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北路万里を征く  作者: 延珠
11/15

俺だけを映す瞳

 しかし、両性の望みは皮肉にも叶えられたのだということを、あとで知るのだ。


 ひいらぎが目覚めたとき、自分ではそうと気づかなかった。


 現実とも夢とも、生きているのか、それともすでに死んでいるのかすらも確かなものはなかった。


 咽喉から、枯れ木に風が触れるような奇怪な音がする。ごくりと唾を飲み込むだけで飛び上がるほどの痛みが襲うのだったが、それ以上に全身が熱く燃えるようで、意識が安定しない。


 ぼんやりと、炎が揺らぐのを見つめる。


 ひとりだ。


 主はいない。


「…………」


 目の前に投げ出された細い腕を見る。まだ体の一部として繋がっている実感がなかった。それでも、ようやくぴくりと動いた指先を鼓舞するように腕を折り曲げて胸に当てた。


 はあ。


 熱いのに。体内の血が沸騰するようなのに、なぜか震えが止まらない。


 口の周りがざらついているのを、痺れた指が撫でた。


 蠱香まじこりだ、きっと。あれを飲んだから、こんな状態でも狂わないでいられるのかもしれない。いや、飲んだからこそもう狂っているのだろうか。


 わからない。わからない……。


 ふいに、嫌な臭いが鼻を刺す。恐る恐る顎を引くと、思わず目を覆いたくなった。


 下半身から流れる血が池のように溜まって、床を汚していた。


 えたようなその臭気は、熱された部屋の空気と混ざってますます強くなる。肌に辛うじて引っかかっている衣は、ほとんど用をなしていない。柊は己の格好に頓着する余裕もなく。最後の力とばかりに起き上がった。


 視界が揺れる。


 ぐらぐらと、上下と左右が逆になったり、落ちたり上がったりする感覚に襲われながらも、必死に両足で体重を支える。


 汚してはいけない。ここは……ここは、主の御座おわす聖なる館。俺は、もう。俺は、これ以上、あの人に疎まれたくはないのだから。





 切なる思いは、時に肉体をも凌駕する。


 白い雪に膝までを埋もれさせながら、柊は北の大地に立った。


 日は照り、鳥が遠くで鳴いている。世界はこんなにも美しいのに。


 そう言えば、黒狗と黒狼の姿が見えない。皆去ってしまったのか。


「…………」


 純白の結晶が眩しい。そこに、不浄な液体が染み込んでいく。どんどん、どんどん。


 ほんとうは、泣きたい。


 大声で、泣き叫んでしまいたい。俺は一度もそうしなかったから。


 なぜまだ生きているんだろう。


 どうして。


 黒斗真くろどうま


 ……お前は現れてくれるんだ。


 黒い煙のようなものがふわりと立ち上ったかと思うと、やがて大きく膨らんでいって辺りを飲み込もうとする前に、それは嘘のように掻き消えた。


 残されたのは、一匹の獣。黒い肌をした、背の高い男だ。闇色に輝く外衣を纏う王者の姿だった。


 ああ。


 柊は思った。


 今さらながらに、痛切に、現実を突きつけられる。この人は国主さまなのだ。北の大地の王で、神で…………、それでも、俺にとっては憐れな獣だった。


 その紫の瞳は澄んでいる。狂った男の片鱗はどこからも窺えない。


 それに。


「ヒイラギッ」


 俺の、名前を……。


 主の顔が、取り乱したように崩れて、ものすごい勢いで近づいてくる。


 柊は叫びたかった。できうることならば、両手を広げて受けとめてやりたかった。でも、現実には咽喉が醜く焼け爛れ、熱で四肢は鉛のように重く、不浄な血を垂れ流している。


 ほんとうは、叫びたい。


 お前を愛していると、叫びたかったのに。





「ヒイラギ、ヒイラギ!」


 何度も少年の名を呼びながら、主は流れる血を押しとどめようとためらいもなく下腹部に大きな手のひらを当てた。


 そんなことをしても、出血が止まるはずもない。ただ、主の手が穢れていくだけだ。


 もしも柊が少しでも正気を保っていたならば、羞恥に顔を真っ赤に染めて身を捩って抵抗しただろう。


 しかし、終焉を待つ両性は心弱く、己が最も厭う場所に触れられてもその手のぬくもりに縋りついてしまっていた。


 先ほど主が蹴り倒した扉は、辛うじて壁に引っかかり風に揺らされて情けない音を奏でている。そこから外気が流れ込んでくるのだが、不思議と寒くはない。部屋に残った昨夜の澱んだ空気が入れ替えられるようでかえって心地よい。


 主は泣きながら、指の間を流れ落ちる出血に怯えている。王族の衣装は滑るような感触だ。背中に回された袖の部分が柊の肌を優しく撫でる。血や汗で汚れていくことに、男はまったく気にするようすもない。だから柊もそのことについて心を乱すのをやめた。


 破瓜はかによるものもあるのかもしれないが、それにしては出血がおびただしい。


 柊は蝋燭の火のごときか細い意識のなかで、主の長い睫毛の先にあった雫が落ちるのを見ていた。お前のせいじゃないんだ、とどうしたら伝わるのだろう。


 俺は女で、この血は子どもを産めるという印なんだと。


 でも、このまま死んでしまったらこの血になんの意味があるのか。


 柊はそう考えて、心の奥で緩く首を振った。例え報われなくとも、生命の営みは与えるべきものをひとつひとつ与えていっているだけだ。そこには差別も区別もなく、もちろん人の思いや未来に左右されたりもしない。


「柊」


 また、主が己を呼んだ。


 主の唇が震えている。大丈夫、柊も震えていた。ふたつが重なったときには、どちらの震えかは判別つかなくなる。だから。


 柊はそっと主の襟を掴んだ。





 柊の熱は下がらなかった。


 姿を消していた狗と狼は、主が扉を修繕し終えたころに戻ってきて、心配そうに濡れた鼻を両性の体に押しつけてきた。


「なにか、食べたいもの、あるか」


 主はぽつりぽつりとことばを紡ぎ出して、声の出せない柊に話しかける。以前とは立場をまったく違えたようだった。


 柊は力なく微笑んだ。


 あれから、何物をも受けつけられないでいる。果物を咀嚼する力すらないのだ。ますます痩せ細っていく柊に、主は泣きそうな顔を向けた。


 だから、悲しむなと微笑んでいるわけだが、口元に柔らかい魚の白身を持ってこられただけで吐きそうになってしまう。


 この調子でよくなるわけがない。


 主は小さく嘆息すると、遠くの川で切り出した氷に蜂蜜を垂らしたものを柊の枕元に置いた。器のなかでからりと澄んだ音がしたら、氷が溶けてちょうど飲みごろになる。


 その、甘い液体を差し出されたとき、柊は悟った。主の衣装を見ただけで予想はしていたが、これで決定的だ。主は、王宮へ戻ったのだ。


 果たして、どんな騒ぎになっただろう。人々の歓喜乱舞する姿が目に浮かぶようだ。


 よかった。


 と、素直に喜べない。そんな自分に戸惑った。


 なぜ穏やかな気持ちで祝福することができない。望みだったはずだ。使命が果たせたのだから、もっと充実感に浸ってもよいはずだ。


 このままなら、きっと。遅かれ早かれ主は北の都へ帰るだろう。そうして、自分よりもずっと素晴らしい環姫を迎えて幸せに過ごすだろう。


「柊。ここを出よう。王宮へ帰ろう。そうしたら、元気になる」


 ――――――嫌だ。


 主の呟きに、柊は即座に拒絶を表した。しかし、それを伝える声も力も今は失われている。ただ、薄い灰色の瞳を精いっぱいに見開いて、じわりと涙を浮かべるだけだ。


「元気になったら、また、吹雪ふぶきひょうと、その黒狗の毛を梳いてやってくれ。俺に酒を注いで……、たくさん食べられるようになる」


「…………」


 くうん、と鼻を鳴らす大きな狼。かがりほむらはその横で真っ赤な目のなかに主に抱かれる小さな両性を映していた。


 せっかく名前を知っても、呼んでやることができない。


 骨の浮き出た胸に、揺れる煤けた筒。あれから暖炉を探って見つけ出していた。力を込めて、長い時間かける必要はなかった。震える手が取り落とした際に、蓋はあっけなく開いたから。


 真っ黒な灰の固まりがぽろりと出てきただけだ。柊はそれをしばらくじっと見つめて、何の気なしにもう一度丁寧に筒へ戻した。ごめんな、と声にならないことばが頭を巡る。


 ああ、ああ。


 一度見た夢は、どうしてこんなにも甘美で、そうして残酷なのか。


 いいから。もう、諦めるから。最期くらい、独占したい。


「帰ろう、な。柊」


 駄目だ。駄目だ。お前はここから出たら、俺のことなんか見向きもしなくなる。


 いつか見た南の環姫さま。この世の人じゃないくらい奇麗だった。


 北の王宮のどんな侍女だって、柊のような気味の悪い肌はしていない。どこもかしこも柔らかそうで、いい匂いがしていた。


 偽善者だと蔑まれてもいい。今だけは、王宮に帰りたくない。


「柊。好きだ」


 俺だけを見つめる瞳を、どうか取り上げたりしないで。どうか。

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