第19話
アメリアはファーマー侯爵家当主リグの妻であり、教皇直属親衛隊リアムの母である。
太陽のごとき明るさで皆に元気を与える存在であり、ファーマー一族ならびに領地領民の理想を具現化した女性と称されることもしばしば。
その評をアメリア本人は天真爛漫な微笑みで受け止め、今日も輝きに更なる磨きをかける。
「戻ったぞ」
夫であるリグが長い帝都滞在から帰還し、いつものように愛らしい笑顔で出迎えたアメリアを力いっぱい抱きしめた。
慣れ親しんだ屋敷そして最愛の妻。その二つが揃ってようやく見せた安堵の表情。
だがアメリアは見逃すことない。
抱擁の中でどこか思い詰めたような翳りが見え隠れしていることに。最愛の妻として一番近くにいたからというのもある。だがこれから帝国で巻き起こされる事象の全貌を把握しているからこそ。……その中心付近にいることを理解しているからこそ。
夫から立ち昇る仄かに憂いが混ぜ込まれた甘美な男臭。
彼女の『息子たち』がきちんと話をつけてきた証拠でもあった。
いい仕事をしてくれたようだとアメリアはリグの胸に顔を埋め、精一杯息を吸い込み、ついついこらえきれず口元をだらしなく緩めた。
深夜。
アメリアはヘトヘトでダルい身体を緩慢な動きで起こしつつ、ベットの下に乱暴に投げ捨てられたナイトガウンを拾い上げて羽織る。流石のリグも疲れ切ったのか身動ぎ一つせずに爆睡している。
これから半年は肌を合わせられない。
彼女にしてもこの野生の獣のようなたくましい身体を味わえないことを考えると少々残念に思う。だからこうしてお互い悔いが残らないよう燃え上がったのだが。
テラスに出たアメリアは両手を広げてファーマー領の夜の空気を吸い込む。
目を凝らせば揺れる篝火に照らされる夜警の人影。
鈍い月明かりの中、大きな敷地の端に黄金色に光る一帯がある。そこはファーマー領を象徴する小麦畑。例年ならばすでに刈り取られてもおかしくないし、領内の他の地域ではすでに刈り取りが終了し豊作祭も済ませている。アメリアも近隣地域のそれに夫の代理として参加していた。
残っているそこはリグが父から受け継いだ、いわば誰も手出しできない私有畑。
明日明後日にでも彼の手が入ることになっている。
――収穫のときはすぐそこまで迫っているわ。
見納めとばかりにアメリアは眼前に広がる雄大な景色を焼き付けた。不意に身震いし、ようやく自分は裸体にガウンを羽織っただけの姿だったと思い出す。秋が深まってきたことを体感すると再びベッドに潜り込み、夫の背中を抱きしめて暖を取り始めた。反射なのか筋肉質の身体が寝返りを打ちすっぽりとアメリアを抱きしめ包みこむ。
彼女は夫の首筋に鼻を当てると大きく吸い込んだ。
今生の別れでもあるまいに、それでもアメリアはその匂いを脳に刻み込むように何度も何度も深呼吸を繰り返した。
涙にくれる屋敷の皆を残して旅立った三日後にはアメリアは帝都入りしていた。ほんの数週間前までいたアルマ。その中でも生まれ育った地、ラフィル教総本山。そこまで思い入れのある場所ではないと思っていたが毎度帰ってくると感慨深いモノがあったりするのが不思議だった。
彼女はファーマー一族の家紋の入った馬車から軽やかに降りる。
「奥様ご自愛くださいませ」
メイドの目に光るものがあった。御者も何か堪えるような表情でアメリアを見つめる。
今度会うのは半年後。
「また迎えに来てね、待っているわ」
そんな彼らに背を向けると、鮮やかな橙色のワンピースを翻しアメリアは大股早足で颯爽と歩を進める。その前後には彼女の到着と同時に姿を見せた神官二人が寄り添った。
少し離れたところにはフィッシャー家の紋が入った馬車。
こちらはナタリアを迎えにきたのだ。
御者は馬の手入れに余念なく、メイドも丁寧に客室の掃除をしている。
そんな二人と目があった。
あちらはフィッシャー家特有の物静かで伏し目がちに一礼をよこす。
対してアメリアは笑顔で手を振り返した。
総本山、巫女や神官たちの修行場といっても、別に山奥にあるわけではないし建物が古臭いわけでもない。彼女が今歩いている裏の出入り口でさえ何かしらの修繕作業を行っており、労働者が忙しなく動き回っている。十七歳で嫁いだ彼女だが、当然その前からもそれ以降も何かしらの手が加えられており、それを為せる資金力もまた教会の強さと彼女は皮肉げに目を細める。
最奥区画に至る扉。
その前で騎士が立っていた。彼は無表情のまま一礼する。
姉が強引に弟にしてしまった男、ロジアス。
神官二人は彼にアメリアを預けると回れ右で去っていく。ここからは彼が先導する。
――それにしても。
いつ見てもいい男だこと。
ファーマーを離れる前夜、あれだけ激しかった行為が色褪せてしまうほどに下腹部が疼き始める。
信じられないことに姉は彼に一切手を出していないという。
彼も姉と女神ラフィルに操を立てているとか。
――なんというもったいなさ。
不能というわけでもないでしょうに。……ホントに変なコ。
もし完璧に『姉』を作り上げて誘えば応じるのだろうか。やはり容易く見破られて袖にされてしまうのか。
なかなかに興味深い実験だとは思うが。
そんな取り留めもないことを考えながらロジアスの後ろを歩いていると、今度は正面から女性が歩いてきた。この最奥区画に立ち入られる女性は基本巫女に限られる。そして彼女はそこに属さない。
それでもこの顔だけは見間違えたりしない。
あのパーティでジョルジュがエスコートしていた相手だったからだ。
――冒険者マリア。
改めてまじまじと見れば、なるほど確かに『彼女たち』に似ていると思った。
もちろん彼女たちと人間とはあらゆるものが違う。だけどどことなく造形であったり雰囲気だったりがそれとなく近かったりする。
マリアはアメリアを見て驚きで目を見張っていたが、結局声を掛け合うこともなく、お互い曖昧な笑みを浮かべるだけですれ違った。
「今の子はお父様に呼ばれていたのかしら」
「そのようです」
「ふーん。まぁ、今はどうでもいいわ」
アメリアはすぐに興味をなくした。
まずは教皇である父の部屋に顔を出しておくべきか、とスルーしたい気持ちを押し殺して扉の前で立ち止まりノックする。
ロジアスはそれを見届けるとそのままどこかへと立ち去ってしまった。とりあえずどこかの部屋まで案内するだけつもりだったらしい。ここまで来てしまえば安全との判断だろうが、あまりに淡泊なのではないかとアメリアは彼の後ろ姿を睨みつつ肩を竦める。
中からの返事を待たずに扉を開けば、筆頭巫女カタリナと教皇が向かい合っていた。
「だから、どうしてキミたちは……」
教皇が額に手を当てて「……いや、ノックしてくれるだけで、もう十分か」などと呟き俯いている。アメリアは父のやや薄くなり始めた頭頂部に向かって帰還の挨拶を済ませてから、同じ顔の姉を一瞥。
「じゃあ、部屋にいるから」
そのまま回れ右。
「あら、もう戻っちゃうの?」
「べつに話すこともないでしょう?」
アメリアは背中越しに返事する。例のパーティの前に情報交換も兼ねてかなり話し込んでおり、今更という思いが強い。
「ホラホラ、もっと顔を見せてよ」
「好きなだけ鏡でも見ていれば?」
珍しく食い下がる姉カタリナにアメリアはにべもなく告げるとそのまま退室してしまった。
決して父と姉が嫌いだとか、相性が悪いなどではない。
むしろ仲はかなりいい。
母を早くに失ってから三人で教会という魑魅魍魎跋扈する魔境を生き抜き、望む場所まで駆け上がってきたのだ。
これが彼女たち親子の昔からの距離感というだけ。
アメリアからすれば今話さなければいけないことがないならば、話す必要ないだろうというだけのこと。
社交ならともかく相手が血のつながった父と姉ならば。
些細な近況報告はいつも教会暗部の人間が代わりにしてくれている。
それ以上に今彼女にはせねばならないことがあった。
単純な優先順位の話だ。
「……女優は舞台裏が命よりも大事なのよ」
そう呟きながらいつものように躊躇いなく扉を開く。教皇室からそれほど離れていない部屋だ。中を見渡して準備万端であることを確認。
焚かれた香が否応なくアメリアを真顔にさせる。
彼女は着ていたものをすべて一気に脱ぎ捨て、乱暴にベットの上に投げ捨てると、全裸のままクローゼットを開く。
そして吊るされていた純白のローブに手を伸ばした。
アメリアは領主夫人としては極めて優秀だったが、ここ総本山最奥においてのみ明確に「無能」と分類された。
巫女としての才が無かったからだ。
だけどそれは悲しいことでもなかったし、巫女たちから憐れまれたり蔑まされたりすることはなかった。
それ以外の分野では極めて優秀だったからだ。
功績は極めて絶大。
巫女としてではなく、父のサポート役として確固たる地位を築いてきた。
奇跡を起こしながら帝国中を回る日々。
その後の地元名士たちとの懇親会は奇跡を見せるのと同等の価値があり、アメリアは彼らとの交流においてとびきりの才を見せつけることとなった。
……単純に姉がそういった場でクソの役にも立たなかったというのもある。
姉は有り余る力で手っ取り早く二人分以上の奇跡を起こし、その後の社交はアメリアが。
これが二人の出した最適解。
奇跡を起こしたのみならず、御当地貴族の一族の名前、名産、その他諸々を頭に叩き込んだ巫女が笑顔で応対すれば貴族の教会への心象も良くなり、寄付金だって弾む。それが父の力となる。
彼女は結婚するまでの日々をこのような感じで生きてきた。
アメリアは部屋の中央に敷かれた小さな絨毯の真ん中に座り込み姿勢よく胡坐をかく。香の漂う部屋の空気を目一杯吸い込み、吐き出す。
今の自分、アメリア=ファーマーを全て……吐き出す。
再び胸いっぱいに香を吸い込む。
そして自分の中にあるアメリアを空気と一緒に出し切る。
彼女なりの暗示。
十歳になる前にこの方法を自力で編み出したアメリアは父教皇に言わせれば姉と別種の天才。
ただラフィルとの親和性がなかったというだけの天才。
領主夫人となり教会から少し距離を置いた今でもなお、彼女は唯一無二の役目を担っている。
教会の悲願は彼女の肩にかかっているといっても過言ではない。
そもそもの彼女の才能を高く買った姉の無茶振りがすべてのはじまり。
当時はまだ若き司祭でしかなかった父の呆れた顔は今でもアメリアの脳裏に焼き付いている。
彼女も当時そのあまりの無謀さに呆気に取られたが、次の瞬間には面白そうだと身を乗り出し、詳しい話を聞かせろと両手で姉の手を取ったものだ。
二人は双子だけあって似た者同士だったということだろう。
アメリアがいい感じで抜け始めた頃を見計らったかのように音もなく扉が開かれ、巫女一人がかごに入った夕食をもってきた。それを彼女の視界にチラリと入る程度の場所に置きながら、魔法の明かりを浮かべる。そして流れるような動きでベッドに散らばった服や下着を畳んで腕に抱えた。アメリアが小さく頷くと彼女も労う笑顔で頷いてから退室した。
――さて、ここからが。
アメリアは本格的に瞑想に入った。
探るようなノックの音がしてゆっくり瞼を開いた。
中庭に面した窓から差し込んでくる柔らかな陽の光でさえ少し眩しい。
一睡もしていないが、香のおかげか頭はすっきりしていた。
擦れた声でそれに応じると巫女が入ってくる。
無言のまま立ち上がりテーブルにつくと、簡単な朝食が並べられた。
結局使わなかったベッドだが手早く整えられ、その上には深い青のワンピースが用意される。
それほどお腹が空いていた訳でもなかったがきちんと朝食を頂き、その間じっと待っていた巫女の手伝いで着衣、薄く化粧も施される。
「それでは、よろしくおねがいします。……ナタリア様」
巫女の手によって開かれた扉。
生まれ変わった彼女はナタリアとして一歩踏み出す。
部屋の外には別の巫女二人が待っていて、ナタリアの歩幅に合わせてゆっくりと先導した。
子供の頃から割と親しくしていた二人。
教会なりに気を使ってくれたのだろうと思わず笑みがこぼれる。
最奥の玄関口には巫女が当番制で世話をする花壇があり、そこで姉――筆頭巫女カタリナが待っていた。その隣には筆頭巫女の補佐として名の知れたメリッサ。ナタリアにしても幼少期から姉のように慕ってきた存在。
「フィッシャー侯爵夫人、ご機嫌麗しゅう」
メリッサは柔らかな笑顔で手を振る。
巫女とはいえメリッサは平民上がり。
一方のナタリアは父方の祖母が王女という相当に高貴な血を持ち、自身も侯爵家に嫁いだ。なおかつ跡取り息子も産んでいる。帝国女性の格では遥かにナタリアの方が上。
本来ならばこのような挨拶は許されない。それはメリッサもナタリアも理解している。それでも二人の距離感がそれを許す。
ナタリアは小さく笑みを浮かべて頷いた。
一方のカタリナといえばなんとも言えない渋い顔。
――よろしく頼む?
それとも「アンタ、相変わらず狂っているわね」とでも言いたいのかしら?
同様に表情を崩してしまいそうになるところを根性で押し留め、口もとだけうっすら緩めつつ近寄り、イタズラ半分で脇腹を軽く抓ってやった。
カタリナは逃げながら満面の笑みで抓り返してくる。
まるで子供の遊び。
メリッサも居合わせた巫女たちも相変わらずな二人を見て、クスクスと笑声を漏らす。
「面倒だろうけれど子守を頼むわね」
ナタリアはメリッサに声を掛けた。
「もちろん、わかっておりますとも」
メリッサは重々承知と胸に手を当て大きく頷く。
カタリナは子ども扱いされたことが不満なのか可愛くふくれっ面みせる。
――だから、そういうところが子供だっていうのよ。
ナタリアはそんな姉の頭を撫でてから最奥区画を離れた。
振り返りこそしないが、カタリナ扉が閉められるまでずっと大きく手を振っていることは気配で感じられた。
最奥区画を抜ければ今度はまた待ち構えていた神官が先導する。
来た時と同じ道を。
来たときとは違う歩幅と衣装で。
……違う名前で。
昨日停められていた馬車へ向けて。
視線を上げれば、今か今かと待ち構えていメイドと御者が深く頭を下げていた。
「……奥様がお戻りになられる日をずっと心待ちにしておりました」
感極まって涙を零すメイドをしっかりと抱きしめ、同じく涙ぐむ御者に微笑みかける。
「待たせたわね。……さぁ、皆の待つ我が家へ帰りましょう」
ナタリアの言葉に二人は笑顔で顔を上げた。
「ただいま戻りまし――」
ナタリアは帰還の挨拶も最後まで言えず、先に帝都から戻ってきていたノルドに抱きしめられた。
「……おかえり、私のナタリア」
ノルドの繊細さの象徴ともいえる冷たく尖った硬質の声。
それが吐息とともにナタリアの耳に襲い掛かる。妻だから分かる、その中に込められた熱い想いとわずかな憂い。
ナタリアは半年ぶりのその声だけで震え、彼女の中の女性部分が覚醒する。
そして改めて彼の腕の中こそが自分の居場所だと痛感した。
「……あぁナタリア。キミこそ本当の」
その小さい呟き。
ナタリアだけに届いた――だけど確実に聞かせることが前提の呟き。
――はてさてどこまでバレちゃったのかしら?
この辺りの探りは今夜ベッドの中でゆっくりと。
彼女は頬を上気させて夫ノルドを見つめた。
ナタリアはフィッシャー侯爵家当主ノルドの妻であり、教皇直属親衛隊ラウムの母である。
穏やかで理知的な微笑みで皆にやすらぎを与える存在であり、フィッシャー一族ならびに領地領民の理想を具現化した女性と称されることもしばしば。
その評をナタリアは慈愛に満ちた笑顔で受け止め、今日も輝きにさらなる磨きをかける。




