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生贄にされた私を拾った狐の妖怪と、600年の時を超えて新しい物語を紡ぎます

作者: 春野スミレ
掲載日:2026/03/17

 その年は全てが最悪だった。


 春の雪解け水が一気に流れ込み、畑は泥に埋まり、芽吹いたばかりの作物はほとんど流された。


 夏は一滴の雨すら降らず、作物は枯れ果てた。

 家畜の何頭かが病で死んだ。


 村人たちは、だんだん口数が少なくなっていった。


 そしてある日、誰かがぽつりと呟いた。


「……狐様の祟りだ」


 村には昔から言い伝えがある。


 六百年前。

 山に住む狐の妖怪が怒り狂い、村を焼いた。

 それ以来、災いが起きると人々は山を恐れた。


 そして――

 狐へ花嫁を捧げる。

 そんな古い風習が、この村には残っている。


***

 

 村の寄り合いは、重苦しい沈黙に包まれていた。

 囲炉裏の火が、ぱちりと小さく弾ける。

 やがて、長老が口を開いた。


「……狐様に花嫁を捧げねばならん」


 誰も何も言わない。

 ただ、ゆっくりと視線だけが動く。


 そして。

 その視線は、一人の少女に集まった。


 千歳は、その意味をすぐに理解した。

 胸の奥で、心臓が大きく鳴る。


 ――私だ。


 両親も親戚もいない彼女は村で独りぼっちだった。

 誰一人、彼女を庇う者はいなかった。

 つまり、全員にとって都合のいい存在。


 長老が静かに彼女を指差して言う。


「……生贄は、お前だ」


 その瞬間。

 千歳の心臓は、早鐘のように打ち始めた。


 頭が真っ白になる。

 生贄。

 つまり――

 死ぬ。


 狐なんて、本当にいるとは思っていない。

 でも。

 山に一人置き去りにされるなんて。

 そんなの、耐えられるはずがない。


 気づけば、千歳は立ち上がっていた。


 必死で走り出す。

 村の外へ。


 生贄なんて嫌だ。

 山になんて行きたくない。

 死にたくない。


「捕まえろ!」


 背後から声が上がった。

 足音が近づく。

 次の瞬間、腕を強く掴まれた。


「離してください!」


 振りほどこうとする。

 でも、大人の力には敵わない。

 もう一人が反対の腕を掴む。


「逃げるな!」

「村のためだ!」


 腕が痛い。

 涙がこぼれる。


「いやです……!」

「行きたくない……!」


 けれど、誰も手を離してくれなかった。

 千歳はそのまま、村の広場へと引き戻された。

 

 それからのことは、夢のようだった。

 村の女たちに囲まれ、家の中へ連れて行かれる。


「着替えさせろ」


 誰かが言った。

 千歳の服が脱がされる。


「やめて……」


 小さく呟く。

 けれど、誰も手を止めない。


 差し出されたのは、白い衣だった。

 真っ白な布。

 袖を通され、帯を結ばれる。

 そして鏡の前に立たされた。


 そこに映っていたのは――

 白装束を着た自分の姿。

 花嫁のような衣。


 けれど、これは祝いではない。

 これは。

 生贄だ。


 逃げないように、手足を縛られる。

 縄がぎゅっと食い込むたびに、胸が痛くなった。

 

 外へ出ると、夜になっていた。

 村人たちが集まり、松明の火が揺れている。

 その光の中に、木で作られた台があった。

 神輿のようなもの。


「乗せろ」


 男たちが千歳を持ち上げる。

 縛られたまま、台の上に座らされた。


 太鼓が鳴る。

 どん。

 どん。

 低い音が、胸の奥に響く。


 行列が山へ向かってゆっくり動き出す。

 松明の光が揺れる。


 ただ、太鼓の音だけが夜の中に響いていた。

 

 やがて、山の奥の祠に着いた。

 男たちが千歳を神輿から下ろす。


「せめてもの餞別だ」


 そう言って千歳の縄を解く。

 しかし、彼女の手足は言うことを聞かず、その場から動けない。

 長老が前に出た。


「狐様に失礼のないように」


 千歳は遠ざかる村人たちをただただ見ていた。

 足音が消え、松明の火が遠ざかる。

 

 祠の前。

 白装束のまま。

 千歳は一人、取り残された。


 山の夜は、暗く、風が冷たい。

 まるで現実とは思えなかった。

 狐なんて、本当にいるわけない。

 けれど。

 

「……これから」

「どうすればいいの……」


 死にたくない。

 怖い。

 そう思った、そのとき。


 ――ガサ。

 森の奥で、草が揺れた。


 千歳の体がびくりと震える。

 胸の奥で、心臓が激しく打ち始めた。


 まさか。

 そんなはずない。

 狐なんて、本当にいるわけがない。

 そう思いたいのに、目は森から離れなかった。


 暗い木々の間から、ゆっくりと白い影が現れる。

 最初に見えたのは、白い髪だった。 

 月明かりを受けて、雪のように淡く光っている。


 そして顔が見える。

 人の姿をしている。

 けれど。


 頭には、狐の耳。

 背後には、ゆったりと揺れる尾があった。


 千歳の喉から、かすれた息が漏れる。

 ――妖怪。

 本当に、いた。


 逃げなきゃいけないのに、体が凍りついたように動かなかった。


 白い髪の男は、静かにこちらを見ていた。

 金色の瞳。

 夜の中でもはっきり分かるほど、冷たい光をしている。

 やがて、その男が口を開いた。


「……生贄か」


 低い声だった。

 背筋がぞくりと震える。


 千歳は何も答えられない。

 喉が震えて声が出ない。


 でも、このまま黙っていたら本当に食べられてしまう気がして。

 必死に息を吸う。

 喉がひどく乾いていた。


「……助けて」


 やっと出た声は、ひどく小さかった。

 狐はわずかに眉を寄せる。

 そして、あっさりと言った。


「人間に興味などない」


 それだけだった。

 千歳は目を瞬かせる。

 意味が分からない。

 狐はもう興味を失ったように、千歳から視線を外す。


 そして、そのまま背を向けた。

 白い尾がゆっくりと揺れ、森の奥へ歩き出す。

 千歳は呆然とした。


 ……え。

 食べないの?

 しばらく、その場に立ち尽くす。


 足音が遠ざかる。

 千歳はしばらく、その背中を見ていた。


 心臓がまだ激しく脈打っている。

 生きている。

 殺されなかった。


 でも。

 いつまた狐の気が変わるかわからない。

 

 震える足で、ゆっくりと一歩下がる。

 白装束の裾が草に触れる。

 音を立てないように、息を殺す。


 もう一歩。

 もう一歩。


 そして狐と反対方向に駆け出した。

 

 一方で、狐は不思議な感覚に戸惑っていた。

 今までに何度も生贄と称した人間が山に来たが、決して興味は沸かなかった。


 なのに。

 ――妙だ。

 さっきから、胸の奥に引っかかるものがある。


 匂い。

 声。

 気配。

 説明できない何か。


 狐はゆっくり振り返り、祠の前を見る。

 そこにいたはずの白い姿は、もうなかった。


***

 

 その頃、千歳は必死に山道を走っていた。

 枝が腕に当たる。

 足元の石につまずきそうになる。


 怖い。

 怖い。

 怖い。


 息が苦しい。

 涙が視界を滲ませる。

 本当にいた。

 

 恐怖でいっぱいになりながら必死に走る。

 だが、体は思い通りに動かなかった。


「あっ……」


 足がもつれ地面に激突する。

 全身痛くて立てない。

 

 千歳はふと来た道を振り返った。


 すると――白い影が、すぐそこに立っていた。


 逃げられたと思ったのに。


 狐が、静かにこちらを見下ろしていた。

 金色の瞳が、じっと千歳を映している。

 千歳の喉から、震える息が漏れた。


「……っ」


 逃げたくても、体が言うことを聞かない。


 狐は少しだけ眉をひそめた。

 小さく、息を吐く。


 人間など、どうでもいいはずだった。

 生贄だろうと、なんだろうと。

 興味もない。


 なのに。

 どういうわけか、千歳のことが気になった。

 狐は千歳の腕を掴み、持ち上げる。


「はなして……!」


 必死に抵抗するも妖の力には勝てない。

 千歳の視界が逆さになる。


「いやっ……!」


 恐怖で体が強張る。

 狐は淡々と言った。


「暴れるな」


 低い声だった。

 千歳はそれでも抵抗する。


 このまま連れて行かれれば、きっと――


 狐は少しだけ眉を寄せた。

 そして、ぼそりと言う。


「ここにいれば熊に襲われて死ぬぞ」


 静かな声だった。

 千歳の体が止まる。


 熊。

 そんなこと、考えてもいなかった。

 夜の山。

 確かに、何が出てもおかしくない。


 それでも。


「……っ、はなして……」


 涙がこぼれる。

 狐は答えない。

 そのまま千歳を抱えて歩き出す。


 千歳は恐怖のなか必死に考えた。


(私は一体どうなるの……)


***


 山の奥へ、どれくらい歩いたのか分からない。

 夜の森は暗く、木々の影が重なって道もよく見えなかった。


 やがて、狐が足を止める。


 目の前には、小さな木の家があった。

 山の中にぽつんと建っている。

 千歳は呆然とする。


 妖怪の住処だと思っていたのに。

 そこにあったのは、囲炉裏の煙突がついた、普通の家だった。


 狐は戸を開ける。

 そのまま中へ入ると、千歳を肩から下ろした。


 足が地面に触れる。

 けれど力が入らず、千歳はその場に座り込んだ。


 逃げなきゃ。

 そう思うのに、体が動かない。

 狐は千歳を一瞥しただけだった。


「……中にいろ」


 それ以上、何も言わない。


 狐は囲炉裏の前へ行き、腰を下ろした。


 薪をくべる音が、小さく響いた。

 ぱちり、と火がはぜる。

 橙色の光が、室内を揺らした。


 千歳は戸口の近くで、じっとしていた。


 怖い。

 狐の妖怪と、同じ家の中にいる。


 それなのに。

 狐は気にした風もなく、静かに囲炉裏の火を見つめている。


 食べないの?

 どうしてここに連れてきたの?

 頭の中で同じ疑問がぐるぐる回る。


 でも、聞く勇気なんてなかった。

 千歳は部屋の隅へと少しずつ移動した。

 できるだけ狐から距離を取るように。


 壁に背中をつけ、膝を抱えて座り込む。

 冷たい床の感触が伝わってくる。


 火の音だけが、静かに続いていた。

 どれくらい時間が経ったのか分からない。


 千歳はずっと起きているつもりだった。

 眠ってしまっては命が無いかもしれない。


 でも。

 体はもう限界だった。

 恐怖と緊張で張り詰めていた力が、少しずつ抜けていく。

 瞼が重い。

 意識が揺れる。


 ――寝ちゃだめ。

 そう思ったのに。

 気づいたときには、千歳はそのまま壁にもたれたまま、眠ってしまっていた。


 囲炉裏の火が、小さく揺れている。

 その光の向こうで、狐――雪華は静かに目を細めた。


 部屋の隅で眠る白装束の少女を、しばらく見ていた。

 けれど、何も言わない。


 ただ、火に薪をくべる。

 ぱちり、と音がした。

 夜は、静かに更けていった。


***


 目を覚ましたとき、最初に見えたのは柔らかな光だった。

 ぼんやりとした視界の中で、木の天井が揺れている。


 千歳は瞬きをした。

 どこ……?

 体を少し動かす。

 その瞬間、昨日の記憶が一気に戻ってきた。


 山。

 祠。

 白い狐の妖怪。


 千歳の体がびくりと強張る。

 慌てて辺りを見回す。


 見覚えのない家。

 昨日のまま、壁にもたれて眠っていたらしい。


 体が少し冷えていた。

 それでも。

 千歳はゆっくり息を吐く。


 ……生きてる。

 食べられていない。

 その事実に、自分でも驚くほど安心していた。


 囲炉裏にはまだ火の跡が残っている。

 灰の奥に、小さく赤い火が見えた。


 恐る恐る顔を上げると、戸が開いていた。

 朝の光が差し込んでいる。


 そして、その向こうに。

 白い影が立っていた。


 家の外に立ち、何かを準備している背中が見える。

 白い髪が、朝の光の中で淡く光っていた。


 視線に気がついたように、雪華が振り向く。

 金色の瞳が、まっすぐ千歳を捉えた。

 目を逸らすことができない。


 やがて雪華が口を開く。


「……好きに使え」


 雪華は家の中を顎で示す。

 それだけ言うと、背を向けて山の方へ歩き出した。


 千歳は呆然とする。

 雪華の白い姿が木々の間に消えていく。


 胸の奥が、まだ落ち着かない。


 ……ここにいていいの?


 千歳はゆっくりと立ち上がった。

 家の中は、しんと静まり返っていた。


 雪華の気配はもうない。

 今なら逃げられる。

 山の朝は、思っていたよりも明るかった。

 木々の隙間から光が差し込み、葉が風に揺れている。


 でも。

 一体どこへ?


 冷たい空気が頬に触れる。

 山の奥は、どこまでも木ばかりだった。


 帰るなら、あの村へ戻るしかない。

 千歳は立ち止まる。


 頭の中に、昨日の光景が浮かぶ。

 村人たちの顔。

 視線。

 あの沈黙。


 ――お前だ。


 千歳の胸がきゅっと痛む。

 もし帰ったとして。

 あの村に、居場所があるだろうか。


 答えは、すぐに出た。

 ない。


 千歳はゆっくりと目を伏せる。

 逃げた生贄なんて、きっともう村には入れてもらえない。


 それに。

 昨日、自分をあの祠に置いて帰った人たちだ。

 戻ったところで、歓迎されるはずもない。


 千歳は小さく息を吐いた。

 そして、家の中へ戻る。


 そのとき、ぐう、と小さな音が鳴った。

 千歳ははっとする。

 そういえば、昨日から何も食べていない。


 千歳は囲炉裏の近くへ行った。

 棚を見る。

 そこには、いくつかの食べ物が置かれていた。


 干した山菜。

 米。

 鍋。


 ……人間の家みたいだ。


 千歳は少し驚く。

 妖怪の家なのに、普通の暮らしの道具が揃っている。

 雪華の言葉が頭に浮かぶ。


 ――好きに使え。


 千歳は鍋を見つめる。

 少しだけ。

 ほんの少しだけなら。


 迷いながら、囲炉裏の灰をかき分ける。

 まだ火が残っている。

 小さく息を吹きかけると、赤い火がゆっくりと明るくなった。


 薪を足すと、ぱちり、と火がはぜた。

 その音を聞いた瞬間、千歳の肩の力が少し抜けた。


 鍋に水と山菜を入れ、火にかける。

 湯気がゆっくり上がった。


 その光景を見ながら、千歳はぼんやり思った。

 ……ここで、生活していいのかな。


 狐の妖怪の家で。

 そんなこと、昨日まで想像もしなかったのに。


 鍋の中で、山菜が静かに煮えていた。

 千歳は膝を抱えながら、その湯気を見つめている。


 ふと、外で音がした。

 枝が踏まれる音。

 千歳の体がびくりと強張る。


 戸口を見と、白い影がそこに立っていた。

 雪華だった。

 白い髪が、夕方の光の中で淡く光っている。


 金色の瞳が、静かに家の中を見回した。

 囲炉裏。

 鍋。

 そして、千歳。


 千歳は思わず背筋を伸ばした。

 怒られるかもしれない。

 勝手にいろいろ使ってしまった。


 胸がどきどきする。

 雪華はゆっくり家の中に入る。

 何も言わない。

 ただ囲炉裏の前に座る。


 千歳は恐る恐る口を開いた。


「……食べますか」


 声が震えていた。

 雪華は小さく頷いて、鍋の方へ手を伸ばす。

 器に汁をよそい、静かに食べ始めた。

 それから、ぽつりと言う。


「……悪くない」


 それだけだった。

 千歳は少しだけ安堵のため息を吐いて、自分も食事を始めた。


 雪華はその姿をじっと見ていた。

 どうしてか、懐かしい感覚が胸の奥に引っかかる。

 雪華の金の瞳が、わずかに細くなった。


 千歳はそれに気づかないまま、鍋を見つめていた。


***


「今日はここで眠れ」


 雪華はそう言うと、千歳に一組の布団を手渡した。

 そして囲炉裏の側を指差す。


「……ありがとうございます」


 千歳はなぜか分からないが、気遣いに感謝した。

 どうやら狐は自分に危害を加える気は無いらしい。

 昨晩とは違い、千歳は安心して布団に入った。


 囲炉裏の火が、小さくはぜる。

 ぱちり、と乾いた音がして、赤い火がゆらゆら揺れた。

 

 山の夜は深く、外では風が木々を揺らしている。

 その音を遠くに聞きながら、千歳の意識はゆっくりと沈んでいった。

 

***


 ――風の音。

 冷たい空気。

 白いものが、静かに落ちてくる。

 雪だ。


 気づけば千歳は、山の中に立っていた。

 見覚えのある山のはずなのに、どこか違う。


 木々は今よりも多く、道もはっきりしていない。

 人の手があまり入っていない、古い山の姿だった。

 雪が、しんしんと降っている。


 冷たい空気の中で、誰かの声が聞こえた。

 子供の声。

 甲高い笑い声が重なる。


「妖怪だ!」

「気持ち悪い!」


 石が転がる音がした。

 千歳はそちらを見る。

 岩のそばに、小さな影がいた。


 人の子供くらいの大きさ。

 けれど、その頭には狐の耳があり、背には小さな尾が揺れている。

 白い髪の子だった。


 その子を囲むように、村の子供たちが立っている。


 子供たちは狐の子に石を投げていた。

 狐の子は、何も言わずじっとしている。

 ただうずくまって。

 

 石が肩に当たり、血が流れた。

 そのとき。

 別の足音が聞こえた。


「やめて!」


 少女の声だった。

 強い声。

 子供たちが振り返る。

 千歳はその少女を見る。


 でも、顔はよく見えない。

 霧の中みたいに、ぼんやりしている。


 少女は狐の子の前に立った。


 降る雪の中で、白い息が揺れる。

 狐の子は少女を見上げていた。

 少女がゆっくりしゃがみ込む。


 少女の手が、そっと差し出される。

 白い耳が、わずかに揺れた。

 雪が静かに降り続いている。

 少女は少しだけ首を傾けた。


「……痛かった?」


 やわらかい声だった。

 狐の子は答えない。

 金色の瞳が、雪の中でかすかに光った。


「大丈夫、怖くないよ。私はあなたを傷つけたりしない」


 静かな山。

 その光景を、千歳は少し離れたところから見ていた。


 不思議だった。

 知らないはずの光景なのに、胸の奥がじんわりと温かい。

 懐かしいような、泣きたくなるような。

 そんな気持ちだった。


 狐の子はまだ少女を見上げている。

 少女は微笑んだまま、その頭をそっと撫でた。

 白い髪が、雪の中で揺れる。


 その瞬間――

 景色が、ふっと揺らいだ。

 

 千歳は、ゆっくり目を開けた。

 囲炉裏の火が、小さく揺れている。

 家の中だった。


 さっきまで見ていた景色が、もう遠くなっている。


 千歳はしばらく動けなかった。

 胸の奥に、まだ温かい感覚が残っている。


「……夢?」


 小さく呟く。

 誰の夢だったのか。

 何の夢だったのか。

 よく分からない。


 でも。

 あの狐の子は――


 翌朝。

 千歳は目を覚ましても、しばらくぼんやりしていた。

 囲炉裏の火はもう消えている。


 窓の外から、朝の光が差し込んでいた。

 山の朝は静かだった。

 遠くで鳥の声がする。

 あの夢のことを思い出す。


 雪の山。

 白い狐の子。

 そして、少女。

 顔は思い出せないのに、声だけが残っている。


 ――怖くないよ。


 どうしてあんな夢を見たのだろう。

 千歳は首を振った。

 考えても分からない。

 

 戸が開く音がした。

 千歳は顔を上げる。


 雪華だった。

 白い髪が朝の光に照らされている。

 相変わらず表情はほとんど動かない。

 千歳を見ると、短く言った。


「山に行ってくる」


 昨日と同じだ。

 千歳は少し迷う。

 世話になっているのだから、何もせず待っているのは落ち着かない。


「……あの」


 声をかけると、雪華が振り返る。

 金色の瞳が、静かに千歳を見る。

 千歳は少し緊張しながら言った。


「私も行っていいですか」


 雪華はしばらく黙っていた。

 山の風が、白い髪を揺らす。

 やがて、短く答える。


「……好きにしろ」


 そう言って歩き出した。

 千歳は一瞬きょとんとする。

 それから慌てて立ち上がった。


 急いで後を追う。

 家の外へ出ると、山の空気は少し冷たかった。

 木々の間から光が差し込んでいる。


 雪華は振り返らない。

 千歳は少し離れて、その後ろを歩いた。


 山の中へ。

 静かな道を、二人で進んでいく。


 山の道は細く、ところどころに湿った落ち葉が積もっていた。

 千歳は足元を気にしながら歩く。


 鳥の声。

 風が木々を揺らす音。

 遠くで水の流れる音も聞こえる。


 雪華は先を歩いていた。

 振り返ることもなく、迷いなく進んでいく。

 山に慣れている足取りだった。


 しばらく歩くと、雪華が足を止めた。

 低い斜面のそばだった。

 雪華はしゃがみ込む。


 草の間から、細い葉を摘み取った。

 それを指で軽く払う。

 千歳はそっと近づいて覗き込む。


「……山菜ですか」


 雪華は答えない。

 ただ籠の中にそれを入れる。

 そのまま、また別の場所へ歩く。


 千歳も周りを見る。

 同じような草がいくつか生えていた。

 少し迷ってから、一本摘んでみる。

 土の匂いが指につく。

 それを持ったまま、雪華を見る。


「……これも?」


 雪華はちらりとだけ視線を向けた。

 そして、短く言う。


「それは違う」


 千歳は慌てて手を引っ込めた。


「す、すみません」


 思わず謝る。

 雪華は何も言わない。

 そのまま別の草を指差した。


「こっちだ」


 千歳はその草を見る。

 さっきのものとよく似ているけれど、葉の形が少し違う。


 千歳は慎重に摘んだ。

 今度は間違えていないらしい。

 少しだけ、ほっとする。


 それを籠に入れながら、千歳はふと思った。

 こうしていると、まるで普通の山仕事みたいだ。

 狐の妖怪と一緒にいることを、一瞬忘れそうになる。


 千歳は小さく息を吐いた。

 山の空気は冷たくて、少し気持ちよかった。

 雪華は相変わらず無言で山菜を摘んでいる。

 白い髪が風に揺れる。

 その背中を見ながら、千歳はもう一本、山菜を摘んだ。

 

 そのときだった。

 足元の土が、ふっと崩れた。


「……え?」


 踏んだはずの地面が、急に消える。

 体がぐらりと傾き、反射的に手を伸ばす。

 でも、掴めるものがない。


「っ……!」


 体が斜面を滑った。

 落ち葉と土が一緒に崩れ、視界がぐるりと回る。


 次の瞬間、体が岩にぶつかった。

 鈍い衝撃。

 腕に鋭い痛みが走る。


「……っ!」


 声にならない息が漏れる。

 体はそこで止まった。

 斜面の途中だった。

 

 何とか起き上がろうとすると腕がひどく痛んだ。

 千歳は息を荒くする。

 手を見ると、赤いものが広がっていた。


 岩で切ったらしい。

 じわじわと血が流れている。


 そのとき、上から足音がした。

 落ち葉を踏みしめる音。

 雪華だった。


 そして――血を流した千歳を見る。

 その瞬間。

 雪華の表情が変わった。


 千歳は、はっとした。

 今までとは違い、感情がはっきりとわかる。

 驚き。

 恐れ。

 そして、動揺。


 雪華は斜面を飛び降りると、千歳の腕を掴み傷口を見る。

 流れている血が止まらない。

 雪華の手がわずかに震えた。


 呼吸が浅くなり、明らかに普通ではない。

 胸が強く上下している。

 千歳は戸惑った。


 どうしてそんな顔をしているの?

 二日前、初めて会っただけなのに。 

 ただ怪我をした人を心配するレベルではない。

 

 雪華はまるで――

 もっと恐ろしいものを見ているみたいだった。

 千歳はそっと言う。


「……大丈夫ですよ」


 雪華の手に触れる。

 震えているのが分かった。


「ただのかすり傷です」


 雪華の瞳が揺れた。

 その瞬間。

 頭の奥で、何かが弾けた。

 

 ――血。

 雪。

 白い息。

 

 記憶が、突然蘇る。

 降りしきる雪の中。

 少女が倒れている。


 胸のあたりが赤く染まっている。


 周りには、村人たち。

 怒鳴り声。

 誰かが叫んでいる。


「妖怪を庇った罰だ!」


 少女は地面に倒れている。

 白い雪の上に。

 赤い血が広がっていく。

 

 そのそばに、小さな狐の子がいた。

 必死に少女の体を揺らしている。


「……起きろ」

「起きろ」


 でも、少女は動かない。

 雪だけが、静かに降っている。

 

 雪華ははっと息を呑んだ。


 山の斜面。

 昼の日差し。

 あの時とは全く違う。

 

 それなのに、胸の奥にある恐怖はあのときと同じだった。

 雪華の手が、千歳の腕を強く掴んだ。

 金色の瞳が、千歳を見つめる。

 信じられないものを見るような目だった。


「……お前」


 声が低く震える。

 そして、ようやく呟いた。


「……名前は」


 千歳はきょとんとした。

 こんな状況で、名前を聞かれるとは。

 だが、小さく答える。


「千歳です」


 その瞬間。

 雪華の動きが止まった。

 時間が、凍りついたみたいだった。

 千歳の名前を、もう一度ゆっくり繰り返す。


「……千歳」


 その声は、ひどく静かだった。

 けれど、どこか震えている。

 雪華の瞳の奥で、何かが揺れていた。


 雪の山。

 小さな家。

 囲炉裏の火。

 少女の声。


 ――私はずっと一緒にいるよ。


 記憶が、はっきりと繋がる。

 雪華は目を閉じた。

 長い時間、胸の奥に沈めていたものが、ゆっくり浮かび上がってくる。


 やがて、静かに目を開けた。

 そして、千歳を見つめる。

 今度は、はっきりと。


「……千歳」


 もう一度、その名前を呼んだ。

 六百年前。

 雪の中で、何度も呼んだ名前だった。

 千歳は首を傾げる。


「……どうかしたんですか?」


 雪華はしばらく黙っていた。

 山の風が、静かに木々を揺らしている。

 やがて、ぽつりと言った。


「お前は」


 そして続ける。


「……六百年前、俺と山で暮らしていた」


 千歳は、目を見開いた。

 信じられないものを見るように、雪華を見つめる。

 雪華の声は、低く静かだった。


「人間に殺された女だ」


***


 冬の山は静かだった。

 雪が、しんしんと降り続いている。

 人の足跡はほとんどない。

 その白い山道を、ひとりの女が歩いていた。


 背に薪の束を背負い、手には小さな籠を持っている。

 千歳だった。

 村から少し離れた山の中。

 ここは、千歳がよく来る場所だった。


 薪を拾い、山菜を採り、時にはきのこを探す。

 そうして暮らしている。


 村の家々の煙は、遠くに小さく見えるだけだ。

 千歳はあまり村に長くいない。

 必要なときだけ降りていく。


 それ以外は、山で過ごすことが多かった。

 その方が、気楽だった。


 村人たちは千歳をあまり好いていない。

 両親を早くに亡くしたせいかもしれないし、それゆえ大人びた性格の子供だったからかもしれない。


 気がつけば、千歳は村の中で少し浮いた存在になっていた。


 だから山にいる方がいい。

 木の匂いがして、風の音が聞こえて、誰も何も言わない。


 千歳は雪を踏みしめながら歩いた。

 そのときだった。

 遠くから声が聞こえてきた。


「妖怪だ!」

「気持ち悪い!」


 子供たちの声だった。

 千歳は足を止める。

 声のする方へ視線を向けた。

 

 少し迷ったが、放っておくこともできず声の方へ歩いていく。

 木々の間を抜けると、開けた場所に出た。


 そこにいたのは、村の子供たちだった。

 五、六人。

 そしてその中心に、小さな影がある。


 千歳は目を細めた。

 白い髪の子だった。

 人の子供と同じくらいの大きさ。


 でも。

 頭には狐の耳があり、背には白い尾が揺れていた。

 子供たちが石を投げている。


「妖怪だ!」

「山に帰れ!」


 石が肩に当たる。

 それでも、その子は動かない。

 ただ、じっとうずくまっていた。

 まるで、そうされることに慣れているみたいに。

 千歳は思わず声を上げた。


「やめて!」


 子供たちが一斉に振り返る。

 千歳を見て、少し顔をしかめた。


「なんだよ、千歳か」

「ほっとけよ、妖怪だぞ」


 でも千歳は動かなかった。

 ゆっくりと、その子の前に歩いて行き、庇うように立つ。

 子供たちは少し顔を見合わせた。


「……つまんね」


 誰かがそう言って、子供たちはばらばらと去っていった。


 雪の上に足跡だけが残り、静かな山に戻る。


 千歳は振り返った。

 白い髪の子が、じっとこちらを見ていた。

 金色の瞳だった。

 警戒している目。


 千歳はゆっくりしゃがむ。

 目線を合わせる。

 そして、小さく言った。


「……怖くないよ」


 白い髪の子は、じっと千歳を見ていた。

 金色の瞳が、少しだけ細くなる。

 雪が降り続いている。


 しばらく、どちらも動かなかった。

 やがて、狐の子が口を開く。


「……何のつもりだ」


 低い声だった。

 子供の姿なのに、どこか大人びた響きがある。

 千歳は少しだけ首を傾げる。


「どういうこと?」


 狐の子は眉をひそめる。


「妖怪だぞ。怖くないのか」


 耳がぴくりと動き、尾がゆっくり揺れる。

 警戒しているのが分かった。

 千歳はそれを見て、小さく笑った。


「怖くないよ」


 狐の子は一瞬、言葉を失った。

 普通の人間なら、自分を怖がって逃げるか攻撃してくるかだ。


 でも、この女は違う。

 千歳は、少し身を乗り出し狐の子の肩を見る。

 さっき石が当たった場所。


「痛い?」


 狐の子はすぐに体を引いた。


「触るな」


 短く言う。

 千歳は手を止めた。


「あ、ごめん」


 狐の子は不思議そうに千歳を見る。

 自分を心配する人間を、見たことがなかった。


 雪が静かに降る。

 千歳は立ち上がったり、背中の薪を見て言った。


「寒いよね」


 狐の子は答えない。

 千歳は続ける。


「家で手当てしよう」


 狐の子の耳がぴくりと動く。


「火、あったかいよ」


 千歳はそう言って、くるりと背を向けた。

 そして歩き出す。

 狐の子はその背中を見ていた。

 すぐには動かない。


 でも。

 降り続く雪が、肩に積もっていく。

 やがて、狐の子はその少女に興味が湧いた。


「……人間のくせに」


 ぽつりと呟く。

 それから、ゆっくり歩き出した。

 千歳の後ろを、少し離れてついていく。

 雪の上に、二人分の足跡が並んだ。


 山の中にある小さな家だった。

 木で作られた、簡素な家。

 雪が屋根に積もっている。

 千歳は戸を開けた。


「どうぞ」


 そう言って、中に入る。

 狐の子は戸口の前で止まった。


 家の中を警戒するように見ている。

 囲炉裏の灰。

 棚。

 鍋。

 どこにでもある、人の家だった。


 千歳は薪を囲炉裏にくべ、火打石を打つ。

 火がつくと、ぱちり、と小さな音がした。


 やがて炎が揺れ始め、橙色の光が部屋をやわらかく照らす。


「ほら」


 千歳は囲炉裏を指した。


「こっちおいで」


 狐の子はまだ立っている。

 耳が少しだけ揺れる。

 雪が肩に残っていた。

 千歳はそれを見て言う。


「暖かいよ」


 狐の子はしばらく黙っていた。

 でも、やがてゆっくり中に入る。

 囲炉裏から少し離れた場所に座った。


 千歳は救急箱を取り出し、狐の子の側に腰を下ろす。

 

「ちょっとしみるかも」


 そういって手当を始めた。

 狐の子はただじっとしている。

 

 千歳はその様子を少し見てから言った。


「君、名前は?」


 狐の子が顔を上げる。


「……ない」


 短く答える。

 千歳は少し考えた。

 囲炉裏の火が揺れる。

 外では、雪が降り続いている。

 千歳はふと笑った。


「じゃあ私がつけてあげるよ」


 狐の子を見る。 

 白い髪とふわふわした耳、しっぽ。


 狐の子は少し眉をひそめる。


「……そんなものいらない」

 

「いいじゃない。あったほうがいいよ」


 千歳は窓の外を見た。

 雪がしんしんと降っている。


「雪の華」


 囲炉裏の火が、ぱちりとはぜた。


「雪華ってどう?」


 狐の子はしばらく黙っていた。

 炎を見つめている。

 それから、ぽつりと呟く。


「……変な名前だ」


 千歳は笑った。


「そうかな」


 狐の子は火を見つめたまま言う。


「……雪華」


 自分でその名前を繰り返す。

 少しだけ、尾が揺れた。

 千歳はそれを見て、満足そうに頷く。


「よろしくね、雪華」


 狐の子――雪華は、何も答えなかった。

 でも、その夜。

 彼は囲炉裏のそばから離れなかった。


 雪の季節が終わり、山に春が来た。

 雪解け水が細い川を作り、土の匂いが戻ってくる。

 千歳は山の斜面で山菜を摘んでいた。


「雪華、これ知ってる?」


 振り返ると、白い狐の少年が少し離れた岩の上に座っている。

 最初の頃と同じように、まだ少し距離を置いていた。


「食える」


 短く答える。

 千歳は笑った。


「お、正解」


 籠に山菜を入れる。

 その横で、雪華も一つ摘んだ。

 時々千歳のあとをついて、手伝うようになった。

 

 夏。

 山は濃い緑に覆われる。

 蝉の声が響く。

 千歳は川で足を浸していた。


「冷たい」


 そう言って笑う。

 雪華は少し離れた木の陰に座っていた。


「人間は変だな」


「何が?」


「わざわざ冷たい水に入る」


 千歳は肩をすくめる。


「気持ちいいよ」


 少し考えてから言う。


「雪華もやる?」


 雪華は眉を寄せた。


「やらん」


 でも、その後。

 千歳がいないときに、こっそり川に足を入れたことを、千歳は知らない。

 

 秋。

 山の葉が赤く染まる。


 囲炉裏の火が、また必要になる季節だった。

 千歳は鍋をかき混ぜている。

 きのこと山菜の汁だった。


「雪華」


「なんだ」


「最近、耳隠すのうまくなったね」


 雪華の動きが止まる。

 人の村に行くときのために、妖術で耳を隠す練習をしていたのだ。

 雪華はむっとする。


「……別に」


 千歳はくすくす笑う。


「えらいえらい」


 雪華は囲炉裏の火を睨んだ。

 でも、尾が少しだけ揺れていた。

 

 そして冬。

 また雪が降る。


 囲炉裏の火の前。

 千歳は薪をくべながら言った。


「雪華、大きくなったね」


 雪華は少し顔をしかめる。

 背は伸びていた。

 顔立ちも、子供のものではなくなりつつある。


「元からお前より長生きだ」


 千歳は頷いた。


「そっか」


 それから、少しだけ静かに言う。


「でも、よかった」


「何が」


 千歳は火を見つめたまま答えた。


「雪華が、ここにいてくれて」


 囲炉裏の火がぱちりと弾ける。

 雪華は何も言わなかった。

 ただ、しばらく千歳を見ていた。


 外では雪が降っている。

 山の中の小さな家。

 その時間は、静かに流れていった。

 

 そうして、十年が過ぎた。


 その年の夏は、雨が多かった。

 最初はただの長雨だった。

 山ではよくあることだ。


 千歳も最初は気にしていなかった。

 囲炉裏のそばで鍋をかき混ぜながら、外の雨音を聞いていた。

 屋根を叩く水の音。

 止む気配はない。


「よく降るね」


 千歳が言う。

 雪華は囲炉裏の向こうで腕を組んでいた。


「山の雨はこんなものだ」


 短く答える。

 千歳はうなずいた。

 でも、その雨は三日経っても止まらなかった。

 四日。

 五日。

 山の空気が、少しずつ重くなっていく。

 

 川の水が増えた。

 濁った水が音を立てて流れている。

 千歳は川辺で足を止めた。


「……すごい水」


 いつもの穏やかな流れではない。

 雪華は川を見て、眉を寄せた。


「山が崩れるかもしれないな」


 千歳は少し不安そうに空を見る。

 灰色の雲が、山を覆っていた。

 

 その夜。

 遠くで大きな音がした。

 地面が低く唸る。

 山の奥で何かが崩れる音だった。

 千歳ははっと顔を上げる。


「今の……」


 雪華は立ち上がった。

 外に出る。

 山の方を見る。


 闇の中で、木が倒れる音が続いている。

 しばらくして、音は止んだ。

 夜の山はまた静かになる。


 でも。

 千歳の胸の中には、嫌な予感が残った。

 

 数日後。

 千歳は久しぶりに村へ降りた。

 米を少し分けてもらうためだった。

 雨はようやく弱くなっていた。


 村に近づくと、いつもと様子が違うことに気づく。

 人が集まっている。

 ざわざわと騒いでいた。


「川が溢れたらしい」

「田んぼが全部流された」

「山が崩れたって……」


 不安な声が飛び交う。

 千歳は足を止めた。

 村の長老の声が聞こえる。


「これは山の祟りだ」


 誰かが言った。


「妖怪のせいじゃないか」


 別の声。

 ざわめきが広がる。


「山に狐の妖怪がいるだろう」


 千歳の体が固まった。


「昔から言うじゃないか」

「妖怪は災いを呼ぶ」


 村人たちの視線が、山の方へ向く。

 千歳は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 その夜。

 千歳の心には黒い塊が沈んでいた。


 囲炉裏の火が揺れている。

 雪華は囲炉裏の向こうに座っていた。


「遅かったな」


 千歳は少しだけ笑った。


「村に人が多くて」


 雪華は少し眉を寄せる。


「村で何かあったか」


 一瞬だけ、千歳の胸が痛んだ。

 村人たちの言葉が頭に浮かぶ。


 ――妖怪のせいだ。

 ――山の狐だ。


 千歳は目を伏せた。

 でも、すぐに顔を上げる。

 そして、いつも通りの声で言った。


「ううん」

「何もないよ」


 囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。

 雪華はしばらく千歳を見ていた。

 けれど、何も言わなかった。


 千歳は火に薪をくべる。

 その手は、少しだけ震えていた。


 雨が止んでから、数日が過ぎた。

 山の空気はまだ湿っていた。


 千歳は家の前で薪を割っていた。

 斧を振り下ろす。

 乾いた音が山に響く。

 ふと、手を止めた。


 遠くで音がした。

 枝を踏む音。

 ひとつではない。

 いくつも重なっている。

 千歳の胸がざわついた。


 山でこんな音がすることは、あまりない。

 耳を澄ます。

 足音。

 人の声。


 千歳はゆっくり立ち上がった。

 そのとき、家の戸が開いた。

 雪華が出てくる。


「どうした」


 千歳は答えなかった。

 山道の方を見ている。

 しばらくして、木々の間から人影が現れた。


 一人ではない。

 二人。

 三人。

 もっと。

 十人ほどの村人だった。


 手には松明や槍を持っている。

 その目は、明らかに普通ではなかった。

 怒りと恐れが混ざった目。

 千歳の心臓が大きく鳴った。


 村人たちは、家の前で足を止めた。

 男が一歩前に出て雪華を見る。

 その視線には、はっきりとした敵意があった。


「やはりいたか」


 低い声だった。


「山の狐め」


 雪華は何も言わない。

 ただ静かに村人たちを見ている。

 千歳は慌てて前に出た。


「待って」


 村人たちの前に立つ。


「違うの」


 声が少し震える。


「この子は関係ない」


 男の顔が歪んだ。


「関係ないだと?」

「村がどうなったか見ただろう」

「田畑が流されたんだぞ」

「全部、こいつのせいだ」


 千歳は首を振る。


「違う」

「ただの雨だよ」


 でも誰も聞いていない。

 男の一人が槍を持ち上げた。


「妖怪は災いを呼ぶ」

「殺すべきだ」


 その言葉に、空気が凍る。

 千歳の胸が強く締めつけられた。

 振り返る。


 雪華はまだ黙っていた。

 金色の瞳で、ただ村人たちを見ている。

 怒りも、恐れもない。

 静かな目だった。

 

「見ろ」

「人間を馬鹿にしてる」


 誰かが叫んだ。


「やれ!」


 その声と同時に、男の一人が槍を突き出した。


 その瞬間だった。

 千歳は両手を広げ雪華の前に立つ。

 

 槍は一直線に、胸へ向かってくる。


「……っ!」


 次の瞬間。

 鈍い音がした。

 槍の穂先が、千歳の胸を貫いた。


 時間が止まった。

 誰も動かなかった。


 千歳の体が、ゆっくり揺れる。

 赤いものが、服に広がっていく。

 雪の上に落ちた。


「……千歳?」


 雪華の声だった。

 信じられないような声。

 千歳の体が崩れる。


 雪華は慌てて抱き止めた。

 腕の中に落ちてくる体が軽かった。

 

 雪が静かに降っている。

 千歳の血が、白い地面に広がっていく。


「……どうして」


 雪華の声が震える。

 千歳は少し苦しそうに息をした。

 まだ、生きている。

 そして、雪華を見上げて少しだけ笑う。


「だって」


 かすれた声だった。


「雪華、怪我するでしょ」


 雪華の手が震える。


「……馬鹿だ」


 言葉がうまく出ない。

 血が止まらない。

 千歳の体温が、少しずつ下がっていく。


 千歳はゆっくり手を上げた。

 雪華の頬に触れる。


 雪華は動けなかった。

 その手は、冷たくなり始めていた。

 千歳は小さく言った。


「怖くないよ」


 雪が降る。

 静かな山。

 千歳の声は、とても優しかった。


「大丈夫」

「誰にもあなたを傷つけさせない」


 その手が、ゆっくり落ちた。

 雪の上に。

 動かなくなる。


 雪華はしばらく、何も理解できなかった。

 ただ、千歳の体を抱いたまま動かなかった。


 雪が降り続く。

 白い山。

 その静けさの中で。

 雪華の金色の瞳が、ゆっくりと変わっていった。


 腕の中の体は、どんどん冷たくなっていく。

 呼吸もない。

 声もない。

 さっきまで、ここにいたのに。


「……千歳」


 呼んでも、返事はなかった。

 雪華はゆっくり顔を上げた。


 村人たちが立っている。

 さっきまでの勢いは消えていた。

 千歳を刺した男が必死に弁明する。


「妖怪なんかを庇うからだ!」


 雪華の金色の瞳が、静かに彼らを見た。

 その目を見た瞬間、男の一人が後ずさった。


「な……なんだよ!」

「化け物……!」


 その言葉が終わる前だった。

 風が吹いた。

 いや、違う。

 空気が歪んだ。

 次の瞬間、男の体が宙に浮いた。


「なっ――」


 地面に叩きつけられる。

 骨が折れる音がした。

 悲鳴が山に響く。


「妖術だ!」

「逃げろ!」


 男たちが散る。

 でも遅かった。

 雪華は立ち上がっていた。


 千歳の体を、そっと雪の上に横たえる。

 まるで眠らせるみたいに。

 そして、村人たちを見る。


 表情は変わらない。

 怒鳴りもしない。

 ただ、静かな目だった。


 その静けさのまま、手を上げる。

 空気が震え、地面が揺れた。

 木々がきしむ。


 一人、また一人。

 男たちの体が地面に叩きつけられていく。

 逃げようとした男の足が、見えない力で止まる。


「やめ……」


 言葉は最後まで続かなかった。

 その体も、雪の上に落ちる。

 

 誰一人、立っている者はいなかった。

 山は再び静かになった。

 雪だけが降っている。


 雪華はその場に立っていた。

 しばらく動かなかった。

 それから、ゆっくり振り返る。

 雪の上に横たわる千歳を見る。


 白い雪。

 赤い血。

 その景色が、目に焼きついている。

 雪華は小さく呟いた。


「……人間」


 その声は、とても静かだった。

 やがて、雪華は山を下り始めた。

 村の方へ向かって。


 夜が来る頃、村に火が上がった。

 ひとつ、ふたつ

 やがて、炎は村全体へ広がっていく。

 誰も止められなかった。


 山の上から、白い狐がそれを見ていた。

 炎の光が、金色の瞳に映る。

 村が燃えていく。

 その炎は、夜が終わるまで消えなかった。

 

 それから六百年。

 山の主となった狐は、人間を信じることはなかった。

 ただ一人――

 雪の中で最後まで自分を守ってくれた、あの人を除いて。


***


 雪華は千歳を抱き上げたまま、山道を駆けていた。

 腕の中の体があまりにも軽い。

 それが、胸をざわつかせる。

 

 戸を開け、家の中に入る。

 囲炉裏の前に千歳を下ろした。

 すぐに棚から布と薬草を取り出す。

 

 手当てする指先が少し震えていた。

 千歳はそれに気づいた。


「ほんとに大丈夫ですよ」


 そう言って笑う。

 でも雪華は睨む。


「黙れ」


 短く言った。

 布で血を拭う。

 血は思ったより出ている。

 雪華は眉を寄せる。


「……どうしてあんなところへ行った」


 責めるような声だった。

 千歳は少し困った顔をする。


「山菜、いっぱいあったから」


 雪華は何も言わない。

 ただ黙って傷を縛る。

 手当てが終わる頃には、血も止まり始めていた。

 千歳はほっと息をつく。

 囲炉裏の火が、静かに揺れている。

 

 しばらく、沈黙が続いた。

 雪華は千歳を見ている。


 じっと。

 まるで何かを確かめるみたいに。

 千歳はその視線に気づいた。


「……どうしたんですか?」


 雪華はすぐには答えなかった。

 やがて、低い声で言う。


「……お前」


 言葉が止まる。

 そして続けた。


「六百年前のことを、覚えているか」


 さっきも同じような事を言っていたが、意味が理解できなかった。

 ただ、あの必死な狐の顔が頭に浮かぶ。


 その瞬間。

 胸の奥で、何かが揺れた。


 雪。

 囲炉裏。

 白い狐の子。

 優しい時間。


 そして――


 血。

 雪華の顔。

 

 千歳の息が止まった。

 断片だった記憶が、ゆっくり繋がっていく。

 そして、思わず呟いた。


「……雪華?」


 その声を聞いた瞬間。

 雪華の動きが止まった。


 囲炉裏の火が、小さく揺れる。

 千歳は自分の胸を押さえていた。

 頭の奥で、いくつもの景色が重なっている。


 でも、それ以上に強く浮かんだのは。


 あの時の雪華の顔だった。

 泣きそうな顔。

 必死に自分を呼んでいた声。


 千歳はゆっくり顔を上げた。

 目の前にいるのは、同じ金色の瞳。

 少し大人になったけれど、間違えようがない。


「……思い出した」


 小さく呟く。

 雪華は動かない。

 信じていいのか分からないみたいに、ただ千歳を見ている。

 千歳は少しだけ眉を下げた。

 そして、言った。


「ごめんね」


 雪華の瞳が揺れる。

 千歳は続ける。


「一人にして」


 六百年という時間を、まるで昨日のことみたいに言う。

 雪華の指が、わずかに震えた。

 千歳はそのまま雪華を見ている。

 そして心配そうに聞いた。


「怪我、してない?」


 その言葉に。

 雪華の思考が止まった。

 六百年。

 長い時間だった。


 怒りも、憎しみも、全部抱えてきた。

 でも。

 目の前の少女は、何も変わっていない。

 自分のことよりも雪華の心配をしている。


 雪華は目を閉じた。

 しばらく何も言えなかった。

 胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくり溶けていく。

 やがて、静かに言った。


「……お前は」


 少しだけ呆れた声だった。


「六百年前から、変わらんな」


 千歳は小さく笑う。


「そうかな」


 囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。

 雪華は千歳を見つめたまま言う。

 低い声で。

 でも、はっきりと。


「また会えるなんて思っていなかった」


 千歳は黙って聞いている。

 雪華は続けた。


「六百年、ずっとお前に会いたかった」


 静かな声だった。

 

 そして。

 少しだけ目を細めて言う。


「だから――」


 千歳の手を、そっと握る。


「もう二度と離さない」


 千歳は驚いた顔をした。

 それから、ふっと笑う。


「うん」


 小さく頷く。


「今度はどこにも行かないよ」


 囲炉裏の火が、静かに揺れていた。

 しばらくして、千歳が言った。


「雪華」


「なんだ」


 千歳は少し楽しそうに笑う。


「もう怖くないよ」


 その言葉に。

 雪華は、少しだけ笑った。

 そして言う。


「……ああ」


 金色の瞳が細くなる。


 六百年間。

 狐は、ずっと一人だった。


 けれど今。

 ずっと会いたかった人が、隣で笑っている。


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