2-3. もはや人間ではない
担任に魔術を教えて、そろそろ一週間が経つころ。
クラスメートからの質問の雨も過ぎ、私の学院生活は平穏に戻った。
これから、いよいよ新しい日常が始まるんだ。
1限:魔術理論B
「今日はこの魔法陣について解析していきたいと思います。複合上級術式ですので、今の皆さんではパッと分からないと思いますが……」
「――光上級術式、アステリア照波式。ここでは、光学迷彩とでも言えば良いのでしょうか?」
先生はチョークを持ち上げたまま、驚きの表情で静止した。
私は黒板の方へ歩み寄りながら、淡々と語る。
「この術式は、周囲1メートルの球状領域内に侵入した光波を100分の1に収縮し、身体を通過させることで、自身を隠蔽するようですね」
黒板に描かれた魔法陣を指でなぞる。
「けれどこれでは、完全に隠蔽はできないですし、長時間の使用で身体を傷める危険性もあります。それにこの術式は根本的に、構造が冗長です。わざわざ光を曲げる必要など、本来ありません」
一拍置いて、私は続けた。
「例えば、そこに存在しなかった、可能性の自己をこの座標へ投影すればそれで済みます。実体を消すより、視認されなかった世界を提示する方が、理論的にも、実装的にも合理的ですから」
チョークが床に落ちる乾いた音が、教室の静寂を割った。
2限:魔術実践II
「ルミノールさんは……こちら側に来てください」
教員が示したのは、対面演習の輪からわずかに離れた、孤立した領域だった。
一瞬、教室の空気がぴたりと止まる。
誰もが理解していた――彼女は、こちら側の存在ではないということを。
その視線を受けながら、私は静かに歩み出る。
「あなたと対等に渡り合える人は、ここには存在しません」
同じクラスメートとして、勉学を共にしたいのに。
神の力は、それを許さない。
昼休み
陽光が差す中庭のベンチに、詩織と私が並んで座っている。
「りせ……ルミナ!」
ルミノールを名乗るようになってから、詩織は私のことを「ルミナ」と呼ぶようになった。
少し照れたように。少し、寂しそうに。
前の名前より長くて呼びづらいのに、
それでも彼女は、今の私を呼び続けてくれる。
今日の昼休みも、特に意味のない話題を繰り返す。
校舎裏に咲いていた花の色、弁当のデザート、漫画の続きを読んだかどうか。
こんな、取るに足らない会話のすべてが、妙に愛おしい。
――人間らしい時間。無駄の美しさ。
私が人間以外の記憶を持たなかった時。当たり前に過ごしていた宝物のような時間。
そんなひとときに水を打つように、律斗の声が響いた。
「よっしゃー!今日の星座は1位だってよ!」
星座占い。この世界の仕組みに、そんなものは存在しない。
私の口が、反射的に反応してしまった。
「物理法則に従って動くだけの星に、未来を予測する力はありませんよ」
……言った瞬間、空気がすっと冷えた気がした。
詩織が、わずかに目を伏せて呟く。
「……やっぱり、変わったよね」
風が吹いて、昼の光に揺れる彼女の声が、静かに私の心に触れた。
でも私は、それをどう受け止めればいいのか、分からなかった。
放課後
定められた時間割から開放された生徒たちは、それぞれの時間を謳歌する。
「実は天流市の「天流」は、「天が流れ落ちる」というかつての大賢者が残した大予言なんだよね」
どこかで聞いたことのある口調で都市伝説を語る彼は、学院一の情報通である久坂黒真。
情報が好きで、将来は記者になりたいとか。なんで魔術学院に……?
「おやおや、これはこれは……ルミノールさまではありませんか!天が流れるというあの予言、何かご存じだったりしませんか?」
「仕方ありませんね……」
南雲先生を驚かしたのと似た仕組みで、人が予言と呼ぶ未来を見てみよう――
――――
なぜだ……?
私の居る世界のほんの刹那先に広がる時間は、虚無。
無限小の未来は、どれだけ拡大しても拝むことができない。
永遠を生きる私であれば、永遠の時間が広がっているはずなのに…
――――
「どうしたの?」
詩織の声で、私は今に引き戻された。
「ええ……私にもわかりません」
「神でも分からないことがあるとは……」
彼は冗談めかして言った。
けれど私は、笑い返すことができなかった。
ほんの少しだけ、視線を空に向ける。
――見えるはずの未来が、霞んでいる。たった一瞬先のことでさえ。
「……だからこそ、面白いのかもしれない。人間という存在は」
私はそう答えて、詩織に微笑みかけた。
でも本当は、胸の奥でざらつく違和感が、まだ消えなかった。
まるで、この世界そのものが――
何かを隠しているような気がして。