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北路万里を征く  作者: 延珠
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最後に己を誇れるならば

 肺に入り込んだ冷気が、ひいらぎの血肉を少しずつ凍らせていくようだった。


 もう、己の心臓の鼓動すら聞こえない。この世のあらゆる音は、この重い空気に吸い込まれてしまって、喜びも悲しみも交じり合い今や区別もつかない。


 初めて足を踏み入れる、王宮を囲む巨木の林。


 しまが嫁入りする屋敷のあるじは、貴族と言ってもそれほど地位が高いわけではない。少し進めばすぐに、話に聞いていた造りの屋根が見えた。


「…………」


 空っぽの胃が、最後の食事とばかりに望んだためか、灰色の空から雪が舞い降りてきた。


 針のような葉に触れてから、気まぐれに哀れな少年の唇に接吻をする。


 涙すら出ない。


 少年には、もうなにもない。その骨ばかりの体にはなにも詰め込まれていないし、なにも残されていない。


 誰かを支え、感謝され、愛し、必要とされる。


 身に余る願いは、それでも、それほど大それた望みではなかったはずだ。


 幸いなことに、柊の壊れた内臓が破裂する前に少年の足は厚い鎧で覆われた兵士によって止められた。


「なんの用だ。ここは、お前の来るべき場所ではないぞ」


 知っています、と声にしようとしたが柊の最後の力は使うべき瞬間を知っている。


 ゆるゆると首を振って、泥に汚れた己の靴を目に映したとき、冬の木々の枝よりも軽い足はいとも簡単に黒い土へと転がった。


「おいっ! どういうつもりだ! この乞食め! 我らに歯向かうは、主に背くに同罪とわかっているのだろうな!」


 柊の顔ほどもある太さの剣が、鼻先を掠める距離で深々と土に突き刺さった。


 鈍い刀身の中、幽霊のような顔と、黒土と、雪が揺らめいている。相反する色は、どれだけ待っても溶け合うことはないのだ。


 白は、結局黒にはなれないのだと、こんな間際になっても思い知らされる。


 ああ、疲れた。


 柊は初めて思った。


 けれど、まだやらなければならないことがあるから、少年はもう一度貧相な己の顔に向き合う。


「……し、しま……縞は、悪くないんです……」


 口に、雪混じりの土が入り込んだ。甘く、そして苦い。





 柊が幸運だったのは、兵士がそのか細い声を拾ったのと、「縞」という名前に反応して上官に伝えたことだった。


 ふと意識を戻せば、腕を千切れるくらいに持ち上げられていた。見渡す風景が一変している。


 赤々と燃える暖炉に驚く気力はない。炎が反射する数多くの鎧の下に伸びる足が、毛の長い絨毯を踏み汚していても。


「柊ちゃん!」


 柊を現実に戻すのは、涙に咽ぶ小さな叫びだ。


「…………しま……」


 お前は馬鹿だ、そう言ってやりたかった。確実な未来を持つ者が、自分を助けてその冥加をふいにしようとするとは。


「離してあげてください! 柊ちゃんは体が弱いの! 死んでしまう!」


 縞が縋る相手は、年恰好だけを言えば彼女の父親くらいに見える。


 柊と目が合うと、困ったように薄く微笑んだ。悪い人ではないようだが、所詮虫けらをわざわざ救うというような思考を貴族は持ち合わせていない。それは別に彼の罪ではない。


 柊はともかくも安堵した。


「なんだ、この白い肌は。これでも北の民か? これが話にあった男なのか?」


 主人の傍らに立っていた兵士が、困惑したように大声を上げた。


 どうやら騒ぎを大きくしたのは王宮側で、面白半分に民を罰するはずが当てが外れたのだろう。どう見ても、柊と縞を以って不義の罪に問うことは不自然だった。


「この貧相な体はどうだ。十の子どもよりも劣るぞ」


 近づいてきた兵は失望したように、柊を見下ろした。


 男の巨体が柊の視界に暗い影を落とし、少年は渾身の力を振り絞って顎を上げた。


「縞は……ただ、俺の母を……見舞ってくれた、だけです。つ、罪は、ありません……」


 兵の口ひげがぴくりと動いたのは、柊の必死の陳情に心を留めたためではなかった。それは明らかに、弱者をいたぶる前の権力者の笑いだった。


「さて。どうするかな。どんな見てくれであっても男は男。この国で、未婚の女が夜中に異性を訪ねることの罪の重さを、よもや知らぬわけがあるまい」


「…………」


 兵の後ろで、もうよいではないか、お主の暇つぶしには付き合ってられぬぞ、というような声が響いたが、すぐに尊大な笑いにかき消される。


 柊は、ようやく自身の心臓が短い生涯に終止符を打とうとしているのに気づいた。


 どす黒い血液が噴き出すこともなく、静かに慟哭して他人に弱さを見せなかった。耐えて耐えて耐えて、使命を全うしたという自負すら感じ取れる。


 柊は己を恥じた。


 今までずっと逃げるばかりで、手に入るもののなかで生きることにしか目を向けなかった。


 母親が望まなかったというのは、言い訳にすぎない。


 ただ恐かっただけ。


 新しい強大な世界を前にして、足をすくませていただけ。


 もう、いいかもしれない。


 最後に、尊いひとりの少女を助けることができるのなら。


「俺は……」


 少年の甲高い声が、重厚な壁に跳ね返されることもなく部屋に響いた。


「俺は、両性です。……両性、です」





「なんだと……?」


 体を包む空気が変わった。


「両性と、言ったか」


 初めは感情の抜けた顔を晒していた兵士も、笑いに口を歪ませるまでに時間はかからなかった。


「ふははは! これはおもしろい冗談だ! お前は両性というものがなんというものかわかっているのか!? 世にも美しき繁栄の化身ぞ? よりによって、お前が……、な」


 いかほどの侮蔑を浴びせられても、柊は微動だにしなかった。


 信じられないのも無理はない。いちばん己に疑問を感じるのは柊だったからだ。


「ほんとう……です」


 いくら自問自答しても、結果は変わらない。


 柊は真実を告げることに、もう逃げないと誓ったのだ。


「そうか、そうか」


 くくく、と咽喉で殺しきれなかった笑いが、ことばと共に不快な旋律を奏でる。


「そこまで言うなら、確かめてやろう。その汚い服を脱がせればわかることだ」


 言われて、柊は瞬きを忘れた瞳で少女を見やった。予想どおり、驚愕に口も利けないようすだった。願うならば、自分を助けるために動いてほしくはない。そのまま、この呪われた体を目に映す不快に堪えてほしい。


 無骨な手が、まだ草の臭いが残る衣を捉えた。


 覚悟して、目を閉じようとしたとき、


「待てい!」


 天を震わす声が、愚者を一喝した。





 その人は、北の国にあってはひどく異質だった。


 柊よりもさらに小さな体の老人だ。


 頭から白い布を被っていて、僅かに口元しか見えない。深い皺が刻まれてはいるが、顎と手のひらから見て取れる肌は黒光りしていて、若さを超えた力が充満していた。


 老人の二倍ほどの背丈があるであろう兵士も、その人の姿を認めると先ほどまでの威勢をかなぐり捨てて、背筋を正した。


 緊張という線が部屋中を張り巡らされたあとも、柊だけはやはり虚ろに目玉を動かすだけだ。


 突如として現れた人物は、もちろん扉を開けて入ってきたわけではない。


 気がつけば、目の前の景色に姿を置いていたのだ。


「ど、冬節どうせつさま! な、なぜこんなところに……」


 長年の習慣か、姿勢はすぐに直せても狼狽は隠せなかったらしい。兵の震える声が老人に力なく向けられる。


「はて……。国を動かす重大なことばを聞き取ったものでな。両性と聞こえたが、わしの聞き間違いかの。老いぼれた爺の幻聴と申すか」


「と、とんでもございませぬっ!」


「ふうむ……」


 老人は柊に視線を移したようだった。瞳を見ることはできなかったが、薄い布越しからも、強大な存在感が伝わってくる。


「離せ」


「…………は?」


 間抜けな声は、柊の頭上から発せられる。


 暖炉が眩しいと思ったのは、錯覚だった。


 老人の頭部から見えない光が刃のように吹き出されるのに、薄皮一枚である目蓋の覆いはまったく役に立たなかった。


 今、柊の心臓は、どんな出来事にも反応することができなかったが、それはこの場において助けとなったようだった。


 山を割るような叱声をまともに受け止めていたならば、その鼓動は簡単に停止していたかもしれなかったから。


「その汚い手を離さぬか! もしそのお方が真に両性さまならどうする。のちのち陛下に添われたなら、本日の所業いかなる始末をつけるつもりじゃ。うぬらの首をいくつ取ってもあがないきれぬぞ。子々孫々にまで負わせる罪の、覚悟は有りや無しや!」


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