少年
「俊郎、早く決めなさい」
私はその聞き慣れた低い声に、ゆっくりと顔を持ち上げた。
すぐ側のウエイトレスは笑顔のまま私を見つめていた。
「あ、ああ…じゃあ、アイスコーヒーで」
「かしこまりました」
ウエイトレスが去ると、目の前に座る祖父がニヤリと笑った。
そうだ。
私がコーヒーの類いを頼むと、祖父は決まって意地悪く笑う。
「俊郎、お前また見栄張ったな?」
「別に。飲めるから」
「大人の味が分かるようになったのか」
「コーヒーなんて、水と同じ味じゃないか」
「それは無理して飲み込むからだろう」
祖父はカバのように口を大きく開けて笑った。
・・・
届いたばかりのグラスを見つめる私に、祖父は身を少し乗り出すようにして尋ねた。
「なあ、オニヤンマは取れたか?」
「あんなの無理だよ。物凄く速いんだもん」
「何だらしないこと言ってんだ。お前、野球やってるんじゃないのか」
「試合じゃ殆ど動かないんだよ」
私はそう言って野球帽を深く被った。
「じゃあ作文は?この前、賞獲るって張り切ってただろ」
「やめた」
「何で」
「クラスに僕より上手い子がいるんだ。どうせ選ばれないし」
「じゃあ…」
祖父の顔がぐにゃりと曲がった。
額のシワが増え、髪は白く、肌も段々と古ぼけていった。
「仕事は上手くいってるのか。この前話してたのはどうなった」
私は目を反らした。
「結婚の話は?考えてる女性がいるんだろ?」
「もう良いんだ」
「別れたのか?」
「俺なんかと釣り合う相手じゃないんだよ」
私はまた目を背けた。
「優しいのと諦めるのは違う」
祖父は震える手でリモコンを押し、痩せ細った身体を起こした。
私は病室の椅子に座っていた。
「何が言いたいんだよ」
「お前の生き方は《《甘っちょろい》》って言ってんだ」
「知ったような口をしないでくれ」
カメラが切り替わりると、静閑な山奥にある川が映し出された。
だが、それも徐々にクローズアップされていき、最後にはごうごうと勢い良く流れる水流に変わった。
祖父がチャンネルを戻すと、私の意識はまた病室に切り替わった。
「そんなのは、ただの背伸びだ」
◇
目を覚ますと、点きっぱなしのテレビが部屋に流れていた。
私は汗で濡れたシャツを脱ぎ、洗面所へ向かった。
―――あの頃から何も変わってない
鏡には、野球帽を被った少年が写っていた。