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北路万里を征く  作者: 延珠
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それでも願うのはわがままですか

 見上げて、ひいらぎは瞬きを忘れた。


 店と聞いていたから、自分が働いている料理屋の向かいにある薬屋と似たようなものだと思っていたのに。


 塔のような巨大な建物を囲む塀は高く、緩やかに曲線を描いているようだから、敷地は恐らく円形なのかもしれなかったが、少なくとも視界の中にはその端が見えない。


 何層にも重なる屋敷、いちばん上には緑のようなものが見えるから、もしかしたら木でも植えてあるのかもしれなかった。


「…………」


 柊は呆然と、首の後ろが痛くなるのを自覚するまでただ見つめていた。


 はあ。


 自然とため息が漏れる。


 中立市は温暖な気候で、ここに来るまでに外衣を二枚も脱いでいた。人々の表情や服装から、ずいぶんと裕福なようすが窺える。


 改めて自分の身なりを確かめると、場違いなほど汚い。だから、横を通った人力車が速度を緩めもせず、道路脇に立ちすくんでいた柊に砂埃を浴びさせたのも無理はなかったのかもしれない。


 人力車も、生まれて初めて見た。


 延珠亭の回りの道は広く、柊のように徒歩で訪れる者などいないようだった。


 屋敷と道の間には狭いながらも川が流れており、もちろん無頼な輩への対処だとは思うのだが、同時にその澄んだ流れが貧しい弱者の訪問をも固く拒んでいるようで切なくなる。


 美しい木立が、日の光を和らげて届けてくれている。しかし、心は反対に重く沈んでいく。


 しかたがないので、車が走る先に向かうしかない。


 半刻ほど歩いたころ、ようやく人の姿が現れた。


 そこは塀が途切れているところで、どうやら入り口らしいのだが、ようやく辿り着いてはみたものの柊はすでに目的を諦めた。


 屈強な兵士が二名ずつ左右にわかれて立っており、次々現れる人力車をあらためているようだ。


 とてもじゃないが、店に入ることすらできそうにない。


 所在無く、それでも集まっている人々の中まで近づいていった。


 すると、皆が歓声を上げたのに自然と顔を上げた。


「……あっ」


 思わず出てしまった叫びだったが、更に大きく上がった歓声に掻き消される。


 日を受けてきらきらと光る毛を持つ駱駝が前を通り過ぎていく。


 初めて見る異国の動物に、柊は度肝を抜かれてしばらく動けなかった。


「南の環姫さまだ」


 「わき」さま?


 しまのことばを思い出す。


 もちろん、それは偶然だろう。橋の下から強い風が吹き、車全体を覆っていた絢爛たる布を捲り上げたのは。


「……あ……あ」


 柊は息をのんだ。


 艶やかな肌は、同じ白でも自分のものとはまったく異なる。伏目がちの瞳を覆う長い睫毛に隠された宝石を、柊は奇跡的に見て取ることができた。


 間違って自分たちを同じ人間に生まれてきたとしか思えなかった。


 あれが……わきさま……。


 縞が言っていた少女も、あの人のようではないだろう。あんなに美しい人がそうそういては堪らない。


 足の力が完全に抜けてしまった。


 へなへなと土の上に座り込んでしまう。


「お奇麗じゃったなあ」


「冥土のいい土産になったわ」


「眼福眼福」


 人々が満足そうに背を向けていくなかで、柊だけは長い間そこを立ち去ることができなかった。





 宿代などあるわけがないので、当然野宿となる。


 しかし、幸いにも中立市は夜になっても気温はさほど下がらなかった。


 さすがに街中に堂々と寝る度胸はない。国境付近まで移動すると凍死する恐れもある。よって、柊は自然と延珠亭の近くに留まって木々の根元にそっと腰を下ろすこととなった。


「これからどうしよう……」


 店には入れなかったが、いくつかの情報は得ることができた。


 まず、蟲は薬ではない、ということ。


 純潔の者にしか寄生しない、ということ。


 薬の代金は、柊が十回生まれ返っても払いきれないものだということ。


 母は死んでしまう。


 草里そうり先生はそれが人の寿命なのだと言ってくれた。


 柊は思う。


 だったら、せめて最期くらいおいしいものを食べさせて、なんの憂いもなく幸せに過ごさせてあげたい。


 昼間見たあの環姫の、耳飾りの片方だけでも母を療養させる十分な支度金になるだろう。


 だからと言って、あの人を恨むのは間違っている。


 柊だけが辛いのではない。北の国民のほとんどが長い飢えと貧しさに耐えてきたのだ。


「どうして、国主さまは、いらっしゃらないんだろう……」


 東西南北の国を治める主とは、すなわち神。


 その存在が尊ければ尊いほど、国は栄え豊かになる。国主が不在など論外だ。しかし柊はその異常さにすっかり慣れてしまった。


「あーあ」


 寝転がっても、見えるのは延珠亭から漏れる鮮やかな光だけだ。凍る空に張りつく星星が、今は見えない。


 瞼を閉じると、草の匂いがぷんと鼻を掠める。


 一瞬口に入れようか迷って、柊は泣いた。





 なんの収穫もなく戻ったのは、発ってから三日後の夕方だった。


 まだ通りに人もまばらで、不思議と柊を見ると皆顔をしかめてなにやら指差している。


「…………」


 精いっぱいの完全防寒も、相変わらずあまり役立ってはいない。


 状況を明るくする材料はひとつも仕入れられなかった。そのことが余計に体を冷やしているのかもしれない。


 はあ……。


 吐く息は、空気に触れたそばから凍って地に落ちていくような気がした。


 たった数日見なかっただけの我が家は、なぜかいっそう寂しく、小さく脆く映った。震える手で、扉に手をかける。そのときだった。


「や、やっと帰ってきたんだね! 逃げたと思ったよ!」


「え?」


 ものすごい力で手首を掴まれる。


 目の前で鬼のような形相で柊を見下ろしているのは縞の母親だ。女ではあるが、柊よりもずっと背が高く肉付きもよい。だから、そのまま引きづられるように歩かされても、抗うこともできない。


「お、おばさんっ。ど、どうしたんですか」


「どうもこうもっ」


 叫んだ女は、しかしすぐに弱弱しく手の力を抜いた。


 解放された柊の腕は、布越しでもはっきりとわかるくらい細い。その異様な細さに女の怒りが萎えてしまったのかもしれない。


「縞が、どうかしたんですか」


 いつも明るく豪快に笑っている姿を、今の女からは感じ取れなかった。


 柊の予感は間違っていない。


 きっと、縞の身になにかあったのだ。そうでなければ、元来こういったことをする人ではないのだ。


「連れて……かれて……」


「だ、誰に」


 柊は大きな背中を見つめている。日が落ちている途中で、女の表情はもう闇に紛れてしまったが小さな声は逆によく響いた。


「領主さまに……」


「それって、縞の旦那さまですか?」


「そう」


 柊は混乱した。縞はもうすぐ嫁ぐことになっている。母親も歓喜して嫁入りの日を心待ちにしていたはずだ。


 なぜこんなに打ちひしがれているのだろう。実際、娘が去って心細くなってしまったのだろうか。


「おばさん……あの……」


 元気を出して、とでも言えばよいのか。柊にはわからなかった。


 こんな、もうすぐ死んでしまう呪われた子に慰められても、誰も喜ばないような気がしたから。


 だから、


「夜中に男を訪ねたと知られて、た、たくさんの兵隊に……つ、連れてかれちまったんだよう……」


 女の体が固い石畳の上に崩れたとき、柊はもう走り出していた。


 どうして。


 どうして自分は人を傷つけることしかできないんだろう。


 叶うならば、誰かに与える存在でありたかった。そんな人間でありたかった。




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