生贄にされた私を拾った狐の妖怪と、600年の時を超えて新しい物語を紡ぎます
その年は全てが最悪だった。
春の雪解け水が一気に流れ込み、畑は泥に埋まり、芽吹いたばかりの作物はほとんど流された。
夏は一滴の雨すら降らず、作物は枯れ果てた。
家畜の何頭かが病で死んだ。
村人たちは、だんだん口数が少なくなっていった。
そしてある日、誰かがぽつりと呟いた。
「……狐様の祟りだ」
村には昔から言い伝えがある。
六百年前。
山に住む狐の妖怪が怒り狂い、村を焼いた。
それ以来、災いが起きると人々は山を恐れた。
そして――
狐へ花嫁を捧げる。
そんな古い風習が、この村には残っている。
***
村の寄り合いは、重苦しい沈黙に包まれていた。
囲炉裏の火が、ぱちりと小さく弾ける。
やがて、長老が口を開いた。
「……狐様に花嫁を捧げねばならん」
誰も何も言わない。
ただ、ゆっくりと視線だけが動く。
そして。
その視線は、一人の少女に集まった。
千歳は、その意味をすぐに理解した。
胸の奥で、心臓が大きく鳴る。
――私だ。
両親も親戚もいない彼女は村で独りぼっちだった。
誰一人、彼女を庇う者はいなかった。
つまり、全員にとって都合のいい存在。
長老が静かに彼女を指差して言う。
「……生贄は、お前だ」
その瞬間。
千歳の心臓は、早鐘のように打ち始めた。
頭が真っ白になる。
生贄。
つまり――
死ぬ。
狐なんて、本当にいるとは思っていない。
でも。
山に一人置き去りにされるなんて。
そんなの、耐えられるはずがない。
気づけば、千歳は立ち上がっていた。
必死で走り出す。
村の外へ。
生贄なんて嫌だ。
山になんて行きたくない。
死にたくない。
「捕まえろ!」
背後から声が上がった。
足音が近づく。
次の瞬間、腕を強く掴まれた。
「離してください!」
振りほどこうとする。
でも、大人の力には敵わない。
もう一人が反対の腕を掴む。
「逃げるな!」
「村のためだ!」
腕が痛い。
涙がこぼれる。
「いやです……!」
「行きたくない……!」
けれど、誰も手を離してくれなかった。
千歳はそのまま、村の広場へと引き戻された。
それからのことは、夢のようだった。
村の女たちに囲まれ、家の中へ連れて行かれる。
「着替えさせろ」
誰かが言った。
千歳の服が脱がされる。
「やめて……」
小さく呟く。
けれど、誰も手を止めない。
差し出されたのは、白い衣だった。
真っ白な布。
袖を通され、帯を結ばれる。
そして鏡の前に立たされた。
そこに映っていたのは――
白装束を着た自分の姿。
花嫁のような衣。
けれど、これは祝いではない。
これは。
生贄だ。
逃げないように、手足を縛られる。
縄がぎゅっと食い込むたびに、胸が痛くなった。
外へ出ると、夜になっていた。
村人たちが集まり、松明の火が揺れている。
その光の中に、木で作られた台があった。
神輿のようなもの。
「乗せろ」
男たちが千歳を持ち上げる。
縛られたまま、台の上に座らされた。
太鼓が鳴る。
どん。
どん。
低い音が、胸の奥に響く。
行列が山へ向かってゆっくり動き出す。
松明の光が揺れる。
ただ、太鼓の音だけが夜の中に響いていた。
やがて、山の奥の祠に着いた。
男たちが千歳を神輿から下ろす。
「せめてもの餞別だ」
そう言って千歳の縄を解く。
しかし、彼女の手足は言うことを聞かず、その場から動けない。
長老が前に出た。
「狐様に失礼のないように」
千歳は遠ざかる村人たちをただただ見ていた。
足音が消え、松明の火が遠ざかる。
祠の前。
白装束のまま。
千歳は一人、取り残された。
山の夜は、暗く、風が冷たい。
まるで現実とは思えなかった。
狐なんて、本当にいるわけない。
けれど。
「……これから」
「どうすればいいの……」
死にたくない。
怖い。
そう思った、そのとき。
――ガサ。
森の奥で、草が揺れた。
千歳の体がびくりと震える。
胸の奥で、心臓が激しく打ち始めた。
まさか。
そんなはずない。
狐なんて、本当にいるわけがない。
そう思いたいのに、目は森から離れなかった。
暗い木々の間から、ゆっくりと白い影が現れる。
最初に見えたのは、白い髪だった。
月明かりを受けて、雪のように淡く光っている。
そして顔が見える。
人の姿をしている。
けれど。
頭には、狐の耳。
背後には、ゆったりと揺れる尾があった。
千歳の喉から、かすれた息が漏れる。
――妖怪。
本当に、いた。
逃げなきゃいけないのに、体が凍りついたように動かなかった。
白い髪の男は、静かにこちらを見ていた。
金色の瞳。
夜の中でもはっきり分かるほど、冷たい光をしている。
やがて、その男が口を開いた。
「……生贄か」
低い声だった。
背筋がぞくりと震える。
千歳は何も答えられない。
喉が震えて声が出ない。
でも、このまま黙っていたら本当に食べられてしまう気がして。
必死に息を吸う。
喉がひどく乾いていた。
「……助けて」
やっと出た声は、ひどく小さかった。
狐はわずかに眉を寄せる。
そして、あっさりと言った。
「人間に興味などない」
それだけだった。
千歳は目を瞬かせる。
意味が分からない。
狐はもう興味を失ったように、千歳から視線を外す。
そして、そのまま背を向けた。
白い尾がゆっくりと揺れ、森の奥へ歩き出す。
千歳は呆然とした。
……え。
食べないの?
しばらく、その場に立ち尽くす。
足音が遠ざかる。
千歳はしばらく、その背中を見ていた。
心臓がまだ激しく脈打っている。
生きている。
殺されなかった。
でも。
いつまた狐の気が変わるかわからない。
震える足で、ゆっくりと一歩下がる。
白装束の裾が草に触れる。
音を立てないように、息を殺す。
もう一歩。
もう一歩。
そして狐と反対方向に駆け出した。
一方で、狐は不思議な感覚に戸惑っていた。
今までに何度も生贄と称した人間が山に来たが、決して興味は沸かなかった。
なのに。
――妙だ。
さっきから、胸の奥に引っかかるものがある。
匂い。
声。
気配。
説明できない何か。
狐はゆっくり振り返り、祠の前を見る。
そこにいたはずの白い姿は、もうなかった。
***
その頃、千歳は必死に山道を走っていた。
枝が腕に当たる。
足元の石につまずきそうになる。
怖い。
怖い。
怖い。
息が苦しい。
涙が視界を滲ませる。
本当にいた。
恐怖でいっぱいになりながら必死に走る。
だが、体は思い通りに動かなかった。
「あっ……」
足がもつれ地面に激突する。
全身痛くて立てない。
千歳はふと来た道を振り返った。
すると――白い影が、すぐそこに立っていた。
逃げられたと思ったのに。
狐が、静かにこちらを見下ろしていた。
金色の瞳が、じっと千歳を映している。
千歳の喉から、震える息が漏れた。
「……っ」
逃げたくても、体が言うことを聞かない。
狐は少しだけ眉をひそめた。
小さく、息を吐く。
人間など、どうでもいいはずだった。
生贄だろうと、なんだろうと。
興味もない。
なのに。
どういうわけか、千歳のことが気になった。
狐は千歳の腕を掴み、持ち上げる。
「はなして……!」
必死に抵抗するも妖の力には勝てない。
千歳の視界が逆さになる。
「いやっ……!」
恐怖で体が強張る。
狐は淡々と言った。
「暴れるな」
低い声だった。
千歳はそれでも抵抗する。
このまま連れて行かれれば、きっと――
狐は少しだけ眉を寄せた。
そして、ぼそりと言う。
「ここにいれば熊に襲われて死ぬぞ」
静かな声だった。
千歳の体が止まる。
熊。
そんなこと、考えてもいなかった。
夜の山。
確かに、何が出てもおかしくない。
それでも。
「……っ、はなして……」
涙がこぼれる。
狐は答えない。
そのまま千歳を抱えて歩き出す。
千歳は恐怖のなか必死に考えた。
(私は一体どうなるの……)
***
山の奥へ、どれくらい歩いたのか分からない。
夜の森は暗く、木々の影が重なって道もよく見えなかった。
やがて、狐が足を止める。
目の前には、小さな木の家があった。
山の中にぽつんと建っている。
千歳は呆然とする。
妖怪の住処だと思っていたのに。
そこにあったのは、囲炉裏の煙突がついた、普通の家だった。
狐は戸を開ける。
そのまま中へ入ると、千歳を肩から下ろした。
足が地面に触れる。
けれど力が入らず、千歳はその場に座り込んだ。
逃げなきゃ。
そう思うのに、体が動かない。
狐は千歳を一瞥しただけだった。
「……中にいろ」
それ以上、何も言わない。
狐は囲炉裏の前へ行き、腰を下ろした。
薪をくべる音が、小さく響いた。
ぱちり、と火がはぜる。
橙色の光が、室内を揺らした。
千歳は戸口の近くで、じっとしていた。
怖い。
狐の妖怪と、同じ家の中にいる。
それなのに。
狐は気にした風もなく、静かに囲炉裏の火を見つめている。
食べないの?
どうしてここに連れてきたの?
頭の中で同じ疑問がぐるぐる回る。
でも、聞く勇気なんてなかった。
千歳は部屋の隅へと少しずつ移動した。
できるだけ狐から距離を取るように。
壁に背中をつけ、膝を抱えて座り込む。
冷たい床の感触が伝わってくる。
火の音だけが、静かに続いていた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
千歳はずっと起きているつもりだった。
眠ってしまっては命が無いかもしれない。
でも。
体はもう限界だった。
恐怖と緊張で張り詰めていた力が、少しずつ抜けていく。
瞼が重い。
意識が揺れる。
――寝ちゃだめ。
そう思ったのに。
気づいたときには、千歳はそのまま壁にもたれたまま、眠ってしまっていた。
囲炉裏の火が、小さく揺れている。
その光の向こうで、狐――雪華は静かに目を細めた。
部屋の隅で眠る白装束の少女を、しばらく見ていた。
けれど、何も言わない。
ただ、火に薪をくべる。
ぱちり、と音がした。
夜は、静かに更けていった。
***
目を覚ましたとき、最初に見えたのは柔らかな光だった。
ぼんやりとした視界の中で、木の天井が揺れている。
千歳は瞬きをした。
どこ……?
体を少し動かす。
その瞬間、昨日の記憶が一気に戻ってきた。
山。
祠。
白い狐の妖怪。
千歳の体がびくりと強張る。
慌てて辺りを見回す。
見覚えのない家。
昨日のまま、壁にもたれて眠っていたらしい。
体が少し冷えていた。
それでも。
千歳はゆっくり息を吐く。
……生きてる。
食べられていない。
その事実に、自分でも驚くほど安心していた。
囲炉裏にはまだ火の跡が残っている。
灰の奥に、小さく赤い火が見えた。
恐る恐る顔を上げると、戸が開いていた。
朝の光が差し込んでいる。
そして、その向こうに。
白い影が立っていた。
家の外に立ち、何かを準備している背中が見える。
白い髪が、朝の光の中で淡く光っていた。
視線に気がついたように、雪華が振り向く。
金色の瞳が、まっすぐ千歳を捉えた。
目を逸らすことができない。
やがて雪華が口を開く。
「……好きに使え」
雪華は家の中を顎で示す。
それだけ言うと、背を向けて山の方へ歩き出した。
千歳は呆然とする。
雪華の白い姿が木々の間に消えていく。
胸の奥が、まだ落ち着かない。
……ここにいていいの?
千歳はゆっくりと立ち上がった。
家の中は、しんと静まり返っていた。
雪華の気配はもうない。
今なら逃げられる。
山の朝は、思っていたよりも明るかった。
木々の隙間から光が差し込み、葉が風に揺れている。
でも。
一体どこへ?
冷たい空気が頬に触れる。
山の奥は、どこまでも木ばかりだった。
帰るなら、あの村へ戻るしかない。
千歳は立ち止まる。
頭の中に、昨日の光景が浮かぶ。
村人たちの顔。
視線。
あの沈黙。
――お前だ。
千歳の胸がきゅっと痛む。
もし帰ったとして。
あの村に、居場所があるだろうか。
答えは、すぐに出た。
ない。
千歳はゆっくりと目を伏せる。
逃げた生贄なんて、きっともう村には入れてもらえない。
それに。
昨日、自分をあの祠に置いて帰った人たちだ。
戻ったところで、歓迎されるはずもない。
千歳は小さく息を吐いた。
そして、家の中へ戻る。
そのとき、ぐう、と小さな音が鳴った。
千歳ははっとする。
そういえば、昨日から何も食べていない。
千歳は囲炉裏の近くへ行った。
棚を見る。
そこには、いくつかの食べ物が置かれていた。
干した山菜。
米。
鍋。
……人間の家みたいだ。
千歳は少し驚く。
妖怪の家なのに、普通の暮らしの道具が揃っている。
雪華の言葉が頭に浮かぶ。
――好きに使え。
千歳は鍋を見つめる。
少しだけ。
ほんの少しだけなら。
迷いながら、囲炉裏の灰をかき分ける。
まだ火が残っている。
小さく息を吹きかけると、赤い火がゆっくりと明るくなった。
薪を足すと、ぱちり、と火がはぜた。
その音を聞いた瞬間、千歳の肩の力が少し抜けた。
鍋に水と山菜を入れ、火にかける。
湯気がゆっくり上がった。
その光景を見ながら、千歳はぼんやり思った。
……ここで、生活していいのかな。
狐の妖怪の家で。
そんなこと、昨日まで想像もしなかったのに。
鍋の中で、山菜が静かに煮えていた。
千歳は膝を抱えながら、その湯気を見つめている。
ふと、外で音がした。
枝が踏まれる音。
千歳の体がびくりと強張る。
戸口を見と、白い影がそこに立っていた。
雪華だった。
白い髪が、夕方の光の中で淡く光っている。
金色の瞳が、静かに家の中を見回した。
囲炉裏。
鍋。
そして、千歳。
千歳は思わず背筋を伸ばした。
怒られるかもしれない。
勝手にいろいろ使ってしまった。
胸がどきどきする。
雪華はゆっくり家の中に入る。
何も言わない。
ただ囲炉裏の前に座る。
千歳は恐る恐る口を開いた。
「……食べますか」
声が震えていた。
雪華は小さく頷いて、鍋の方へ手を伸ばす。
器に汁をよそい、静かに食べ始めた。
それから、ぽつりと言う。
「……悪くない」
それだけだった。
千歳は少しだけ安堵のため息を吐いて、自分も食事を始めた。
雪華はその姿をじっと見ていた。
どうしてか、懐かしい感覚が胸の奥に引っかかる。
雪華の金の瞳が、わずかに細くなった。
千歳はそれに気づかないまま、鍋を見つめていた。
***
「今日はここで眠れ」
雪華はそう言うと、千歳に一組の布団を手渡した。
そして囲炉裏の側を指差す。
「……ありがとうございます」
千歳はなぜか分からないが、気遣いに感謝した。
どうやら狐は自分に危害を加える気は無いらしい。
昨晩とは違い、千歳は安心して布団に入った。
囲炉裏の火が、小さくはぜる。
ぱちり、と乾いた音がして、赤い火がゆらゆら揺れた。
山の夜は深く、外では風が木々を揺らしている。
その音を遠くに聞きながら、千歳の意識はゆっくりと沈んでいった。
***
――風の音。
冷たい空気。
白いものが、静かに落ちてくる。
雪だ。
気づけば千歳は、山の中に立っていた。
見覚えのある山のはずなのに、どこか違う。
木々は今よりも多く、道もはっきりしていない。
人の手があまり入っていない、古い山の姿だった。
雪が、しんしんと降っている。
冷たい空気の中で、誰かの声が聞こえた。
子供の声。
甲高い笑い声が重なる。
「妖怪だ!」
「気持ち悪い!」
石が転がる音がした。
千歳はそちらを見る。
岩のそばに、小さな影がいた。
人の子供くらいの大きさ。
けれど、その頭には狐の耳があり、背には小さな尾が揺れている。
白い髪の子だった。
その子を囲むように、村の子供たちが立っている。
子供たちは狐の子に石を投げていた。
狐の子は、何も言わずじっとしている。
ただうずくまって。
石が肩に当たり、血が流れた。
そのとき。
別の足音が聞こえた。
「やめて!」
少女の声だった。
強い声。
子供たちが振り返る。
千歳はその少女を見る。
でも、顔はよく見えない。
霧の中みたいに、ぼんやりしている。
少女は狐の子の前に立った。
降る雪の中で、白い息が揺れる。
狐の子は少女を見上げていた。
少女がゆっくりしゃがみ込む。
少女の手が、そっと差し出される。
白い耳が、わずかに揺れた。
雪が静かに降り続いている。
少女は少しだけ首を傾けた。
「……痛かった?」
やわらかい声だった。
狐の子は答えない。
金色の瞳が、雪の中でかすかに光った。
「大丈夫、怖くないよ。私はあなたを傷つけたりしない」
静かな山。
その光景を、千歳は少し離れたところから見ていた。
不思議だった。
知らないはずの光景なのに、胸の奥がじんわりと温かい。
懐かしいような、泣きたくなるような。
そんな気持ちだった。
狐の子はまだ少女を見上げている。
少女は微笑んだまま、その頭をそっと撫でた。
白い髪が、雪の中で揺れる。
その瞬間――
景色が、ふっと揺らいだ。
千歳は、ゆっくり目を開けた。
囲炉裏の火が、小さく揺れている。
家の中だった。
さっきまで見ていた景色が、もう遠くなっている。
千歳はしばらく動けなかった。
胸の奥に、まだ温かい感覚が残っている。
「……夢?」
小さく呟く。
誰の夢だったのか。
何の夢だったのか。
よく分からない。
でも。
あの狐の子は――
翌朝。
千歳は目を覚ましても、しばらくぼんやりしていた。
囲炉裏の火はもう消えている。
窓の外から、朝の光が差し込んでいた。
山の朝は静かだった。
遠くで鳥の声がする。
あの夢のことを思い出す。
雪の山。
白い狐の子。
そして、少女。
顔は思い出せないのに、声だけが残っている。
――怖くないよ。
どうしてあんな夢を見たのだろう。
千歳は首を振った。
考えても分からない。
戸が開く音がした。
千歳は顔を上げる。
雪華だった。
白い髪が朝の光に照らされている。
相変わらず表情はほとんど動かない。
千歳を見ると、短く言った。
「山に行ってくる」
昨日と同じだ。
千歳は少し迷う。
世話になっているのだから、何もせず待っているのは落ち着かない。
「……あの」
声をかけると、雪華が振り返る。
金色の瞳が、静かに千歳を見る。
千歳は少し緊張しながら言った。
「私も行っていいですか」
雪華はしばらく黙っていた。
山の風が、白い髪を揺らす。
やがて、短く答える。
「……好きにしろ」
そう言って歩き出した。
千歳は一瞬きょとんとする。
それから慌てて立ち上がった。
急いで後を追う。
家の外へ出ると、山の空気は少し冷たかった。
木々の間から光が差し込んでいる。
雪華は振り返らない。
千歳は少し離れて、その後ろを歩いた。
山の中へ。
静かな道を、二人で進んでいく。
山の道は細く、ところどころに湿った落ち葉が積もっていた。
千歳は足元を気にしながら歩く。
鳥の声。
風が木々を揺らす音。
遠くで水の流れる音も聞こえる。
雪華は先を歩いていた。
振り返ることもなく、迷いなく進んでいく。
山に慣れている足取りだった。
しばらく歩くと、雪華が足を止めた。
低い斜面のそばだった。
雪華はしゃがみ込む。
草の間から、細い葉を摘み取った。
それを指で軽く払う。
千歳はそっと近づいて覗き込む。
「……山菜ですか」
雪華は答えない。
ただ籠の中にそれを入れる。
そのまま、また別の場所へ歩く。
千歳も周りを見る。
同じような草がいくつか生えていた。
少し迷ってから、一本摘んでみる。
土の匂いが指につく。
それを持ったまま、雪華を見る。
「……これも?」
雪華はちらりとだけ視線を向けた。
そして、短く言う。
「それは違う」
千歳は慌てて手を引っ込めた。
「す、すみません」
思わず謝る。
雪華は何も言わない。
そのまま別の草を指差した。
「こっちだ」
千歳はその草を見る。
さっきのものとよく似ているけれど、葉の形が少し違う。
千歳は慎重に摘んだ。
今度は間違えていないらしい。
少しだけ、ほっとする。
それを籠に入れながら、千歳はふと思った。
こうしていると、まるで普通の山仕事みたいだ。
狐の妖怪と一緒にいることを、一瞬忘れそうになる。
千歳は小さく息を吐いた。
山の空気は冷たくて、少し気持ちよかった。
雪華は相変わらず無言で山菜を摘んでいる。
白い髪が風に揺れる。
その背中を見ながら、千歳はもう一本、山菜を摘んだ。
そのときだった。
足元の土が、ふっと崩れた。
「……え?」
踏んだはずの地面が、急に消える。
体がぐらりと傾き、反射的に手を伸ばす。
でも、掴めるものがない。
「っ……!」
体が斜面を滑った。
落ち葉と土が一緒に崩れ、視界がぐるりと回る。
次の瞬間、体が岩にぶつかった。
鈍い衝撃。
腕に鋭い痛みが走る。
「……っ!」
声にならない息が漏れる。
体はそこで止まった。
斜面の途中だった。
何とか起き上がろうとすると腕がひどく痛んだ。
千歳は息を荒くする。
手を見ると、赤いものが広がっていた。
岩で切ったらしい。
じわじわと血が流れている。
そのとき、上から足音がした。
落ち葉を踏みしめる音。
雪華だった。
そして――血を流した千歳を見る。
その瞬間。
雪華の表情が変わった。
千歳は、はっとした。
今までとは違い、感情がはっきりとわかる。
驚き。
恐れ。
そして、動揺。
雪華は斜面を飛び降りると、千歳の腕を掴み傷口を見る。
流れている血が止まらない。
雪華の手がわずかに震えた。
呼吸が浅くなり、明らかに普通ではない。
胸が強く上下している。
千歳は戸惑った。
どうしてそんな顔をしているの?
二日前、初めて会っただけなのに。
ただ怪我をした人を心配するレベルではない。
雪華はまるで――
もっと恐ろしいものを見ているみたいだった。
千歳はそっと言う。
「……大丈夫ですよ」
雪華の手に触れる。
震えているのが分かった。
「ただのかすり傷です」
雪華の瞳が揺れた。
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
――血。
雪。
白い息。
記憶が、突然蘇る。
降りしきる雪の中。
少女が倒れている。
胸のあたりが赤く染まっている。
周りには、村人たち。
怒鳴り声。
誰かが叫んでいる。
「妖怪を庇った罰だ!」
少女は地面に倒れている。
白い雪の上に。
赤い血が広がっていく。
そのそばに、小さな狐の子がいた。
必死に少女の体を揺らしている。
「……起きろ」
「起きろ」
でも、少女は動かない。
雪だけが、静かに降っている。
雪華ははっと息を呑んだ。
山の斜面。
昼の日差し。
あの時とは全く違う。
それなのに、胸の奥にある恐怖はあのときと同じだった。
雪華の手が、千歳の腕を強く掴んだ。
金色の瞳が、千歳を見つめる。
信じられないものを見るような目だった。
「……お前」
声が低く震える。
そして、ようやく呟いた。
「……名前は」
千歳はきょとんとした。
こんな状況で、名前を聞かれるとは。
だが、小さく答える。
「千歳です」
その瞬間。
雪華の動きが止まった。
時間が、凍りついたみたいだった。
千歳の名前を、もう一度ゆっくり繰り返す。
「……千歳」
その声は、ひどく静かだった。
けれど、どこか震えている。
雪華の瞳の奥で、何かが揺れていた。
雪の山。
小さな家。
囲炉裏の火。
少女の声。
――私はずっと一緒にいるよ。
記憶が、はっきりと繋がる。
雪華は目を閉じた。
長い時間、胸の奥に沈めていたものが、ゆっくり浮かび上がってくる。
やがて、静かに目を開けた。
そして、千歳を見つめる。
今度は、はっきりと。
「……千歳」
もう一度、その名前を呼んだ。
六百年前。
雪の中で、何度も呼んだ名前だった。
千歳は首を傾げる。
「……どうかしたんですか?」
雪華はしばらく黙っていた。
山の風が、静かに木々を揺らしている。
やがて、ぽつりと言った。
「お前は」
そして続ける。
「……六百年前、俺と山で暮らしていた」
千歳は、目を見開いた。
信じられないものを見るように、雪華を見つめる。
雪華の声は、低く静かだった。
「人間に殺された女だ」
***
冬の山は静かだった。
雪が、しんしんと降り続いている。
人の足跡はほとんどない。
その白い山道を、ひとりの女が歩いていた。
背に薪の束を背負い、手には小さな籠を持っている。
千歳だった。
村から少し離れた山の中。
ここは、千歳がよく来る場所だった。
薪を拾い、山菜を採り、時にはきのこを探す。
そうして暮らしている。
村の家々の煙は、遠くに小さく見えるだけだ。
千歳はあまり村に長くいない。
必要なときだけ降りていく。
それ以外は、山で過ごすことが多かった。
その方が、気楽だった。
村人たちは千歳をあまり好いていない。
両親を早くに亡くしたせいかもしれないし、それゆえ大人びた性格の子供だったからかもしれない。
気がつけば、千歳は村の中で少し浮いた存在になっていた。
だから山にいる方がいい。
木の匂いがして、風の音が聞こえて、誰も何も言わない。
千歳は雪を踏みしめながら歩いた。
そのときだった。
遠くから声が聞こえてきた。
「妖怪だ!」
「気持ち悪い!」
子供たちの声だった。
千歳は足を止める。
声のする方へ視線を向けた。
少し迷ったが、放っておくこともできず声の方へ歩いていく。
木々の間を抜けると、開けた場所に出た。
そこにいたのは、村の子供たちだった。
五、六人。
そしてその中心に、小さな影がある。
千歳は目を細めた。
白い髪の子だった。
人の子供と同じくらいの大きさ。
でも。
頭には狐の耳があり、背には白い尾が揺れていた。
子供たちが石を投げている。
「妖怪だ!」
「山に帰れ!」
石が肩に当たる。
それでも、その子は動かない。
ただ、じっとうずくまっていた。
まるで、そうされることに慣れているみたいに。
千歳は思わず声を上げた。
「やめて!」
子供たちが一斉に振り返る。
千歳を見て、少し顔をしかめた。
「なんだよ、千歳か」
「ほっとけよ、妖怪だぞ」
でも千歳は動かなかった。
ゆっくりと、その子の前に歩いて行き、庇うように立つ。
子供たちは少し顔を見合わせた。
「……つまんね」
誰かがそう言って、子供たちはばらばらと去っていった。
雪の上に足跡だけが残り、静かな山に戻る。
千歳は振り返った。
白い髪の子が、じっとこちらを見ていた。
金色の瞳だった。
警戒している目。
千歳はゆっくりしゃがむ。
目線を合わせる。
そして、小さく言った。
「……怖くないよ」
白い髪の子は、じっと千歳を見ていた。
金色の瞳が、少しだけ細くなる。
雪が降り続いている。
しばらく、どちらも動かなかった。
やがて、狐の子が口を開く。
「……何のつもりだ」
低い声だった。
子供の姿なのに、どこか大人びた響きがある。
千歳は少しだけ首を傾げる。
「どういうこと?」
狐の子は眉をひそめる。
「妖怪だぞ。怖くないのか」
耳がぴくりと動き、尾がゆっくり揺れる。
警戒しているのが分かった。
千歳はそれを見て、小さく笑った。
「怖くないよ」
狐の子は一瞬、言葉を失った。
普通の人間なら、自分を怖がって逃げるか攻撃してくるかだ。
でも、この女は違う。
千歳は、少し身を乗り出し狐の子の肩を見る。
さっき石が当たった場所。
「痛い?」
狐の子はすぐに体を引いた。
「触るな」
短く言う。
千歳は手を止めた。
「あ、ごめん」
狐の子は不思議そうに千歳を見る。
自分を心配する人間を、見たことがなかった。
雪が静かに降る。
千歳は立ち上がったり、背中の薪を見て言った。
「寒いよね」
狐の子は答えない。
千歳は続ける。
「家で手当てしよう」
狐の子の耳がぴくりと動く。
「火、あったかいよ」
千歳はそう言って、くるりと背を向けた。
そして歩き出す。
狐の子はその背中を見ていた。
すぐには動かない。
でも。
降り続く雪が、肩に積もっていく。
やがて、狐の子はその少女に興味が湧いた。
「……人間のくせに」
ぽつりと呟く。
それから、ゆっくり歩き出した。
千歳の後ろを、少し離れてついていく。
雪の上に、二人分の足跡が並んだ。
山の中にある小さな家だった。
木で作られた、簡素な家。
雪が屋根に積もっている。
千歳は戸を開けた。
「どうぞ」
そう言って、中に入る。
狐の子は戸口の前で止まった。
家の中を警戒するように見ている。
囲炉裏の灰。
棚。
鍋。
どこにでもある、人の家だった。
千歳は薪を囲炉裏にくべ、火打石を打つ。
火がつくと、ぱちり、と小さな音がした。
やがて炎が揺れ始め、橙色の光が部屋をやわらかく照らす。
「ほら」
千歳は囲炉裏を指した。
「こっちおいで」
狐の子はまだ立っている。
耳が少しだけ揺れる。
雪が肩に残っていた。
千歳はそれを見て言う。
「暖かいよ」
狐の子はしばらく黙っていた。
でも、やがてゆっくり中に入る。
囲炉裏から少し離れた場所に座った。
千歳は救急箱を取り出し、狐の子の側に腰を下ろす。
「ちょっとしみるかも」
そういって手当を始めた。
狐の子はただじっとしている。
千歳はその様子を少し見てから言った。
「君、名前は?」
狐の子が顔を上げる。
「……ない」
短く答える。
千歳は少し考えた。
囲炉裏の火が揺れる。
外では、雪が降り続いている。
千歳はふと笑った。
「じゃあ私がつけてあげるよ」
狐の子を見る。
白い髪とふわふわした耳、しっぽ。
狐の子は少し眉をひそめる。
「……そんなものいらない」
「いいじゃない。あったほうがいいよ」
千歳は窓の外を見た。
雪がしんしんと降っている。
「雪の華」
囲炉裏の火が、ぱちりとはぜた。
「雪華ってどう?」
狐の子はしばらく黙っていた。
炎を見つめている。
それから、ぽつりと呟く。
「……変な名前だ」
千歳は笑った。
「そうかな」
狐の子は火を見つめたまま言う。
「……雪華」
自分でその名前を繰り返す。
少しだけ、尾が揺れた。
千歳はそれを見て、満足そうに頷く。
「よろしくね、雪華」
狐の子――雪華は、何も答えなかった。
でも、その夜。
彼は囲炉裏のそばから離れなかった。
雪の季節が終わり、山に春が来た。
雪解け水が細い川を作り、土の匂いが戻ってくる。
千歳は山の斜面で山菜を摘んでいた。
「雪華、これ知ってる?」
振り返ると、白い狐の少年が少し離れた岩の上に座っている。
最初の頃と同じように、まだ少し距離を置いていた。
「食える」
短く答える。
千歳は笑った。
「お、正解」
籠に山菜を入れる。
その横で、雪華も一つ摘んだ。
時々千歳のあとをついて、手伝うようになった。
夏。
山は濃い緑に覆われる。
蝉の声が響く。
千歳は川で足を浸していた。
「冷たい」
そう言って笑う。
雪華は少し離れた木の陰に座っていた。
「人間は変だな」
「何が?」
「わざわざ冷たい水に入る」
千歳は肩をすくめる。
「気持ちいいよ」
少し考えてから言う。
「雪華もやる?」
雪華は眉を寄せた。
「やらん」
でも、その後。
千歳がいないときに、こっそり川に足を入れたことを、千歳は知らない。
秋。
山の葉が赤く染まる。
囲炉裏の火が、また必要になる季節だった。
千歳は鍋をかき混ぜている。
きのこと山菜の汁だった。
「雪華」
「なんだ」
「最近、耳隠すのうまくなったね」
雪華の動きが止まる。
人の村に行くときのために、妖術で耳を隠す練習をしていたのだ。
雪華はむっとする。
「……別に」
千歳はくすくす笑う。
「えらいえらい」
雪華は囲炉裏の火を睨んだ。
でも、尾が少しだけ揺れていた。
そして冬。
また雪が降る。
囲炉裏の火の前。
千歳は薪をくべながら言った。
「雪華、大きくなったね」
雪華は少し顔をしかめる。
背は伸びていた。
顔立ちも、子供のものではなくなりつつある。
「元からお前より長生きだ」
千歳は頷いた。
「そっか」
それから、少しだけ静かに言う。
「でも、よかった」
「何が」
千歳は火を見つめたまま答えた。
「雪華が、ここにいてくれて」
囲炉裏の火がぱちりと弾ける。
雪華は何も言わなかった。
ただ、しばらく千歳を見ていた。
外では雪が降っている。
山の中の小さな家。
その時間は、静かに流れていった。
そうして、十年が過ぎた。
その年の夏は、雨が多かった。
最初はただの長雨だった。
山ではよくあることだ。
千歳も最初は気にしていなかった。
囲炉裏のそばで鍋をかき混ぜながら、外の雨音を聞いていた。
屋根を叩く水の音。
止む気配はない。
「よく降るね」
千歳が言う。
雪華は囲炉裏の向こうで腕を組んでいた。
「山の雨はこんなものだ」
短く答える。
千歳はうなずいた。
でも、その雨は三日経っても止まらなかった。
四日。
五日。
山の空気が、少しずつ重くなっていく。
川の水が増えた。
濁った水が音を立てて流れている。
千歳は川辺で足を止めた。
「……すごい水」
いつもの穏やかな流れではない。
雪華は川を見て、眉を寄せた。
「山が崩れるかもしれないな」
千歳は少し不安そうに空を見る。
灰色の雲が、山を覆っていた。
その夜。
遠くで大きな音がした。
地面が低く唸る。
山の奥で何かが崩れる音だった。
千歳ははっと顔を上げる。
「今の……」
雪華は立ち上がった。
外に出る。
山の方を見る。
闇の中で、木が倒れる音が続いている。
しばらくして、音は止んだ。
夜の山はまた静かになる。
でも。
千歳の胸の中には、嫌な予感が残った。
数日後。
千歳は久しぶりに村へ降りた。
米を少し分けてもらうためだった。
雨はようやく弱くなっていた。
村に近づくと、いつもと様子が違うことに気づく。
人が集まっている。
ざわざわと騒いでいた。
「川が溢れたらしい」
「田んぼが全部流された」
「山が崩れたって……」
不安な声が飛び交う。
千歳は足を止めた。
村の長老の声が聞こえる。
「これは山の祟りだ」
誰かが言った。
「妖怪のせいじゃないか」
別の声。
ざわめきが広がる。
「山に狐の妖怪がいるだろう」
千歳の体が固まった。
「昔から言うじゃないか」
「妖怪は災いを呼ぶ」
村人たちの視線が、山の方へ向く。
千歳は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
その夜。
千歳の心には黒い塊が沈んでいた。
囲炉裏の火が揺れている。
雪華は囲炉裏の向こうに座っていた。
「遅かったな」
千歳は少しだけ笑った。
「村に人が多くて」
雪華は少し眉を寄せる。
「村で何かあったか」
一瞬だけ、千歳の胸が痛んだ。
村人たちの言葉が頭に浮かぶ。
――妖怪のせいだ。
――山の狐だ。
千歳は目を伏せた。
でも、すぐに顔を上げる。
そして、いつも通りの声で言った。
「ううん」
「何もないよ」
囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。
雪華はしばらく千歳を見ていた。
けれど、何も言わなかった。
千歳は火に薪をくべる。
その手は、少しだけ震えていた。
雨が止んでから、数日が過ぎた。
山の空気はまだ湿っていた。
千歳は家の前で薪を割っていた。
斧を振り下ろす。
乾いた音が山に響く。
ふと、手を止めた。
遠くで音がした。
枝を踏む音。
ひとつではない。
いくつも重なっている。
千歳の胸がざわついた。
山でこんな音がすることは、あまりない。
耳を澄ます。
足音。
人の声。
千歳はゆっくり立ち上がった。
そのとき、家の戸が開いた。
雪華が出てくる。
「どうした」
千歳は答えなかった。
山道の方を見ている。
しばらくして、木々の間から人影が現れた。
一人ではない。
二人。
三人。
もっと。
十人ほどの村人だった。
手には松明や槍を持っている。
その目は、明らかに普通ではなかった。
怒りと恐れが混ざった目。
千歳の心臓が大きく鳴った。
村人たちは、家の前で足を止めた。
男が一歩前に出て雪華を見る。
その視線には、はっきりとした敵意があった。
「やはりいたか」
低い声だった。
「山の狐め」
雪華は何も言わない。
ただ静かに村人たちを見ている。
千歳は慌てて前に出た。
「待って」
村人たちの前に立つ。
「違うの」
声が少し震える。
「この子は関係ない」
男の顔が歪んだ。
「関係ないだと?」
「村がどうなったか見ただろう」
「田畑が流されたんだぞ」
「全部、こいつのせいだ」
千歳は首を振る。
「違う」
「ただの雨だよ」
でも誰も聞いていない。
男の一人が槍を持ち上げた。
「妖怪は災いを呼ぶ」
「殺すべきだ」
その言葉に、空気が凍る。
千歳の胸が強く締めつけられた。
振り返る。
雪華はまだ黙っていた。
金色の瞳で、ただ村人たちを見ている。
怒りも、恐れもない。
静かな目だった。
「見ろ」
「人間を馬鹿にしてる」
誰かが叫んだ。
「やれ!」
その声と同時に、男の一人が槍を突き出した。
その瞬間だった。
千歳は両手を広げ雪華の前に立つ。
槍は一直線に、胸へ向かってくる。
「……っ!」
次の瞬間。
鈍い音がした。
槍の穂先が、千歳の胸を貫いた。
時間が止まった。
誰も動かなかった。
千歳の体が、ゆっくり揺れる。
赤いものが、服に広がっていく。
雪の上に落ちた。
「……千歳?」
雪華の声だった。
信じられないような声。
千歳の体が崩れる。
雪華は慌てて抱き止めた。
腕の中に落ちてくる体が軽かった。
雪が静かに降っている。
千歳の血が、白い地面に広がっていく。
「……どうして」
雪華の声が震える。
千歳は少し苦しそうに息をした。
まだ、生きている。
そして、雪華を見上げて少しだけ笑う。
「だって」
かすれた声だった。
「雪華、怪我するでしょ」
雪華の手が震える。
「……馬鹿だ」
言葉がうまく出ない。
血が止まらない。
千歳の体温が、少しずつ下がっていく。
千歳はゆっくり手を上げた。
雪華の頬に触れる。
雪華は動けなかった。
その手は、冷たくなり始めていた。
千歳は小さく言った。
「怖くないよ」
雪が降る。
静かな山。
千歳の声は、とても優しかった。
「大丈夫」
「誰にもあなたを傷つけさせない」
その手が、ゆっくり落ちた。
雪の上に。
動かなくなる。
雪華はしばらく、何も理解できなかった。
ただ、千歳の体を抱いたまま動かなかった。
雪が降り続く。
白い山。
その静けさの中で。
雪華の金色の瞳が、ゆっくりと変わっていった。
腕の中の体は、どんどん冷たくなっていく。
呼吸もない。
声もない。
さっきまで、ここにいたのに。
「……千歳」
呼んでも、返事はなかった。
雪華はゆっくり顔を上げた。
村人たちが立っている。
さっきまでの勢いは消えていた。
千歳を刺した男が必死に弁明する。
「妖怪なんかを庇うからだ!」
雪華の金色の瞳が、静かに彼らを見た。
その目を見た瞬間、男の一人が後ずさった。
「な……なんだよ!」
「化け物……!」
その言葉が終わる前だった。
風が吹いた。
いや、違う。
空気が歪んだ。
次の瞬間、男の体が宙に浮いた。
「なっ――」
地面に叩きつけられる。
骨が折れる音がした。
悲鳴が山に響く。
「妖術だ!」
「逃げろ!」
男たちが散る。
でも遅かった。
雪華は立ち上がっていた。
千歳の体を、そっと雪の上に横たえる。
まるで眠らせるみたいに。
そして、村人たちを見る。
表情は変わらない。
怒鳴りもしない。
ただ、静かな目だった。
その静けさのまま、手を上げる。
空気が震え、地面が揺れた。
木々がきしむ。
一人、また一人。
男たちの体が地面に叩きつけられていく。
逃げようとした男の足が、見えない力で止まる。
「やめ……」
言葉は最後まで続かなかった。
その体も、雪の上に落ちる。
誰一人、立っている者はいなかった。
山は再び静かになった。
雪だけが降っている。
雪華はその場に立っていた。
しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり振り返る。
雪の上に横たわる千歳を見る。
白い雪。
赤い血。
その景色が、目に焼きついている。
雪華は小さく呟いた。
「……人間」
その声は、とても静かだった。
やがて、雪華は山を下り始めた。
村の方へ向かって。
夜が来る頃、村に火が上がった。
ひとつ、ふたつ
やがて、炎は村全体へ広がっていく。
誰も止められなかった。
山の上から、白い狐がそれを見ていた。
炎の光が、金色の瞳に映る。
村が燃えていく。
その炎は、夜が終わるまで消えなかった。
それから六百年。
山の主となった狐は、人間を信じることはなかった。
ただ一人――
雪の中で最後まで自分を守ってくれた、あの人を除いて。
***
雪華は千歳を抱き上げたまま、山道を駆けていた。
腕の中の体があまりにも軽い。
それが、胸をざわつかせる。
戸を開け、家の中に入る。
囲炉裏の前に千歳を下ろした。
すぐに棚から布と薬草を取り出す。
手当てする指先が少し震えていた。
千歳はそれに気づいた。
「ほんとに大丈夫ですよ」
そう言って笑う。
でも雪華は睨む。
「黙れ」
短く言った。
布で血を拭う。
血は思ったより出ている。
雪華は眉を寄せる。
「……どうしてあんなところへ行った」
責めるような声だった。
千歳は少し困った顔をする。
「山菜、いっぱいあったから」
雪華は何も言わない。
ただ黙って傷を縛る。
手当てが終わる頃には、血も止まり始めていた。
千歳はほっと息をつく。
囲炉裏の火が、静かに揺れている。
しばらく、沈黙が続いた。
雪華は千歳を見ている。
じっと。
まるで何かを確かめるみたいに。
千歳はその視線に気づいた。
「……どうしたんですか?」
雪華はすぐには答えなかった。
やがて、低い声で言う。
「……お前」
言葉が止まる。
そして続けた。
「六百年前のことを、覚えているか」
さっきも同じような事を言っていたが、意味が理解できなかった。
ただ、あの必死な狐の顔が頭に浮かぶ。
その瞬間。
胸の奥で、何かが揺れた。
雪。
囲炉裏。
白い狐の子。
優しい時間。
そして――
血。
雪華の顔。
千歳の息が止まった。
断片だった記憶が、ゆっくり繋がっていく。
そして、思わず呟いた。
「……雪華?」
その声を聞いた瞬間。
雪華の動きが止まった。
囲炉裏の火が、小さく揺れる。
千歳は自分の胸を押さえていた。
頭の奥で、いくつもの景色が重なっている。
でも、それ以上に強く浮かんだのは。
あの時の雪華の顔だった。
泣きそうな顔。
必死に自分を呼んでいた声。
千歳はゆっくり顔を上げた。
目の前にいるのは、同じ金色の瞳。
少し大人になったけれど、間違えようがない。
「……思い出した」
小さく呟く。
雪華は動かない。
信じていいのか分からないみたいに、ただ千歳を見ている。
千歳は少しだけ眉を下げた。
そして、言った。
「ごめんね」
雪華の瞳が揺れる。
千歳は続ける。
「一人にして」
六百年という時間を、まるで昨日のことみたいに言う。
雪華の指が、わずかに震えた。
千歳はそのまま雪華を見ている。
そして心配そうに聞いた。
「怪我、してない?」
その言葉に。
雪華の思考が止まった。
六百年。
長い時間だった。
怒りも、憎しみも、全部抱えてきた。
でも。
目の前の少女は、何も変わっていない。
自分のことよりも雪華の心配をしている。
雪華は目を閉じた。
しばらく何も言えなかった。
胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくり溶けていく。
やがて、静かに言った。
「……お前は」
少しだけ呆れた声だった。
「六百年前から、変わらんな」
千歳は小さく笑う。
「そうかな」
囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。
雪華は千歳を見つめたまま言う。
低い声で。
でも、はっきりと。
「また会えるなんて思っていなかった」
千歳は黙って聞いている。
雪華は続けた。
「六百年、ずっとお前に会いたかった」
静かな声だった。
そして。
少しだけ目を細めて言う。
「だから――」
千歳の手を、そっと握る。
「もう二度と離さない」
千歳は驚いた顔をした。
それから、ふっと笑う。
「うん」
小さく頷く。
「今度はどこにも行かないよ」
囲炉裏の火が、静かに揺れていた。
しばらくして、千歳が言った。
「雪華」
「なんだ」
千歳は少し楽しそうに笑う。
「もう怖くないよ」
その言葉に。
雪華は、少しだけ笑った。
そして言う。
「……ああ」
金色の瞳が細くなる。
六百年間。
狐は、ずっと一人だった。
けれど今。
ずっと会いたかった人が、隣で笑っている。




