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第1話  センセ? ……来ちゃった


「俺も取材旅行に行きたい!」


 中年と呼んでも差し支えの無い男の叫びに、彼の担当編集者である茉理はどう返答すべきか、一瞬だけ悩み、爪を()でることを選択した。


「はいはい。……確か一郎センセってばファンタジー作家でしたよね? どこ行くんでちゅか?」


 彼女の視界の隅でフローリングにへたり込んだまま叫ぶ男、尊敬の欠片もないが一応センセと呼ばれた相川一郎は、返ってきた(あお)り100%の言葉に奥歯をギリギリと食いしばり、彼女を睨みつける。だが当の茉理は『貴様は爪以下だ』と言わんばかりに無視を続ける。



 昨日の仕事帰り、茉理は尊敬する先輩に連れられて人生初のネイルサロンを経験した。

 おかげで彼女の爪はピカピカのキラキラ。

 今まで一般的な女子としての(たしな)みだとか、そういった分野とは距離を置くような人生を送ってきた彼女としては、未知の領域。

 爪は絶対に割れないように短く。万一割れた場合は強力接着剤をマニキュアのように塗りつける。

 そんな血と汗と涙にまみれた青春を送ってきた彼女が、女子力(あふ)れるOLの巣窟(そうくつ)と言っても過言ではないネイルサロンデビューを果たしたのだ。 

 その達成感と高揚感は推して知るべし。 

 ただこれは茉理には劇薬とも言える効果を与えてしまった。

 結果的に普段なら絶対に言わないようなことを、ついつい口走ってしまったのも無理はない。

 それが思わぬ結果に行きついてしまい、後日茉理は悔やんでも悔やみきれない想いを味わうことになる。そしてそれから先の人生で二度とネイルサロンの扉を開くことは無かったのだが、それはまた別の話。



 そんな悲しい未来を知る由もないこのときの茉理は、満面の笑みで一郎にこう告げた。


「……ホラ、何でした? あ、そうそう、確か『ゴッドヘル』だったっけ? ……もし行けるのでしたら好きなだけ行って頂いて結構ですよ? 経費も当然編集部持ち。どうせなら私もご一緒させてもらおうかなぁ? だって、担当者なら一蓮托生(いちれんたくしょう)でしょ? ……荷物持ちでも何でもしますから!」


 そう、茉理は完全に調子に乗っていた。


 

 話はその問題発言の数十分前に(さかのぼ)る。

 茉理は編集部から数日に渡って何度も何度も一郎に原稿の催促メールを出していたが、ラチがあかないと判断し直接彼の住むマンションまで原稿を取りに行くことにした。

 以前にも原稿を取りに乗り込んだことがあったのだが、当時まだ駆け出し編集者だった彼女は何の下準備もせず、あまつさえインターホン越しに正直に訪問理由を伝えるという不手際をしてしまい、案の定一郎から「インフルエンザに(かか)った。未来あるお前に移す訳にもいかない。ここは俺に任せてお前は一旦下がれ!」という意味不明な理由で追い返された。

 当時本当に大流行していたので頭から否定することも出来ず、何とか原稿だけでもと言い(つの)ったが、とても病人とは思えないような彼の数十分にわたる口八丁でのらりくらりと(かわ)され続け、血の涙を流しながら引き下がるという苦すぎる経験をした。



 茉理は二度と同じ過ちだけはするまいという強い思いを胸に抱いて、今回ここまでやってきたのだ。

 『斎藤龍之介(さいとうりゅうのすけ)』という無駄に猛々しいネームプレートの前で深呼吸した彼女は、周囲に誰もいないことを確認すると、カバンの中から取り出したつば付きの帽子を目深(まぶか)に被る。

 用意しておいた小さめのダンボールを小脇に抱え、宅配業者のカモフラージュに成功した彼女は口元に小さく笑みを浮かべてモニター付きのインターホンを押した。

 しばらく待っていると奥からトントントントンと軽やかな足音が近付き、「はいは~い」と上機嫌な声と一緒にチェーンロックが外された。

 

「――指定した時間よりも早いと……思うのです、が?」


 茉理は無防備にドアが開いた瞬間を逃すことなく、スッと足を挟み込んだ。

 業者だと頭から信じ込んでいた一郎は、外にいる人物の思わぬ行動に怪訝な表情を浮かべ、視線を徐々に上げていき、身長180センチオーバーの彼女の顔を見上げる形で……完全にフリーズした。


「……センセ? ……来ちゃった」


 帽子を取った茉理は笑顔で首を傾げて見せる。彼女の考えうる最大級に女性らしいなけなしの愛想だ。先輩から「コレでセンセもイチコロよ」と言われたので、こっそり自宅で何度か練習しておいた取って置き。


 ――本当にこんな仕草で『(イチ)』郎センセを『(コロ)』せるのだろうか?


 茉理が無言で練習の成果を見せていると、一郎は小刻みに震え始めた。それでも彼は何とか危機を脱すべく、こっそりチェーンに手を伸ばす。しかしそれは茉理も織り込み済み。彼女自慢の長い腕が先回りして彼の手首をがっちりと握りしめた。


「ねぇ、センセ? ……早くナカにイれてくださいよぉ♡」


 男なら勘違いしそうなフレーズだが、茉理の目は全く笑っていない。

 むしろ彼女のコンプレックスでもある三白眼(さんぱくがん)が、ここぞとばかりに圧倒的存在感を発揮する。

 一郎は恐怖のあまり変な叫び声をあげると、彼女の手を振り払って奥へと逃げてしまった。


「それじゃ、おじゃましますね?」


 茉理は玄関で靴を脱ぐと丁寧につま先を扉に向けて並べ直す。ついでに一郎が逃げる際に脱ぎ捨てたスリッパもホルダーに揃えて差しておいた。

 これらは体育会系の部活で身についた習慣だ。

 彼女はホラー映画で追いかける側のように、音を立てずにゆっくりと廊下を歩いた。

 リビングに通じる扉も敢えて時間を掛けながら開き、作り笑いをしながら部屋を見渡すようにして一郎を探す。茉理なりのちょっとしたサービス精神だ。

 その甲斐もあって、一郎は彼自慢のハイスペックノートパソコンに覆いかぶさりながら、半泣きで震えていた。

 


 体力勝負なら茉理に分があった。

 中学高校とバレーボールで鍛えた彼女が、一郎のような文系アラフォーヒョロヒョロメガネに負けるはずがない。 

 茉理は彼の首根っこを猫の子のように掴んで宙吊りにすると、ポイっと床に投げ捨てる。

 綺麗に掃除されたフローリングの上をコロコロ転がる彼を半笑いで眺めながら、彼女は文書作成ソフトを起動した。連載作関連のファイルを片っ端から開いていったが、例によって適当なプロットしか書かれていない空白過多の原稿があるだけ。

 マウスホイールを乱暴にゴルゴル回して、スクロールしたところで変わらない。

 隠し文字の可能性に思い当たり、ドラッグして反転させてみたが当然文字が浮かび上がることもなかった。


「……はいはい、知ってましたよ~」


 次に茉理は綺麗に並べられたICレコーダーに目を向けた。そんなところに一郎の潔癖が見え隠れしているなどと頭の隅で考えながら、彼女は慣れた手つきで次々に再生していく。

 だがやはり当然の如く何も吹き込まれていない。

 彼女が溜め息混じりで床にへたり込んだままの一郎を睨みつけると、彼は何か言い訳でもしたいのか怯えた顔で小さく唸っていた。 



 茉理は、それを無視して勝手知ったる何とやらで台所に向かい、躊躇(ためら)いなく冷蔵庫の扉を開ける。キンキンに冷えていた500mlペットボトルのコーラを取り出して、乱暴に音を立てて閉めた。その振動で冷蔵庫の上に丁寧に収納されていたキッチンペーパーのロールが雪崩を起こしてフローリングに転がるが、茉理は足元のそれらに見向きもせず、半笑いのまま一郎を睨みつけ栓を思いっきり(ひね)った。


 ――あまり調子に乗っていると首をこんな感じで、ね?


 プシュっと小気味いい音から顔を背けるように一郎は俯いた。


「……先にラベルを剥がして、プラスチックゴミ用の箱に、……な?」


 一郎は強く出られる立場じゃないと理解しているのかポツリと呟く。

 それでもちゃんと言いたいことは言える辺り、一郎も中々のものだと茉理は感心する。


「……はいはい」


 ゴミの分別などの細かいルールをきちんと守れるというのも、何気に茉理の中でポイントが高かったりする。

『社会のルールを守れぬ者、社会人を名乗るべからず』

 これは子供の頃、茉理が元警察官だった厳格な祖父から教わった言葉であり、今でも彼女の座右の銘になっている。


 ――だったら、締め切りもちゃんと守れっての!


 茉理は心の中でボヤきながら、剥がしたラベルを分かりやすく色分けされたゴミ箱に捨て、ついでに足元に転がっていたキッチンペーパーを冷蔵庫の上に並べ直した。

 全体的に奥の方へ押し込んでやったのは、彼女ならではの茶目っ気だ。

 断じて背の高さをイジってくる一郎に対する嫌がらせではないと、茉理は強く主張する。

 彼女は半笑いでその作業を終えると、どっかりとソファに腰かけコーラを呷る。



 こうして茉理にとって悪夢の切っ掛けとなる、()()数分間が始まった。





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