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壁魚

作者: 久慈くじら

 ひどいことをする少年もいたもんだ。

 広く青い草原はほんとうに青かった。昨日までは植物的な生命力にあふれていたその青さは、風が吹くと巨きな獣の毛皮のように波打って、土と草の匂いをぷんぷんとさせていた。今はもうペンキの匂いだけがする。

 この草原は海のすぐそばにあって、海際までいけば岩などがごろごろしているのがみえるが、海からほど遠い草原のまんなかから海のほうをながめてみると、視界の上下で海と草原がぱきっとわかれるような景色になる。

 それが、今ではどっちも同じような青色なので、あの清々しい対比は消え失せてしまっている。

「兄ちゃん、はようテントどけてくれん?」

 ペンキの缶を持った少年がちょっと困るなあ、という表情をしている。この草原を青色に染めたのはこの少年だ。

「そのテントの下も塗りたいからさあ」

「というか君はなんでこんな非道いことをしてんの」

「祭があるんよ。今日は青の日」

「青の日?」

 口のなかで疑問をつぶやきつつテントを片づける。もう手慣れたものだ。テント片づけ大会があれば入賞は間違いない。

「旅のひとやろ? 青の日はローカルな祭やけんね。知らんのもむりないよ」

「でもペンキがなかった時代はどうやって青く塗ってたんだよ」

「そんなん知らんよ。生まれてもないし」

 それもそうかと思いながら、テントを片づけ終えると、そこだけうつくしい緑の四角が浮かびあがったが、少年はまたたくまにペンキで真っ青に染めあげた。

「これで終わり。兄ちゃんは青の洞窟って知っとる? 行ってみたがええよ。壁魚が釣れるけん。これが舌がとれるほど旨かっておっちゃんらがこぞって釣りに行きよる」

「それが青の日?」

「釣り道具ぐらい持っとるやろ。海岸まで降りてって西側。案内してほし?」

「ああ、そんならうれしいけど」

「じゃあはよ行こ。昼になるともうおらんなりよる」


 少年は大股で歩いて洞窟まで案内してくれた。海岸はまったくただの岩場でしかなくて舗装されていない悪路だった。岩海苔が生えていたり潮溜まりに魚がいたりして、引き潮なのだとわかった。だから舗装などされていないのだ。

 海の反対側がだんだんと岩だらけの高い崖になっていった。少年に連れられてひょいひょい進んでいくと崖が急に弧を描いて入江になった。そこにぽっかりと大きな青い穴がある。

「青い」

「青の日やけんね」

 洞窟はずっと奥まで海に沈んでいそうだった。その海の青色が壁や天井に反射して青く染まっているのだ。

「左側だけちょっと通れるところがあるんよ。入り口のとこだけ狭いから気をつけえよ」

 少年はそう言いつつも今までと同じ歩速で洞窟にするりと入っていった。慌ててあとを追う。

 なかは外からみていたときよりも青かった。海底まではそこそこあって、泳げない人間が落ちると大惨事なりそうだった。けれどうつくしく透きとおっているので、落ちてもすぐにわかるだろう。

 海がゆらめくたびに、洞窟に波の紺色が投影されて魚のようにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。いや、これはまさに魚だった。紺色の影は統率された群になって、壁をゆったりと泳いでいるのだ。ただの波の影ならばそんなふうな動きはしない。

「驚いたろ。これが壁魚っていう魚なんよ。正式名称は知らん。たぶん鯛の仲間やろって父ちゃんが言っとった」

「でもこれをどうやって釣るっていうんよ」

「奥のほうでおっちゃんがやっとるやろ。あそこらは壁に大きな穴が空いとる絶好の釣場なんよ。でも父ちゃんが言うには、こういう、ほらみときよ、腕がぎりぎり通れるくらいの穴が空いとるやろ。ここにテグスつけてエサつけた針を放り投げてやる。で、待つ」

 二分くらい待っただろうか、少年はなんの前触れもなくテグスを手繰り寄せると、その小さな穴から紺色ののっぺりとした姿の魚が現れた。

「こういう感じよ。ちっさい穴のほうがようけ釣れるよって」

「えらいかんたんそうやね」

「青の日やけんね」

 少年はにししと笑って、またエサをつけて同じ穴に糸を垂らした。

 少年にならって近場にあったちいさな穴に糸を垂らしてみる。壁魚たちはこういう壁にある穴から急にぴょっと出てきて、洞窟の壁を遊泳し、外をうろつくのに満足すると隠れるようにして穴に入っていったりしていた。

 ほんとうにこの青い洞窟のこの穴は壁魚の棲家なのだろう。

「ここはね、年に一度しか青に染まらんのよ。潮は引くんやけど、なんや太陽の関係っちゅうやつで青く染まるのは今日だけ。んでその日にしか壁魚は釣れん」

「貴重な魚じゃないか」

「旨いんよ」

「なんで食べるんがええ?」

「なんでも旨いよ。刺し身でもええし、煮つけでも。脂のっとるからな」

「ナイフと醤油はあるから釣れたらすぐ食べてみる」

 貴重な魚が食べられるというだけでもお腹が空くというのに、さらに脂がのっていて旨いらしい。はやく食べたいな、と思っていると、糸がかすかに引っぱられる感触がしたので思わず手繰り寄せると、やっぱり壁魚が釣れていた。

 壁魚は舌平目のような姿だ。頭も尻尾も背びれも胸びれも丸っこくて、遠くからみると楕円だ。まじまじみると気持ち悪い。目は左右についており、カレイ目ではないらしい。鯛の仲間だというのは、たぶん味がそんな感じだからなのだろう。姿からではまったくわからない。

 まな板になりそうな平べったい岩とバッグから取りだしたナイフを水筒の水でなんとなくきれいにして、壁魚をさばく。

 身はきれいな白色だったが、かなり弾力が強くて薄く切ることはできなさそうだった。脂もたしかに多くて左手がてらてらと光った。なんとか三枚におろし、とりあえず一切れ食べてみる。

「旨い!」

 声が洞窟に反響して、奥からおっちゃんらの笑い声が聞こえてきた。恥ずかしかったが、そんなことがまったく気にならないくらい旨い。金目鯛の刺し身も食べたことはあるが、そんなものとは比べ物にならない。市場にでたらいくらの値がつくことやら。

「なあ、こんなに旨いと裏がありそうなんやけど。たとえば食べすぎたら腹を下すとか」

「はあ? そんなんなか。いくらでも食べんね。いくらでも釣れるよって」

「ほんとにか? ほんとにいくらでも釣るぞ」

「おおお、兄ちゃんやる気やね。釣れるだけ釣りよ。でも時間が来るまでには外に出んといかんよ。洞窟が青くなくなってゆくよって、それが目安。洞窟が元の色に戻ったら壁魚はもうおらんなるけん」

 返事をする暇もなく次の針を穴に投げる。すると二分くらいで壁魚が釣れる。楽しすぎる。

 そんな入れ食い状態だったが、洞窟がだんだんと青くなくなっていくにつれ、二分くらいで釣れていたのが、四分、五分、と釣れるスパンが長くなり、しまいにはまったく釣れなくなった。だいたい二十匹くらいは釣っただろう。気がつくと洞窟の明るい青さはなくなって暗くなっていた。こんなもんで勘弁しといてやろう。

 気がつくと少年はいなくなっていた。おっちゃんももう帰ってしまっているようだった。さすがに帰って昼にしようと、壁魚が入ったバケツを持ちあげようとしたところ、そこには一匹の壁魚もいなかった。

「兄ちゃーん! もうお昼やろー! 帰ってきー!」

 入り口のほうから少年の呼ぶ声がする。

 バケツのなかは空っぽだ。壁にも魚影はない。もう一度バケツをみてみるが、やはりそこには一匹の影もみえなかった。壁魚はみんなどこかへ行ってしまったのだ。

 バケツに入った海水を海に捨てて帰り支度をする。これは欲張った僕が悪かったのだろう。少年の言うように洞窟が元の色に戻るまでに帰ればよかった。

「どうしたん」

「みんな逃げちゃったよ」

「逃げた? あー、そうなるんやね。壁魚は青いところにしか棲まんから。まあそう落ち込まんの。一匹は食べられたっちゃろ」

「そうやね。あれ? じゃあ少年たちはどうやって魚を持ち帰ったんよ」

「ふっふっふっ。ま、いいから戻ろうよ」


 少年とあの青く染めあげられた草原まで戻ってくると、なにやら魚が焼けるいい匂いがしている。だんだんとみえてきた草原のあちこちに七輪が置かれていて、壁魚が焼かれているのだ。鍋もあって、そこでは煮つけが作られているのだろう。

「おいおい、まさに祭じゃないか」

「これが祭なんよ。草原を青く染めてそこで壁魚を食べる祭」

 青く染めあげられた草原は一種の異界である。壁魚は自身が棲んでいた場所と似たような場所で、切られ、焼かれ、煮つけにされ、そして食われる。それが青の日なのだ。

「なるほどなあ。草原を青く染めるのは壁魚が逃げていかないようにするためか。しかし、こんなペンキごときの青さで騙されてくれるなんて、壁魚もなかなか鈍感な生き物じゃないか」

「でも兄ちゃん。こういう変な生態の生き物ってどこかそういうところありよるやん。じゃないと誰も見向きもしてくれんなるよ」

 少年はそう言って、パタパタと両親のもとに駆けていって焼いた壁魚を一匹わけてくれた。ついでに白米もくれたのでその日の昼ご飯を調達する必要はなかった。

 またテントをたてるから草原はどうなるか聞いたところ、青い草原は自然にペンキが落ちるまでしばらくはこんな状態らしい。自然にやさしいペンキらしいのでほうっておいてもいいのだ。

 ほかにもこの地域のひとから南にあるちいさな島にまた一風変わった生き物がいるという話を聞いた。そいつは食べてもべつにおいしくはないらしいが、頭がふたつあるのだという。突然変異ではないかという指摘もあるが、何匹もおなじ種類の生き物がいるので、突然変異ではないだろうとのことだった。そいつもやはり特定の日にしかあらわれないらしく、その日はあと数日後らしい。明日からはその島を目指すことにする。

 そういえば少年はおもしろいことを言っていた。変な生き物は人間からするとどこか間抜けな生態をもっているものだ、と。たしかにまったく人間がみつけられない生物がいたとしたら、そいつは伝説とも幻とも言われることはないだろう。名前もつけられず、ひっそりと生きている。

 しかし、そのような生物に人間にみつかってやろうとか、みつかりたくないとかいう思いはないのだろう。変な生き物は人間からするとどこか間抜けな生態をもっているというのは、必ずという意味ではない。間抜けな生態をもっている生物だけがみつかり、狡猾な生物はいまだ人間にみつかっていないのである。

 そのような生物はきっとたくさんいて、人間の意識のおよばないところで生きているのだろう。そここそがほんとうの意味で異界なのかもしれない。

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