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北路万里を征く  作者: 延珠
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弱者の祈り

 あの、殺気だらけの兵士に剣を向けられてもこれほど身が縮み上がるような思いは沸いてこなかった。


 黒い影は三つに分かれ、目に見えるなかに彼らだけが確かな色を伴って存在していた。


 まだ、街の大通りを端から端まで測ったくらいの距離がある。それでも、相手がどれほどの巨躯を誇るのかは見て明らかだった。


 北の民は、他国と比べてもその体が大きいことで有名なのだという。だからこそひいらぎは異質だったわけだが、近づいてくる男は今まで目にしたことがないほど背が高い。両脇に従えるのは、黒狗よりも更にひとまわりもふたまわりも大きな黒狼だった。


 かがりほむらは、その赤い目に恐怖を浮かべながら弱弱しく鼻を鳴らす。


 大丈夫だよ、と慰めることができない。なぜなら、柊こそが息も止めて、せめて倒れこまないようにと必死だったからだ。


「こ、国主さま……?」


 柊を遥か上空から見下ろす男は、宮廷の主とは思えないほどの軽装で、柊はもちろん見たことなどなかったが王というよりも山賊の頭と言われたほうがまだ信じられる。肩には先ほど仕留めたのか、まだ温かそうな獣を担いでおり、感情を失ったような紫の瞳が向けられるだけだ。


 無言で対峙しながら、柊にとっては永遠とも思える時間がただ流れていく。


 だから、男の傍らの狼が低く唸り声を上げてようやく我に返ったほどだった。


「あっ…………」


 恐る恐る狼を見やると、こちらは敵対心を隠そうともせず小さな両性を見下ろしてくる。二匹の狼は、さすがに巨大すぎるほどの獣ではあったが、いかんせん横にいる男の存在感が大きすぎるためにまだ少しは落ち着いて観察できたのはせめてもの慰めだった。


「あの、俺っ。柊って言います。こ、国主さまに、会いに来たんです。あの……王宮に、お戻りになってほしくてっ。あ、あのっ!」


 紫の目をした男は、無表情ながらじっと柊を見ていたが、ふと空を見上げて突然に踵を返した。


「こ、国主さまっ」


 驚いたのは柊だ。


 確かに視線はかち合ったようだけれども、とてもことばが通じているふうには思えない。


 冬節どうせつの涙が記憶も鮮やかに思い出される。あの老人のことばを、主に伝えなければならないのに。


「あのっ、待って……待ってくださいっ」


 必死に追いかけようとするが、雪に太ももまで埋まっている状態では歩くことすら困難だ。反して、男と狼たちは平然と歩を進めていく。まるで彼らの周りだけ雪が空気ほど軽くなっているみたいに。


 柊は呆然と、彼らを見送ることしかできない。


 こ、こんなことって……。


 ただ突っ立っているだけでも、ようやく拝顔できた主と思しき男との距離は確実に広がっていく。


 国主さま、と叫びたいのに咽喉がつかえて声にならない。


 どうしよう。どうしよう……。どうしたら……。


 べろりと頬を舐められて、柊は己が泣いていることに気づいた。


 中立市にまで赴いて、空手で帰ってきた虚しさが再び胸に蘇る。


 俺は、なんて無力なのだろう。


「ひ……」


 情けなくも嗚咽が雪に溶けたとき、ふと男がこちらを振り返った。


「…………」


 しばし絡み合う瞳。


 その長い足が完全に動かなくなったのを見て、柊は涙を止めた。


 慌てて、洞窟を振り返る。と同時に、黒狗たちが柊の視線の先まで走っていく。木で組まれたそりは、奇跡的に無事だった。簡単に千切れそうなほどの古い革紐を咥えて、柊の元まで届けた獣の瞳は誇らしげに輝いている。


「ありがとう」


 柊のことばは掠れて小さかったが、黒狗は嬉しそうに首を突き出した。紐が装着されると、早く乗れとばかりに吼える。


「うん」


 緩やかにそりが雪原の上に滑らかな線を描き始めると、主はまた視線を前に戻して歩き出した。


 追いつかないように、柊たちはその後ろを静かについていく。


 昨夜の嵐が嘘のような青空の下、ただ雪の踏まれる音だけが響いていた。





 しかし、天は気まぐれだった。


 日が南中に昇る前にまた大気が荒れ始め、石を積まれた簡素な屋敷に辿り着いたときには肺が凍りつきそうになっていた。


 王宮とは比較にならないほどの小さな居だったが、さすがにこれほどの最北の地に建っているだけあって悪天候をものともしない堅牢な造りであることは疑いもなかった。


 …………はあ。


 内心、どこに行くのかと不安に思っていたせいもあって、柊は屋敷を前にほっと胸を撫で下ろす。


 重厚な扉が、軋むような音とともに開けられる。その先に小さな灯りを認めて、嬉しさに笑みを浮かべそうになる。そのまま閉められることはなかったから、入ってもいいらしいと自分を無理やり納得させながらそりから足を下ろす。


 そのときだった。


 ウオンッ。


 突然に振り向いた狼たちが、柊を覆ってしまうような体躯を伸ばして吼えたてたのだ。


 キャンッ、と切なげな叫びを最後に、柊の元から黒狗が飛ぶ勢いで走り去ってしまう。


「……か、が……ほむ……ら」


 背中から、温もりが遠ざかっていく。ゆっくりと振り返ると、そこには深い闇だけが柊を見つめており、そのなかを狂ったように舞う雪が完全に可哀想な二匹の狗を隠してしまった。


「…………」


 咄嗟に、次に行なうべき動作を忘れる。


 狼の尻尾が納まってから、扉が閉まった。だんだん細くなる灯りに同調するかのように、柊の心臓が握りつぶされるかのように縮んでいく。


「どうして……。なんで、いつもこんな……」


 自然と、膝が雪に埋まる。しかし、そのまま体が屋敷に向かって進んでいくのは、まだ残っていたもう一匹の狼が柊の上衣を咥えて引きずっていったからだ。


 柊は、ほんとはもう一度名を呼びたかった。しかし今度こそ彼の気管は寒さに動かなくなってしまい、再び明るさを頬に受けたときは指の一本も思い通りにならなかった。


 柊は紫の瞳を認めて、心のなかで思わずつぶやいていた。


 国主さま、なぜですか。なぜですか……。


 なぜこの世には、強いものと弱いものがいるのでしょうか。


 しかし主は相変わらず目を細めることすらしない。顔の筋肉がすべて凍りついてしまっているかのようだ。もちろんそこからはなんの感情をも読み取ることができなかった。





 無言で差し出された肉を、拒む気力もなかった。


 しばらく片手でその重さに耐えていたが、やがて体力に負けて静かに木の器の上に置いてしまった。


 主はそんな柊のようすに一瞬だけ動きを止めたが、すぐにまた視線を外して食事を再開した。


「…………」


 目の前には、大量の肉と、無造作に転がった木の実が煌々と燃え上がる火に照らされて柊の胃に納められるのを待っていた。


 しかし、まだ齧りもしていないうちから、胸やけがしてきた。


 元々肉などほとんど食べたことがないし、赤い実は黒狗を思い出して手に取ることができない。


 篝、焔。今、どうしているんだろう。


 柊は黒狗が気になって食事どころではなかった。もちろん空腹のはずだが、とても食べる気がしない。


「…………」


 じっと座り込む柊を目に映しながら、主はただ黙々と肉を噛み砕いていった。


 なにか話しかけようとして、やめてしまった。


 もしかしたら、主は話すことができないのかもしれない。


 信じられないけれど、北の国に伝わる話が真実ならば、この大男は三百年か四百年か、気の遠くなるような長い時をたったひとりで過ごしてきたのだ。ことばを忘れてしまったとしても不思議はない。


 パチパチと木が弾ける音がして、その合間に外の風が唸るのが聞こえる。


 こうして主と会えたのだから、柊はもっと己を誇ってもいいくらいだ。恐らく、ここまで辿り着いたのは自分だけしかいないはずだから。


 どんな屈強な兵士や、どんな妖艶な美女ですら成し遂げられなかったことを、やってのけたのだから。


「…………」


 そう思いながらも、柊の心は重く沈む。片道だけの命だった黒狗たち。予定通りに、彼らはもうすぐこの極寒の闇夜に命を落とすだろう。弱い生き物を踏み台に、大きなことを成し遂げようなどとは思わない。そんなことをするくらいなら、自分はここには来なかった。きっと、来なかった。


「…………」


 また、火が小さく跳ねた。


「…………」


 遠くから、響いてくる風音。


「…………」


 柊は、立ち上がった。


 主も狼も顧みることなく、扉に向かう。


「篝! 焔!」


 一歩、雪に素足を投げ出せば、赤い四つの瞳が飛び込んできた。


「よかった。よかったよ……」


 片腕だけでは狗の首に半分しか回せない。しかしその細い体は、黒狗にとってどれほど偉大だったろう。


 また、怯えたように鳴いた赤い目の先に主が無言で立っている。


「…………」


 柊はなにも言わない。


「…………」


 男も、静かに小さな生き物たちを見つめるだけだ。動こうとはしない。


 柊はゆっくりと立ち上がった。その手の甲に、柔らかな舌が触れる。


 今度こそ、扉は閉められることはなかった。

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