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禿の死人は太陽の神

作者: 紙皿に菓子パン
掲載日:2025/10/15

  離


 のどをふさぐのはやめてくれ。口を押えるのはやめてくれ。うつぶき泣くのはやめてくれ。

 癌、妻、息子と娘。俺は言葉が出せなかった。

 老いた気がしない。いつか、家族でテレビを見た。目は近くなり、耳は遠くなり、味は感じにくく、体はただ、臭う。けれども、一生衰えない感覚がひとつ、触覚。

 おい、息子。船の汽笛じゃない。俺の声だよ。手を握ってくれないか。あれあれ、娘が先に握ってくれた。4歳下の子に後れを取るなよ。いや、ふふ、譲ったのか?

 俺は自分の顔が緩むのを感じた。しめた。首が回る。

 こんな時に、参観日の記憶が。運動会の練習だった。歯を見せてはいけません。

 ばーか。

 俺のくちびるは上手く動いただろうか?

 おっと。妻は気付いたようだ。なぜ(くま)をぬぐう。

 医師が俺の顔を眺めた。水玉のネクタイをしていた。

 息子が俺の頬をつまんだ。そうだ。ピエロの顔がいい。

死にたくない……。


  遊


 いつの記憶だ。娘が生まれて半年ごろ……。

 4人でピクニックに行って、妻と息子と3人で作ったお握りを食った後だった。

 息子が大きな蝶を捕まえた瞬間を覚えていないから、多分、妻に抱かれて眠っていた娘の面倒を見ていたのだ。

「えらっそうに」

 俺は目覚めて直後、何を言ったのだろう? 丁度同じ景色を見ている気がするのだが。

「雲は粘土、(こずえ)はギロ。空を晴れ色に決めた奴にハイセンス賞をあげよう」

 妻は笑っていた。

 良い天気だ。

「太陽ももったいない生まれ方をしたな。空は下から眺めるものだというのに」

 それほど遠くない所に、蜂の巣がある。うとうとしていたのに、冒険家の一匹が耳元をかすめ飛んだせいで俺は飛び魚のようになり、汚いフォームで潜水を試みた。俺の足元には池があった事をこの時知った。水は温かった。俺の体が冷えすぎるような気がした。

 日が暮れるまで俺は背泳と潜水を繰り返した。

 俺は服を着ていなかった。

 水から上がりたくなかったが、水はじきに眠ってしまう。動かない水面は氷に等しい。

 裸で一晩は危険だろう。今日、次の瞬間に心臓が止まるかもしれない。

 ん? 俺は死んだのか?

 俺はなんとなくそれ以上考える気がしなかった。結局俺は膝から下を池に浸からせながら、そのまま眠りに就く事にした。死骸だと思って獣が食うかもしれない。瞼が重い。俺は左手を開いたり閉じたりしながら、やがて心臓の音を置き去りにした。


  唖


 寝室の匂いがした。誰かが俺を揺り起こした。娘か?

 俺はくしゃみをひとつして、身震いで目覚めた事を理解した。

 小便が、したいな。

 俺は池のふちで半回転し、腹を雑草にうずめた。

 濃藤色の空気を色眼鏡(グラシーズ)代わりにしながら左の耳を枕にする。俺は右膝を曲げて足の裏の感触を確かめてみた。

 虎だ。虎が俺の右足を食った。不味すぎて舌を噛み切ったらしい。

 俺のすねは絹のような触り心地だった。足の裏はすっかりふやけていた。

 俺はまたうとうとして、空を見るのに半回転、池のふちと平行になるのに半回転した。

 小便がしたいんじゃ、なかったのか。

 俺は池の方を向いた。針のような草が一本、俺の鼻にもぐった。

 実家の匂いがする。そうだ、俺はあの時娘に起こされた。前日だれよりも楽しみにしていたのに、隣の隣の県に昼過ぎに到着して間もなく発熱したのだ。

 その時は夏で、娘は小学1年だった。お袋が作った夕飯を、半分以上残した。

 娘はうつろな目をして俺の両親と、妻と息子と俺に謝罪した。だれも娘を責めなかった。

 その夜、娘は風呂に入らなかった。俺も入らなかった。娘は頬と目を赤色に染め、俺と同じ部屋で寝る事を宣言した。

「かぜがね、おかーちゃんらにうつったらごめんやけんね」

 おとーちゃんやったらね、おとーちゃんやったらね。

 娘は泣きじゃくりながら自分の言葉で訴えた。親父はいじらしさに貰い泣きしそうになっていた。

 結局8時前に床に就いたような気がする。実家には一人一枚の敷布団があったが、額に冷却シートを貼った娘は、俺のひじを枕にして、俺のシャツをぎゅっと掴んで、自分の布団を完全に留守にして眠ってしまった。俺は娘の頭を撫でた。3時間運転して疲れていたのか、次に俺の気が付く頃には日が昇りかけていた。娘は小便に行きたがった。

 娘の鼻先から烏の声まで、何もかもが紫がかっていた。


  似


 嘘のように尿意は失せた。同時に、腹の減らないのに気付いた。

 その代わりにいくらでも眠れそうに思われた。俺は歌を歌う気になった。

 かっとばせ、かっとばせ。

 俺は6年間、野球の経験をした。息子は観戦は好きだと言ったが、選んだ部活は剣道だった。

「面、胴……似ていなくもないか」

 ふと、病室の記憶が戻った。俺の頭はボールのようだった。

 ボウリングのだ。

 陽光がやかましくなってきた。俺は急に他人が恋しくなった。

 最後の記憶では、息子は中学二年、娘は小学四年だった。

「誰か! 誰かいないか!」

 俺は慌てて叫んだ。

「誰か! ここはどこだ!」

 木々が一斉に俺を睨む。安全な所から、葉っぱ達は笑っている。

 影が揺れる、まさか、池のふちが俺に近づいてくる?

 俺は気が狂いそうになってその場を駆け逃げた。


  躁


 メロスは激怒し、ひどく赤面した。俺は太陽が地球を洗面鏡にする頃、すなわち正午まで森の中を走った。目は掠れなかった。後10分ほどで、集落のような景色の一員となる。

 息が切れる。まばらな人影と、農地らしきものと、広大な草原が見える。俺は少し前に森を抜けていた。ビル10階くらいの高さの山を下り、少しばかり気楽になって俺はまた駆け出した。

「はじめまして!」

 助けてくれ、よりもよほど無礼でない気がした。


  土


 骸骨にペニスが生えている。

 と、言いたげなジェスチャーをされた。

 俺は直感的に老人の主張を察した。集落で最初の挨拶を叫んだ俺を見て、その老人の孫娘は悲鳴を返したのである。近くにいた男、これが少女の義兄らしいが、彼が弓で俺の頭を殴って、俺はそのまま気を失ったようである。

 俺は後頭部に軟膏を塗られ、布を接着されていた。湿布とは何かを知った気がした。

「家に、いや、家はどうでもいい。家族に会いたいんだ」

 俺の言葉は通じなかった。

 仕方なく体を起こそうと努力する俺を制したのは、件の少女であった。

 あなたは、人間なの?

 俺も彼女の言葉は分からなかった。適当に補完してみたが、なかなかそれらしい表情をしている。

 俺は少女の頬に手を伸ばした。少女は抵抗しようとしなかった。

 少しふっくらしたところが、妻や娘に似ている気がする。

 少なくともその集落は、黒人の集団らしかった。


  示


 5日経って、すでに俺はその集落の言葉の初級をマスターしかけていた。

 老人はまさかの俺と同い年だった。

 その集落では春の訪れを長が宣言し、その日に全員がひとつ年を取るのだそうである。

老人は先代の長らしかった。長とは大抵、30そこそこの人間がするという。

 地名は分からなかった。代わりに、集落の名を教えてもらった。

 生まれながらの黄色の肌と、寝たきりのせいで肉の落ちた四肢と、投薬治療の副作用で髪の毛を失った頭とでは、この集落に来て、よくもまあ殺されずに済んだと思う。

 人というものはよくよく観察すると、皆、どこかしら親しい者の特徴を有していて、思い出を引き出してくれるきらいがあるらしい。

 俺はすっかり旅行客のようになって、畑を手伝い、軽装の戦士たちが肉をさばくのを見学し、少女に誘われて機を織り、飯を食い、催すようになった糞尿を回収され、元長の家で眠った。

 そのようにして、60日は過ごした。俺がそれなりに不安を覚えずにいるので、まして家族は元気でやっているだろうと、今すぐ故郷へという気分が薄れていった。


  眩


 狩猟と農耕を主な営みにしているから、食料に感謝する祭りもあるらしい。老人は、今年が丁度50年に一度の絵画更新を行う年だと言った。その他の年も、歌ったり踊ったり、酒に火をつけたりして楽しむらしいが、どうやらその集落で尊いものとしてあがめられている、太陽の神の姿を描き直すのだそうだ。

「マブシ、マブシ」

 自己紹介をした時、本名を一息に言ったのが彼らの敬遠するところだったらしい。誰一人覚えてくれなかった。この集落では他人の名前を略す事は失礼であり、フルネームか、全く関係の無い愛称を用いるのが普通だという事を後に理解した。

 しばらくは、彼らの言葉で「黄色いの」と呼ばれていたが、不意に太陽の印象を聞かれ、冗談で、眩しいとだけ答えたところ、初めに出会った少女が響きをいたく気に入ったようだった。彼女の仲間はまたたく間に三音を受け入れた。そう言えば投薬をしなくなってから大分経つのに、俺の頭には一向に毛が生えてこなかった。

 五十年もの間、イメージされていた太陽の神の姿とはどれ程のものだろう。

 長が俺を家に誘ったので、俺は防腐処理の施されたという布を見る事が出来た。どうせ見られ納めに集落中を回るらしい。

 俺は笑いが止まらなかった。先に笑いながら布を広げて見せたのは、俺より一回りも若い長の方だった。

 地図記号なら変電所であり、両足は描かれず、両眼は正面を睨んでいるのに、鼻と口は横を向いていた。

「今日、弟が描く。マブシを見ながらがいいと言うんだが、どうか?」

 俺は申し出を了承した。長の弟とは10代後半で、件の少女の義兄である。妻、すなわち少女の実姉にあたる者は既に亡くなっており、家族で死体がついばまれるのを見送ったという話を聞いた。人員総出で鐘を鳴らし、歌いながら遺体を運ぶ世帯を、俺も何度か目にした。

「すまなかったな、マブシ」

「いや、同じ立場なら。する事は変わらんよ」

 俺は若い男に似顔絵を任せながらあくびをひとつした。彼は墨絵の上手い男だった。墨絵と言っても、煤で作った固形の墨である。やっていることはデッサンである。

「あの絵はどうするのか?」

 彼は指を休めずに言った。

「親父が踏み燃やすのよ」

 それなりに大きな焚火を作り、その中に布を投げ入れて長が熱がるのを一同で眺めるらしい。

「死にやしないが」

「しないが?」

 足や男根が子どものようにつるつるだ、と、彼は大口を開けて笑った。彼の絵は素晴らしく俺の特徴を掴んでいた。

「しかし50年後には、俺も踏まれて燃えるわけか」

「ああそうよ。マブシはいやか?」

 俺はひどく愉快だった。

「まさか。集落の人間は一人残らず入れ替わっているだろうに」

 彼は墨のついた指を甘噛みしながら腹を抱えた。


  終


 祭りは始まり、古い絵はよく燃えた。長は10歩ほど足踏みしてギヴ・アップし、集落の人々に笑われた。大人は皆、酔っぱらっている。子どもはというと、こちらも酒を含んでほろ酔いであった。どこを見ても踊っていた。俺も真似をした。

 そのうちに一人が炎の中に飛び込み、踊って熱がって出てきた。一人、また一人と続いた。そのうちに全員が済ませた。そして俺を見ていた。

 俺も炎の中に飛び込んだ。

「マブシー! マブシー!」

 皆が俺を見ている。古い太陽の神を踏みつけにし、俺は踊っている。

「マブシー! マブシー!」

 俺は俺の本当の名を忘れてしまっている。

「マブシー! マブシー!」

 俺は踊りながら空を見上げた。酒で勢いづいた心臓が、星の一つ一つを揺らしている。集落に楽器と言えば、打楽器しかない。周りは歌いくるっている。

「マブシー! マブシー!」

 俺は踊った。踊った。歌った。踊った。

「マブシー! マブシー!」

 誰も俺の心配をしない。

「マブシー! マブシー!」

 皆が俺を見ている。

「マブシー! マブシー!」

 皆が歌っている。

「マブシー! マブシー!」

 皆が俺を見ている。

「俺を見ろ! 俺はなんだ!」

「マブシー! マブシー! マブシー! マブシー!」

「そうだ俺は、太陽の神! マブシである!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」

「マブシー! マブシー!」


 マブシー……!

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