守ってあげたい
いつものように、また狼と共に出かけてしまうと思われた国主は、しかしこの日の朝ばかりはようすが違っていた。
「…………」
なんだろう。
食事の片づけをしながら、柊は一心に投げかけられる視線が気になって思わず手が震えるのを隠せなかった。
おかげで傍目からはずいぶんとゆっくりした動作に映っただろう。
最後に床を軽く拭いて、仕事をすべて済ませると所在無さに汗がじわりと浮かんでくる。
ゆったりと座る主に対して、どういう行動を取ればよいのかわからないのだ。なにぶん、人を楽しませる話術など有していないし、取柄があるとしたら家の雑事をこなせるくらい。
どうしよう。どうしよう……。
とっくにきれいになった布を何度も洗っていると、手が真っ赤になってしまった。さすがにこれ以上の時間稼ぎは無理と思ったか、諦めてうつむいたまま床に座った。
「え……、わっ」
すると、すぐに肘を持ち上げられて紫の瞳と対峙することになる。
「あ。な、なんでしょうか……」
柊の足は宙に浮き、すでに床からは遠く離れている。下から黒狗が心配そうに鳴いた。
戸惑う柊をなんと思ったか、主はその華奢な体を無言で肩に担ぎ上げた。
「ひゃっ……」
叫びは小さかったが、驚きはそれに比例しない。
主は人間ひとりを担いでいるとは思えないほどしっかりした歩で、そのまま扉に向かう。深い雪を踏みしめても、その足取りが乱れることはなかった。主の足元だけは幻の雪ではないのかと思うほど、一歩一歩が実に軽やかだ。
柊はあまりのことに絶句しながらも、次々とつくられていく足跡に胸をときめかせた。狼と狗が二匹ずつ、周りを踊るように跳ねている。
世界はやはり黒と白が基本で、悩みや不安、飢えや劣等感など今まで柊を苦しめていたものが実に些少で雑多なことのように思えてくる。
「はは……」
焔がつまずいて、雪原に大きな穴を開けた。篝が急いでそれに駆け寄り―――。
柊が笑うと、すぐ横の真っ白な髪が揺れた。硬い針のような髪だけれど、不思議と頬に寄せても痛くはない。痛くはないのだ。
つん、と目の奥が熱くなった。
国主さま、俺は。俺はもしかしたら…………。
突然に揺れがおさまり、柊は慌てて体を捻って前を見た。
「…………あ」
大河の横に小さな池のようなものがあり、目の錯覚かと思われたが、明らかにその場所から白い湯気が上がっている。川の水は冷え冷えと粛々と流れており、この明るい日差しがなかったならば、ともすれば信じ難い冗談のような光景だ。
もちろん見たことはなかったが、昔聞きかじった話を思い出す。
「温泉……?」
問いはそのまま大気に溶けて、湯気さながらぼんやりと消えていく。そのかわり、勢いで直視してしまった主の顔がどことなく柔らかく崩れている。
「……っ」
柊は慌てて視線を外した。長々と続く足跡の先には、もう屋敷の影すら見えない。上気した頬が冷めることはなさそうだった。それを温かな湯のせいにして、柊は片手で口を覆った。そうしなければ、なにかを叫びだしてしまいそうだったから。
「や、あの、いいですっ。俺、自分で脱ぎますからっ」
柊は失念していた。温泉ということは、裸になるということで。必然的にこの呪わしい体を主に晒さなければいけないのだ。
「…………」
無表情で首を傾げる国主から欲望の片鱗はうかがえない。当たり前だ。両性というだけで真っ先に性の対象にされる、そのことが許せなくて今まで必死に男として生きてきたのだし、それにもともと自分にその手の魅力があると思ったこともない。
子どものときから母が毎日言っていたことば。
お前を、狂った国主になんか渡してたまるものですか。
柊は暗い目でつぶやく母に、いつも「そうだね」と笑っていたが、内心では己が一瞬でも主を慰めることができたならすばらしいことではないか、と夢見ていた。
だが、現実は柊にそれほど驕ることも自惚れることも許さなかった。
厳しい毎日の生活で、髪も肌もぼろぼろになり、いつも血色のない顔で薄暗い通りを往復していた。
起きて、石畳を蹴って、芋を剥いて、叱られて、少し食べて、少し眠る。
ずっとその繰り返し。
「…………」
最後の一枚を、雪を払った石の上に畳んで置いて、柊は決意したようにゆっくりと湯に足を踏み入れた。
ありがたいことに、辺りは湯気がけぶるほどで、この骨だらけの情けない体を僅かながら隠してくれている。
あの牢屋のような王宮でひとりで入ったときとはまるで違う。重い枷が取れていく充足感に、柊は知らず嘆息した。
あの街で。
もうひっそりと息絶えていたかもしれないのに。
こんなところで、あろうことか主と共に温泉に浸かっている。
冷静に考えるとほんとうに嘘みたいな話だ。
「国主さま」
気がつけば、大きな黒い影が近づいてくるのがわかった。
「ありがとうございます」
礼を言って、しかしやはりその影はぼやけている。湯気のせいだと、柊はごまかした。
「ええと……」
嘘、だろう?
柊は、せっかくほぐされた体を氷のように固まらせて息を止めた。
なにがおもしろいのか、国主は柊を後ろ抱きに引き寄せてしばらく湯を堪能していたのだが、
な、なにか、当たっている。
冷たい汗が頬を流れる。
柊はこの病的な白い肌のせいで女からも、もちろん男からもまったく相手にされることはなく、性的な対象にされたことなど皆無だった。だが、開けっぴろげな料理長と下世話な客のおかげで一般的な知識だけは得ているつもりだった。
「あ……の……」
それでもにわかには信じ難い。
「あのっ」
決意を込めて、主に訴えようとしたとき、
「…………」
熱い吐息が耳にかかって、思わず立ち上がってしまった。
ざばりと波打つ湯が主にかかったことも、恐れ多くも貧弱な尻を向けていることも、気にかける余裕が頭のなかから一掃されている。
「か、篝、焔っ。毛を、梳いてやるから、なっ!」
腰に下げていた櫛は、折り畳まれた服と同じ場所に置いてある。辿り着くまでに三回ほど足を滑らせて、すっかり茹ってしまった柊は黒狗の瞳よりも更に赤くなって獣たちを心配させた。
毛をそのまま流すために、川の流れと融合しているところまで移動した。一心不乱に二匹の毛を梳いてやり、勢いで狼たちにも強引に付き合わせる。ぐるぐると喉が大きく鳴り、その音に合わせるように柊の腕が上下していく。獣は嬉しそうななかにも、気遣わしげな目線を柊の背後に絶えず送っていた。
もちろん、その先には物言わぬ国主がいるのだろう。
これでは、先ほどと同じだ。
柊は最後の一匹の尻尾の部分をやけに丁寧に梳きながら、これが終わったらいったいどうしようかとそればかり考えていた。
ずっと立っていたせいで、のぼせた体はすっかり冷めてしまい、手を止めてからようやく震えている己に気づいた。
とりあえずは。
ゆっくりしゃがんでまた湯に体を預けて、考えるのはそれからでも遅くはない。
そうして恐る恐る振り返ると、
「えっ? あっ」
紫の目をしたこの上もなく高貴な獣が柊の目の前まで迫っていた。
「国主さま……」
あの、と続けようとして胸にちりっと刺すような痛みが走った。あまりの驚きに、心臓のほうが根を上げてしまったようである。
一瞬、顔を歪ませたのに、主は気づいてしまっただろうか。
細く静かに息を吐きながら、柊は思い出した。
そうだ、自分は使い捨てのように差し向けられた存在でしかない。
まったく理解できないが、国主が己を欲するというのなら、喜んで身を捧げるべきなのだ。何様だと思っていたのか、ひどく恥ずかしい。
肩の力が抜けた。
猛獣を助けようとして自分を食わせるとき、人はもしかしたらこんなふうにとても穏やかになるのかもしれない。
手から櫛が湯のなかに落ちた音を聞いた。
しかし、いつまで経っても衝撃は襲ってこない。
不思議に思って目を開けると、主が大事そうに落としたはずの櫛を柊に向かって差し出している。
「……あの?」
混乱した。
変わらず呆然と突っ立っている柊の右手に、黒い大男は焦れたように櫛を握らせる。そうしてなにかを期待した目で見上げてくるのだ。
もしかして……。
柊は、嗚咽を飲み込むのに必死だった。
「順番、待ってたのか?」
言うと、今度は明らかに笑みだと分かる表情をつくった。
主よ、あなたは……、お前は、なんて、ばかな奴なんだ。
昨夜の主の行動も、ようやくわかった。
狗や狼を羨ましがる国主なんて、聞いたこともない。ましてや、こんな痩せぎすの少年に、ただ毛を梳いてもらうためだけにじっと待っている、そんな間抜けな神など。
「おま……、ほんとに、情けない、やつだな……」
柊は右手のなかの木の柄をぎゅっと握り締めたまま、ぱたぱたと涙を落とした。それを主が不思議そうに見上げてくるのだが、視界が歪んで確かめることはできなかった。
ただ、胸が痛い。
「黒斗真」
ぴくり、と眼下の黒い影が大きく揺れる。
冬節から、国主の名を紙に記された。呼んでやってほしいと請われ、宰相ですらその名を呼ぶことができないのに己が口にすることはないだろうと思っていた。
どんな顔をしている?
こんな、出来損ないの両性などに呼ばれて、いったいどんな気持ちだろう。
お前のほうがずっと強いのに、不思議だな。俺は、守りたくなっている。
俺は、お前のことを、愛しはじめているのかもしれない。