起
最近、やっと小説を書く楽しさを思い出しました。
高校2年の夏のこと。哀のクラスに転校生がやってきた。シャープな顔の輪郭に、つんと上を向いた形の良い鼻。柔らかい前髪が少しかかっている双眸は黒水晶のように美しいが、そこには野性的な光が秘められている。ほっそりと白い左腕には古ぼけて黄ばんだ包帯が巻きついている。突然転校してきた美しすぎる少年に誰もが興味津々で教室はずっとざわめいていた。
担任の教員が咳払いをして転校生の紹介をし始めたとき、哀は転校生と目が合った。瞬間、その転校生の目が大きく見開かれ、それから人懐っこく細められた。つまらなそうな口元に笑みが浮かび、肉食獣のように鋭い八重歯がちらりと見えた。
転校生は担任の制止も聞かず、すたすたと哀の前に歩いて行き、片膝をついて、座っている哀に視線を合わせた。
「犬神樹といいます。あなたの名前は?」
犬神と名乗った転校生はじっと哀の顔を覗き込んだ。クラスメイト達は何が起きているのかわからないと言った様子で戸惑っている。
哀も驚いたように目を丸くしている。この子の瞳はよく見ると赤みがかっているのだな、などと考えながら、その人懐っこい笑顔を眺めていた。哀はすぐに気を取り直してほほ笑んだ。
「杉本哀です」
返事を聞いて、犬神は満足そうに頷いた。
「素敵な名前だ。哀と呼んでもいい?」
「もちろんだよ、犬神くん」
「僕は……」
「犬神くん!」
女性を口説くような甘い口調で自己紹介を始めた犬神を止めたのは哀だった。犬神は驚いて大きな目をパチクリさせている。
「犬神くん。まだ先生からのご紹介が終わっていない。元の位置に戻って」
「あの、もういいです。みんな、聞こえたな。転校生の名前は犬神樹だ。仲良くするように。席は……」
「ここがいいな」
そう言って、犬神は哀の隣に座っていた男子生徒を押しのけて座った。頬杖をつき、嬉しそうに哀の顔を眺める。押しのけられた男子生徒がわめいた。
「いや、いい加減にしろよ。お前の席はそこ! 杉本くんの後ろ!」
「嫌だよ。それじゃあ、哀の顔が見られないじゃないか」
その時、犬神の瞳が怪しい輝きが宿った。何人かの生徒がそれを目撃したが、誰もが見間違いだと思った。一瞬のことだったし、結局何も起こらなかったからだ。犬神の暴挙を止めたのはやはり哀だった。
「犬神くん。いい加減にしなさい。田中くんが困っているでしょう」
哀の一言に犬神はあっさり折れて自分の席に戻った。犬神の頭上に寂しげに垂れる獣の耳が生えているのを何人かの生徒が見たが、それは間違いなく幻覚である。
だが、その後も犬神の哀に対するアプローチは続いた。犬神は手ぶらで学校に現れ、教科書を一冊も持ってこなかった。毎時間、教科書を忘れたと言っては「一緒に見よう」と哀に詰め寄った。人がいい哀は特に気にする様子もなく、毎回快諾した。
休み時間も、犬神は哀にべったりだった。クラスメイト達は、犬神がどうして転校してきたのかとか、どこに住んでいるかとか、趣味とかと聞きたかったが、とても二人の間に入っていける雰囲気ではなかった。しかし、そういう一般的な疑問はすべて哀が解決してくれた。
「転校の理由? うん、会いたい人がいたからね。もう会えたよ」
「どこに住んでいるって? えへへ、今度、哀にも案内してあげる」
「趣味? うーん。あなたと一緒に話していることかな」
犬神は哀の質問なら何でも答えた。こういった質問は、転校生が何者なのかを解き明かすために行われる。だが、結局、何の疑問も解消されなかった。
昼休み、弁当もお金も持ってきていないと言った犬神は哀と一緒に同じ弁当をつついていた。箸も共用、水筒も共用である。初対面とは思えない異様な距離感を気にも留めずに、二人は天気の話をしている。
「今日は暑いね」
「僕は特にそう感じる」
「どうして?」
「そりゃあ、あなたが……」
妙に甘ったるい雰囲気に耐え切れなくなったある女子生徒が机を激しく叩いて立ち上がった。
「どうしたの、府宮さん」
哀は驚いたようにその女子生徒を見た。犬神は心底鬱陶しそうな顔で彼女を見ている。府宮はその視線にむしろぞくぞくしながら、震える指先を二人に向けた。
「お、お二人は、一体どういう関係かな。杉本君、知り合い?」
よく聞いた、と教室にいた誰もが心の中で喝采を送った。哀は困ったように笑う。
「いやいや、初対面。犬神君がどうしてこうも良くしてくれるのか、正直わからないんだ」
「何言ってるの、哀。良くしてくれるのはそっちじゃないか。あなたさえいれば、僕の今後の学校生活は安泰だ」
とどまることを知らない激甘トークにクラスメイトの大半が白目を剥いた。府宮は「ごちそうさまでぇぇぇえす!」と叫びながら教室を飛び出していった。