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北路万里を征く  作者: 延珠
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命を削る北の少年

Yahoo!ジオシティーズからのお引っ越しです。

 吐く息は白く、この世はなべて薄暗く、そういうものだとひいらぎは思っていた。そうしてその認識を改めることなく、短い生涯を終わらせるつもりだった。





 北の国は国主が不在のまま、すでに気の遠くなるような時を刻んできた。


 柊の母も、その親も、そのまた親も王を知らない。しかし他国の繁栄をも知らないので、これが普通なのだと特に悲観することもなかった。


 カツカツカツ……。


 凍りついた石畳を、薄汚れた革靴が等間隔に鳴らしていく。


 鼻と口元を布で巻いているが、少しだけのぞく頬は熟れたりんごよりも赤い。手袋を忘れたのか、上着の下に手を入れて、俯きながら小走りに通りを急いでいた。


 その小さな人影に、人々も特に注意を向けない。


 だが、暖かな空間でくつろぎながらその少年と出会ったなら、その異質さに眉根を寄せる余裕を持ったことだろう。


 防寒具の下、今でもほんのわずかに見えている肌は透き通るように白い。


 北の国民と言えば、滑らかで光沢のある美しい褐色の肌が有名で、色の濃さはまちまちでも少年ほど白い存在はありえなかった。





「はあ……」


 息が凍りついたせいで、布の表面にはうっすらと氷が煌めいている。


 厳しい気候だ。国主さまがいらっしゃったときは暖かい陽射しも照り、雪のなかに花も咲いたという。春や夏や秋も訪れて、冬はたっぷりの蓄えと共に暖炉わきで楽しく過ごすのだと。


 母がそんなふうに瞳を輝かせたことを思い出して、柊は微笑んだ。


 今日の夕飯はどうしようか。


 予想外に店が繁盛したせいで、いつものように余らせた芋をもらうことができなかった。今まで、いったい何百、何千の芋の皮を剥いたのだろう。小さな手は赤くただれ、擦り切れた場所から出血が絶えなかったが、柊はそんなことにもすっかり慣れてしまった。


「…………」


 ふと、足音が止まった。


 通り沿いに出された小さな店から、この鈍重な空気に乗せて柊の鼻腔に届けられた温かな香り。


 ごくり、と咽喉が鳴る。


 小さな看板を見る必要もない。烏鷺煮うろにだ。


 玄武豆と雪豆をじっくり煮込んだ北の家庭料理で、黒と白の豆が見た目にも美しく、ほっこりとした甘い味は冬の食卓には欠かせない。


 しかし、だからと言ってひどく庶民的な食べ物と言うわけではなかった。食材を考えれば、芋やとうもろこしや、家畜の餌になるような海老茶えびちゃ米のほうがずっと安かった。


 だから柊も、ずいぶん長いこと口にしていなかった。


 母さんの、好物だったな。と、しばらくぼんやり考える。


 首から吊り下げた袋は、腹の上で気持ちふくらみを見せている。上衣の中でごそごそ手を動かして、その中から茶色い金属を一枚取り出した。


 銅銭五枚。決して高くはない。こんな路上で売っているくらいだ。


 たまの土産に買って帰ることが、罪深いだろうか。


 母さんは、きっと喜ぶだろうな。


 意を決して、柊はふらふらと店に近づいた。


「……らっしゃい」


 店主の声は暗い。


 仕方ない。こんな世の中なのだ。そうして客が貧弱な少年だとくれば、やるせなくなるのも当たり前だろう。


「あの……一杯ください」


「一杯でいいの?」


「……はい」


 そう言って、柊はおずおずとなけなしの銅貨を渡した。銅貨一枚で、二杯買える。知っていた。母親と、自分の分。


 しかし、生きるのは今日だけではないのだ。


 まだ、倒れるほどには腹は空いていない。お湯をたくさん飲んで、そうして、もしかしたら明日は芋がもらえるかもしれない。今夜は食べなくても大丈夫。一日くらい、どうにかなる。


「はいよ……」


「……ありがとうございます」


 温かな器と、銅銭を五枚受け取る。


 柊はまた家路を急いだ。


 心なしか、その足音は先ほどより軽くなっていた。





「母さん!」


 母親の喜ぶ顔が早く見たくて、最後は駆け足になっていた。


 石を積んで泥で隙間を埋めただけの簡素な住居。しかし柊にとってはふたつとない我が家だ。


「母さん、ただいま」


 はやる気持ちを抑えきれない。


 丁寧に器を卓の上に置いて、母を探す。


 小さな家だ。隠れる場所などない。それに、家の中でも息が白い。薪はすっかり燃え尽きて灰になっており、その後木がくべられたようすもないので無人だと知れる。


「どうして……」


 柊は戸惑いに瞳を翳らす。


 母の仕事は柊よりもずっと早くに終わる。この時間にまだ戻らないことなど過去になかったはずなのに。


 そのとき、乱暴とも言える動作で扉に付けた鉄の輪が鳴らされる。


「は、はいっ」


 誰かが訪ねてくるなど久しぶりのことで、柊は咄嗟に足が動かない。それでも返事だけは相手に聞こえるくらいの声で発すると、扉は勝手に開いた。


「ひ、柊ちゃん!」


しま?」


 柊は心底驚いた。飛び込んできたのは、血相を変えた幼馴染の少女だったからだ。


 こんな夜更けに男の家を訪問するなど、この国では許されない。親戚でも禁忌だ。


 しかも縞は同い年ながら大人びた豊満な体つきをしており、すでに金持ちの第三夫人だか第四夫人だかに迎え入れられることが決まっていた。


「縞、ど、どうして」


 こんなところを人に見られたら……、と柊が慌てたのも一時だった。


「おばさんが倒れたのよ! 今、先生のところで寝てるの。顔なんか真っ青で、なんか、なんかね……」


 途端に潤みはじめる薄い緑の瞳。


「…………」


 柊は脳の後ろのほうで、ひびが入った音を聞いた。


 ドクリ、ドクリと心臓が叫びながら彼に思い出させてくれる。お前がまだ生きているのは、奇跡なのだと。神が見せたほんの気まぐれなのだと。


「はっ……はあっ……」


 握り締めた手を、左の胸の前に置いた。意味はない。こんなことをしてもこの壊れた心臓は暴走を止めないだろう。


 足元がおぼつかなくなって、床に尻をつく。同時に背中に痛みが走って、無意識に振り返った。すると、まるで柊を嘲笑うかのように美しい豆が跳ねた。


 黒と白。


 机の上から、ひとつずつ、ひとつずつ落ちていく。


 その光景を眺めながら、不規則な鼓動をその律動に合わせていく。


「…………はあ。…………はあ」


 少し視界が晴れたとき、片腕を幼馴染が必死に握っているのがわかった。


「ひ、柊ちゃん……」


 少女がすすり泣く。


 柊は慰めることすらできない。


 もうすぐ自分は生を終えるから、母はようやく楽になるはずだったのに。


 柊は胸に置いていた腕を力なく下ろした。


 床に手をついたとき、その間で豆がべしゃりと潰れる感触がした。


「……ふ」


 柊は泣かない。泣いたら、頬がもっと乾燥して、油の入った塗り薬を使わなくてはいけなくなる。あれは、母が一日かけて編んだ籠の代金ほどもするのだ。


 一度目を閉じて、重い瞼を上げる。


 汚れた床に散らばった、宝石のような固まり。もうちっとも温かそうではない。


 それでも、甘い香りが小さな鼻をくすぐった。

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