2-4. 破綻の天秤
「昨日見た、あれは一体……」
胸の奥に残ったざらつきが、朝になっても消えなかった。
あれは、漆黒。虚無。
触れようとした瞬間、世界が拒絶するような…そんな感覚。
呼び鈴が鳴る。詩織の声が聞こえる。
「ルミナー、起きてるー?」
思いに耽ってすっかり忘れていたが、今日は詩織、律斗と中央街に出かける予定だった。
人の心は、気まぐれだ――たしか、誰かがそんなことを言っていた。
たとえ不安を抱えていても、日常は容赦なく流れていく。
中央駅。学院の次の駅で、天流市最大の繁華街。
構内に響くアナウンスと雑踏の中に、私は溶けていく。
「よっ、ルミノール」
律斗はいつもと変わらない風貌で、駅の柱にもたれ、腕を軽く振ってみせた。
「遊ぶと言ったら……まずはやっぱり、ゲーセンだよな!」
最初に挑戦したのは、クレーンゲーム。
「よっしゃあ!!」
「すごい……」
特別な力でも使ったのかと思うほどの正確さ。けれど、それはただの鍛錬の成果だった。
努力だけで弱点を見抜き、確実に掴み取る。律斗らしい。
さすが努力家の彼だ。
ぬいぐるみを2つ手に入れた私たちは、店舗の更に奥へと足を踏み入れる。
次のゲームは、
「音楽に合わせて、奥から手前に流れるオブジェクトを叩いたり手を振ったりするゲーム」らしい。
そう聞いたものの……
なんという手の動き。目で追っても追いつけない。
「律斗ってゲームもいろいろ上手いんだ……」
「そりゃあ、戦闘とゲームは似通った部分も多いしな」
ゲームも一息つき、汗だくの少年と、ぬいぐるみを持った少女2人は、屋上にやってきた。
まだ4月下旬なのに、夏日と言われる26℃。
コンクリートの照り返しもあり、35℃くらいあるように感じる。
今年は今までと比べて飛び抜けて暑い。
「アイスたべたい……」
そう呟いた瞬間、詩織が待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「なら、あのお店に行きましょ!」
指差した先には、古めかしくも上品な看板――《姫田珈琲店》の文字が光っていた。
「詩織はお嬢様だし、なんかぴったりな名前だね」
「もう、何それ?」
照れくさそうに笑う詩織の肩に、私はそっと寄り添った。
そのまま三人で店内に入り、並んで木のベンチに腰掛ける。
ひんやりとした空気に包まれながら、私たちはそれぞれアイスを注文した。
私と詩織が選んだのは、《ルクス・グラシエ》。
淡い白銀のバニラアイスで、「光の魔素を模した」と謳われる人気メニューらしい。
「ルミナは“光”だし、なんかぴったりな名前だね?」
「……さっきのお返し?」
そう言いながらも、私もまんざらじゃない。
その横で、律斗がメニューを眺めながら、妙に低い声でぼそりと告げる。
「……冥界のカカオルージュ、ひとつ」
「カカオが1点ですね〜!」
店員の快活な声が、店内に響いた。
どうやら注文名は略されるらしい。あまりに痛々しい名前を言ったわりに、報われていない。
「略されてるじゃん……」
律斗のぼやきに、私と詩織は吹き出してしまった。
氷のように冷たいアイスに、春の陽射し。
甘く、ちょっとだけくすぐったい午後のひとときだった。
――――
時間はあっという間に過ぎ、私たちは帰路についた。
だが駅に着いた瞬間、その空気は一変していた。
電話に耳を当てる人々。
何度も繰り返される、冷たいアナウンス。
「――魔力混乱のため、天流モノレールは全線で運転を見合わせております」
モノレールの動力に使われている光の魔素に、突発的な乱れが発生したという。
軌道は、光の残滓も動きもなく、静かに沈黙していた。
「モノレールが止まるなんて、珍しい……」
詩織がぽつりと呟く。いつもより、声が少し低かった。
「律斗は寮だし、学院までは近いから、そこまで歩いて帰りましょ?そこから先は、お父さまにお願いして車を出してもらいます。ルミナも一緒に帰りましょう?」
「ええ」
私たちは、夕暮れの幹線道を東へ歩き出した。
――10分ほど歩いた頃、私は足を止めた。
「どうしたの?」
詩織が不安そうに顔を覗き込む。
律斗も、私の一瞬の沈黙を不思議そうに見つめていた。
「……いや、何でもないよ」
私は微笑んでみせた。
けれど私は確かに、何かを感じた。
いつか、“それ”が目を覚ます日が来る。
みんなを不安にさせたくない。だから私は、何も言わない。
気づかぬうちに、誰もが立っている。
崩れ始めた世界の、細い、細い綱の上に。
音もなく、色もなく。