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北路万里を征く  作者: 延珠
10/15

逃げないと誓わせて

 初めて来た温泉で、はしゃぎすぎたのだろうか。それとも突然自覚した思いに神経が擦り切れてしまったのか、久しぶりの発作に足の力が奪われる。大げさなほどの水音が頭に響いたが、大したことはなかった。心配そうに駆け寄る狗にもすぐ笑顔を返せたし、目を見開いて硬直してしまった主の髪を優しくかき回すこともできた。


 けれど。


 ひいらぎは、もうこの景色を見ることはないんだろうな、と感慨深く辺りを見渡した。


 首元で揺れる存在を失ったのに気づいたのはいつだったろう。服をすべて脱ぎ捨てて、羞恥心に支配されていたときはまだその余裕はなかった。


 ふと、見下ろして。すぐに視線を外して瞬きを繰り返して、今度は恐る恐る震える手を伸ばしてみた。


 ない。


 柊の一生よりも重い小さな銀の筒は、まるでお前では分不相応だと叱責するかのようにみすぼらしい両性から去ってしまっていた。


 一瞬でも夢を見てしまった自分が、なんだか滑稽だ。


 今度は胸に抱かれて、大切そうに運ばれて、来た道を戻っていく。


 柊は強烈な眠気に襲われたが、必死にそれと戦っていた。太陽は少しだけ西に傾き、背の高い木々に口づけをしているよう。小動物の可愛らしい足跡が刻印された白い大地に、かがりほむらと、そうしてまだ名も知らない黒狼が二匹歩いている。右の耳からは、主の体温とともに力強い鼓動が伝わってくる。


黒斗真くろどうま


 呼ぶと、突然に揺れが止まる。こちらを見下ろしているであろう気配を感じながら、しかし柊はそのまま顔を動かさなかった。やがて諦めたようにまた歩き出す主の心臓は、やはり穏やかで規則的でとても澄んだ音がしている。





「え? うそ……これって……」


 さすがに肉を焼くのはまずいと思ったか、主は柔らかい身の果実を選んで柊に手渡し、その華奢な体が毛皮で埋もれるくらいにさせてからそのまま奥に引っ込んでしまった。


 暖炉の火がだんだんと大きくなるのをぼんやりと見つめていた柊が、最後に未練がましく主の消えた扉の向こうに目をやってから、諦めて眠りに入ろうとしたときだった。


 ……なんか、甘い香りがする。


 ふわり、と浮き上がるような白い煙。鼻腔をくすぐるのは、芳しい花よりも更に強烈な香りだったがもちろん柊は知らない。


 これって……、まさか。まさか。


 花は知らなかったが、柊はこれと似た香りをいつか嗅いでいる。そうだ、しまの親父さんが亡くなったのはこんな煙で充満した小さな部屋だった。陰気な空に精神を病んで、禁断の薬に手を出したのだ。


「『まじこり』だよ……」


 縞の母親が呆然と呟いたのを聞いた。その古めかしい名を、柊はずっと忘れることができないでいた。自ら命を絶つ人の心がとても悲しくて。自ら己の終焉を選べる権利が、少し妬ましくて。


 まじこり、それは蠱香と書くのだったが、柊にとってそれはどうでもよいことだった。


 わかっていなくてはいけないことは、少年はすでに知っている。


 辛くても。辛くても辛くても、逃げてはいけない。


「黒斗真っ」


 柊が扉を開けた瞬間、真っ白い煙が覆いかぶさってきた。くらり、と足元が震える。強い酒を注ぎ込まれたような気分だった。


 こちらに向けられる紫の瞳はとろりと溶けたようになっていて、まるで深いまどろみの底にいるかのようだ。口元から床まで届く長い管は、数々の宝石を散りばめられて怪しげな光を反射している。


「どうしてっ。くろどうま……逃げちゃだめだ。逃げないで。逃げるなよ……」


 しばらくは、涙でむせぶ姿を眺めていた主だったが、その白い小さな手の温もりを腕に感じたとき、完全に理性を手放した。





 ますます頭が朦朧としてきて、力が抜けた首がかくりと折れる。いつ座り込んだのか記憶になかったが、足はもう絨毯の毛に絡まって離れることはできなさそうだった。上半身が倒れていくとき、咄嗟に主の腕をつかんでしまった。


 ……いけない。早く、ここから出ないと。


 柊が立ち上がろうとしたとき、急に視界が暗くなって、ふしぎに見上げると黒い影が眼前まで迫っていた。


「……っっっ」


 なにが起こったのか、理解できなかった。


 下袴をとられ、後孔に熱くてやわらかいものを感じてようやく事態を把握する。半狂乱になって叫んでも、床に縫いつける太い腕はびくともしない。


「や、やめ、やめろっ」


 狗のように舐められている。容易く精神が飛んでいかないのは、もしかしたらこの甘い香りのせいなのかもしれなかった。優しくねっとりと包み込むように心のなかに入り込んでいく。


 最後に、そう最後に、主に捧げることができるのはすばらしいことに違いない。


「いやだっ」


 柊はがむしゃらに抵抗する。この行為に嫌悪があるわけではない。むしろ反対で、このままでは恐らく自分は明日の朝を骸となって迎えるだろう。そうしたら、哀れな主はまた独りに戻る。静かな雪の王国で、なにも語らず煙をんで暮らしていくのだ。


 一緒に生きていきたい。死にたくない。俺は、死にたくないんだ!


「ううっ……、あ、あ……」


 無力な両性の哀哭が聞こえたのか、柊の視線が扉の近くに転がる銀色の光を捉えた。


 ……蟲だっ。


 身の程知らずと罵られてもいい。


「環姫に……」


 この悲しい男の環姫になれたなら、ずっとずっと髪も梳いてやるし酒も注いでやる。だから――――。


 しかし、急に前に向かって腹這いで進んでいく柊を、逃げると思ったのか主は苛立ったように更に押さえ込んでくる。


「待って……待ってくれよ……!」


 柊は狂ったように腕を振り回した。どんな力が芽生えたのか、主の体を無差別に叩いて、それでも怯む余裕はもう少年にはなかった。また前を目指し、骨ばかりの腕を千切れんばかりに伸ばした。


「……あ」


 届いた。


 届いた……。


 その金属は、どんな状況下でも変わらず冷たく光っていて今も柊の手に少しばかりのぬくもりすら与えない。それでも胸中を巡る喜びはかつてなかったほどで。急いで蓋を開けようとするが、手が震えてなかなかうまくいかない。焦れたように歯を当てようとして、突如襲った衝撃にそれは叶わなかった。


「……はっ」


 よくわからないが、思いっきり頬を打たれて体が吹っ飛んだらしい。口のなかから錆びた鉄の味が広がってくる。


 もう顔は涙でぐしょぐしょに濡れ、よほど見っともないだろうと柊は自嘲した。


 ようやく見つけた銀の筒は、見事なまでの曲線を描き、煌々と燃え上がる炎のなかに消えてしまった。


「……はは」


 乾いた笑いを浮かべる柊の顎を、主は容赦なく掴んだ。激痛が脳を刺激するから、もしかしたら骨が砕けているのかもしれない。


 力なく開けられた口に、豪奢な管が突き刺さんばかりに入れられた。


「…………っ」


 ざざざっと流し込まれる粉末に、せることもできない。火の付いた粉は粘膜を焼き、柊はただ主を見ていた。


 俺は逃げないよ、黒斗真。


 逃げないからな。



 


 母親と草里そうり先生しか知らない両性の神秘の印が、今や暖炉の明かりに照らされて恥ずかしげもなく主の目を汚している。戸惑ったように目玉を泳がせる主を可愛く思うのは不敬だろうか。


 両性なんだと説明してあげたくても、残念ながら喉がただれて声が出せない。だから精いっぱい微笑をつくろうと努力した。


 太い指が入ってきて、奥歯で痛みと羞恥とわけのわからない感覚をぐっとかみ殺す。


 耐えていたと思ったのは、気のせいだった。燃えるような固まりに押し入られたとき、柊はあらゆることを忘れて叫んだ。


「ああ、ああ、ああ」


 殺される。


 俺は、ここで、殺される。


 でも、それは、黒斗真のせいじゃない。叶うならば、俺のことはすぐに忘れて。そうして、ごめんなさい。主を王宮に帰すことができなかった。


 ほんとうにごめんなさい。

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