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北路万里を征く  作者: 延珠
8/15

ぬくもりを感じたとき

 な、なんでこんなことに……。


 ひいらぎは眠気が一気に遠ざかるのを認めつつも、どこか現実逃避したい己を責めることができなかった。





 頬に当たる毛がくすぐったくて、無意識に手を伸ばして撫でてやる。固い感触のそれは、指に心地よく流れ、白い肌を優しく刺激する。


「う……ん」


 再び、頬に擦り寄るように押しつけられ、しかたがない、とばかりに今度はやや乱暴に掻き回してやった。


 …………ふと。小さな指に触れる温かな皮膚。


 なんだろうこれは、と思いながら滑らかな肌を辿っていくと、ある突起物にぶつかる。


「…………?」


 薄く、ひらひらしていて、しばらく弄んでいるうちに耳であることがわかった。


 そうか、耳か。


 疑問が解けて、柊は夢見心地に満足げな笑みを浮かべる。


 耳……耳……、


「みみっ!?」


 目を開けて、驚愕にことばを失った。


 柊に甘えるように寄せられる巨躯は、体は黒くとも髪の毛は雪よりも明るい色を見せている。


 慌てて辺りを見渡すと、少し離れた場所に獣が四匹折り重なるように眠りを貪っていた。柊は勇気を振り絞ってもう一度眼下に横たわる人に視線を戻す。


 もはや疑うべくもない。


「こ、国主さま……?」





 あの夜。


 かがりほむらが戻ってから、柊は自分のことはすべて後回しにして二匹の黒狗の世話に専心した。体を拭いてやり、香辛料を除いた肉を手づから与え、たっぷりの時間をかけて櫛で毛を梳いてやる。


 そのあいだ、主と狼の視線を受けていることには気づいていた。


 手伝いもしないし、邪魔もしなかったが、ただ飽きもせず一部始終を見守っている。


 彼らの意図を汲み取ることができないまま、柊は部屋の隅を借りて眠ることにした。薪の火は消したが、大きな暖炉の炎があるおかげと、黒狗たちに両側から囲まれていたせいでちっとも冷気を感じない。


 物言わぬ国主の視線から逃げるように、柊は一応の断りを入れてから眠りについた。


 それがほんの二日前の出来事だ。遥か昔に思えてしかたがなかったけれど。





 次の日、肉の焦げる臭いで目を覚ます。


 どうやら、朝も昼も夜も、毎日同じ献立のようだった。肉と木の実だけ。


 内心、辟易しながらも大人しく席に着く。さすがに木の実を齧ることしかできなかったが。


 味のついた皮を剥いだ肉を黒狗に与えていると、主は物言わず出かけていってしまった。


 柊は慌てて追いかけようとするが、三つの影はすでに小さくなっており、そりを失くした身ではとても追いつくことなどできそうにない。それに、ついていっても役に立たないだろう。恐らく、彼らは狩りに行ったのだ。


「どうしようか……」


 柊のできることと言ったら限られている。


 物がない分、整然としているようだけれど、どことなく埃っぽいのは否めない。


「よしっ!」


 柊は決意を込めて部屋を見回した。今日は大掃除だ。





「うわっ、くすぐったいって。わっ、わっ、やめろ」


 広い部屋を隅から隅まで拭き清めても、時間はまだ有り余るほどだった。


 日の光に誘われて外に出ると、眩しいほどに光り輝く風景が柊を迎える。


「わあ……」


 雪がこれほど明るく瞳に映るものだとは知らなかった。街ではいつもどんよりと曇った空から降り落ちるばかりで、人々をより陰鬱にさせるだけだったから。


 小さな屋敷の後ろには、高い山が聳え立っている。柊を三人ほど集めたような太い幹の木がまっすぐに天に向かって伸びていた。


 清廉な空気を吸い込んで、ゆっくり息を吐く。


 驚くほど気分がよかった。もやもやしたところが一掃されて、頭が冴え渡っている。


 それがわかるのか、黒狗たちも嬉しそうに柊にじゃれついてくる。遊んでくれとばかりに尻尾を千切れんばかりに振りながら、それでもやや遠慮気味に覆いかぶさってきた。


「あは。こら、やめろって。おい、なあ……」


 勢いよく顔を舐め上げられながら、柊は身をよじって応戦する。


 こんなに笑ったのは久しぶりかもしれない。


 誰に憚ることなく大声ではしゃぐ。柊がようやく年相応に見えた瞬間だった。


 しかし、不意にある生き物の気配に振り返ると、二匹の狼が静かに近づいてきたので笑い声をしばし咽喉に留める。


 黒狗は明らかに体を硬直させたが、柊は今度こそ「大丈夫だよ」と頭を撫でてやった。殺気がまったく感じられない。


「おかえり。お疲れさま」


 柊が笑いかけると、戸惑ったように顔を少し傾ける。


 その動作が思いのほか可愛く映ったので、意識せずに足を進めて首元を撫でてやった。


 うっとりと細められる瞳。よく見ると、濃い緑色をしている。残してきた母たちが思い出されて、柊は完全に狼に対する恐怖心を取り去っていた。





 初めは戸惑っていた四匹も、次第に柊を中心にして距離が縮まっていく。部屋でやると毛が飛び散るから、今日はここで梳いてやろうかな、と櫛を取りに戻ろうとしたときだった。


 ふと視線に気づくと、黒い大男が丘陵の木立に手をかけて、じっとこちらを見下ろしているのがわかった。


「……は」


 笑ったまま、表情を止めた柊だったが、主はしばらく無言で四匹とひとりがからまっているのを見物した後は視線を逸らして山の中に分け入ってしまった。


 大きな背中が消えると、狼たちが鼻を鳴らす。悲しそうな、なにかに怯えているような、潤んだ瞳で柊になにかを伝えようとしているかのようだ。


「……行っちゃったね、お前たちのご主人……」


 友人を取られたみたいで気分を害したのだろうか。森に入ったのはきっと引き続き今晩の獲物を獲りに行ったのに違いないだろう。


「えっと……お前たち、ついていかなくていいのか?」


 聞いても、狼たちは柊のそばを離れようとしない。


 ほんとうに、朝からひどく体調がよいのだ。もうすぐ心臓が止まってしまう人間の体とは思えなかった。


 食事の支度でもして待っていようか。さすがに肉だけの生活はあまり体にいいとは思えない。


 そうだ、今日は天気もいいし、雪原に木の枝を立てて洗濯物を干したら案外乾くかもしれないな。


 柊は自分の考えにほくそえむと、走り出さないように気をつけて屋敷まで急いだ。


 体が面白いほど軽く動く。


 雪を金属製の盥に入れて火にかけ水をつくっては、次々と汚れた布を洗っていく。目についたものをおおかた洗い終えてから偶然見つけた食料庫で、柊は期待以上の収穫を得ることとなる。


 芋類と、小麦粉。塩水に漬けられた卵まである。


 そんなに古いものではない。


「いったい、誰が……」


 柊の驚きは当然だったが、もちろん答えてくれる者などいない。


 くん、と臭いを嗅いでみる。悪いものではなさそうだ。


 これ以上疑ってもしようがない。そもそも、自分がこの場にいることすら嘘みたいなものなのだから、と柊は開き直って馴染みの野菜をつかんだ。





 せめて主食になるようにと、芋をすり潰して薄く焼いたものを主に差し出した。


「ど、どうぞ……」


 薄餅を持つ手が少し震える。


 心配そうに黒狗が鳴く。狼の荒い鼻息も何度か聞いたのちに、両の手のひらを覆っていたものが消えた。


「あ……」


 食べてくれた……。


 柊が感動したのも無理はない。このような生活をしているとは言え、相手は一国の主だ。玄武の神だ。本来なら、じかに目通りすることもできない、整然なる身分の差が存在する。同じ食卓につけることすらあり得ないのだ。


 だが、なんの運命のいたずらか、柊は確かに今、主のいちばん近いところに座って彼を見つめている。


 主が問題なく王宮に座し、柊がもう少し見目よく生まれたならば、もしかしたらふたりはもっと早くに自然と側にいたのかもしれない。


 何人なんぴとも訪れない山に囲まれた辺境の屋敷に、四匹の獣が寝そべるなかで静かに食事をしている。聞こえるのは火が弾ける音と、一定に繰り返される息遣い。


 生きているんだなあ、俺は。


 柊は涙ぐみそうになって、急いで袖で目元を拭った。


 瞬きを重ねた先に、空になった瓶が転がっている。巨大な甕から移してきた、白濁した酒だった。昨夜も主があおっていたのを思い出して用意をしていたのだが、どうやら量が足りなかったようだ。


 好奇心に、指を浸けて舐めてみたが、飛び上がりそうなほど強い酒だった。それを水でも飲むかのように杯を傾ける主を、柊は改めて崇拝を込めた眼差しで見やった。


 白い陶器の瓶をつかみ、外に出て行こうとする柊を、思いがけなくも主が引き止める。


「えっ」


 細い二の腕を簡単に包み込んでしまう大きな手のひら。


「あの……、俺、酒を入れに……」


 綿を詰めた上着越しとは言え、初めて触れる主の体温に、柊は動揺した。


 酷使している心臓が破裂しそうに大きく跳ねる。


「…………」


 しばらく覗き込むように柊の瞳を直視していた主だったが、おもむろにもう片方の手で黄色い更に大きな瓶を柊の前に突き出した。


 入り口から、ぷんと香るのは、これも相当に強い酒のようだった。柊が空の瓶を置き、両手でその黄色い瓶を支え持つと、主は至極ご満悦の体で口元を緩める。


 ……わっ…………。


 柊にとっては、見ることはないのかと思われた主の笑みだ。顔に血が上り、湯気が出てきそうなほどで、隠すように顔をうつむけてやがて差し出された杯に酒を注いだ。


 気に入ったのか、主は何度も何度も柊に酒を注がせる。


 おかげで、一口も飲んでいないくせに柊はその香りだけですっかり酔っ払ってしまった。





 ……だから、どうやって寝入ったのか覚えていない。


 もしかしたら、恐れ多くて考えたくもないが、主に凭れかかってそのまま意識を失ったのではないだろうか。


 部屋にはまだ強い酒の芳香が漂っており、それだけでまた酔ってしまいそうだった。


「こ、国主さま……」


 震える手で、柊は恐る恐るその白髪を撫でた。短く刈り上げられた髪は、その整った顔を隠すこともない。安らかな寝息をたてる主はなぜだか子どものようで。


「…………」


 柊は主の紫の瞳が閉じられているのをよいことに、初めて穏やかな心で国主を見つめた。


 神の化身。北の王。


 精神を病み、人を忌み嫌ってこのような僻地に身を隠したのだという。


 再び身を横たえた柊は、試しにその厚い胸板に頬を寄せてみた。


 う、わ……。


 鋼のような固さに、やはり己とはまったく違う生物なのだと思わざるを得ない。半分は男だと自負していた心が、あっけなく崩れていく。


 この人に比べたら、俺はよほど脆弱な動物だと思われているんだろうな。


 柊は笑った。悔しいという前に、おかしさが勝る。


 こんな立派な国主さまが、俺のような両性に体を預けてくるなんて。考えれば考えるほど滑稽だ。


 まだ、外は静寂を保っている。鳥が鳴き出すのもしばし時を待たねばならぬだろう。


 柊は再び瞼を落とす。少年は、まだ気づいていなかった。寒さも孤独も不安も感じずに朝を迎えたのは、これが初めてだったことを。

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