第26話 頼んだぞ。俺の主人公!
一郎は眠い目をこすりながら商業自治区第二の都市カナンの大門をくぐった。元来ここは賑やかな街なのだが、まだ夜明け。さすがに静かなものだった。
何度も行き来するうち、徐々に身体に馴染んできたカナンの埃っぽい空気を胸いっぱいに吸い込み、「ようやく帰ってこれた」と小さく独り言ちる。
もはやカナンは一郎にとって創作の舞台ではなく、生きた街となっていた。冗談を言い合う小鹿亭の面々、噴水広場のジュース屋とそこに買いに来る子供たち。茉理が贔屓にしている串焼き屋のおやっさん。ほかにも街ですれ違うだけでロクに会話もしたことのない住人たち。
彼ら皆が確かに感情を持って生きていた。
いつだってその興奮を共有して楽しんでくれている茉理は、今彼に温かい身体を預けて寝息を立てている。
今回一郎は彼女には重要な役目を与えた。よくよく考えてみれば担当編集者としての職分をはるかに越えているように思う。彼女なりにこのセカイを満喫してくれているのが、せめてもの救いと言えば救いだろうか。
本当に彼女の功績は大きい。
ようやく小鹿亭裏庭の『馬車置き場』に到着した。
――というよりも俺が作った。
道すがらレコーダーに吹き込んでおいたのだ。代金は宿代に乗せるという設定にしておいたが、そこまで高額ではない。毎回停車場を探したり駆け込み乗車する苦労を考えるとタダ同然だと思える額だ。
一郎がレコーダーの力を借りて馬を巧みに操り、馬車を空いたスペースに止めた頃、ようやく隣の茉理が身体を起こした。
「あれ? ……もうカナンに着いたの?」
「あぁ、小鹿亭の裏庭にある馬車置き場だ」
「……ほぇ? ……あったっけ、そんなの?」
寝ボケ顔の茉理にわざわざ一から説明してやるのも億劫なので、一郎は小さく笑みを浮かべて適当にお茶を濁す。何か文句を言いたげな彼女を無視して御者台を降り、まだ頭をふらふらさせているところに手を貸してやった。
それと同時に後ろの客室の扉も開き、二人が下りてくる。こちらはずっと起きていたようで、足元もしっかりしていた。ただ二人の顔色はすぐれない。とくにマリアはずっと俯いたままで、目尻は激しくこすられた赤い痕が痛々しく残っていた。
何も解決していないのは一目瞭然。
――二人きりとはいえ、近くに俺たちがいる状況じゃ、やっぱり厳しいよな?
かえって気まずい思いをさせてしまったか。
一郎がこっそり反省している中、ジークがいきなり自分の頬をパーンと叩いた。静かな街にその音がこだまする。三人が見守る中、彼は真っ直ぐな目で一郎と茉理を見据える。そして両手を合わせて、深く頭を下げた。
「二人ともホントにごめん! 今からマリアとちゃんと時間をかけて話をしたいんだ。……だから打ち上げとかは明日に回して貰えないかな?」
決意を秘めたいっぱしの男の目だった。
――俺の作品の主人公なんだから、これぐらいじゃないと困るよなぁ?
一郎は自然と笑みがこぼれそうになるのを、口元を引き締めて何とか堪える。そして考えていたことを口にした。
「実は私もそれを今から話そうとしていたんだよ。……こちらこそ申し訳ない話でね、打ち上げは今日明日の話というでは無くなってしまった」
「……へ?」
何も聞かされていない茉理は驚くが、一郎はそれを無視する。
――上手く芝居にあわせてくれよ?
そう念じながら。
「今回の件は流石にヴィオールに対する報告義務が生じる。たとえ囮だったとしても、チェリーが巻き込まれたことには違いないからね。それだけで始末書モノなんだよ。一刻も早く戻ってお偉方に釈明しないと私の首が飛んでしまう。……物理的にね?」
一郎の物騒な言葉にジークはどこか呆けた顔で頷くだけだ。
一方マリアはというと訝し気な顔で首を傾げた。茉理と一郎が現実世界の住人であると知っている彼女からすれば、今の彼の言葉が最初から最後までウソだと気付いている。だが一郎自身もマリアがそのウソに気付いていることぐらい気付いている。そのことも全て含め、一郎はマリアを真剣な顔で見つめ告げた。
「今から一旦、私たちは商業自治区を離れる。だけど近いうちに必ずここに戻ってくるつもりだ。そのときはどうか、笑顔の二人で出迎えて欲しい。……そしてそのときは打ち上げと再会を兼ねた大宴会をしよう!」
一郎が伝えたかったのは、たとえ時間がかかっても二人でしっかりと話し合って欲しいということ。また四人で楽しい冒険がしたいのだ、と。
マリアにもその意図が通じたようで、瞳に理解の旨を浮かべながら小さく頷いた。
それを見届けた一郎は、今度はジークに近付く。そして彼の肩をしっかり掴むと、何度も揺さぶった。珍しい『ヨハン』の姿に彼も思うところがあったのだろう、彼はたった一度だけ、だけど大きく頷いた。
――頼んだぞ。俺の主人公!
男二人が見つめ合っている横では、目を潤ませた茉理がマリアを抱きしめていた。そして彼女の耳元で囁くのが微かに聞こえた。
「前にも言ったけど、私は何があってもマリアの味方なんだからね?」
マリアも感極まったのか腕にぎゅっと力を籠めて茉理を抱きしめ返し、小さく「ありがとう」と呟いた。一郎と茉理は目で示し合わすとジークとマリアの二人を裏庭に残し、夜明けの裏路地へと姿を消した。
☆
「……あの二人、本当に大丈夫だよね?」
「あぁ、ジークを信じてやってくれ。アイツは決めるときは決める男だ」
一郎の珍しく力強い言葉に茉理は少々驚くも、ジークのことを信頼している気持ちは彼女も同じ。後ろ髪をひかれながらも決して振り返ることなく、毅然と前を向いて歩いた。それで何を勘違いしたのか、一郎がどこか慰めるような顔をして茉理の頭を撫で始める。
本音を言えば『自分はそんなに安い女じゃない』と手を叩いてやりたいところだったが、その温かさが妙に心地良かったのでそのまま撫でさせておくことにした。
ひとしきり撫でて気が済んだのか、一郎は懐からレコーダーを取り出す。帰る準備だ。
「……もういいの? ひと眠りしてからの方が良くない? 二日間徹夜で御者やってたんだから疲れてるでしょ?」
茉理は隣で軽く寝ていたから元気だ。でも一郎は違う。
「……あぁ、……まぁ、そうだな」
彼は立ち止まると、まだ藍色の空を見上げて沈黙する。
やがて「……よし」と聞こえるか聞こえないかの小さい呟きがあり、深呼吸してからレコーダーを口元に当てた。
「…………『徹夜だった一郎は茉理から頬にキスをされると、一晩ぐっすり眠ったかのようにすっきりとした頭になった』っと。…………じゃあ、頼む」
一郎は少し屈むと頬を茉理に向って突き出した。その何とも思っていないかのような澄まし顔がムカつく。担当編集者としては仕事をしてもらわないと困る。でも純情乙女としては……。
茉理はしばらくの葛藤ののち――。
「調子に乗るな!」
一郎のボディに渾身の一撃をお見舞いするといういつもの選択をした。
「ウボァ!」
悶絶して膝を付く一郎。茉理は屈むとその横顔にさっと唇をつける。
「これでいいんでしょ!?」
茉理は腕を引っ張って一郎を起こすと、さっさといつもの路地裏に進む。彼の得意げな顔を見るのも自分の顔を見せるのも恥ずかし過ぎた。
だからその後ろで、まさか本当にキスされるとは夢にも思っていなかった一郎が立ち尽くしていたことに気付くことはなかった。彼が頬も耳も額も真っ赤にしていたのは、日の出を告げる朝焼けとは関係はない。




