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北路万里を征く  作者: 延珠
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あたたかな雪

 自分では、叫んでいるつもりだった。


 狂ったように舞う雪と風に出迎えられたひいらぎたちは、果たして自分たちが一歩でも進んでいるかどうかすらわからなくなっていた。


 真っ黒な巨躯は、すぐ前にいるはずなのに影すらも見えない。


 睫毛は凍り、耳の中は雪を埋め込まれたかのようになにも聞こえない。いや、空気を切り裂く凄まじいほどの轟音に麻痺してしまっているのかもしれなかった。


「か、かがり、ほむらっ」


 柊はすっかり固まってしまった手のひらがつかむ紐の先にいるであろう二匹を思って、懸命に声を張り上げる。


 もう、いい。


 もう諦めよう。


 このままでは、ほんとうに命を落としてしまう。お前たちは、簡単に逝ってはいけない。いけないんだ。





 出立の前に、湯に浸した布で黒狗の恐ろしいくらいごわついている毛を拭き、その後丁寧に梳いてやった。その間、二匹は飽きもせず骨をしゃぶり続けており、気持ちよさげに目を細めていた。


 柊は笑いながら、最後は汗だくになりながらも懸命に櫛を動かした。


 町を出るころには、三者の仲はまるで親子か兄弟か、種族を超えた不思議な連帯感が生まれるまでになっていたのである。


 だが、まさか。


 出会ったばかりの人間のために、自らを顧みないほどの力を出せるのはなぜだろう。


 何度も止まれと声を張り上げた。


 もういいからと、制止を叫んだのは数え切れない。


 浮かんでくる涙はすぐに氷になって、皮膚の表面を固めていく。


 命が尽きるまで走り続けるつもりなのか。どうしてそんなことができる。


「とまれっ。お願いだから……止まって……止まってくれ……」


 柊の慟哭は、雪に埋もれた。


 ついに、ただの棒切れと化してしまった腕が、支えの紐を離してしまったのである。


 細く小さな体は、音もなく白い大地に投げ出された。背中からめりこんで、そのまま底なし沼のように落ちていく感覚が襲う。


 天を仰いでいるのに、空が見えない。


 風の道は灰色なんだな、とやけに静かに思う自分がいる。もしかしたら己の瞳が映す現像なのかもしれないけれど。


 かがりほむらは気づいただろうか。自分が突然に消えても、軽くなったことに気づかず走り続けてしまったらどうしよう。


 母さんはもう目覚めただろうか。草里そうり先生がきっとよくしてくれる。どうか愚かな子どものために悲しまないでほしいと、それだけが願いだった。


 しまも予定どおり嫁ぐことができただろうか。まず自分の幸せを考えないとだめだと思う。花嫁衣装を見ることができなかったのはほんとうに残念だった。


「…………」


 ああ。


 瞼が落ちてきた。


「…………」


 国主さま。


 あなたは、この風の刃と雪の幕に閉ざされた場所で独り、なにをお考えになっているのでしょう。どんなお気持ちで、国と民をお捨てになったのですか。


 両性は主に献上される宝と聞きます。


 こんな体でよかったら、差し上げます。すべて、差し上げます。ご迷惑かもしれないけれど、どうか、受け取ってください。その代わり、残された北の多くの人々に幸いをお届けください。


 柊はとうとうその灰色の澄んだ瞳を皮膚に隠してしまった。


 小さな体に雪は降り積もり、ひっそりとその姿を世界から隠したのだった。





 じわりじわりと血が温められていく。それが長い管を流れて、全身を駆け巡る。熱を思い出した体は、やがて覚醒へといざなわれ、柊は頬を照らす赤い揺らめきを感じて目を覆う皮を押し上げた。


「あ……」


 両側から黒狗に抱き込まれていて、すぐ横で焚き火が赤々と燃えている。


「どうして……」


 黒い壁は岩のようだ。いつの間にか洞窟で横たわっている自分がいる。


「助けて、くれたのか」


 言うと、頬を大きな舌で舐められた。嬉しそうに鳴く、その瞳には薄い水の膜が張られている。


 きっと、心配してくれたのだ。


 胸がかあっと熱くなって、柊は黒狗の胸へ頭を押し付け、長い毛の中で涙を耐えた。


 ぱたぱたと音がするのは、二匹が忙しなく尾で岩の床を叩いているからだろう。


「ありがとな……」


 ぽつり、つぶやいて、すぐ妙なことに気づく。


 焚き火だ。


 まさか、黒狗が火をつけたとは思えない。


 では、いったい、誰が……。


「環姫どの」


 呼ばれて、息が止まる。


 ほんとうに、心の蔵が動きを停止してしまうかもしれないほど驚いた。硬直した柊の耳に、洞窟じゅうに響く声がいつまでも殷々と繰り返される。


「な……な……」


 柊がもう少し冷静だったならば、篝と焔がちっとも声の主に警戒の牙を向けていないのがわかっただろう。しかし、まだ気を失わずに対峙できただけで賞賛に値する。


 黒い皮膚の老人が、笑顔を湛えて薄暗い洞窟のなか、宙に浮いて柊たちを見下ろしていた。





「驚かせてしまいましたかな」


 にっこり微笑まれて、まさかほんとうにうなずくわけにはいかない。


「い、いいえ……」


 力なく、それでも老人をしっかりと見据えながら柊は首を振った。


 あれから、その場では信じられないほどのまともな食事を用意されて、恐々と炒った豆や薄く焼かれた小麦の餅を口に入れたところだった。


 胃に物が入ると、体が生きることに向かって動き出そうとしているのがわかる。


「あの……あなたは……?」


「ああ、これは失礼した。世知庵せちあんとでも呼んでくだされ。なに、わしの侘びしい庵の名前じゃがね」


「世知庵さん……。この近くに住んでいらっしゃるのですか」


「まさか」


 老人は実に快活に笑った。柊よりもよっぽど若々しい表情だ。


「わしは届け物をしに来ただけじゃよ」


 そう言って、金属製の小さな筒が付いた鎖を、皺だらけの手のひらに乗せた。


「これは……?」


 受け取れ、という無言の圧力を感じて、柊は思わず手に取っていた。案外、ずしりと重い。


「蟲じゃ」


「へ……む、蟲っ?」


 手から滑って、地に叩きつけられそうになるのを必死で防いだ。蟲と言ったら、あの中立市まで行って手に入れようとしたものではないか。嘘か誠か、庶民の稼ぎでは一生涯働き通しても買うことはできないと聞いた。


 鈍く光る黒っぽい金属のなかに、その蟲とやらが入っているというのか。


 柊は口を閉じるのも忘れ、ただただその小さな筒を凝視していた。だが、それも老人が次に紡ぐことばに比べればまだその衝撃は小さなものだった。


「宜しいか。主に愛される前に必ず飲み込むのですぞ。さすれば無事に環姫となり、病もすべてなくなりましょう」





 愕然とした後に、なにを馬鹿なことを、と突き返そうと脳が指令を出すより早く、老人は爽やかな笑顔を乗せて消えてしまった。


 文字通り、煙のごとく消えてしまったのだ。


「…………」


 しばらく口をぱくぱく開閉しながら、手を宙で掻いたり、訴えるように黒狗に視線を迷わせていたが、


「環姫……」


 その名の重さに心が沈む。


「悪い冗談だ……」


 目が悪いのかもしれない。相当のお年寄りだったみたいだし、そうだ、きっとそうに違いない、と柊はひとりごちる。


 確かに自分は両性だけれども、なにも両性のすべてが環姫として迎えられるわけではないだろう。ただの臣として、いや側使いでもなんでも、自分はそういう身分に落ち着くべきだと思う。


 自慢じゃないが、誰かを好きになったことなどないし、愛していると告白されたこともない。中途半端な性を持ったおかげで、元よりそういった感情が欠落しているのに自分で気づいていた。


 人肌に温められてしまったものを、とりあえず失くさないようにと首に回した。突き出た鎖骨のあいだで揺れるにび色の蟲の器。こんな小さなものが、病を治したり寿命を延ばしたり老いを止めたりするなど、実際これほど間近に存在を認めても信じられるものではない。


 気がつくと、眩しい光が洞の奥にも伸びてきている。空を切る音も聞こえない。どうやら吹雪もやんだようだ。


 思わず立ち上がろうとすると、黒狗が柊の脇に頭を入れて持ち上げてくれた。


「ありがとう」


 そのまま、半ば抱えられるように外に出た。


 一面の銀世界が太陽を反射して、にわかには目を開くことができないほど眩しい。


「…………」


 黒狗が、小さく鳴いた。


 どこまでも広がる真っ白な世界の先に、ぽつりと浮かぶ小さな黒い点。初めは見間違いかと思った。しか

し、それは雪だけの視界において隠れることもなく確かに存在していた。そうしてだんだんと大きくなっていくのは、相手が近づいてきたからか、それとも柊が前に歩を進めているからか。


 鳥がすぐ真上を飛んだが、柊は気づかなかった。雪に埋もれた足が、なぜかちっとも冷たくならない。不思議だなと、そんなことを頭の隅で思っていた。

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