1-3-3 「対 Aランク能力者2」
十二、7月21日午後4時7分 ひるがお市・霞町・中心街
壮は大きく息を吐く。そして前方のメガネ男だけを見据える。それ以外の、崩壊した街にも、血の流れる自分の体にも、全く眼もくれない。ただ、まっすぐに、見据える。
距離にして4m、少し踏み込めば一息で踏みこめる位置、それが逆に怖い。相手果てに銃を握っているわけでもない、ただ立っているだけだ。しかしそのさっきは十分に伝わってくる。簡単に踏み込んだら死ぬというのがはっきりとわかる、張り詰めた、死のにおい。
鉄パイプを握る手が強くなる。指の間は他人のものか自分のものか、よくわからない血液でべっとりと濡れている。その感覚を二、三度確かめた後、
壮は突っ込んだ。
松岡は動かない。焦っているわけでもない。かといって余裕だからでもない。敵が実に厄介だからだ。利き腕がやられた状態では敵が中学生ぐらいの子供だろうと格闘には持ち込めない。そして敵の能力の性質上、迂闊に自分の能力を発動できない。
ギリギリまで引きつけて、倒す。
少年が鉄パイプを振り上げたのをしっかりと見極めてから、上げた自分の左腕を微妙に動かす。これは能力を発動する時の癖のようなもので別に意味はない。突風が吹き荒れる。風の発生源は彼の手ではない。数十m離れた別な場所。その風は彼を動かし、結果として少年の攻撃を避けることになった。すかさず体を回転させ、少年の胸元に拳を打ち付ける。少年は一瞬、顔を苦痛で歪めたがすぐに振りおろした鉄パイプを横に滑らせ松岡の横腹に打ち付ける。
松岡は吹き飛んだ。
その攻撃の威力が強烈だからではない、彼の前方から突然突風が起こり彼を吹き飛ばし結果としてダメージを軽減することになる。彼はそのまま体を回転させ風にふわりとあおられ、ゆっくりと着地する。
遠くから風を起こし、それによって自分の体を動かしながら近距離戦闘を有利に動かす、彼の能力を使った戦いの技の一つだった。
できればこんなものは使いたくなった。遠くから発動するということはそれだけ風速は弱まり、制御はしにくくなる。最悪の作戦だ。現にただの怪我をした少年に攻撃を受けた。しかし、しょうがない。敵の能力はそれだけ強力なのだ。現に始末に行かせた能力者3人の連絡は途絶えている。おそらく殺されたか、ともかく戦闘不能。自分もずいぶん負傷している。能力については松岡もはっきりとはつかめていない。わかっていることはその能力は「敵の能力を暴走させる」、能力の効果範囲は5~7m、その5~7mというのは少年からその距離にある気流を松岡が操作すると自動的に他の範囲の気流も制御不能になり松岡自身に負傷、もしくは命の危険がある距離ということだ。だからそれを避けるためには遠くの気流を操作するしかない。さっきのような風で物を運んで飛ばす方法は少年自身がその物に近づいて能力を暴走させられてしまったのでもう使えない。もっと遠くから運んできたら暴走させられはしないが彼にぶつけるという精密な動きはさせられない。つまりこの作戦は使えない。しかしこの状態では危険だ。もう銃が有利に働くような距離ではないし、おそらく相手も銃を持っている。そのうえ銃は動かない右腕を突っ込んだ右ポケットに入っている。取り出そうにも右腕は本当に全く動かないし、左腕で撮ったらその隙を突かれ少年は攻撃してくるだろう。
「(かなりやばいな・・・)」
どうにかならないだろうか。そう思案していると、一人の人物が思い浮かんできた。
最初、自分が連れていた部下たちは四人、そのうち三人はあの二人に葬られた。つまりもう一人残っているのだ。あんな名前も覚えていない部下に頼るのは気が引けたがどうもそんなこと言っていられないのっぴきならない状況だ。ぜひとも来てほしかったが、多分来ないだろう。突風に巻き込まれないようにどこかに避難しているかそれとも自分のこの状況を見て逃げたか、どっちかだ。
「(とりあえずは持久戦だな・・・根性出すか!)」
左腕を振り上げて風を起こす。遠くから風をおこす。起こした突風は到達する地点まで操作できないので威力を維持することはできないが元の威力が強力なため到達時に威力が半分も残っていなくても十分な力がある。その風を後方から受けた松岡は吹き飛ばされ、結果として壮のもとに一瞬で到達する。そして体を捻じり込み、裏拳を思い切り少年に叩きつける。
「・・・!」
自分の頬を拳が襲っても壮は到って落ち着いている。殴られても敵は足が地面についていないのだから踏ん張りがきかず威力は低い。絶対見目を閉じないよう思い切り見開いて拳をしっかりと受け、すかさず鉄パイプをメガネ男の脇腹、さっきと同じ場所に撃ちつけ、腰を回転させ、地面に叩き下とす。メガネ男自身は地面には叩きつけられず、ふわりと吹き飛んで難なく着地する。この風がどこから吹いているのはよくわからないが、ダメージを軽減するためのものだとわかった。しかし、同じ地点を殴ったのだから相当ダメージはあるだろう。
「押している」とは思えなかった。敵の能力を妨害している上で相手と互角なのだ、自分は一応全身動くが向こうは片腕で戦っている。その腕を無理やり動かせば自分など簡単に倒されそうだ。自分はこれで精いっぱい、敵はまだ余裕がある。戦況は五分五分以下だ。さっき食らった裏拳によって口が切れ、頭がびりびりと震えている。血の苦い味が舌で粘ついている。覚悟したとはいえ思い切り正面から殴られた。痛いに決まっている。でもやるしかない。なぜか自分が負けるとは到底思えなかった。だから、怖くもなんともなかった。
構える。自分からは攻めない。ただの勘だが今、踏み込んだら死んでいたような気がする。式場壮は考えるより勘でやる派だ。
「(Don‘t think,feel .(考えるんじゃない。感じろ)・・・ってね)」
数百年前の偉い人の言葉らしい。この人はもっと深い意味で言ったのかもしれないが、壮にとっては自分の感じた通りにやるための言い訳でしかない。そもそもこの言葉は考えるという行為を否定しているようで賛同はできなかった。だが、この言葉が好きだった。息を大きく吐く。
「(でも今は、考えるより、感じるよりもまず、「行う」ことだ・・・!)」
奥歯をかみしめる。無関係な風が、どこかから吹いた。
十三、7月21日午後4時3分 ひるがお市・霞町・中心街
笹村絵真は商社ビルの中を歩いていた。別に目的もない。ビルの中の人はほとんど倒れているかそれとも死んでいるか。いずれにしろ動く気配はなかった。非常階段にでもいれば安全だったかもしれないが人の気配もないことからあまり利用されていないのかもしれない。エレベーターを押しても何の反応もなかったから故障してしまったか、それともつっている電線が切れて下に落ちてしまったのかもしれない。意外と人がいなかったことから多少の人は声を聞いて避難していたようだとわかった。それでもいろいろな機材は吹き飛び、ガラスは壊れ、ビルの中は散々な状態だった。落ちている瓦礫のような何かをよけながら歩く少女の足取りは虚ろだった。
自分はあの場から逃げ出したのだ。少年一人を見捨てて、あの「意思」を持った塊の雨の中を走って逃げた。ガラスの破片も金属片も、何一つ自分の体に当たらなかった。それが帰ってやりきれなかった。あの少年には、あの場から逃げなかった少年にはすべて当たったのだろう。もしかしたら死んでしまったのかもしれない。しかし、あの場から逃げた自分には当たらなかった。不公平だ。血まみれで横たわる少年の横顔が脳裏をよぎる。思わず身震いがした。しかし、どうしようもない。もうあの場へ行く勇気もない。あの、空に見えた黒い破片、あの時自分は考えてしまった。勝てるわけがない、と。そしてその打算によって心には恐怖が植え込まれてしまっている。無理だ、あの少年一人では絶対に勝てない。だが自分が言ったところでどうにもならない。
「どうしちゃったのかな・・・」
こんなの自分らしくない。と言いたかったが言葉がつながらなかった。その代りに大きなため息が漏れる。今までこんなことはなかったハズだ。どんな状況でもまっすぐ前を向いていたはずだ。なのに、今はし確か向けない。口元を拭うと、血がべっとりついて、冷たい恐怖が這い上がってくる。死にたくない。死ぬためには逃げるしかなかった。こんなことを頭の中で唱えるように繰り返して自分の行為を正当化してみようとするが、かえって心にぽっかりと風穴が空いたような気がした。
ある一室の前に来る。関係者以外立ち入り禁止と書かれていたが別に関係ない。ドアはガチャリという音を開けて開く。
中は閉め切った小さな部屋であり、あまり空調もよくなさそうだったが、頑丈に作ってあるようで損傷はなく、たくさんの書籍で埋め尽くされた本棚の隅に小さな机と椅子があってそこに老人が一人腰掛けていた。
「?」
老人は突然の来訪者に驚いているようだ。手にはマグカップが握られていて、湯気がぼわりとたっている。老人はそれを机の端に置くとその深いひげの生えた口をゆっくり開けて
「いらっしゃい」
といった。その顔は深いしわが刻まれていたが柔らかい表情だった。
「大丈夫なんですか?」
ちゃんと生きている人がいたということよりも今の自分のこんな心境のまま人に会ったことで、なんだかばつが悪かった。こんな状態で会うべきではなかったのだ。
「はて?なんのことですかな?」
老人は首をかしげる。どうやら外の異変には気付いていないようだ。それだけこの部屋が頑丈なのかもしれない。とりあえず絵真の頭に浮かんだのは「避難すべきだ」ということだった。
「こんなところいたら危ないです。避難しましょう」
「何故?」
「なぜって・・・」
思わず黙ってしまう。能力者だとか言っても信じてもらえないだろう、とかそういうことではなく今の自分にその資格があるのか疑問に感じたからだ。ついさっき、自分は仲間を見捨てて逃げてきたのだ。仲間を助けられなかった人間にこの老人を安全に保護できるわけもないし、なんだか後ろめたかった。ありえない話だが、あの時自分が逃げずに一歩踏み出していたらと思うとなんだか心が痛くなってくる。
「お嬢さん、ここは結構安全だ。震度6強の地震にも耐えられるし、何より居心地がいい。そうだ、一服して行かんかね?」
そう言って老人は棚から別のマグカップを取り出し始める。
「あ、あの結構です」
「?何かやることでもあるのかね?」
「その、お気持ちは嬉しいんですが、私はそんなことしている場合じゃないんです」
「何かやることがあるんならこんな所に立ち寄らないはずだが・・・・すまないね、老人の単なる邪推だ。聞き流してくれ」
「いえ、いいんです。実は、仲間を大変なところまで置いて逃げ出してしまって」
老人の表情が少し変わる。
「比喩とかじゃなくて、本当に死んじゃってるのかもしれない。なのに、私こんなところで道草しているんです。行かなきゃいけないのはわかってるんだけど、どうしても、足が向こうを向かないんです。私、臆病者ですよね。自分でもわかってるんです」
「怖い、という感情は恥じることではないと思うがね?危ないのに突っ込むのはただ無謀なだけだ。君の判断は正しかったのかもしれない」
「でも」
絵真は何か言おうとしたが突然老人と視線がぶつかって押し黙る。それまで自分がなんの意識もなく視線を外していたことに気付く。老人は目の前の少女を諭すような眼をしていた。奥が深く、吸い込まれそうになる。部屋は息の音も聞こえないほど静まり返る。が張り詰めた殺気もない、ただ、緩やかな雰囲気を帯びていた。
「お嬢さんや、君は選択肢を間違えたと言ったな。それを改めるべきだということも知っている。ただな、これだけは知っておいてほしい。改めるという行為はさっきまでの自分を否定するということだ。大きな勇気がいる。それを知っていて改めるべきだと考えるならそれでいいが、君は若すぎる。若い者のすることはあまりにも軽率だ。本当はもっと、一瞬一瞬の自分に誇りを持って突き進むことが大事だ。それが正しかろうとなかろうと大きな問題ではない。自分が一度考えたことを曲げることを簡単にしてはいけないのだ。・・・おっと、済まない。説教が過ぎたな。しょせんは老人の戯言、本気にしないでくれ」
「・・・・・」
老人は無言でマグカップを渡す。絵真はそれを両手で取って一口含む。暖かい液体が体に流れ込むのを感じた。
「苦い・・・」
「すまない、お嬢さんには苦すぎたかな?」
「いえ、・・・私、どうしたらいいんでしょう?」
「・・・残念ながらそれは私が決めることではない。君が決めることだ。ただ、アドバイスをするなら・・・後悔はしないほうがいい。多分、一生後悔する。」
「・・・」
絵真は視線を落とす。目の前の暗い色調のフローリングには何の感情も込められていなかった。唇を噛む。口の中にはまだ血の匂いが残っている。
どうしたらいいのだろう。何をすれば正しいのだろう。このまま式場壮を見捨てて逃げるのか、彼と共に敵と戦うのか。
「(やるしかないよね、後悔するのは嫌だから)」
決意を固め、拳を握りしめ、顔を上げる。しかし目の前に老人の姿はない。
目の前にはさっきまで老人だった、血まみれの死体が横たわっていた。
すぐさま後ろに振り向くと、背の高い、黒服の男が立っている。サングラスはしていない。細めた眼から鋭い光がぎらついていた。
「・・・」
声が出ない。思考が止まるというか、真っ白に飛んでしまった。落ち着くとか、焦るとかいう段階に達してもいない全部真っ白になって停止してしまった。そのせいでホルスターから銃を取り出すという行動に移せない。何もできない、しないまま固まってしまっている。何をすればいいのかということにまで思考が到達しない。
黒服は右手を上にあげる。おそらく能力を使うときの癖なのだろうがそんなことに思考は追いつかない。何もしない、できない。黒服の手の周りから風切り音が発生し、見えない何かが飛んでくる。その見えない何かは絵真に直撃するために一直線に飛んでくる。彼女がよけるという行動を起こしていない以上、直撃は確実なのだがその見えない何かはなぜか彼女の顔の前で軌道を変え、頬のあたりをかすめる。見えない何かが地面に当たるとからんという金属音を立て、姿を現す。小型のナイフ。先端に血が付いている。
絵真の頬を血が伝う、ナイフが高速で飛ばされていたため、目元に血がはねていた。かすっただけとはいえ、1センチほど抉っているため痛みはあるはずなのだろうが、少女の眼は何の感情も移さない。一応、黒服のほうを向いているはずなのだが、目は何を見ているのか分からない。何も見ていない。
黒服はまたナイフを投げる。彼自身の能力により、ナイフは数秒間目には見えない。不可視の刃は絵真の喉元へ吸い込まれていく、はずなのだがまたもや軌道を変えて目元を掠めて天井に突き刺さる。目元から血がふきだし、少女の眼の周りをべっとりと覆った。
少女は突然、首をがくりと折って下を見る。地面に血がぽたりと垂れ、フローリングに広がる。老人の死体が視界に入ったことが確認できた。
「何でこの人が死んでしまったのだろうか?」と、言う思考が浮かんだ。かわいそうとかこんな罪のない人が、ということではない。この人が死ぬ必要性はあったのだろうか。自分が殺したのだろうか、あの黒服が殺したのだろうか、そんなことはどうだっていい。純粋にこの人が死んだことが嫌だった。そして倒れていた人たちを思い出す。あの人たちだってなにも傷つくことはなかったはずだ。嫌だ、こんなのは嫌だ。
眼の光が蘇る。強い表情が戻る。それはさっきよりも強かった。もう前を向いている。顔の半分には血がべっとり付いていたが目は拭わない。
黒服は構え、またナイフを投げる、投げようとしたがナイフが黒服の手を離れた瞬間、そのナイフはどこかへ消えてしまった。見えなくなったのではない。消えてしまったのだ。結果、ナイフは何も傷つけない。黒服は少し驚いた様子だったがすぐさまナイフを持って絵真に突っ込む。絵真は動かない。そのナイフが絵真に迫ろうとした時、黒服は異変を感じる。
さっき自分が立っていた位置に戻っている。まるで最初から動いていなかったように、ただそんなはずはない。確かに自分は小女に刃を向けたはずだ。ここで黒服はまたもや異変に気付く。ナイフがない。さっき握っていたナイフがない。それどころか体中に仕込んでいたナイフもなくなっていた。どこかに消えてしまった。
少女がこちらを向いている。しっかりと、強い表情。そんなことに物怖じする世界で生きているつもりはなかったが、なぜかそれに圧倒されてしまった。攻撃的でない代わりに慈悲も何もない。喜怒哀楽の消えた、ただ強い表情。
少女はこちら向かって歩きだす。思わず避けたくなってしまったが、体が動かなかった。なぜかはわからない。この少女になぜか勝てる気がしなかった。心の奥のもっと深い何かが激しく怯えていた。
少女は彼に対して何もしない。まるでそこに何もなかったようにゆっくりと横を通り過ぎていくだけだった。だけだったが、黒服はそのことに恐ろしい冷たさを感じた。
数十秒して、少女が部屋を出て行ったのを確認して黒服はがっくりと体を下す。が、ここでまたもや異変に気付く。
さっきまで横たわっていた老人の死体は跡形もなく消えていた。