その道の先には
草里先生は、いつも優しい。
「残念だけど、お母さんはもう長くはないね」
柊がこんな体に生まれて、小さな頃から世話になってきた町医者だ。
昔は王宮に勤めていたというが、その古い慣習に嫌気がさして地位を捨てたという。
小さな医院を開いてすぐ、少年は彼のところにやってきた。正確に言うならば、生まれても息をしていない、と下半身を血で染めた母親が狂ったように駆け込んできたのだ。
自分はこの子と会うために町に下りてきたのかもしれない、と彼は思った。
少年にとって死はいつも身近にあり、しかし、それは彼自身の問題であって他人には当てはまらないことも知っている。
だから、母の余命を知った柊がどれほどの衝撃を受けるか想像に難くない。
いくらでも誤魔化すことはできる。
なぜなら、このままいけば恐らく柊のほうが母よりも先にこの世を去ることになるだろうから。
それでも、医者は真実を告げる。残り少ない命だから、残り少ない命だとしても、等しく尊いのだ。
医者のつぶやきは、横たわる母親よりももっと青白い柊の頬に溶けていく。その硬質的な声が発せられる胸の内を思って、柊は取り乱すという愚行をなんとか抑えることができた。
「俺と……どっちが先でしょうね」
自嘲するように少年は肩を落とす。
「……どうだろう。少なくとも、君が死んでしまったらお母さんもすぐ力尽きてしまうんじゃないかな。君はまだ若い。強い子だということも僕は知っている。だけど、お母さんは……、きっともう、疲れてしまったんだね」
そう言って、医者はずり落ちてもいない丸眼鏡の位置を調整しはじめた。
北の人間は押しなべて背が高い。はっきりとした目鼻立ちを有し、体のつくりも派手だ。その華美な風貌は暗い空の下、雪にぼやけてもなお際立っていた。
今も、母と医者の間に挟まれた自分は、なんだか打ち捨てられた人形のようだと思う。
柊と同世代の若者の中、彼ほど華奢で小さな人間など存在しない。縞のほうが背も高いし、骨格では完全に負けているくらいなのだ。だから、きっと生まれる前に死んだという父は異国人だったのに違いない、と柊は確信していた。
そのことが慰めになることはなかったけれど。
「俺のせいですね」
母はなにも語らない。
物心ついたときには、彼女はすでに子どもの薬代を捻出するため朝から晩まで働き通しだったし、事実ふたりは過去を振り返る余裕すら持たずに無茶苦茶な走りを続けてきたのだ。
「そんなふうに思っていたのかい?」
草里は、己の笑いが醜く歪んでいるのがわかった。しかし、心優しき少年はさきほどからずっとうつむいていて、いつものあのはにかんだ笑顔を見せてくれない。
だから。だから大きな図体をできるだけ縮め、叶うならばこの声が少しでも優しく届けられていることを祈るしかない。
「逆だよ。君が生まれていなければ、お母さんは旦那さんを喪った悲しみに耐えられなかったに違いないよ」
そうだ。
そう。
母は、愛していたのだ。きっと、父のことを愛していたのだ。
そうでなければ、どうして。どうしてこんな子どもを愛することができる? 母にとっては重荷以外のなにものでもない、こんな化け物を。
「こんな……あんまりです。こんな……ちっとも幸せじゃなかった」
「……」
柊は横に立つ医者の長衣を震える手でつかんだ。全体重を預けるように強く引っ張っても、草里は嫌な顔ひとつしない。
見上げたところに、瞬くふたつの瞳。縞も先生も、ほんとうにきれいな緑色の目をしている。上質な織物のような肌に、明るい瞳。こんなに美しい人間が、簡単に死んでいいはずがない。そんなことは許されない。
今は重い瞼に隠れている、母の瞳を思って、柊は思わず声を荒げていた。
「なにか、なにか方法はないんですか。薬とか……。お金は一生かかっても必ずお支払いしますから! ですから! もし、もし薬があるなら……!」
沈黙が破られたのは、気丈な女が漏らした小さな呻き声。
傍目で見てわかるほどの過剰反応をする少年に、医者は「まだ意識は戻らないようだ」と告げる。たまに自分の冷静さが呪わしい。
ひとつ、嘆息した。
「……僕は別にお金のことを心配して薬を紹介しないんじゃあない。酷なようだけど、ほんとうにもう手立てがないんだ。寿命なんだよ。諦めるしかない」
「そんな……」
泣きそうで、泣かない。空はいつも曇りで、けれどそれは雨が降る兆しではないのだ。
柊は暗い色だと嫌っていたが、草里は少年のつぶらな瞳に己が映るのを密かに喜んでいた。
もちろん、今も映っていて、こちらを見返してくるのを更に睨みつけてやる。
向こう側にいる自分が、ひどく高尚な人物にでもなった気がしていた。
今は正直、素直に喜べない。
柊の眼球の表面に張りついた自分が、どこか責めるような失望しているような表情を見せている。医者はそんなことを思った。
特別だよ、ということばに甘えて、柊はその夜母親に付き添うことにした。
皮肉だが、部屋はとても暖かく、疲れに負けて不覚にも少し眠ってしまった彼を責める者はいないだろう。少なくとも、扉がきしむ音に大仰に反応するほどには罪深くはない。
「柊ちゃん。おばさん……どうだった」
おずおずと扉の影から覗く顔。縞だった。
時間はわからないが、人々が起きだすのはまだ当分先の真夜中。こんな夜更けに出歩く愚か者などいない。「だめじゃないか」そう、叱りそうになって、柊はしかし口をつぐんだ。
ありがたい。
気にかけてくれる人の存在を、今ほど感じたことはなかった。
人はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。生まれてきたことの意味など、考えるのは暇人だけだ。毎日ただ生きていくだけ。それだけのために、親子は必死でがんばってきたのだ。
「……もう、助からないって」
「そう」
明るく言おうとして、失敗する。柊はまだどこか夢の世界にいる感覚を持て余している。
案の定、表情を暗くした幼馴染を見ても、「大丈夫だよ」のひとことすらかけることができない。
「あ……」
突然、少女の瞳に光が走った。
「どうした?」
あとになって、そのときなにか予感のようなものを感じたか、と問われたなら否だ。柊は自分では気がついていなかったが、すでに足を止めて道端にしゃがみ込んでいたのだ。
前方に、開けた道が見えない。
見えなかった。この話を聞くまでは。
「……ねえ柊ちゃん。もしかしたら、もしかしたらだけど、おばさん助かるかもしれない」
「……どういうこと?」
「あの、あのね。私、今度お嫁にあがるでしょう?」
「ああ、うん。……おめでとう。ごめんな、おめでたいときにこんなことになって」
「もう! 違うったら。あのね、そこでものすごく可愛い子に会ったの。ほんとに、すごく可愛くて同じ人間じゃないみたいなの」
「……?」
「その子ね、『わき』って言ってた。いちばん大きな息子さんの『わき』なんだって」
「わき?」
「そう。お金持ちのお家にはけっこういるみたいでね。それでね、驚きなんだけど。彼女たちってもともとはふつうの国民なの。なのに貴族さまと同じくらい長く生きることができて、病気もしないんだって」
「へえ……?」
なんだか信じられなかった。
しかし柊はなにも言わずにそのまま相手のことばを待つ。
「なぜかと言うとね、蟲が入っているからなんだって! だから寿命も延びて体も丈夫になるらしいの」
「むし? 蟲って……」
「よくわからないんだけど……ただ、内緒で教えてくれたのはね、中立市に『えんじゅてい』って言うところがあって、そこで蟲を入れたんだって言ってた」
ドクン、と心臓が跳ねた。
発作の起こる前触れと似て非なるもの。
期待するな。
期待するな。
期待するな。
「蟲を使えば……母さんの病気は治るのかな?」
ふと見下ろした先に、死んだように眠る母の手が骨ばっている。
「わかんない。でも、可能性はあるよ!」
縞は泣き笑いのような複雑な表情をしていた。
もしかしたら、彼女はわかっているのかもしれない。ある日現れたこの風変わりな親子が、突然にも目の前から消失してしまうことに。
気づいているのかもしれなかった。
柊と言えば、ほんとうはあまり信じてはいない。そんな都合のよい話が転がっているはずもないからだ。
だから、自分のためなら、きっとうなずかなかった。
「俺、行ってみる。延珠亭に」