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八曜の旗印  作者: 嶋森航
八曜の栄光
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武田晴信の仕官

天文七年(一五三八年) 9月下旬 山城国桂川東岸


「左近衛権中将様、御初に御目にかかり申す。武田大膳大夫にございまする」


 武田信虎の早馬による一報を受けてから3日後、武田晴信は京からほど近い桂川の東に構えた本陣に到着した。


 武田晴信は俺との対面が叶うなり、目の前で跪いて見せる。荘厳な立ち振る舞いに似合わず、尊敬の念がひしひしと伝播してきた。俺は慌てて側に寄る。


「陸奥守殿から文をもらい、事情は聞き及んでおる。されど大膳大夫殿、貴殿は我が義弟ではないか! そう畏まらずに頂きたい」

「某を弟と思うてくださるとは誠に光栄にござる。されど某は武田家を追放され、左近衛権中将様の情けを頼って馳せ参じた身。左近衛権中将様に忠誠を誓う心積りでございまする」


 俺のイメージとはかけ離れた姿であるが、その言葉に嘘は一片も窺えない。勇猛果敢で好戦的、そんなイメージとは似ても似つかない。


「その覚悟、大したものと存ずる。だが大膳大夫殿、私は心から信頼できる者を側に置きたい。お主がそのように畏まった態度であると、心の距離を感じるのだ。私のことは家族と思い、靖十郎と呼んで構わぬ」

「では某のことは太郎とお呼びくだされ」

「では太郎殿、と」

「殿などと、仰々しくございますな。どうか呼び捨てでお願い致しまする。靖十郎様、某のような新参者が六角家中の信頼を勝ち得るには、目に見える成果を出さねばなりませぬ。違いますかな?」

「左様。それも、後ろ盾に寄りかかることなく、だ。だが、お主ならば自らの力を派手に誇示することもできよう」


 もう父の威光は通用しないのだと突きつけるように告げる。今の晴信の状況は、加賀を出て六角家の客将となった時の俺に似ている。ただ、俺の場合は潤沢な資金があったことをそう考えると、晴信の方が遥かにハードモードだろう。


「靖十郎様は随分と某の力を高く買うてくださるのですな」


 派手に、と表現したのが、過大評価に聞こえたらしい。史実での活躍を知っている俺からすれば、むしろ過小評価とさえ思える。


「覚悟を口にしたからには、その自信があるのだな?」

「無論にございまする。靖十郎様の信頼を得るべく、某はもぬけの殻となっている若狭国を攻め獲りたく存じまする」


 細川六郎の一時的な根城となっていた若狭だが、元々は若狭武田の治める国である。その細川も当然に若狭の兵を編成に組み込み、現状の若狭は兵が手薄な状態になっている。


 若狭武田は六角家とも婚姻を結んでおり、元々良好な関係であったが、今回の戦を機に完全に袂を分かつ結果になった。


 何より、若狭武田は甲斐武田の分家である。武田一門という血筋、そして若狭の国主に相応しい大膳大夫の官位を授かっている。若狭武田が六角を裏切って細川に与している以上、大義名分は立つと言えた。


「ほう、自らの名を以て、若狭を手中に収めるか」


 俺が伊賀を攻略した際に考えたのとまるで同じだ。俺と周囲の信頼を得るために、若狭武田家を乗っ取り、若狭国主の名声をも同時に得んとする貪欲さが感じられる。


「分家とはいえ容赦は致しませぬ。名を挙げ信頼を得るため、さしたる障害ではありませぬ」


 冷徹さを孕んだ瞳に、俺は吸い込まれる。武田晴信という男には確かに天下を取るための素質があった、そのように実感させられた。味方にしたら、頼もしいことこの上ない。


 若狭武田の現当主・武田彦二郎信豊は臆病で覇気のない性格だという。若狭武田家が代々任じられる『大膳大夫』の官位を晴信に奪われるほどだ。しかしその頼りない性格が災いしてか、史実において若狭武田家は、今年中に前当主・武田大膳大夫元光の弟である武田信孝の謀反が起きて跡目争いが始まるはずだった。それが起きず平和的に家督が信豊に委譲されたのは、細川六郎が若狭に居たゆえだろう。


 ただ、信豊も信孝も細川六郎に随行して今は芥川山城に居る。おそらくは両者の対立を考慮して、片方を残すという判断を避けたのだろう。


 そのため、現在若狭に居るのは、隠居して病に臥す元光とその三男である宮内少輔信重だが、前者はとても兵を率いることができるような状態ではなく、現状は信重が留守居役となっている。次男は安芸武田家の最後の当主になる武田信実だが、幼少期から寺に預けられ、そのまま現在に至っている。何年か後に安芸武田家が断絶し、養子として迎え入れられることになるのだろう。


 ただし、いくらもぬけの殻とは言っても、ある程度の戦力は残しているはずだ。攻め獲るには、名と共に武力も示す必要がある。


「とはいえ我が六角軍は現在3万を動員しているが、西国の諸大名の助力を得た細川には及ばぬ。お主に預けられるのはせいぜい千程度だ」


 近江における内訌による損害もまだ回復しきってはおらず、南伊勢もようやく攻め獲ったばかりで動員兵力は3万という数字が限界であった。5万と試算される細川軍には到底及ばない規模である。


「いえ、兵は必要ありませぬ。某の手勢のみで攻略してご覧に入れまする」

「兵は要らぬと? はは、大した覚悟だ」


 若狭を得ることが出来れば、日本海側に流通の拠点を得ることができ、六角領はますます発展することだろう。『派手な戦果』と表現できる範疇すらも飛び越えたものになる。


「若狭武田家と六角家はすでに袂を分けた同士。失敗に終わっても、六角家にはさしたる痛手にはならぬかと存じまする」

「ふふ、左様か」


 俺が義父上に言った台詞と殆ど同じだ。俺は思わず笑みをこぼした。その様子に晴信は怪訝に思ったのか眉を顰める。


「いや、すまぬな。太郎がかつての私にあまりに似ておる故にな」

「それは光栄にございますな」


 晴信は俺の言葉に表情を綻ばせる。


「ならば太郎、若狭を攻め獲って見せよ。それがお主の武名を天下に轟かす第一歩となろう」

「はっ、承知致し申した! この武田大膳大夫晴信、靖十郎様の名を汚さぬよう、戦果を持ち帰ってご覧に入れまする」


 晴信は深く頭を垂れた。その顔には並々ならぬ決意が浮かんでいる。俺は満足げに頷いた。


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