」
階段を上がっていくと使用禁止と書かれたドアに行きつく。信孝がそれを開くとギシギシとした金属音がする。空が見えて、風が三人の顔をなでた。どうやら屋上に着いたようだ。
「これ、秘密通路ってやつ?」
「ま、そんなとこだな。」
そう言って信孝は屋上と通路を隔てる区切りをまたぐ。二人も続いた。
「フェンスから下、覗いてみろよ。面白いぜ」
二人は子供のような眼で恐る恐るフェンスにしがみつき、ゆっくりと下を見た。信孝の表情があまりにも楽しげだったためでもあるがその眼は希望に満ちていた。だが、その希望に満ちた目の輝きは一瞬で打ち砕かれた。
生徒が先生に追われている。逃げまどう子供たちの悲鳴が飛び交っていた。銃声も聞こえる。子供たちはただただ逃げまどうばかりだった。後ろから信孝の声がする。
「面白いだろ?この施設の名物「生徒狩り」。二十四時間、いつ起こるか分からない。先生が生徒を殺しに来る!ただし生徒の側は先生に手出し無用っていう、「ただのイジメ」だ。」
と、信孝は声高に、陽気に話す。しかし、どこか強がりに見えた。
壮は絵真のほうを向く。自分は正直、こんなことどうでもいい。心は痛んだが、それでどうしろというのだ。なんとなく解ってしまっている。自分にはどうしようもない。たとえ自分になんとかできたとしてもそんな勇気は起こせない、起こらない。「自分からは」。
問題は自分がどうかじゃない。隣にいる彼女がどうか、だ。
壮は絵真はじっと見た。下を向いた彼女が再びその顔を上げて唇を動かすのを待った。
「・・・許せない」
濡れた悲痛な声。それで壮の意向は決定した。
「よし、あの人たちを助けよう」
立ち上がってそう宣言し信孝の方を向く。しかし帰ってきた言葉は「ダメだ」の三文字だった。
「なんで!?人が死ぬかもしれないんだぞ!それを放っておけっていうのか!?」
と正論を吐いてみる。心が籠っていないことはない。絵真の考え=自分の意向なのだ。自分の意見を正直に述べた。しかし信孝は冷淡だ。
「俺はお前らの能力が何なのか知らないがやめといた方がいい。先生方は総勢15名、それがみんな銃を持ってる。よっぽどじゃないと助ける前に自分が死ぬぞ」
「で、でも!・・・」
「ここに来てる奴なんて全員能力がらみの前科者だ。別に死んだところでどうってことない」
「そんなの関係ないよ!私は助けたいの!」
絵真が立ち上がる。眼からは涙が垂れていた。壮は下を向いてフェンスでの出来事を凝視した。生徒が一人銃で撃たれるのが見えた。しかし、信孝は表情を変えない。
「お前は治療能力者か?それとも瞬間移動能力者?精神干渉能力者でもいい、今、この場で逃げてる誰かを確実に助ける能力を持ってんのか?」
「ない・・・けどっ・・・」
「助けるって言うのは「できる」人間がやることだ!お前にその力があるんだったらここで証明してみろよ!現に瞬間移動能力の一つでもあったら倒れた人拾ってここに連れてこれてる!でも現実はできてない!力もないのに無理を望むんじゃねぇ!!」
絵真の目元に涙がにじむ。壮がそちらの方向を向いた頃には大粒の涙を流しながら崩れ去っていた。
壮が信孝のほうを向くと、あんなに残酷な言葉を言い放った本人は死ぬほど困った顔をしていた。気まずさが前面に押し出されている。思わず吹き出しそうだった。
信孝は頭を掻き毟る。それから壮のほうを向いて再度「どうしたらいい?」という顔をしたので、もちろん無視した。それどころか絵真の方へ歩み寄って彼女の頭をそっと撫でる。
信孝が完全に悪者になる形だ。
「助けてください」という視線が信孝から送られてきたので、意味ありげに首を横に振る。とりあえず、しばらくはこの冷や汗をかいた少年で遊んでみよう。そう考えた。
次は向こうが首を横に振って、それから「ず・る・い・ぞ」と口をパクパクやって伝えてきたので視線をちょっと絵真の方にやったあと「あ・や・ま・れ」と口を動かした。信孝は、ぷるぷる震えている。汗の量も尋常じゃなくなってきた。
ようやく楽しくなってきたところだったが、そんな事を知りもしない潔白清廉な少女、絵真は立ちあがって「つかさ君、行こう」と静かに言って立ち去ろうとする。その取り巻き、壮も会釈して絵真を追う。信孝はそれを引きとめようとするが声が出ない。なんだか面白かった。
「ちょ、ちょっと、待て」
信孝は何度か空気を飲み込んでようやく声が出たようだった
「何?鷲見君と私たちは関係ないよね?」
冷たく言い放つ絵真を見て壮は「本気の人って怖いな」と感じた。
「本当に待てって!死ぬぞ!!」
信孝も何とか落ち着きを取り戻して説得を試みるが絵真は眉一つ動かさない。
「大丈夫だよ。私達も死んでもどうってことない前科者だから」
そういって絵真は歩きだす。壮もそれについていこうと考え、一歩踏み出したがその時何か心に引っかかるようなものを感じて絵真を引きとめた。当然、絵真は困惑する。
「何で?つかさ君まで!!」
怒り心頭の絵真の腕をつかみ、なだめるように壮は言う。
「いや、ちょっと気になることがあってさ。・・・信孝君、ここを知ってるのは君一人なの?」
その言葉を聞いた瞬間、信孝はなぜか観念したような表情になる。
「・・・いや、俺だけじゃない。この施設のほとんどの生徒がここを知ってる。」
「なら、何でみんなここに来ないの?」
「いや、みんなが知っているのは学園内に秘密の場所があるってことだけ、この場所が学校の屋上で、壁に隠されたドアを通って来れるのを知っているのはたった6人、お前らを合わせて8人ってところだ。」
「?」
壮は首をかしげる。どうも辻褄が合わない。というか言っていることの意味がちょっとわからなかった。信孝はその顔を見た後、腕時計をちらと見て息を吐く。
「わかんなくていい・・・もう少しでどういうことか分かる。ちょっと待ってろ」
「・・・ってさ」
壮はそう言って絵真に笑いかけた。
「そんなこと言ったって人が死にそうなんだよ!?」
絵真は壮の腕をぐいぐい引っ張りながら言う。壮は信孝に「どうする?」というような視線を送る。信孝は無理のない陽気な口調で
「待ってろ、って言ってんだろ。あと、言わせてもらうとだな、今、お前があいつら助けに行った方が長期的に見れば死傷者が増えるんだ。解ったかこのバカ」
「なにそれ?ちゃんと説明してもらわないとわからないよ!」
「・・・聞こえないか?」
急に信孝が低声になったため、場が静かになった。辺りは悲鳴や銃声の音でいっぱいになった。
「?」
絵真は耳を澄ます。確かに銃声や叫び声に交じって何か聞こえる。
「・・・もう少しで戦いが終わるな」
信孝は腕時計をいじりながら話す。それから思い出したように胸ポケットのペンを引き抜いてポケットに入れた。
「何でそんなことが――――」
絵真がそう言いかけた瞬間、屋上に恐ろしい音が叩きつけられた。それと共に発生する強風。絵真がおもわずフェンスにしがみつくとフェンス自身も風に揺られてがしゃがしゃという音を立てた。
眼も開けられないほどの強風が三人を揺らす。かすかに見えた信孝は、それがいつもの事であるかのように平然としていた。
風が終わり、信孝のほうを向くと、彼の目の前、屋上の中央付近に少女が立っているのが見えた。その腕には血まみれの少年が抱えられている。少女の手からその少年がどさりと落とされると信孝はすぐさまそれに飛びついた。
「いつ撃たれた?!」
「始まってすぐ。茂み付近で倒れてた」
少女は血まみれの服をうっとうしそうにいじりながら言う。どうもほんの一瞬前まで死にそうな人間の体を持っていた人間の感じがしなかった。
「銃は?体を貫通したのか?」
「わかんない」
信孝はその言葉を聞くなり少年の銃創に手を伸ばし指を突っ込む。生徒の体がびくりと動き、暴れだす。見ていられなかった。
「我慢しろ!!暴れると死ぬぞ!俺だって心臓まではちゃんと治せるか自信がない!」
そう言いながら信孝の腕にはより力が入った。当然生徒はもっと暴れだし、それを少女が取り押さえる。ずいぶんと壮絶な光景だった。
壮はそれを絵真よりも少し離れたところで見守っていた。自分の能力が発動しているかどうかはよくわからなかったが、邪魔になりそうなのは自覚できた。
しばらくして生徒は突然、何か糸が切れたようにぐったりした。信孝は少年の体から手を引き抜き、息をつく。
「痛みのショックで気絶、か。そっちの方がありがたいけどな」
信孝の腕は血まみれだったが「手のひら」だけは洗い流したように一滴の血も付いていなかった。そのままポケットに手を突っ込んでさっきのジュースの缶を取り出す。平たくなっていた缶は再び、いつも見るような形になって信孝の口元に運ばれる。信孝はジュースを一気に飲み干し、ばたりと倒れた。すると、その頭上に見える少女は信孝の横腹をそこそこの力でけり上げた。
「ノブ、何で倒れてんの?まだやることなんて山ほど残ってるわよ。銃喰らったこのマヌケの記憶操作に血まみれの服の漂白!」
少女は心底疲れた顔をした信孝の横腹をがしがしと足で転がす。信孝はぐらぐら揺らされながら心底めんどくさそうに言う。
「俺は記憶操作担当じゃないだろ。つうか、今回は何か知らんが能力が正常発動しなくて大変だったんだ。全く、一体誰が・・・」
壮はギクッとしたが、幸いそれを見ていたのは絵真だけだった。絵真はすこし厳しい表情をしていた。少しでも人命を危険な目にあわせたのが気に障ったのだろう。これには頭を下げるしかない。
「人の命預かってるのよ?次、治すのにこんな時間かかってたら首吹っ飛ばすから」
「できる奴に言われても怖いだけなんだよ。解ったかこのバカ!」
信孝の横腹に本物の蹴りが入る。それを食らった本人は当然ごろごろのたうちまわった。
「テメェは何で人が疲れ果ててるときに何で蹴っちゃうかなぁ!?思いやりとか思いやりとか思いやりとかねぇのか!?」
「それは二発目が欲しいってこと?」
「ごめんなさいマジごめんなさい」
「あ、あの~・・・」
信孝が後ろを振り向くと、絵真がなにか気まずそうな顔でこちらを見ていた。信孝は体をぐいと絵真の方へ起こし、振り向いて服に血のついた少女のほうを見る。。
「自己紹介しろってさ。ほら、こいつら今日の転校生。あの式場ってやつが面白そうだったから連れてきた。で、そっちの子が笹村」
「・・・勝手なことするなって、あと何回言ったらわかるの?」
少女はそう言って壮のほうを見る。壮の背筋が思わず凍った。自分のメンタルではこの人と会話すらままならないだろう。走り出したジェット機の近くにいたら吹き飛ばされてしまうように心も粉々に打ち砕かれてしまうに違いないと、唇が動かない。声は何とか心を追うように出ているが唇が動かないため「あうあう」という不明瞭は音が口から洩れるだけだ。少女は顔をしかめた。
「ご、ごめんね。こういう子だから・・・」
すかさず絵真がフォローに入る。一時間も待たずに同じようなフォローを二度も受けるとは思っていなかった。壮は思わず下を向いた。少女は「こっちはまともそうだ」というような顔で絵真を見る。少女の眼には心からの安堵感がこめられていて、普段まともな人間に巡り合えていなさそうなことが予想できた。
「えっと、笹村さんだっけ?私は稲葉楓っていいます。多分、しばらく一緒に行動することになるからよろしく」
「よ、よろしく」
絵真は例のごとくで笑顔で返す。
「あっ、あの、よろしく」
壮はぎこちなく会釈する。早くこの状況を終わらせたかった。ただ、楓には気持ち悪いという風にしか伝わっていないようで、なんだか複雑な表情をされた。
楓は向こうにいる気持ち悪い奴をできるだけ無視して、足元にいた信孝をもう一度蹴って息をつく。どうやら彼を蹴ることが習慣化しているらしい。
「もう終わったみたいだし、とりあえず下に降りない?」
「?・・・今日はもう授業ねぇぞ?」
「マキが流れ弾に当たって下で倒れてんの。」
「バカかあいつ?自分の能力考えたらそんな前線まで出てくる必要ねえのに」
「下で倒れてる。軽症だけどバイ菌とか入ったら危ないでしょ?」
信孝は重い腰を上げる。
「とりあえず式場と笹村から運んでやってくれ。次に俺と子のけが人」
「私に指図すんな」
「・・・わかったよ」
楓は壮と絵真のほうを振り向くと。少し伸びをして、それから二人に指示を出す。
「で、お二人さん?耳をふさいでお腹に力を入れて。ついでにちょっと屈んでくれると持ちやすい」
「?」
二人は訳もわからぬまま言われたとおりの姿勢になる。少し窮屈だった。
「しっかり息止めててね。ヘタすると死んじゃうから」
「あ、あの?これから何が――」
壮が言い終わる前に目の前から楓の姿は消えていた。絵真の姿がふっと消えるのが見えた。その瞬間、風が体をなでたと感じ、それに気付いた時には何らかの恐ろしい力が自分の腕を引っ張った。
その力は上にかかり、壮は宙に浮く。そのまま体が上空に投げ出されたようだった。屋上のフェンスよりもずいぶん高くで壮はようやく、一瞬、力が止んだことのが確認できた。
止まったことでわかったのは楓が自分と絵真を抱えていることだ。どうやら彼女の能力らしい。しかしそのことがわかった瞬間、壮にまた大きな力がかかる。今度は下だ。
意識できないほどのスピードで体がグラウンドに落下する。そして地面に叩きつけられる寸前で自分にかかる力が止まった。肺にすごい圧力がかかり、体中の空気がすべて吐き出される。骨がきしむ音がしたような気がした。
気付いた時には運動場の土の上にごろりと転がっていた。
楓の姿はない。横には絵真が自分と同じように茫然としながら転がっている。体に別条はない。骨のきしむ音は気のせいだったようだ。ただ、ひどく耳鳴りがする。
「凄かったね・・・」
「うん・・」
「俺、ここでやっていけるか、わからない」
「大丈夫だよ・・・きっと」
ズドンという音がしたので横を見ると信孝とさっきの生徒が転がっていて、信孝の頭上で楓が腕を組んで立っていた。何ともなさそうなのは楓だけだ。
「くそ、何回やっても慣れねぇな・・・」
生徒は倒れたまま起きる様子がない。「気絶って考えてるよりすごいものなのかな」と壮は思った。
「さっさと起きなさい、このヘタレ。仲間が大変なのよ」
しかし、信孝は起き上がらず一瞬息を払って
「・・・言っとくけど・・この角度からだとスカートの中、見えてるからな」
当然蹴りが入る。いや、厳密には蹴りではない。顔面をしっかりと踏みつけ全体重をかけて何度もぐりぐり無言で踏みにじる。ふたたび足が上がると靴の跡が赤くしっかりと付いているのがわかった。しかしそれも束の間、その足(正確にはかかと)は信孝の鳩尾に思い切り突き刺さる。
「ぐふっ・・・いつか殺す」
「あの茂みに隠れてるから。早く治してきて」
「わかったよ」
信孝は何事もなかったように立ち上がり、100mほど先の茂みに向かって走り出した。楓は一仕事終えてふう、と息をついた。
「さて、私たちは先行こうか?」
「行くって、どこへ?」
「作戦会議。」
そう言って楓が歩きだす。二人は依然としてその場に倒れたままだ。
「どうしたの?その倒れてる子ならしばらくは起きないからほっぽといてもいいわよ」
二人は同時に深い溜息を吐く。
「疲れた」
「私も」
「そんなこと言わずに、ね?」
楓は優しく対応する。初対面だからということもあるのだろうが、こちらの方が彼女の本質なのかもしれない。常識人として適切に戸惑っていた。
「やだ」
「私も」
しかし、壮も絵真も依然として動く気がない。壮はポケットからチョコレートを取り出し食べ始めた。まだ溶けていなかったらしい。
「つかさ君、私も」
「え?ポケットに長時間入ってたやつだけど・・・」
「いいよ、私そういうの気にしないから。あ~、疲れた時葉やっぱり糖分だね」
「ねえ?」
楓の眉がピクリと動く。嫌な予感が壮の脳裏に走った。
「・・・・・・・・・ちょっと空中散歩しない?」
この後、壮は声に出せないほど怖い目に遭ったが、楓はどうやら信孝以外は殴らないらしいことが分かった。ただ、殴るよりも数倍恐ろしい目にあったので何ということも言えないが。