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北路万里を征く  作者: 延珠
5/15

終わりへの始まりに

ひいらぎ殿」


 優しく呼ばれた声の元に座す小柄な人物に、柊は思わず息を呑んだ。


「お加減は、いかがかな」


「……は、はい……」


 柔らかな口調が、滑々した肌触りの掛け布に包まれた少年を安堵させるように包み込んでいく。


 意識を失ってから、明らかに夜を越えてしまったのがわかる。


 体を取り巻く大気は、煌々と燃える火によって暖められてはいたが、窓から入り込む光は朝のものだ。いつも寒さに震え、歯がかちかち鳴る音で起き上がっていた、そのときと同じ光だ。


「…………」


 呆然と、部屋を見渡す。


 高い天井からは、巨大な寝台を覆ってしまうほどの布が垂らされている。身に触れるものと同じくらい上質であることは、その光沢でわかった。


 南から取り寄せた駱駝の毛で編まれた絨毯は、柊はもちろん知らなかったが庶民では目にすることすらできない代物だ。


 老人の腰かける椅子にも、職人が何年もかけて彫りこんだ細工が施されているのだが、そのときの柊には花びらの自然な曲線や、葉脈の細かさに驚嘆する余裕など持ち合わせていなかった。


それがし冬節どうせつと申す」


「ど、どうせつ……さま」


 発した声がかすれている。老人は流れるような動作で、傍らの瓶から薄い金色の水を杯に移した。


「どうぞ」


「あ、ありがとうございます……」


 一瞬、躊躇った後、咽喉の渇きに抗えずに唇をつけてしまった。


「…………」


 甘い。


 上品な甘さが、舌に触れた瞬間、少年は一気に杯を空けてしまった。


 突然流し入れられた液体に、体が驚いてしまったようでしばらく咳き込むことになるのだが、手にした杯はしっかりと握って離さなかった。


「お気に召されましたか」


「はい……」


 恥ずかしそうに目元を赤くする少年を、老人は笑わなかった。


「蜂蜜水というものです。甘露水と呼ぶ者もおりますが」


「は、はい」


 手のひらがじっとりと汗ばんだのを感じる。艶やかな陶器の杯を取り落とさぬよう、柊は懸命に力を集中させた。


 甘露水なんて。


 蜂蜜が市場に出回ることはまずありえない。話に聞いたことはあっても、実際見るのも口に入れるのも初めてだった。


 だから、老人が当たり前のようにもう一度瓶を傾けようとするのに、慌てて断りを入れようとして、その真剣な顔に思わずことばを飲み込んでしまう。


「柊殿。勝手ながら、ご承諾願いたき儀がございます」


 深々と頭を下げられて、視線を落とした先には、


「…………」


 芳しき澄んだ水がゆらゆらと煌めいていた。





 北の王宮から王が消えて、早数百年。


 象徴を失った国は、その加護に守られることもなく疲弊の一途を辿りつつある。


 人々はますます貧しく、気候はさらに厳しく、心は悲しいほど荒んでいく。


 主はひとり、北の奥地に身を隠しているという。


 柊は思わず全身に震えが走るのを抑えられなかった。


 まさか。


 まさか、国主さまが、ほんとうに存在していらっしゃるとは。生きて、同じ時代に息をしているとは。


 俄かには信じられない話だ。


「これまで、数百万の兵、傾城の美姫を送り込んでも、吹雪に追い返されて主の元に辿り着いた者はただのひとりもおりませぬ。恐れながら他国の主にご助勢を求めたこともございましたが、同じ結果にございました」


「……だ、だったら、俺なんか……」


「柊殿」


 力なく首を振った柊を、老人は叱咤するように呼んだ。


 目に見えて体を跳ねさせた痩せた少年を、冬節はいとおしむように見やる。


「我々は、お待ちしておったのですよ。両性さまが、この北の大地に現れてくださるのを。ずっと、ずっと、お待ち申し上げていたのですなあ……」


「だ、だからって、俺が行っても……」


「……柊殿」


「は、はいっ」


「主は、寂しいお人なのです。慰めてはくださらぬか。主を、この宮に連れ戻してはくださらぬか」


 被った布の下に見える小さな顎から、涙の筋が伸びてきて潔く床に落ちた。


 柊はしばしことばを失う。


 まさか、こんなぼろぼろの体に、まだ期待されることがあるとは。


「お、俺で、よいのなら」


 自信はない。もしかしたら、主の顔を拝む前に息絶えてしまうかもしれない。けれど、


「おお、ありがとうございまする。ありがとうございまする……」


 手に額を付けられて、そこから確かな熱が入り込んでくるのがわかり、柊は異様な高揚にも似た感情が生まれたのを認めた。





 老人は宰相という身分らしかったが、柊にとっては王宮にいる者はすべてが天上人なので、開き直ったあとは却って萎縮せずにすんだ。


 よほど多忙なのか、柊の承諾を聞いた直後に姿が消え、代わりに大勢の侍女が現れて出立の準備を整えていく。


 柊の姿を目に入れた者は皆、動揺を隠さなかった。


 両性がどれほど世間で神聖視されているかはわかっているつもりだったが、しばらくはその視線を受け止めるのが辛かった。


 しかし、必死に気づかないふりをしながら、淡淡と言われるままに体を動かした。


 卓に広げられる食事は、半分も入らなかったが、胃にあれほど詰め込んだことはなかったし、温かな湯は初め恐怖以外の何者でもなかったが、思い切って体を浸けた後は、あまりの心地良さに思わず眠ってしまうところだった。また、用意された衣は、上質の毛皮を使用した豪勢なつくりで、部屋の中で着用したときには汗が噴き出すほどだった。


 体を動かしていると、よけいなことを考えずに済む。


 柊はもう食事を残すことへの罪悪感と、すぐに冷えていく湯に感じる無情と、皮をはがれた獣の生前の姿を忘れようと、自らの時間を機械的に消費していった。





 数日、体力を回復させるために王宮に留まり、とうとう同行する黒狗くろいぬを与えられることになった。


「…………」


 目が赤い。


 二匹の黒狗は、悲しげな瞳で柊を見上げた。狗とは言っても、北の黒狗は成人男性よりもなお大きな体躯を誇る。少し立てた耳も、柊の胸にまで届いている。しかし、その体は少年に負けず骨ばっており、とても健康体には見えなかった。


 この狗に、過酷な旅をさせようと言うのか。


 連れてきた兵に投げた視線のなかから、戸惑いを悟られたのだろう、


「なにか文句があるのか。要は、北まで辿り着ければよいのだ。それくらいの力は残っている」


「でも……、病気じゃないんですか。この赤い目は……」


「だからなんだと言うんだ。黒狗がどれほど高価な生き物かわかっているのか? お前にはこれで十分だ」


「…………」


 柊は絶句した。つまりは、片道だけのための捨て駒だと言うのだ。柊を運ぶだけに使われる命。


「なら……せめて、もっと餌をあげたら……」


 そう抗議しようとして、口をつぐんだ。


 言っても無駄だ。


 柊には薄々わかっている。王宮の誰しもが、柊に期待などしていないことを。


 どうせ無駄にするものならば、病気で死にかけた狗を与えることがなぜ悪い。非難されることなどないと、皆一様に信じているのだ。


 人々から伝わる刺々しい思いは、柊の体に容赦なく突き刺さっていく。けれど、少年は決めたから。


 あの一筋の涙のために、己はこの最後の灯火を使いきろうと。


 柊は母を思った。


 報酬として、莫大な金貨を受け取っていたが、そのほとんどを草里そうり先生に渡していた。例え自分が帰らなくても、面倒を見てくれると保証してくれた。


 しまとはあれから会ってはいないが、心配してくれているだろうとは思う。


 少ないながらも人の優しさに助けられて、柊はここまで生きてきた。だから自分も、誰かのために生きてみたいのだ。


「この狗の、名前は……?」


 聞くと、兵からは馬鹿にしたような目で見られた。


「そんな不吉な獣に名づける暇人などおらぬぞ」


「そうですか」


 見上げてくる、寂しげな瞳。


 これから旅する、大切な仲間だ。こんな出来損ないの両性と運命を共にしなければいけないなんて、哀れで胸が痛くなる。


「これから、よろしくな」


 腕が千切れそうな皮袋の中から、一枚だけ抜き取った銀貨が手の熱で温められている。これで狗たちに肉でも買ってやって、そうだ、ごわごわの毛を梳いてやる櫛も上等なものを買ってやろう。


 柊は少し膝を折って、獣の頭を両肩に乗せて抱きこんだ。


「名前をつけてあげるよ。お前は、かがり


 左の狗が、小さく鳴いた。


「お前は、ほむらだ」


 右の狗は、潤んだ瞳を細めて柊の頬を舐めた。


「さあ、行こうか」


 朝の光を受けて、町は幻想的に光り輝いている。もう戻ってくることはないかもしれない。いい思い出などほとんど浮かび上がってこない。それでも柊は、眼下に広がる町を美しいと思ったし、その顔は微笑みを形づくって人々の幸いを願った。

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