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アガスティア  作者: 常若
第二章 青の勇者
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第四話 灰祷‐⑤


 生まれながらにして、私は幸せな日常を送っていた。貴族ではないが、水都に居を構える裕福な家庭に生を授かった。そして一つの夢を持っていた。それは確か、画家になると言う夢だ。そんな気がする。


 気がするというのは、確証がないからだ。確固たる記憶がない。正確にはとある策謀によって捻じ曲げられてしまった。絵を描くことが好きだということはそれとなく憶えている。家族や友人からも上手だとよく褒めてもらっていた。しかし今ある私は、もはや筆すら握れぬ獣皮を纏った怪物なのだ。


 記憶を喪失した後、全てを奪われながらも一時は日常を取り戻した。新しい家族もできた。記憶もほんの僅かに蘇り……順風満帆とはいかなくとも、静かで小さな幸せを過ごしていた。


 狂い始めたのは一瞬だった。まどろみの中で彷徨っていた生で、刻まれた突発的な衝動に身を任せてしまった。その結果……コの怪物のカラダに成り果テ、挙句家族の命を奪っテしまった。


 すまナい……みんナ……スまナい……だガ……それデいい。本能が告げテいル。血肉ヲ求め、エナを求メ、人を……生物ヲ……そウ、命を刈り取ルのダと。


 いいや違う……違ワなイ……違う……! 誰カ……私を……私の自我が、残っテいる内ニ…………。


 私ヲ…………殺シテくれ────────。






 朝焼けに秋の雲がたなびく、穏やかな一日の始まり。ルクスたちが出立したセレニタスの集落の広場には、そこに暮らす者たちが粛々と集まっていた。


 彼らは皆一様に、南方に(そび)える大樹へと視線を向けている。その(およ)そ二十名ほどの人集りの中心には、村の長──フォーの姿もあった。


「フォー、さん……」「今日はどこか……寒いです……」「彼らは大丈夫でしょうか? 無事に……戻ってくるでしょうか?」


 それは希望を見つけたのではない。寄り添うように彼を取り囲む人々は、何かを(うれ)うように紡ぐ。


 尊厳を奪われた者が──明日に怯えた者が。虚ろな眼と、()せた白髪で。


「皆さん、どうか安心してください。お二人なら無事に願いを果たしてくれます。そして今日で……これで、我々は救われる。先立った者たちもまた、報われるのです」


 村人の中にはフォーよりもなお年老いた者もいた。その老人は村の年長者としての責を背負いながら、拭いきれぬ罪悪感に苛まれている。


 己の無力を悔いるように──彼はフォーに歩み寄ると、雫をひとつ。瞳に(たた)えた。


「フォーさん、すまない。……背負わせて、しまった、か」


「そんなことはありません。ワタシにも、すぐに迎えが来ますから」


「あなたのもとでこうして暮らせて……幸せでした」「俺もだ……フォーさんっ!」「わたしも……!」


「ありがとうございます……皆さん、ありがとう。…………ありがとう」


 村の者たちの想いに、赤裸々なフォーの瞳にもまた雫が宿る。これほどまでに穢れた世界で、この村ではかけがえのない家族を感じることができた。


 それだけでただ、最上の幸せを謳歌できたと唇を噛み締める。ここから始まるのはその先にある、幸福の精算。


 思い残すことはない。我らの夜明けが待っている。あとは……彼らの帰りを待つだけだった。






 ヒューカレラ樹海。セクトルが生み出される以前──自然界における“死の地”として知られた、迷宮さながらの樹海。


 視界を埋め尽くすほどの緑に覆われ、一度足を踏み入れれば最後。陸路での踏破は不可能とまで言われるその場所に、二人の人物の声が響いている。


 彼らが目指すは樹海の南端。亭々と空を()く大樹──ヒューカレラの真樹。そして戒獣の眠る住処だ。

 

「ミナカ、ここからは徒歩で進もう。アトロの高度を下げる、舌を噛むなよ」


「う、うん。でも、ここで降りるの? ……あの大樹までまだ少し距離あるよ?」


「いざとなれば祈術で飛べる。問題はない」


 アトロを操るルクスは祈術の風を緩め、徐々に高度を落としていく。


 やがて木々の隙間に舵を合わせ、丁寧に船体を停泊させた。


「むぅ……そうだけどさ、もう少し奥まで行けなかったの? 流石に遠いと思うなぁ……」


 降りて歩き出すルクスの背に不満げなミナカが言葉を投げつける。一方で、操縦士の彼がいなければ飛行艇は動かしようがない。


 そう割り切ると彼女も後部席から降り、渋々その後を追って歩き始めた。


「ダメだ。例の戒獣が大樹にいるとは限らない……慎重に、確実に事を進めるなら極力徒歩で奴の根城を目指すしかない」


「それもそうだけど……戒獣を見つける前に疲れたら本末転倒だよ……ひぃああああっ!」


 愚図(ぐず)るミナカの足元を樹海に潜む昆虫のような生物がするりと通り過ぎ、刹那に小さな悲鳴が漏れた。自分のものとは思えないその声に、我に返った彼女は慌てて右手で口元を押さえる。


 そして視線を戻した先では、振り返ったルクスがミナカを見詰めていた。


「………………」


「な、なに……? し、仕方ないじゃん、何かいたんだもん……! 大体、ルクスくんのせいだからねっ! アトロに乗ってれば虫も来ないし、戒獣だってすぐに……!」


「はぁ……足を止めないほうがいい。また虫が寄ってくるのは、アンタも嫌だろ」


「うぐぐっ……わ、わかりました……」


 多種様々な生物の気配があちらこちらで騒めくように響き──その頭上では樹木の葉が陽光を遮り、鬱屈とした陰が地を覆っている。


 そんな息苦しい樹木の垣根を、しばらく二人は息をつく間もなく歩き続けて行った。





次回の更新は3月29日の21時を予定しています。


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