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第二話 初めてのクエスト

 翌朝。早く目が覚めてしまったのは、昨晩は慣れない環境と身体の変化に戸惑い、なかなか熟睡できなかったからだろう。見知らぬ天井――どこか古めかしい板張り――を見上げながら、私はしばしぼんやりとしたまま考え事をする。


(……ここは、異世界。私は、女の身体になっていて……)


 意識がはっきりするにつれ、昨晩の出来事を頭が整理し始める。私は現代日本から突然この世界へ飛ばされ、気づいたら身体が女性化していた。慌てて向かった冒険者ギルドで仮登録を済ませ、紹介してもらった宿がここ、「オークの角亭」。


 横になったまま布団を払いのけ、ゆっくり上半身を起こすと、胸元にかけてふわりと温かい感触があった。淡いパジャマのようなものがあればまだしも、手持ちの服がない私は昨夜、やむなく下着姿で寝ていたのだ。もちろん下着まで女性用ではないが、身体はすっかり女性としてのシルエットを主張している。


「……やっぱり、慣れないな」


 寝起きの声はやや掠れていて、けれど確かに以前より高めの音域だ。鏡がないので正確な姿は分からないものの、自分の胸に触れれば、その膨らみが事実であることを嫌でも意識させられる。鏡がなかったのは不幸中の幸いかもしれない。もしあったら、目を背けたくなる現実をまざまざと突きつけられただろう。


 昨夜も「どうしてこんなことに」と悶々としたが、今は少しでも前向きに考えなければ、ただでさえ不安が募るばかりだ。これからの生活のためにも、ギルドのクエストを受けて稼がなくてはならないし、情報を集めるにも資金や人脈が必要になる。


「よし……まずは身支度を整えよう」


 といっても、着るものは昨日のパーカーとジーンズしかない。シャツや下着も替えがないから、どうしても同じものを使い回すしかない。こんなことになるなら普段着をいくらか持ち歩いていれば……なんて思っても後の祭りだ。

 仕方なくパーカーを羽織り、ジーンズをはいてから布団を畳む。もっとも、畳むといっても、この世界の寝具は私が知る布団とは少し違って、厚手のマットレスと毛布のようなセットなのだが、簡単にまとめておけば文句は言われないだろう。


 部屋を出ると、すでに廊下では宿の女将さんが忙しく働いていた。掃除道具を持ち、階段の手すりや床を拭いて回っている。私と目が合うと、にこりと愛想よく笑ってくれた。


「おはようさん。早いね、よく眠れたかい?」


「あ……はい、なんとか。ありがとうございます」


 正直、ぐっすり眠れたとは言い難いが、女将さんの親切なおかげで緊張がいくらかほぐれたのは確かだ。慣れない異世界で、少しでも誰かの温かみに触れられるだけで心が救われるような気がする。


「朝食は一階で食べられるから、支度が済んだらおいで。もうパンとスープが出来てるよ」


 そう言って女将さんは階段を下りていく。私も洗面のために廊下の端へ向かい、備え付けの水桶で顔を洗う。冷たい水が肌を刺激して、意識がしゃきりとする。改めて、こんな当たり前の行動ですら「日本とは違うんだな……」と感じさせられる。蛇口をひねれば水やお湯が出るような設備は望むべくもない。


(うう……こうしてみると、本当にファンタジー世界なんだなあ。早く元に戻らないと)


 自分に言い聞かせるように心の中でつぶやき、階段を下りると、すでに数人の宿泊客らしき人々がテーブルに座っている。そこここからパンをかじる音と、スープの湯気が立ちのぼる。そんな中、女将さんが手招きしてくれたので、私は空いている席に腰を下ろした。


「これ、朝食代わりね。まだ仮登録中だっていうから、出世払いでいいけど……あんた、あんまり無茶しないようにね。新人さんが最初からがつがつ稼ごうとすると、だいたい怪我するからさ」


「はい、気をつけます。ありがとうございます」


 テーブルに置かれたのは、薄く切られた黒パンと、野菜や豆がたっぷり入ったスープ。素朴な味わいで、昨夜よりはパンが柔らかめだった。もしかすると朝用に別の生地を使っているのかもしれない。優しい塩気が胃に染み渡る。


 食事をしながら軽く周囲に目をやれば、こちらと似たような年頃の少女がいたり、旅人風の男や剣士風の女性がいたりと、見た目も出身もさまざまな人々が席を埋めている。異世界に来ていなければ、こんな面々と同じ宿で食事をする機会などなかっただろう。まるでゲームの世界に飛び込んだような気分――といっても、実際はそんな呑気なものではないが。


「やあ、お嬢ちゃん」


 少し離れた席にいた壮年の男性が、ふとこちらに顔を向けた。日に焼けた肌と屈強な腕からして、冒険者か傭兵のようにも見える。


「はい?」


「見ない顔だが、新顔の冒険者だろ? 女将さんに聞いたら、昨日仮登録を済ませたって言うじゃないか。新人さんが無理しないように、俺たちベテラン組が色々教えてやるから、気になることがあったら声を掛けな」


 豪放な口調だが、その眼差しは悪意のないものだった。ありがたい申し出だけれど、私は少しだけ警戒心がくすぶる。男性に対して露骨に身構えるつもりはないが、身体が女になってしまった今、自分の力だけではどうにもならない事態があるかもしれない。


「ありがとうございます。実は、まだ右も左も分からなくて……」


 ここは素直に受け止め、最低限の礼儀を尽くすべきだろう。そう思い、言葉を選びながら返すと、彼は満足そうにうなずいた。


「おう、まずは下手にモンスター退治なんてのに首を突っ込むより、採取や護衛、荷運びなんかの安全な依頼から始めるのが定石だ。ギルドの担当者に聞けば、初心者向けのクエストを紹介してくれるはずだぞ」


「そうなんですね。助かります」


 私が深く頭を下げると、男は「じゃ、頑張れよ」と言い残してスープを飲み干し、立ち上がっていった。仲間らしき冒険者と連れ立って出て行く後ろ姿は、確かに歴戦の勇者のように堂々としている。こういう頼れる先輩方がいるなら、新参者の私が一から全部を手探りでやるより、はるかに心強いだろう。


 食事を終えると私は宿の女将さんに挨拶をして外へ出た。まだ朝のうちとはいえ、街の通りにはすでに多くの人々が行き交っている。いろいろな種族、職業、性別。活気があるのはいいが、そのぶん治安も心配になる。まあ、昨日の兵士を見る限り、最低限の秩序は保たれていそうだが……。


(さて、今日のところはギルドに行って初仕事を探そう。自分の身体能力を確かめるためにも、戦闘系の依頼を受けるのは手かもしれないけど……やっぱり危険だよな)


 心の中でそう考えながら、昨日も足を運んだ冒険者ギルドへ向かう。巨大な看板が目印の建物に入り、受付の前に立つと、奥でまとめ作業をしていた女性スタッフのリリが顔を上げて微笑んでくれた。昨日と同じ人のようだ。


「おはようございます、ツバサさん。早速ですが、お仕事をお探しでしょうか?」


「あ、はい。昨日、最初のクエストはあまり危険じゃないものから始めた方がいいと聞いたので……そういった依頼を紹介してもらえますか?」


 リリは手元の書類をめくりながら、いくつかのクエストの説明をしてくれる。モンスター退治のなかでも弱い魔物を対象とするもの、荷物を運ぶ手伝い、薬草の採取など、初級者向けクエストはいくつかあるようだ。


「そうですね……ツバサさんはまだ登録したてですし、まずは素材集めが無難かもしれません。小型の魔物が出ることもありますが、それほど危険ではない場所なので、ある程度ご自身の力を試すにはいいかもしれませんよ」


「採取……ですか」


 まさに昨日、自分でも考えていた通りの候補だ。戦闘がないわけではないが、大型モンスターと遭遇するリスクが低いなら、初回にはもってこいだろう。


 リリが示したクエスト用紙――といっても独特の文字が並んだ書類だ――に目を通す。内容は「薬草の一種を一定数採取し、指定の場所に持ち帰ること」。地図には街の近くの丘陵地帯が示されている。そこに群生している草花を採ってきてくれればいいとのことだ。


「ここで取れる薬草を、ギルド内の調合師が買い取ってくれる手はずになっています。お渡しした地図には比較的安全なルートが記載されていますので、どうかお気をつけて行ってらっしゃいませ」


 私はクエスト用紙と地図を受け取り、カウンターに軽く頭を下げてから足早にギルドを後にする。さいわい、クエストそのものの難度は低いようだ。もっとも、薬草の名前や特徴など、覚えなければならない情報が多い。それに地図を読むのだって慣れていない。


(だけど……この世界の文字、なんでか意味が分かるんだよな。正しく読めてるかは不安だけど)


 考えれば考えるほど奇妙で、あまりに自然に頭に入ってくるからこそ、かえって怖い。私の中で何が起こっているのか、今の段階では分からない。しかし、探求するにはまだ手がかりが少なすぎる。


 とりあえず町の門を出て、昨日見た城壁の外へ向かう。兵士に見せるためにギルドカードを準備しようとポケットを探り、その存在を確かめると、少し心に安堵が広がった。いくら仮登録とはいえ、紙とは違って金属のカードがあると心強い。私は門番にカードを提示し、無事に外へ出る。


 外の道は昨日到着したときに見た景色が広がっている。なだらかな丘が連なり、木々や草原が続くファンタジーそのものの風景。馬車が行き交う道沿いには街道用の標識が立ち並んでいたり、ところどころに小さな集落が点在していたりするらしい。私は地図を片手に、目的地へ向かって歩き出した。


 途中、いくつかの分かれ道があったが、地図に記された目印があるおかげで迷うことはなかった。なだらかな丘陵地帯を越えて、林の手前あたりが薬草の群生地として指定されている場所だ。森ほど鬱蒼とはしていないが、木が密集している部分もある。


 空気は澄んでいて、鼻をくすぐる草のにおいもどこか新鮮に感じられる。古武術の稽古で自然の中を走り込んだことはあったけれど、こんな異世界の景観はやっぱり違う。光の当たり方や風の肌触りまで、日本とは微妙に異なっている気がする。


 やがて、指定された場所へと到着。そこは小さな湿地帯が広がっていて、背の低い草やコケのような植物が多い。その中に、うす青い花をつけた草が混じっているのが目に入った。クエストの紙(正確には渡されたメモ)によれば、それが求められている薬草らしい。ただし、似たような雑草が紛れている可能性も高いので、花の形状や葉の質感をしっかり確認すること――と書かれている。


「ええと、葉の先が少し丸まってて、花びらが五枚……これかな?」


 姿勢を低くして覗き込むと、それらしき草がいくつかある。掴んで引き抜こうとした瞬間、背後の茂みがざわりと揺れた。私は息を呑み、反射的に身構える。


 小動物が通っただけかもしれないが、ここは一応モンスターの出没する地域。魔物もそれほど強くはないと聞いているが、油断は禁物だ。古武術の経験を活かせるかどうかは分からないが、いざとなれば逃げ回ることも必要だろう。


「……!?」


 ざわめく茂みから姿を現したのは、細長い胴体に四本脚の小さな生き物――子犬ほどの大きさの生物だ。毛並みはなく、灰色の皮膚がむき出しで、どこかネズミのような尻尾が伸びている。私が驚いて目を凝らすと、そいつもこちらをじっと見つめて唸り声のようなものを上げる。


(こ、これが魔物……?)


 何という名前の魔物なのか、私は知らない。ギルドで配布される資料にも、代表的な初級モンスターのイラストが載っていたが、これは見覚えのないタイプだ。だが、小さいとはいえ油断できない。鋭い歯をむき出しにしてきたら怪我をするかもしれないし、連携して群れで襲ってくる可能性だってある。


 私は息を詰め、ゆっくりと後ずさる。相手が警戒しているなら、下手に刺激しないのが一番だ。幸い今のところ、魔物と呼べるほど凶悪な雰囲気でもない。相手からすれば、私こそが急に縄張りに踏み込んできた不審者だろう。


 すると、魔物は一度かすれた声で鳴き、次の瞬間、びくりと肩を震わせて後ろへ退いた。そして、ひょいっと身を翻すと、そのまま林の奥へ走り去っていく。どうやら、戦いを挑んでくる様子はなかったらしい。


「……助かった」


 張り詰めていた息を吐きながら、私は肩を落とす。胸の奥がどきどきしている。男であった頃も、それなりにケンカや乱取りの経験はあったが、さすがに未知の生物が相手では動揺してしまう。


 とにかく危機を回避できたなら、採取を急ぐに越したことはない。私は周囲を注意深く見回しながら、先ほど見つけた薬草を一つずつ抜き取り、袋に詰めていく。葉や根が傷まないように丁寧に扱うのがコツらしいとメモに書かれていたから、なるべく慎重に作業する。こういう地道なことは好きではないけれど、これが私の「初クエスト」。雑に扱って失敗したら、次に繋がる経験値を得られない(……ああ、またゲームっぽい考え方をしてしまう)。


 幸い、薬草そのものは群生地にかなり多く生えていた。指定された数を揃えるのに、さほど時間はかからない。問題は、先ほどの魔物のように、ふいに何かが現れないかどうか――そんな警戒を解けないままの精神的疲労くらいだ。


 それでも、私が思っていたよりは順調に作業を終えることができた。深いため息と共に袋を持ち上げると、中には十分な量の薬草が詰まっている。ギルドの受付で確認したところ、これだけあればクエストクリアは間違いないはずだ。


「よし……もう帰ろう」


 ほっと安堵すると同時に、身体がやけに軽いことに気づく。しゃがんだ姿勢から立ち上がる動作がこんなに楽だったろうか? 筋肉痛もなければ、疲労感もそこまできつくない。さすがに少しは息が上がっているものの、以前の自分の体力を思えば、もっと疲れていてもおかしくないのに。


 やっぱり、この身体能力は普通じゃない。男性だった頃より、むしろ上がっている気さえする。古武術で鍛えていた私が言うのだから間違いない……と確信する一方で、その理由が分からないのは不気味だ。


(強くなった、といえば聞こえはいいけど、なんだか自分じゃないみたいだな……)


 そう心中で呟きながら、採取ポイントを後にする。帰り道は若干早足になってしまうが、それでも周囲には警戒を怠らない。先ほどの魔物がまだ近くに隠れているかもしれない。けれど、特に問題なく街道へ合流できた。ひっきりなしに行き交う馬車の音が耳に入り、ああ、やっと安全圏に戻ってきたのだと安堵する。


 再び城壁の門をくぐると、門番がちらりと私に視線をやった。朝出かけた新人冒険者が、無事に戻ってきたかを確認したのかもしれない。私は軽く頭を下げて挨拶すると、彼は淡々と頷いただけだった。


 そしてギルドへ直行し、受付に薬草を提出すると、「お疲れさまでした」とリリが笑顔を向ける。クエスト報酬は予定より若干上乗せされた金額を提示され、理由を尋ねると「品質の良い薬草が揃っていましたので、そのぶん買い取り価格を高めにしました」とのこと。嬉しい誤算だ。


「ありがとうございます! 初めてのクエストだったから、上手く採れたか不安だったんですけど……」


「丁寧な作業をされたんですね。しっかり根や葉が傷つかずに残ってますよ。こういう地道な努力は評価されます。もしよければ、別の採取クエストもこなして、実績を積むのもいいですよ」


 その言葉にひと安心しつつ、私は受け取った袋の中身――銀貨数枚ほど――をまじまじと見つめる。これで宿代も支払えるし、必要最低限の生活用品を買う余裕も出てくるだろう。昨日まではまったくお金がなかったのだ。


 今後は装備を整えて、古武術の経験を活かせる戦闘系のクエストにも挑戦したいと思っている。でも、その前にまずはこの世界の常識をもう少し把握しないと危険すぎる。今回たまたま運が良く、軽いモンスターとの遭遇で済んだが、もし猛獣や盗賊がいたらどうなっていたか分からない。


「そういえば、クエスト報酬はギルドで預かってもらえるんでしたよね……?」


 ギルドには安全な保管庫があると聞いていた。財布ごと落としたら大変だし、短剣やポーションなどの装備品を買うにしても、大金を持ち歩くのはリスクがある。


「はい、保管を希望される場合はいつでも預けられますよ。ご自身のギルドカードがあれば引き出せますから」


 リリに案内された窓口で、お金の大半を預ける。今はまだ使い道も分からないが、少しずつ貯めていけば、いずれは装備を買ったり、何かしら調べ物をする際の資金にできるかもしれない。私が「男に戻る方法」や「元の世界へ帰る手段」を探るには、それ相応の費用が必要になるのだろう。


 その後、私はギルドの小さな情報コーナーを覗いてみる。といっても、貼り紙を眺めるだけだ。あまり詳しいことは載っていないが、この国の情勢や近隣の街の案内、入手しやすい魔石の種類など、ファンタジー世界らしい単語がちらほらと目に入る。


(魔石……それに錬金術、呪術なんてのもあるらしい。本当にゲームみたいな世界だな)


 ただ、ここには「他の世界から来た人を元に戻す方法」なんて情報はない。そもそも、そんな特殊な知識がポスターやチラシに書かれているはずもない。いずれはもっと権威のある学者や魔導士に聞き込みしなければならないだろう。


 ひとまず今日の収穫は上々だ。少なくとも、私が一人で行動しても即死するような危険は少ないと分かったし、身体能力が向上しているおかげで採取作業も苦にはならなかった。

 私はギルドを出て、宿へ戻る前に近場の雑貨屋へ寄ってみることにした。せっかく報酬を得たのだから、少しくらいは生活用品を買い揃えたい。


 路地を歩いていると、革鎧や金属の胸当てを着けた冒険者らしき人々の姿が目につく。彼らの装備はそれなりの値段がしそうだが、今の私にあれを買う資金はない。武器も、もし買うなら慣れている木刀や短剣あたりから試してみたいところだが、まずは服と下着くらいは揃えないと。


 そう考えて通りを曲がったところ、雑貨屋と思しき看板を発見した。小ぶりだが、ガラス張りの窓から日差しを取り入れた、見た目が可愛らしいお店。扉を開けると、小さな鈴の音が鳴り、店の奥から若い女性店主が顔を出した。


「いらっしゃい。何をお探しかしら?」


「ええと、生活雑貨を少し……あ、服も売ってるんですね」


 ふと視線を巡らせると、店内の一角には簡素なチュニックやズボンらしきものが並んでいる。それほど種類は多くないが、値段は割と安めに見える。男性用、女性用、どちらも揃っているのだろうか。


(……って、私は今、女性用を買わなくちゃいけないのか? いや、どうなんだ……?)


 そこでもう一度、女になった自分を思い出し、あたまが痛くなる。男用の服を着続けると、サイズが合わないし、あまりにも動きづらいかもしれない。けれど、女物を買うのはどうにも抵抗がある。


 迷いながらも店主の女性にあれこれ質問すると、「動きやすいズボンが欲しい」という私の要望を聞いた彼女は、少し丈の短い軽装用のズボンを勧めてくれた。トップスにはゆったりしたチュニックのようなシャツ。ウエストをベルトで絞る形だから、男性的にも女性的にも着られそうなデザインだ。


「試着してみる?」


「え、試着……?」


 店の片隅に、簡易的な仕切りがあるスペースが用意されている。やけに勢いづいた店主に背中を押されるまま、私はそこでさっと着替えてみた。驚いたことに、ズボンの腰回りやチュニックの胸もとが予想以上にぴったり合ってしまう。背丈こそ、男だった頃とそう変わらないはずだが、骨格や肩幅が違うらしく、微妙に女性の体型に合わせた方がしっくりくるのだ。


「わあ、凄くいい感じ!動きやすそうだし、凛としててとても綺麗!」


 満足そうに微笑む店主に対して、私はぎこちなく笑みを返す。鏡がないから自分の姿はわずかにしか確認できない。だけど、昨日着ていたパーカーやジーンズよりは、この世界の街に溶け込みやすそうだ。


「……うん、これをお願いします」


 ぎこちないながらもそう言って、私は最低限必要な衣類と下着などを購入した。男用か女用かで悩む暇はない。今はとにかく動きやすさと安さが最優先だ。

 会計を済ませたあと、店主は「またね」と笑顔で見送ってくれた。やわらかい人柄に安心感を覚えながら、私は袋を抱えて店を出る。


(気づけばもう昼時か……今日は宿に戻って一息入れたら、ギルドからもらったお金で宿代を精算して、あと余裕があったらもう一つくらいクエスト……いや、無理は禁物か)


 まだ余力はあるとはいえ、街の外で思いの外に神経をすり減らした。あの魔物が現れたときの緊張感は慣れないものだし、町中でも人混みに揉まれて神経が尖ってしまった気がする。こうして女として過ごしているという事実に気が滅入る瞬間も多い。


 だけど、不思議と身体は軽いままだ。脈拍もそこまで乱れていない。おかげで動き回ること自体は辛くないのが救いだ。


 結局、その日は宿に帰って早めに昼食をとり、部屋で少し休むことにした。採取クエストの報酬で宿代の一部を支払い、残りは必要に応じてあとで払う約束をする。女将さんは「ほほう、もうちゃんと稼いできたんだね。働き者だねぇ」と感心していた。


 だが、稼げたとはいっても、生活費や今後の装備費用を考えればまだまだ足りないだろう。これからもっといろいろなクエストをこなさなければ、金銭的にも行き詰まってしまう。


(……まぁ、焦らずにいこう。下手に大物を狙って命を落としたら元も子もないから)


 私はベッドに身を預けながら、そんな風に考える。男に戻る方法や、元の世界へ帰る手段はもちろん大きな課題だが、同時に日々の糧を得るために働かなければ、この世界ではあっという間に行き詰まる。生き延びるためにも、冒険者としての経験を少しずつ積むしかない。


 そして……。

 改めて、今の自分の身体へ視線を落とす。新しく買ったチュニックを身にまとい、細身のズボンをはいた姿は、おそらく女性冒険者と言っても違和感がないだろう。しかも実際のところ、その身体能力は男だった頃よりも間違いなく高く、多少の魔物なら対処できそうな自信がある。


(強さこそ漢――そう考えてずっと頑張ってきたのに、皮肉なものだよな。より強い力を手に入れたのに、それが女の身体だなんて)


 その事実に苦笑いがこみ上げる。まだ混乱は癒えないが、とにかく今はこの力を利用して生きるしかない。そう思うと、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻せた。

 やがて窓の外を見ると、明るかった空が徐々に夕暮れ色へ変わり始めていた。街並みに伸びる影が長くなり、建物の灯りがぽつりぽつりと点りだす。


(今日のところはこれで切り上げて、明日はどうしよう。……ギルドの人も言ってたけど、採取クエストを続けてみるのもいいのかもしれない。少し慣れてきたら、護衛依頼や討伐依頼も視野に入れたいな)


 そんな風に明日の段取りを考えながら、私はまた一日の疲労を感じ始める。肉体的には軽いとはいえ、精神的にはまだまだ疲弊しているのは自覚している。


 夕食を頂いたあと、ベッドに横になって目を閉じる。今日は初めてのクエストを成功させ、少しだけ前進できた。それでもやはり、根本的な問題――「元の男に戻る方法」と「日本へ帰る手段」は解決の糸口さえつかめていない。


(いったい、どうやったら――どこに行ったらそんな情報が手に入るんだろう。魔法とか錬金術とか、そんな世界に詳しい人がいるはず……)


 いつか会うかもしれない大魔術師や賢者のような存在をぼんやり思い描きながら、私はまぶたを重くしていく。今日のようにクエストをこなし、情報を集めながらこの世界で暮らしていけば、いずれは何かのチャンスが巡ってくるかもしれない。


 ――そう信じるしかないのだ。

 身体が女性であることの違和感は続き、言語や文字をなんとなく理解できるという不自然な状態も解消されていない。けれど、今はまだ考え込んでも仕方がない。少しずつ慣れながら、少しずつ行動を広げて、この世界の全容を把握していくしかない。


 私の心の中で湧き上がるのは、焦燥と不安、そしてほんのわずかな希望。もしこの世界で活躍して人脈を築けば、きっと男に戻るための足掛かりも見つかるはずだ――そんな思いを抱いて、私は再び浅い眠りに落ちていった。


 思えば、この時期はまだ身体変化のショックが主な悩みで、心の揺らぎは小さなささくれ程度だったのかもしれない。自分は「男だ」と強く思い続けているし、周囲の人々に対しても堂々とふるまいはするけれど、その裏側で確実に『あれ、おかしいな』と感じる瞬間が少しずつ積み重なっていた。

 そのわずかな違和感が、後に大きな葛藤へと繋がっていくとは、この時の私はまだ気づいていなかった。

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