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4・マリコとアパートの歴史

 山のように高いビルの屋上から直滑降に落ちている途中で夢から覚めた。山の例えをそのまま踏襲させてもらえば、ちょうど四合目あたりだったと思う。夢診断でもしてもらえば、今の私が深層心理では何に怯え、何を求めているのかなどを教えてもらえるのかもしれないけれど、取り急ぎ今この瞬間で心の底から望んでいるのは御手洗いに行くことと水を一杯飲むことだった。


 習慣としてすっかり体に染みついているために、朝は目覚ましをかけなくてもだいたい五時前後になるといつも自然に目が覚める。普段はそこでモゾモゾと布団から出るし、休みでもう少し眠っていても大丈夫だという時にはもう一度寝た。たまに夜更かしをして、さすがに危ないかなと思って保険のために一応セットしてみたりもするけれど、そんな時でも必ずピピピと鳴る五時の一分か二分前にはちゃんとパッチリ目を覚まし、手動でアラームを解除した。それは私が人に自慢できる唯一無二の特技だった。……とはいえ、それをこの先誰かに自慢しようとは思わないだけのまともな倫理観を持ち合わせていることのほうを、私はむしろ誰かに褒めてもらいたい。

 さて、それからなかなかたっぷりとした量の朝食を食べて一日の活動のエネルギーを充電し、たしなみ程度の薄化粧を二分ですませ、その他なにやかにやと身支度を整え終えると、後はゆっくりとコーヒーを飲みながら新聞を読んだり、テレビのニュースを観たり、読みかけの本を開いたりして出勤までの時間を潰す。始動が早いためにこんなふうに朝はバタバタせず、ゆっくり過ごせる余裕がある。すべては大学時代の四年間、早朝の弁当屋でアルバイトをしていた時のたまものだ。おかげで私の朝はこのように一貫して夕凪の海のように穏やで健康的なものになった。

 時間が来ると自転車にまたがってアパートを出る。そんなに遠い距離じゃない。十五分か二十分、プラプラとペダルを漕いでいるうちに職場である信用金庫に到着する。この頃ではさすがに仕事にも慣れ、余裕をなくしてあたふたするようなこともなくなった。決して雑用や事務仕事を軽視しているわけじゃないけれど、豊富な行動力であちこちを飛び回っている腕利きの営業課の女子社員や、常ににこやかで物腰も柔らかく、お年寄りや体の不自由な人に対するさり気ない気遣いが冴える窓口担当のキレイな先輩などと比べてしまうと、私の仕事なんてまだまだ仕事のうちに入らない。

 正午を回ると交代で昼食に入り、午後三時には窓口のシャッターを下ろす。それからまた同じような事務作業や現金の精査・照合を繰り返し、暇なときにはスキルアップのためにもう少し難易度の高い作業を先輩から教えてもらったりしながら、午後五時の定時には大体あがることができる。先輩や上司などに誘われて時々どこかに飲みに行ったりする以外は、そのまま自転車にまたがって真っ直ぐ家に帰る。アフター・ファイブを充実させる趣味らしい趣味があるわけでもなく、私の帰りを待ち焦がれている家族がいるわけでもないので別に急いで帰ることもなかったのだけれど、別に急いで帰ってはいけない理由もなかったので、殆どはそのまま家の敷居をまたぎ、普段着に着替えて一息落ち着くことになる。それに寄り道をしようにも私が通うスーパーや暇つぶしに行く図書館、服や靴をぷらぷらと見て歩くショッピングモールや大型スーパーなどの商業施設は職場とは真逆の方向、つまりどのみち私のアパートの前を通らなければいけないわけだ。

 六時前後にはご飯の支度をして、六時半には夕方のニュースや天気予報をテレビで観ながら夕ご飯を食べる。七時になるとお風呂に入り、八時前にはもうパジャマを着こむ。それからは軽く晩酌をしたり本を読んだり、借りてきたDVDを観たりまるで何もしなかったりして、十時過ぎには自然と眠気が訪れる。寝つきは良い方で、たまに寝ながら考え事をしようとすると、考え事をしようと考えただけで大概寝てしまっていた。そして夢を見たり見なかったり、ビルから落ちたり落ちなかったりして、また朝の五時になれば目が覚め、コップ一杯の水を飲みに台所へと向かう。

 ……さて、お金も趣味もなければ彼氏もいない、とりたてて有能でもなければ特出して無能でもない、無難と平凡と退屈の申し子たる二十二歳の信金ウーマンの一日はこんな感じに過ぎて行く。それを波乱と激動に満ち溢れた一大クロニクルと思うのか、それともアメリカ南西部あたりの果てしない荒野を連想するほどに不毛な一日だと思うのかは各人の自由だ。ちなみに私は後者の意見に賛同したいと思う。

 それでもそんな毎日に私はとても満足していた。別に強がって言うわけじゃない。確かに相も変わらず誰もが驚く劇的なエピソードも、めくるめく絢爛豪華な装飾も施されない無味乾燥な日々だったけれど、とりあえず不満はなかった。少なくとも、毎日がドラマティックで刺激的なエピソードで彩られ、味にも潤いにも事欠かないけれど、とにかくドロドロとした骨肉の争いや醜いいがみ合い(、、、、、)ばかりの気の抜けない生活なんかよりはよっぽどマシだと私は思う。何もないということは、何もないなりの完結性を持ってして、平穏と安定に優しく包まれているのだ。そう、決して強がってるわけじゃない。本当、絶対、全然そんなんじゃないんだから……。

 ***

 梅雨明けの余韻も冷めやらぬそばから夏がやって来た。まるで梅雨の背後にピッタリと張り付いて待ち構えていたかのように実に迅速で鮮やかな転換だった。見る見るうちに右肩上がりで上昇していく気温が、今年の夏も猛暑になるであろうことを道行く人々の胸の内に予感させた。だけど、たくさん窓があって風の通りがいい自分の部屋を見回した後の私の胸には、これからますますその栄華を極めようとしている夏が完全に世界を掌握したとしても、ここにいれば、かなり快適に過ごせるのではないかという希望的観測にも似た予感があった。

 晴れの日限定ではあるけれど、一日のはじまりに、そんなたくさんの窓にそれぞれ下げられたカーテンを一気に開けて回る時の、あの瞬間がたまらなく好きだった。生まれたばかりの新鮮な朝の陽光が部屋をいっぱいに満たし、一番大きな窓から見下ろす町並みは、ありとあらゆる汚れや悪しき者達の魂などが浄化されて光輝いているように見えた。何度見ても美しかった。改めて良い住まいを見つけたものだとつくづく感慨にふけった。


 そしてそんな良い住まいを私に貸してくれている大家さんと、ある日草刈りをすることになった。

 その日も朝から晴れていた。休日で、いつものようにきっかり五時に目が覚めてから、もう一度眠ろうとしたのだけれど、なんだかその日はいつも以上に目覚めが良すぎて、いくら目をつぶっても布団の中でうにょうにょ(、、、、、、)と体の向きを変えてみても、まるで眠れる気配がなかった。だからそのうち寝るのを諦めて起きることにした。人が不毛な生活をしていると私を揶揄するのは仕方がないけれど、不毛な時間を過ごしていると言われるのは少しシャクだった。さすがに私だって眠れそうもないのにいつまでもベッドで粘り続ける程に暇人ではないのだ。わりにちゃんとした掃除や、まだキチンとはやっていない衣替え、シーツやタオルケットやカーテンだって洗ってみるのもいいかもしれない。やろうと思えば何かとやることは思いついた。

 かなり本格的にあれこれと動き回っているうちに午前中はあっという間に過ぎて行った。昼食をとりがてら自転車に乗って大型スーパーに買い物に行き、午後は買ってきたばかりの本でも読みながらゆっくり過ごすつもりだった。そして駐輪場に自転車を停め、アパートに入る扉を開けようとすると、逆にこれから外に出ようとしてエントランスを歩いてきた大家さんと鉢合わせになった。

「やあ、こんにちは」大家さんはおっとりとした声で言った。

「あ、こんにちは大家さん。外はいい天気ですよ」私は愛想良く言った。初めて会った時から、なんというか、無条件で私はこの老人の雰囲気に好感を持っていた。

「ああ、本当に夏らしい、いいお日さんだ。まだ暑くなるんだろうかねぇ」

「ええ、天気予報では今季最高の暑さになるなんて言ってましたから、まだまだ上がって行くんじゃないでしょうか」

「夏は昔から好きだったが、さすがに歳を取ってからは、あんまり暑いといささかこたえてしまうよ」

「ところでその恰好は……草むしり?」

 大家さんは作業用ツナギを着ていた。ツバの広い麦わら帽子をかぶり、肩から汗拭きに使うであろう手拭いを下げ、手には鎌が入ったバケツを持っていた。

「いくら刈り取ってもひょいひょい生えてきよる。ワタシの髪の毛もこんなふうにいかんもんかねぇ、ハッハッハ」と夏よりも元気な笑い声を上げて大家さんはアパートの横手の方に消えていった。

 なるほど、アパートの管理をするのもなかなか大変なものだ。大きく展開しているマンションならいざ知らず、これくらいの規模のアパートなら別途に管理人を雇うまでもないのだろうけれど、かと言ってさすがに大家さんくらいのお年寄りには炎天下の中、草刈りひとつするのも酷な話だ。適当にうちやっておくような人ならばともかく、築三十五年を経過してもなおこれだけの清潔感と美麗さを保っているのを見れば、うちの大家さんはこの建物をまるで我が子を愛でるかのように大事にして、丁寧に手をかけているのだろうことがわかった。そしてそんなふうに愛情をかけられてきたせいだろうか、改めてアパートの全貌を眺めてみると、どこか大家さんから感じるのと同じような優しい雰囲気が醸し出されていた。

「調和か……」私はポツリと呟いた。この前、ミサキが言っていた調和の話を思い出した。だけど誰それが何がしの役割をすると割り振られた楽団がハーモニーを奏でているというイメージよりは、お茶を持って縁側に座りながらゆったりと昔の話でも語り合っている仲のいい老夫婦のような信頼感と親密性が漂う和やかな調和性だ。誰も彼らの間には入り込めない。彼らは魂とか命とか、そういうもっと深い部分で互いにつながり合っているように私は思えた。どちらかが喜べはどちらかも喜ぶし、どちらかが哀しめばとちらかも哀しい。どちらかが消えてしまえば、きっとどちかも……。


 私は急いで買い物してきた物をしまい、ナイロンのトレーニングウェアを着込み、タオルでほっかぶりをし、ペットボトルのミネラルウォーターを二本とちょうど買ってきたばかりの梅味の飴の袋を持って外に出た。多分、大家さんだって気を付けてはいると思うのだけれど、毎年、必ず熱中症で倒れて亡くなってしまう人のニュースを耳にする。なんだか心配になってしまって、彼らの調和を乱さない程度に私も手伝ってあげようと思ったのだ。

「大家さん、私もやりますよ」私は慣れた手つきで鎌を振るっている大家さんの背中に声をかけた。

「ああ、なにも、いいんだよ」くるりと振り返った大家さんの顔にはもはやたくさんの汗が溢れ出していた。「ありがとう、気持ちはすごく嬉しいけれど、若いお嬢さんがやるような仕事じゃない」

「やらせてもらえませんか?日頃このアパートにはお世話になっていますから」

「お世話?」大家さんは愉快そうにニコリと笑った。

「ええ、お世話。こんな私なんかでも嫌な顔一つしないで雨や風から身をていして守ってくれているんです。そんないいヒト、なかなかいないから」

「あんた、わかるかい?コイツ、見てくれは悪いがわりと気立てのいい奴なんだ、ハッハッハ」

 そうして私たちは黙々と草刈りをした。スペアの鎌を借りてせっせとそれを振るっているうち、すぐに私も体中から汗が噴き出してきた。確かに今年一番の暑さだったかもしれない。じりじりと日差しに焼かれた通気性のないレーニングウェアの中はサウナのように蒸れ、下着もTシャツも汗で強かに湿っているのがわかった。途中、私の持ってきたミネラルウォーターを大家さんに渡して互いにこまめに水分補給をし、梅の飴を分け合った。袋が熱されたせいで半ば溶け加減ではあったけれど、口いっぱいに広がっていく塩気のある甘酸っぱい梅の味がなんとも言えず美味しかった。何の気なしに買った物がこんなふうに役に立つとは思わなかった。熱中症予防には水だけではなく、塩分と糖分を摂取するのもかかせないのだとちょうど今朝、天気予報士のお姉さんがそう言っていた。


 一角の雑草を刈り終えるだけで二時間弱もかかった。これをアパートの周り全部をやるのだと思うと、さすがに気が遠くなった。そんな私の想いを察してか、大家さんが「そろそろ上がろうかね」と言ってくれた。

「いえ、大丈夫です。やっちゃいましょうよ」私は慌ててそう言った。

「あんたが大丈夫でも、この年寄りがもうだめだ。まだまだ若い人について行けると思っとったが、さすがに疲れた。このままぶっ倒れて迷惑をかけるわけにもいかんからね」そう言ってまた大声で笑う大家さんは、若い私よりも相当余力がありそうだった。私は素直に大家さんの気遣いに甘えることにした。


 お礼に美味しいお茶でもごちそうしよう、と誘われたので、私は一度自分の部屋に戻ってシャワーで汗を流し、新しい服に着替えてから大家さんの住む、一階の部屋へと向かった。家賃を手渡ししに行く時も玄関先で済ませていたので、改まって部屋に上がるというのはこれがはじめてだった。

「なにぶん、男やもめなもので、散らかっていてお恥ずかしい。まあ、くつろいでいって下さい」

「お邪魔します」

 もちろん、この大家さんの部屋なのだから散らかっていようはずもなく、建物と同様、隅々まで整然と整えられた部屋だった。少し私の部屋とは作りが違うのだけれど、それでも窓の数はやっぱり多かった。小さな仏壇にはこれまた人の良さそうな柔和な微笑みを浮かべた四十代後半から五十代前半くらいの女性の遺影が立てられていた。目元のシワの刻まれ方といい、小さくできたエクボの感じといい、実に幸福そうで満ち足りた自然な笑顔だった。

「奥様ですか?」

「そう、ワタシにはもったいないくらい、出来過ぎた家内だった」

「お線香あげてもいいですか?一応、見知らぬ女が上り込むわけですから、キチンとお邪魔をするお断りをしておかないと」

「お願いするよ。良くできた女だったが、ちょっとヤキモチ焼きなところがあったからねぇ、ハッハッハ」

 それから私たちは美味しいお茶(本当に美味しかった)を飲みながら色々な話をした。私の仕事のこと、大家さんが大手の商社マンだった時代のこと、私の退屈な日々のこと、大家さん自慢の二人の息子さんのこと……そして、私がまた例の取り壊しの件を聞いた時に、大家さんはアパートの歴史について語ってくれた。

 大家さんのお祖父さんは明治維新という大改革の熱狂の渦の中で老舗の仕立て屋の子として産声をあげ、急速に近代化が進んで行く時代の勢いをゆり籠として成長し、ある日、ちょっとした偶然が発端で当時としては至極画期的な衣服のシミ取りの技術を開発して、ニ十代半ばという若さで一財産を築いた人だった。真意の程はわからないけれど、一時はこの近辺の土地のほとんどをお祖父さんが所有していたらしかった。しかし、ピーク時には相当な勢力を誇っていたお祖父さんだったけれど、度重なる戦争や不況や立ち止まることを知らない技術革新、投資の失敗や信頼していた人物の裏切りなどの影響でみるみる家は衰退していき、次々と家財道具は売り払われ、土地や建物なんかも手放さなければいけない状況に陥ってしまった。大家さんが生まれた昭和のはじめには、その栄華の幻影ですらも周りにはなかったのだそうだ。それでもお祖父さんはどれだけ生活に窮しても、最後まで今このアパートが建っている土地だけはついに誰の手にも譲らなかった。それを大家さんのお父さん、そして大家さんと代々引き継いできたわけだ。

「ワタシが父親からここを引き継いだ時、そうだねぇ、ワタシが五十になるかならないかくらいだったろうか?ここには古風な平屋の家が建っていた。ワタシが生まれて高校生になるまで育った家だった。父親が祖父さんから引き継いだ時からもうすでにあちこちガタが来ていたが、戦火にも台風にも大地震にも耐えぬいてきた頑丈な家だった。昔の腕のいい棟梁が建ててくれたんだろうなぁ、今時分じゃなかなかお目に掛かれない立派な梁とたいそうな大黒柱が支えになって、かれこれ百年以上もワタシ達一族を守ってくれていた。あんたが言うところのお世話(、、、)になってきたわけだな」大家さんはまたハッハッハと大きな声を出して笑った。豪快さの中にも決して下世話になることのない品があるのは、零落したとはいえども華族としての血が流れているせいなのだろうか。

 母親はずいぶん前に亡くなっていたし、老人の独り暮らしは何かと不自由だろうと何度も大家さんは自分が暮らす都会の家で一緒に住もうと言い続けてきたのだけれど、父親は頑なに拒み続けた。絶対にこの場所を離れるなというお祖父さんの遺言があったのだそうだ。それを聞いた大家さんは、そんな迷惑な遺言を残したお祖父さんを心から恨んだ。評価額の高かったこの土地家屋を相続する時はもちろん、毎年の固定資産税の支払いなど、この場所を維持していくためには一介のサラリーマンの家庭にはかなりの重荷になっていた。ただでさえ父親はこの家にしがみつくことだけを目的として人生を送ってきたというのに、最後の最後まで土地に縛られなければいけないのか、と。

 やがて父親が亡くなり、自分のものとなった家に改めて足を踏み入れた時、大家さんは何故お祖父さん、そしてお父さんと二代に亘ってこの場所にこだわり続けてきたのかがわかった。……陽の光だ。

 大家さんの表現をそのまま借りるとすると、それは本当に圧倒的な輝きだった。時刻はちょうど夕方で、光はこれから一日の役目を終えようとしていた太陽の最後の一仕事である紅色の西日だった。確かに日の当たりがよい家であったのは住んでいた頃からわかってはいたけれど、差し込む角度といい明るさといい、ここまで見事に調和した強大な陽の光は見たことがなかった。家の隅々、世界のすべて、そして自分の一番深くて暗いところまでもが余すところなく照らし出されて洗われたような気分だった。そう、その人の存在そのものをまるごと包み込む紅色は、決してすべて焼き尽くしてしまう炎のような攻撃的なものではなくて、暗闇の中で優しく人を導いてくれる灯りのような温もりをたたえたものだった。

 大家さんはしばらく呆然と立ち尽くした……と自分では思っていたのだけれど、隣にいた奥さんの声に気付いてハッと我に返った時、大家さんは床にひざまずき、止めどなく涙を流していた。まったく自分で意図したものでもなければ自覚もない、歓喜したものでもなければ悲哀にうちひしがれたものでもなく、とにかくどんな感情も揺り動かされることがないまま、ただただ涙だけが止まらずにいつまでも流れ続けた。

 これは血が泣いているのだと大家さんは思った。この美しい光景を、この遥か遠くまで見渡すことができる素晴らしい展望を、どれだけ家柄が衰退しても自らの命や人生を捧げることになったとしても、あの一瞬の煌めきを守っていかなければならない。血がそれを求めている。血がここに縛り付けられている。血がそれを激しく望んでいる。大家さんは三代目としてこの場所を守ろうと決心した。……要するに血の咆哮を受け入れたのだ。


 しかし、その頃にはさすがに家も寿命だった。ところどころ床板は腐り、屋根は雨漏りがひどかった。さて、どうしたものかと大家さんは頭を捻って考えた。都市部に自らが建てた家のローンはあと少しばかり残っていたし、何よりこちらに移り住もうにも仕事の都合もあった。

「アパートを建てたらどうかと提案したのは家内だった」と大家さんは仏壇の遺影の方を見やりながら言った。奥さんの話をする時はとりわけその表情が緩んだ。それだけを見てみても、彼女に対する大家さんの深い愛情がうかがえた。「隣にいた家内もあの輝きにすっかり魅せられていた。ワタシみたいに血がどうだのとかややこしいことは抜きに、純粋に美しい光景だと感激していた。アパートを建てればその感動を色んな人に味わってもらえる、今の家を売り、老後の備えとしてこっそり自分が貯めていた資金もそれなりにある、早期退職制度なんて便利なものができたからそれに乗っかって仕事も辞めちゃえば退職金も出る、もしそれでもまだ足りない場合はローンを組んでアパート経営をしながら返済して行けば生活もできる、そのうち年金だって受け取れる、やっても損はない、いや是非ともやるべきだ……。ワタシはその力強い迫力に押されて頷くしかなかった。いやいや、元々が同い年の幼馴染で長く一緒にいたけれど、家内にそんな営業の才能があるとは思ってもいなかったよ。女ってやつは本当に底が知れなくて恐ろしい」

「お線香あげといてよかったです」

「なに、ワタシが勝手におっかながっているだけだよ。なにせ色々と弱みを握られていたもんでね」

「女性関係?」私は弟をちゃかすような調子で言った。

「女性関係、金銭問題、暴飲暴食、なんでもだね。若い頃はずいぶん苦労をかけた。それで歳を取ってからは戦々恐々、足腰ガクガク、奥歯ガタガタで頭が全く上がらんかった」

「自業自得、因果応報、女の逆襲」

「申し訳ありませんでした」大家さんは笑いながら遺影の奥さんに向かって深々と頭を下げた。そういえば、奥さんはいつ亡くなってしまったのだろう?話をまとめれば、遺影の写真はちょうどアパートを建てはじめた時くらいのものだ。まあ、遺影にする写真は選べるというから、ちょっと若いけれど一番素敵な表情をしたものを選んだのだろう。


 すっかり話し込んでしまって長居をしてしまった。東の空から宵闇の空が迫り、もうすぐ日が暮れようとしていた。話にのぼった究極の西日を試しに自分の部屋で待ってみようかと思ったけれど、残念ながらもう遅かった。

「ごちそうさまでした、美味しいお茶をありがとうございます」玄関まで見送りに来てくれた大家さんに向かって、私は改めてお礼を言った。

「いやいや、こちらこそ悪かった。つまらない話を長々としてすっかり引き留めてしまったね。何か用事でもあったんじゃないかね?」

「いえ、さっきも話しましたけど、私の退屈な生活のサイクルの中には用事っていう項目はないんです」

「冗談ばっかり言うもんじゃないよ。せっかくの美人さんの格が下がってしまうぞ」

「冗談を言っただけで下がってしまうような安っぽい格ならいりません。置いていってもいいですか?」

「やれやれ……家財道具一式置いていくから処分してくれと言った住人はいたけど、格を置いていこうとした人はさすがにあんたがはじめてだよ、お嬢さん」ハッハッハとまた大家さんは笑った。

「家財道具一式?それはまた……なんというかすごいですね」

「まあ、人はそれぞれいろんな事情を胸に抱いて生きているもんだ。格なんていらないという事情、身一つで部屋を出なければいけない事情、アパート経営者で居続けなければいけない事情……生きているうちに人ってのは自然と様々な事情に縛られていくもんなんだ。そしてそれは拒むことも寄り好むこともできない」

「……また来てもいいですか?」何か他に言い足りなさそうな大家さんに向けて私はニッコリと笑いかけた。「また面白い話を聞かせてください」

「ああ、もちろんだ。面白いかどうかは別にして、この老いぼれの話なんかでよければいくらでもしてあげよう。……ときにお嬢さん、そういえばあんたの部屋は二○三号室でよかったかな?」

「ええ、そうです、二○三。一際、展望のいい」

「その通り、このアパートであそこが一番良い陽が入る。それと、あのとりわけ大きな真ん中の西の窓からの夕日は、ワタシと家内、たぶん祖父さんや父親たちが見たであろうものに一番近いかもしれない。いや、一階層高い分、あれ(、、)よりももっとすごいのに巡り合えるかもしれん。そうそう滅多にあるもんじゃないから、うまいこと見れればいいんだが」

「とりあえず違う窓から差す朝日には毎日感激しているんですけど、さすがに涙まで流したことはないですもんね。……ま、気長に待ってみますよ。なにせ用事が何もないという誰にも負けない特技を持ってますから」

「もう少し黙っておけば本当にいい女だというのに、ハッハッハ」

 その時の大家さんの笑い声が、その後も長らく私の耳の奥で響き続けた。

 何故ならそれが私の聞いた……いや、おそらく世界が耳にした、大家さんの最後の笑い声だったのだから。

 ***

 大家さんの奥さんはアパートの完成を待たず、突然、交通事故で亡くなった。彼女があれこれとアパート経営に関する勉強をしようと図書館に向かっている道中で、無免許の若者が運転する車にはねられてしまったのだ。一部始終を見ていた人たちの証言によると、轟音と共に近づいてくる車に奥さんも含めて交差点にいた人たちの殆どが気がつき、危険だからと歩道の方に避難した。しかし、一人の小さな女の子が横断歩道を白線だけを踏んで渡るという遊びに夢中になり過ぎ、すぐそこまで迫ってきている暴走車に気がつかなかった。そこでいち早く動いたのが奥さんで、手に持った荷物を放り投げて、道路に飛び出したかと思うと女の子を庇うように胸に抱きかかえ、次の瞬間、車が彼女達をはねた。奥さんは女の子共々何メートルも先のコンクリートの道路の上に飛ばされた。車は街路樹に突っ込んで止まった。すべては本当に一瞬の出来事だった。人々が奥さんの方にかけよると、抱えられた女の子は何が起こったのかイマイチよくわかっていないようでキョトンとしていたが、目立った傷はないようだった。ひしゃげた車からは三人の若者があちこちから血を流しながらもなんとか自力で脱出した。そして奥さんは……知らせを聞いた大家さんが病院に到着した時には、もはや息はなかった。後頭部を強く地面に打ち付けたことが死因だということだったが、確かに擦り傷一つ、シミ一つ付いていない蒼白な顔は、生前よりも一層美しく見えたのだそうだ。


「ま、強がって言っていたのでしょう」そう話を聞かせてくれているのは、喪主を務める大家さんの一番上の息子さんだ。年の頃は六十代の前半ということだけれど、なるほど、どちらかといえば遺影で見た奥さんに似た顔立ちをしていた。遠目で見た限り、二番目の息子さんもやっぱり母親似で、双方からは私の知っている大家さんの面影はほんの少ししか見つけられなかった。

 当初はあまり乗り気ではなかった大家さんではあったけれど、奥さんが亡くなってからは彼女の遺志を果たさんと、身を入れてアパートの経営や管理について勉強をした。しばらくすると、知らぬ間に受取人を大家さんにした生命保険に奥さんが数年前から入っていたのがわかり、結構まとまった額のお金を受け取った。あるいは自分の身に何事かあるのを奥さんは感じ取っていたのかもしれない。大家さんは奥さんが陽の光をたくさん取り入れられるようにとこだわり続けた窓を、設計図に手を入れ、各部屋により大きい窓をより多く、可能な限り増やすことにした。資材にも設備にも細々とした内装にもできるだけ資金を惜しまなかった。そんなふうに、奥さんの命の代償として得たお金をすべてアパート建設に費やすことで、大家さんはそこに彼女の魂を一緒に宿らせようとしていた。そう、奥さんは死んだわけじゃない、アパートと一つになったんだ、と。

「だからあんなに熱心にアパートをキレイにしていたんですね」

「ええ、壁や床をブラシでこすってやるのは、アイツの背中を流してやるようなもんだと言っていました。生前はそんなこと一度もしたことがなかったのにと笑いながら」私も息子さんもしんみりと大家さんの大きな笑い声を頭の中で思い出した。

「無免許運転をしていた若者は未成年でした。当時は今以上に少年犯罪の風通しは悪かったですから、当人も猛省していることだし、何よりも将来のある若者だからということで私たち被害者遺族の感情よりも、加害者の少年の立場が第一におもんぱかられるような傾向にありました。弁護士先生の話によれば、おそらく何年か少年院に入るだけで彼はすぐに社会に復帰するだろうということでした。私たちは彼の本名も経歴も、何より、どうして事故は起こってしまったのか?何故彼はそんな無謀な運転をしなければならなかったのか?といった事故の真相も知らされずじまい、同乗者である二人に至ってはなんのお咎めも刑罰も与えられることはありませんでした。……私と弟、そして親戚一同はもちろん納得がいきませんでした。私達が望むような判決が下るまで徹底的に抗戦してやるつもりでいました。遊び半分で乗り回して車を動く凶器にし、結果的に一人の人間の命を殺めた人間が、どうして殺められた私たち遺族と同じ空の下でのうのうと生き長らえなければいけないのか、少年法云々は抜きにして断じて極刑にするべきだ、と息巻いていました。……ただ父だけは違いました。留置場でもとても反省をしている旨を聞いた、一切水も食事もとらずにただただ鉄格子の中で膝を抱えて震えているのだそうだ、このままではその少年は死んでしまう、たぶん罪の重さをキチンと理解し、そのあまりの重さに怯えているのだろう、そしてそうやって自分を痛めつけることで少しでも罪を償おうとしているだろう、他にどうしていいものかわからないのだろう、そんなことアイツは望んでいない、誰かが自分のために苦しい思いをするだなんて考えただけで、アイツはそれこそ死んでしまうかもしれない、必要以上にあの子を追い詰めることは止めよう、あの子を許してあげよう……。生前、父がどれほど深く母のことを愛していたのかはみんな知っていましたから、その父にそこまで言われてしまえば、誰も何も言えなくなりました。実際、少年院に入っている間も、毎日私たち家族にあてた謝罪と懺悔の手紙が届きました。本当に、何年間も毎日欠かさずです。私などはそんな手紙を触るのも嫌でしたが、父は律儀にそれらすべてに目を通し、週に一通は必ず長い手紙を書いて少年に返信していました……」

 そうして息子さんは私の方から顔を逸らして大家さんの名前が書かれた葬儀場の案内看板を見た。神沼(かみぬま)栄治(えいじ)……それが大家さんの名前だ。遠い目をしながら父の名を見つめる息子さんの顔に、あの日、私に誇らしそうに二人の息子のことを自慢していた時の大家さんの顔がダブって見えた。確かに親子なんだなと思った。


 現場の状況、居合わせた人たちの証言、その他どのような見地や角度や断面やらを見てみても、大家さんの死は自然死以外の何ものでもなかった。

 その日の昼間は前著のようにとにかく暑くなった。少しは落ち着くとはいえ夜も蒸し暑くて寝苦しかったのを覚えていた。私たちくらいの年齢ならば、ただそれだけで済むのだろうけれど、さすがに大家さんくらいのお年寄りで、しかも少なからず持病を抱えた心臓には連日の暑さは相当酷なことだったのだろう。

 私はその日、もしかしたら大家さんと最後に話しをした人間かもしれないからと言われて、形式的にとはいえ警察にあれこれと当日の大家さんの様子を聞かれた。麦わら帽子の下の大きな笑顔、元気に鎌を振るう強い足腰、絶妙な濃さで美味しいお茶を淹れることができる繊細さ、確かな記憶力としっかりとした口調で語られた昔話……。そのどれを加味してみても、病気の片鱗も死の予感も私には見当たらなかった。一応、そういったものを話しておいた方がいいのだろうと思って、葬儀の際に私から息子さんに声を掛けた。そして、大まかに話した大家さんの昔話について、私が知りえなかった部分や足りない部分を息子さんは補足してくれたわけだ。

 心臓がゆっくりとその活動を緩慢にして、やがてピタリと完全に停止してしまうまで、一体どれくらいの時間がかかったのかは正確にわからないし、それは苦しみを伴ったものであったのかどうかも今となってはわからない。生きてきた道に満足していたのか、それとも後悔ばかりが残る人生だったのか、それもわからない。ただ一つ確かにわかっていることは、大家さんはもう死んでしまったのだということだけだった。そう、それはもはや確固として揺るがない明確な事実であり、すべての真相を知る唯一の人は、最愛の人が待っているであろうそんな揺るぎのない世界へと旅立って行ったのだ。

 ***

 息子さんと同じように案内看板の名前を見つめている男性がいることに私は気がついた。私たちから少し離れたところからジッと看板を凝視するその人から放たれる雰囲気を、私はどこかで見たことがあるなと思った。……なんだろう?

「あ」私はピンときて思わず声をあげてしまった。

「どうかされましたか?」大家さんの息子さんが怪訝そうに私に尋ねた。

「あ、いえ、ごめんなさい、なんでもないんですけど……すいません、つかぬことをお伺いしますが、あそこに立っている人が誰かご存知でしょうか?」そう言って私は気づかれないように男性の方を指し、息子さんはそちらを見た。

「そうですねぇ……とりあえず親類の者ではないようです。父の知り合いか何かなのでしょうけど、私には見覚えがありませんね」

「なるほど……すいません、変なこと聞いてしまって」

「あの方が何か?」

「あ、いえいえ。どこかで一度お会いしたことがあったような気がしたものですから」

「父はあれでなかなか交際範囲の広い人でしたから、もしかすれば一度や二度、アパートですれ違ったことがあるのかもしれませんよ」そこで息子さんを呼ぶ声がかかった。喪主という立場上、色々とやらなければいけないことがあるのだろう。

「お忙しい中、引き留めてしまって申し訳ありませんでした」そう私は頭を下げた。

「いえ、父の最後の様子を聞けてよかったです。それに、私の知らなかったことも色々と……あなたとお話ができてよかったです、ありがとう」そして息子さんは呼ばれた方に去って行った。


「あの、すいません」私は静かに佇む男性に声を掛けてみた。案の定、自分の考え事に夢中になりすぎて私が歩み寄って来ても全く気がつくことはなく、声を掛けられてはじめてピクリと反応し、こちらの世界に戻ってきた。

「なんでしょうか?」男性は微笑んだ。可笑しみからくる笑みではなくて、見知らぬ相手から声を掛けられればとりあえず反射的に浮かべてしまうと言った趣の、愛想程度の軽い微笑みだった。しかし、それでもその紳士的な笑みは私なんかの微笑みよりも何倍も人の心を魅せられる力を十二分に持っている素敵なものだった。

「あの……こんにちは」

「こんにちは。……何かご用でしょうか?」

「一か月くらい前の夜に、この神沼栄治さんが大家を務めるアパートの前に立っていませんでしたか?」初対面の人相手にぶしつけだったとは思うけれど、彼の中年の男性らしい落ち着きのある渋い声と、清潔な石鹸の香りに私は確信を持ってそう尋ねた。

「……アパートですか」

「あ、すいません、いきなり変なこと聞いて」男性が少しだけ身構えるような警戒の色を見せて言ったので、私は慌てて事情を説明した。「私、あのアパートに住まわせてもらっている者なんですけど、その夜、外から戻って来るとアパートの門のところに人が立っていたんです。声をかけたらそのまま行ってしまったんですけど、その人とすれ違った時、今のあなたと同じように石鹸のような良い香りがしていた気がしたものですから、もしかしたらと思いまして」

「……なるほど」男性はジッと私を見つめた。

 まずをもって美しいという表現が口をつく顔立ちだった。黒く豊かな髪の毛はこの上なく艶やかで肌のキメも細かく、顎や頬は生まれてこのかた髭の一本も生えたことがないのではないかというほどツルリとしていた。顔のパーツの大きさやそれらが各所に配置された具合は、まるで計算し尽くされた黄金比に基づいて丁寧に作りつけたような絶妙のバランスだった。他にも柔らかく優しそうな佇まいや細身だけれどガッシリとした体躯なども含めて、これまで彼が、幾千もの女性たちの心を甘美に揺り動かしてきただろうことが容易に想像できた。

 しかし、どうにも年の頃が推し量れなかった。十代のような無邪気さと二十代のような爽やかさ、三十代のような猛々しさと四十代のような落ち着き、そして五十代から上の世代がようやく持つことができるような超然的な哀愁……それらすべてをこの男性は兼ね備えていた。その優雅で純粋な微笑みは無垢で汚れのない子供のように見えたし、耳にではなく人の心に直接語りかけてくるようなどっしりとした低音の美しい声を聞けば、経験豊かな老紳士のような包容力があった。落ち着いた二十代と思えば思えただろうし、若々しく見られるが六十代だと紹介されればなるほどと納得することもできた。まあ、あまりパッとしない人生を歩んできた齢二十二の私の観察眼が致命的に未熟だというのも否めない。とにかく私には彼の正確な年齢を言い当てることはできそうになかった。……それに、頭の悪い私にはうまく言葉として表現することができないのだけれど、この男性を見ていると感じる何とも心がむず痒くなるような違和感が、私の頼りない目利きの眼を殊更に曇らせているようだった。

 とはいえ、やっぱり無作法に過ぎたかもしれない。改めて今自分が見知らぬ男性に葬儀場というある種特異な空間で、あまりにも唐突で失礼な質問をしているんだという現実が見えてくると、気恥ずかしさのために心がむず痒くなるようだった。それに、もしもあの時の人影がこの男性だったとして一体何だというのだろう?推理小説ならば少なからず事件のキーパーソンになりえそうなグレーなポジションではあるけれど、大家さんの死はどこまでも自然死だったし、幸運なことに私の周りでは事件と呼ばれるようなものはまず起こりえないと遺伝的に相場が決まっていた。

「あの、本当にごめんなさい」だから私は顔を真っ赤にして謝るしかなかった。「石鹸の香りがしたからなんだっていうんでしょうね?そんなものお風呂上がりの自分や銭湯帰りのおじさんからだって香ってきますもんね。私、何聞いてるんでしょう。うん、すいません。今のなかったことにして忘れてくれませんか?お葬式って慣れてなくて、なんだか舞い上がってるみたいで……いや、舞い上がっちゃダメですよね?そんな浮かれ気分でいるわけじゃないですからね、絶対に。ただ、なんていうんでしょうか、私バカなんでうまく言えないんですけど……とにかく……その……」

「落ち着いて下さい」男性は私を静止させるように手のひらを前に出して言った。

「……ごめんなさい」

「そんなに謝らないでください」

「でも、突然あなたを不審者みたいに言ってしまったり、わけのわからないことばかり言って失礼を……」

「大丈夫、わけもわかるし、失礼でもない。それにあなたの言っていることは概ね正しい」

「え?」

「僕がそのあなたのアパートの前に立っていた男です」

「あ……」

「ちなみに本物の石鹸ではなく、石鹸のような香りがする香水の匂いです。……わりと特別なものなので、おそらく銭湯帰りのおじさんからはあまり香ってこないものだとは思いますよ」イタズラっぽく笑う男性の顔は、やっぱり十代のような瑞々しさを存分に湛えていた。だけど、その中で透明感のまるでない真っ黒な瞳だけが妙に無機質で、私の感じる違和感をより助長した。


 ◇◆◇

 栄治(えいじ)はなかなか寝付くことができない。時刻はもう午前零時をとうに回っている。夜はこれからますますその力を増し、匿名的で隠匿的な暗闇の帳を大きく広げて世界中の秘め事をすべて覆い尽くしていくのだろう。

 まるで眠気というものが訪れる気配がない。八十年以上も生きてきたのだから、考え事や夢想に耽り、眠りの好機を逃してしまうような夜は何度もあった。多感な学生時代、忙しい商社マン時代、そして妻が自分の横からいなくなってからの時代……。考えなければいけないことがたくさんあった。拒むことも寄り好むこともできないまま、自分の頭で考え、自分で答えを導き出さなければいけない事情に、気がつけばがんじがらめに縛り付けられていた。

 しかし、今夜の不眠はそれまでのものとは少し趣が違うような気がする。何がどうだということはない。確かにいつもよりも眼が冴えているような気がする。いつもよりも夜が深まっていく音が耳に騒がしいような気がする。だが、それらはおそらく関係がない。それら(、、、)は(、)いつも(、、、)と(、)違う(、、)何(、)かが(、、)生んだ(、、、)ただ(、、)の(、)副産物(、、、)にし(、、)か(、)過ぎない(、、、、)。

 ***

 少年は出所すると、真っ先にその足を栄治がアパートの完成まで身を寄せている長男の家へと向けた。夏の盛りの一番暑い頃だった。手紙の住所を頼りに、少年院から徒歩で四時間かけて栄治の元に辿り着き、玄関のインターホンを鳴らした時にはもう、顔も衣服も汗と土ぼこりがこびりついて真っ黒で、潤いを欠いた唇はひび割れ、短く刈り込んだ髪の毛では防ぎきれなかった強い紫外線のために頭皮は万遍なくただれていた。少年院で支給された安物のスニーカーは両方とも底が破れて今にも抜けそうになっていて、その隙間から靴擦れの血で真っ赤に染まった足の指がのぞいていた。

 それでも少年は、自分の風体に心底驚いた顔をした栄治の顔を見ると、疲れも渇きも忘れて玄関先で土下座をした。その土で汚れた額を敷石の上にゴリゴリと擦り付け、余分にあるはずもない水分をどこからか振り絞ってきて号泣し、ひたすらごめんなさい、ごめんなさいと謝った。もはや声を出すこともままならないであろうことは簡単に見てとれたが、少年は命を少しづつ切り売りして力を得ているかのような切実さでもって、とにかく泣きながら、ごめんなさいと何度も繰り返した。

 栄治はその少年の姿を見て、なんともいいようのない感情が込み上げてきた。やはり憎かった。息子や親類の怒りをいさめ、あれこれとアパート建築の用事で奔走し、明るく元気に振る舞ってはいたが、やはり心のどこかの僅かなスペースに、本当に小さくてか細くて弱々しいものではあるが、確かに最愛の人を死に至らしめたモノに対する拭いきれない憎しみがあった。度重なる手紙のやり取りで、少年が真剣に反省をしていることも、罪の意識に苛まれて身を引き裂かんばかりでいることも、妻が決して戻ってこないことも、頭ではわかっていた。激昂する皆を説得し、少年を許そうと言った言葉も混じりけのない本心だった。手紙の返事にも確かにそう書いた。しかし、降り積もった真っ白な雪の中に一点だけついた邪悪な黒いシミは、周りが美しく純白に輝けば輝くほどに、鈍くて不吉な光を栄治に向かって投げかけた。そして実際に少年の姿をこの目にした瞬間、あらゆる理屈も道理も概念も簡単に跳び越えて、その黒いシミは栄治の心をべったりと塗りつぶして支配してしまった。誰よりも少年のことを許していないのは自分じゃないか、誰よりも妻を奪われたことに納得できていないのは自分じゃないか……。

「……帰ってくれ」気がつけば栄治はそう呟いていた。冷たくて固くて、誰かの脆い心など簡単に貫いてしまえそうなほど鋭く尖った声だった。

「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」なおも少年は謝り続けた。

「頼むから、顔をあげて帰ってくれないか、君。……もう謝らなくてもいい、もう何も償わなくてもいい……ただ、もう二度と私の目の前に現れないでくれ」

 そして栄治は玄関のドアを閉めた。決して強く閉めたわけではなかったのだが、思いのほか大きな音を立ててドアは閉ざされた。栄治はその音にビクリとした。そしてハッと今自分が少年に言い放った言葉を思い返して血の気が引いた。今の少年にとって、自分が放つ残酷な言葉が、どんな刃物にも銃弾にも勝る殺傷能力を擁しているのかわからない彼ではなかった。直ぐに撤回しなければいけない、今すぐこのドアを開けて少年を抱きかかえ、自分も泣きながら少年に許しを乞わなければいけない。君が心から詫びているのはわかっている、もう私は許しているからもう泣くなと言ってあげなくてはいけない……。

 しかし、栄治にドアを開けることはできなかった。怖かった。傷ついた少年の顔を見るのが怖かった。自分の犯した罪を目の当たりにするのが恐ろしかった。そう、自分は今、罪を犯した。法律上でどうだとか遺族としての当然の想いだとかいう話は問題ではない。自分は誰かを傷つけるべくして傷つけた。憎しみの槌を振るって鍛えた鋭利な言葉を少年の胸へと深く深く突き立てて、妻の復讐を果たそうとした。それは紛れもない罪だった。倫理的、道徳的、人間的に犯した凶悪な罪だった。

 そして栄治はその罪から逃げたのだ。少年のように罪から目を逸らさずに正面から向き合うことができなかった。少年は決して逃げなかった。自分を罰し、自分を律しながら高い塀の中で過ごし、長い長い道のりを不安と疲れを抱えて歩き続け、逃げることなく勇気を出して遺影の前にただ一本の線香をあげにきたのだ。……自分は少年以下だ、自分は憎き妻の仇である鬼畜よりもまだ劣る、臆病で卑怯な卑劣漢なのだ……。


「父さん!おい父さん、大丈夫か!」外出先から帰宅した長男の家族は、胸を押さえ、靴箱にもたれかかるようにして座り込む栄治の姿を見て仰天した。

「……なあ、外に誰かいたか?」額に尋常ならざる量の脂汗をかき、虚ろな目をした栄治が、そう長男に尋ねた。

「そんなことどうだって……」

「誰かいたのかと聞いている!」

 母の死と対面した時も、犯人に激昂して荒ぶる遺族たちの只中にあったとしても気丈に振る舞い、日頃からの温厚さを保ち続けたあの父親が、よもやこれほどまでに険しい剣幕で迫ってこようとは、長男をはじめ、その家族たちも重ねて驚き、気圧されてしまった。

「誰か……いたか?……」一転して、今にも消え入りそうな声で栄治は三度(みたび)問うた。

「……いや、誰もいなかったよ、本当に」仕方なく長男はそう答えた。

「そう……か……」

「ああ、ただ……」そして長男は端の方を指でつまむようにして持っていたものを見やり、「なんだかよくわからないゴミが扉の前に落ちてはいたけど。ほら」とそれ(、、)を栄治の目前まで持ってきた。

 それ(、、)が少年の抜けた靴の底だとは、栄治以外の人間にわかろうはずもなかったし、そこでそのまま意識を失った栄治の介抱にバタバタとした長男家族が、それ(、、)と父親の心臓の具合が悪くなったことを関連付けて考えられるような心の余裕もありはしなかった。


 その後、病院に緊急搬送された栄治ではあったが、心臓発作の極々軽いもので命に別状はなく、一週間ばかりの入院の後は、元の通り、いつもの温厚で人当たりの良い神沼栄治が戻ってきた。そして彼の帰還を見計らったかのようなタイミングで、業者からアパートが無事に完成したという連絡が入り、栄治は慌ただしくこの息子の暮らす街を出ていった。退院したのが昨日の今日なのに大丈夫なのかと心配して引き留める長男家族に対し、父親は穏やかに、されど頑として出立を譲ることはなかった。

 更にそれから数日が経ったある日、前触れもなく長男の元に警察官が訪ねてきた。少年院から出てきたばかりの例の主犯の少年が行方不明になったのだそうだ。警察官はこちらに顔を出していないかと一応確認をしに来たらしいのだが、長男にその心当たりはなかった。あるいは父なら何か知っていたかもしれないとも思ったが、心臓に余計なストレスを与えるのはよろしくないだろうと、黙っていることにした。……もう充分苦しんだ。これ以上、親父を無駄に辛くさせることはないじゃないか、と。

 ***

 ――あの子は一体どうしたんだろうか?――

 今夜はどうにもあの時の少年のことが気になって仕方がない。おそらくアパートの住人である女の子にあれこれと昔の話をしたからに違いない。少し変わった娘ではあったけれど、なんだかとても話しやすくて楽しくて、ついつい喋りすぎた。アパートの歴史を振り返るとき、その傍らには常に妻が寄り添っていたし、妻のことを考えれば必ず最後には事故のことを思い出してしまう。事故による被害者がいれば、もちろん事故を起こした加害者がいる。そしてその加害者に対して自分が犯してしまった罪の意識も自ずと蘇ってきてしまう。

 もはや憎しみなど欠片らほどもない。妻が死んでからもうかれこれ三十年以上、もうすぐ四十年になろうかというくらいの時が流れている。その死を一日たりとも忘れたことなどなかったし、妻に抱いていた愛情も変わらずに持ち続け、長らく独り身を貫いてきた。

 しかし想いとは裏腹に、色々なことを忘れていってしまっているのもまた事実だ。彼女の声、身体、癖、仕草、思い出……何もせずとも勝手に溢れ出でてはその覆ることのない喪失を悔やませた数々の彼女に関する鮮明な記憶は、年を重ねていくごとに色が抜け、細部が削られ、形を異し、あるものに至っては全くの無の中へと帰してしまっていた。

 そして少年に対する黒い感情もその中の一つに数えられた。あの時、彼に向かって投げつけられた憎しみも、その後自分を苛めた罪悪感も、ふと気がつけば栄治のまわりから消えていた。他の数多くのものと同様に、日々の生活に追われていくうちにいつの間にかどこかへ落としてしまったらしい。そこに残っているものは、そこにはめられていた感情の型通りにできた窪みだけだった。中身はない、ただその窪みを見ればどういう形をしていたのかはわかるし、過去には中身が確かにあったのだということも辛うじて思い出せる。しかし、有りのままではもう二度と思い出すことはできない。あれ程までに生々しく存在し、終生背負い続けていくのだろうと思っていた数多くのものたちは、もう二度と彼の背中には戻らない。

 少年に会って、謝れるものなら謝りたいとは思う。そして改めて、もう許しているのだという言葉をかけてあげたいとも思う。しかし、もうそんなことはどちらでもいいのだと思っていることもまた事実だ。人が年を取るというのはそういうことなのだ。良くも悪くも、たくさんのものを獲得して裸の身に纏わせながら生きていくのを成長といのかもしれない。そしてゆっくりと今度はそれらを脱ぎ捨て、失い、あるいは意図せずこぼれ落としながらやがて裸へと戻っていくことを老いというのかもしれない。そしてそれは無力な人間ごときには拒むことも寄り好むこともできないのだ。……栄治なりの人生哲学だった。


 いつまでも眠れそうになかったので、栄治は布団から這い出して起きることにする。白湯でも飲んで気を静め、椅子に座っていればそのうち眠くなるか、あるいはいつも目覚める日の出の時刻になるだろう、と。

 カーテンを開いて、西の窓辺に置いた揺り椅子の上から月を見上げる。針金を曲げて作られてでもいるかのような細くて頼りのない月が、雲のない真夜中の夜空に張り付いている。

 ずいぶん長く生きてきたものだと栄治は思う。数年後には米寿を迎える。自分が子供の頃の八十八歳など、仙人か天狗か妖怪の類かくらいに思っていたが、いざ自分がそういった年齢に差し掛かってみると別段なんてことはない、神がかった力もなければ、特に人間に深みが増したようにも思えない。ただ、えらく年を取ったなと思うだけだ。

 あるいは、妻を亡くした時に、自分も一緒に死ねばよかったのかもしれないと栄治は思う。彼女を失ってからの日々は、ただ彼女を忘れないようにと生きた毎日だった。アパートを建て、そこに住み、毎日朝から晩まで何かとアパートのために動くことで、常に妻と一緒にいるような気分になれた。それで良かった。そうやって自分が生き続けることが、妻を忘れないでいてやることが、彼女への何よりの供養となると頑なに信じていた。だが、皮肉にも生き続けていけば行くほどに、忘れまいと強く思えば思うほどに、妻との思い出を忘れていってしまう。どんな些細な出来事も、どれほど小さな記憶のピースも失くすまいと鍵をかけてしまっておいたにも関わらず、箱を開けてみた時にはもうそれらは気泡のごとく消えていってしまった。まさかそんな未来が待ち受けていようとは、栄治は考えていなかった。これでは自分は何のためにここまで孤独に耐えながら必死に生きてきたのかわからないではないか……。


 ボンヤリと月を見上げていた栄治は、ふと何か視線のようなものを感じるのに気がつく。視線?誰かが自分を見ているというのだろうか?こんな夜中にわざわざこんな年寄りを外から見ているのか?栄治は視線を感じる方へと目を向ける。


 そこには妻が立っている。


 ちょうど、どの部屋にもよくよく陽が差すように、そして見下ろす街の展望を遮らないよう、ただ芝だけを敷き詰めて広場のように開いてある場所に、遺影の写真に写ったままの慈愛と優しさに満ち溢れた微笑みを浮かべた妻が佇んでいる。夢か幻覚か幽霊か、それはわからない。ただ紛れもなく、妻はそこに立っている。栄治は何か言葉をかけようとする。距離は離れていたが、彼女の方にむかって手を伸ばして触れようとする。しかし、声は一文字も出て来ない。手をあげることもできない。栄治はただただ目を見開いて、じっと妻の微笑みを見つめることしかできない。

 そんな栄治に構うことなく、彼女はくるりと踵を返して歩き出す。そちらはさほど高いものではないにしても、一応崖となっていて行き止まりになっている。そしてやはり景観を気遣い、申し訳程度の低い柵でしか囲っていない。芝についた夜露で足を滑らせたりしたら大変だ。

「……おい!」

 栄治はようやくその一言だけを発する。同時に体も正常の機能を取り戻したことがわかると、急いで窓を開け、裸足で妻の後ろ姿を追う。それこそ夜露に濡れた芝に足を取られて何度も転び、顔から倒れ込む。その度に踏み潰された草の青臭い匂いと湿っぽい土の匂いが鼻をさす。夢でも幻影でもこの世のものでもなくていい。ただ一言彼女の声が聞きたいと思う。ただ指の先にだけでも彼女の体の感触を感じたいと思う。ただもう一度だけでいいから優しく微笑んで欲しい。愛をたたえた目で自分を見つめ返して欲しい。

 栄治は妻の方へと手を伸ばす。今度はちゃんと伸ばすことができる。まだ距離としては微妙なところで、触れられるか触れられないかぎりぎりのところだ。栄治はあらん限りの力と意識で可能な限り腕を伸ばし、指を伸ばし、爪でさえも伸ばそうとして妻に触れようとする。


「見て、あなた。キレイな夕日よ」

 妻がそう言った瞬間、栄治の指が彼女の小さくて柔らかい肩に触れた。

「ああ、本当にキレイだな」

 紅色の夕陽が二人を温かく包み、そして静かに暮れていく。

 ***

 いつも朝の日課である散歩を共にしている仲間数人が、待ち合わせの時間になっても現れない栄治のことを心配して彼の元を訪ねた時、栄治は窓辺の揺り椅子に身を深々とまかせながら眠っていた。そのあまりに穏やで満ち足りた様子に、居合わせた人々の全員が、まさか栄治に息がないなどとは思わず、一様に微笑み合った。


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