神樹の園①
全身が痛い。
鉛のように重たい身体は指の先くらいしか動かない。おまけに呼吸をするだけで全身が軋み、悲鳴を上げると内側からハンマーで殴られるような鈍痛が顔を出して洒落にならない。
どうしてこんなに痛いのか、悩み、悩んで、ふと思い出した。
ファンタジーにいた自分が、必死に足掻き、その果てに気を失ったんだった。
なら次に思うのは別の事だ。どうして今生きているのだろうか。間違いなく死にかけていた、と言うか、死んだと思ったんだが。少なくとも自力で目覚めれる筈もない状態だったのに、……何故だ?
疑問に対する答えが思い浮かばないまま、ふわりとした草場に身体を預けている。そんな時だ、不意に目の前から何か音が聞こえてきた。
湿った、まるで呼吸音のような微かな音で、同時に髪を撫でる風が生暖かく変化していた。
激痛が走るが、根性で視線を、正確には顔を上へと向けた。
「──────」
『おお、目覚めたか小僧』
瞬き二回、深呼吸三回、頭を一度振って、再度確認した。
遠近法が狂っているのか、人一人顎を外さずとも丸飲みに出来るような巨大爬虫類の顔面が黄金色に輝きながら此方を向いている。それも一つじゃない。最低でも8、背後には更に無数の顔が存在している。
ファンタジー的思考でこれは竜だと決め付けた俺は恐怖らしい恐怖を感じないまま、呆然とそのサイズに驚いていた。──と言うか恐怖が麻痺してるらしい。ヤバイとは感じるので脅威はいやと言う程感じるんだが。
『死の淵より這い上がり、死体から蘇生した気分はどうだ? 吐き気はないか、頭痛はしないか、尿意や便意があるのなら厠まで運ぶがどうする?』
頭の中に直接声が響くとは流石ファンタジー。それにしてもフレンドリーな事この上ない。奴さんの話す内容に間接的に死を仄めかすような語りはとりあえず後回しだ。
「……幸い痛いだけだ。気にかけてくれてありがとさん」
『ほう、意識はしっかりしているらしいな。いくら<神樹の欠片>とは言え、活力が無ければ死者は甦らん。やはり選ばれたと言う他あるまい』
「よく分からない」
『ふむ、まあ蘇生したばかりだ、肉体の再生も半端で記憶の欠落も激しかろう──今は休め、話はまた後日としよう』
記憶の欠落と言われようが知らないものは思い出しようがない。だから話は今したいのだが、身体が既に言うことを聞かず、引いていく激痛と比例するかのように、俺は睡魔に誘われた。
目が覚めた。
光景は変わらない、ただ痛みだけが嘘のように消えていた。激痛が夢だったのではと思うほどの快復速度だ。
動作を確かめるために何度か指を折り曲げたり、屈伸や伸脚、アキレス腱伸ばしなどを繰返し、何やら倒れる前よりも遥かに動きやすいと一人驚いた。所謂超快復と言うやつだろうか?
「……生きてる」
荒れ果てた腕は象牙色を取り戻した。擦りきれた足は無事立ち上がっている。這った際に虫に刺された箇所や、土や石で削れた箇所すらも痕すらない。まごうことなき健康体だった。
『気分はどうだ、その様子ならば悪くはあるまい。ちなみに厠は小屋の裏にある、必要ならば案内するが?』
背後からぬっと巨大な顔がつき出される。昨日もみた巨大な黄金の多頭竜だ。……なんと言うか、便所を進める姿はファンタジーの竜のイメージが死滅するから止めて欲しい。
「大丈夫だ、ありがとう」
『では我と暫く対話をせんか。御主には伝えぬばならぬ事もあるしな──とりあえず椅子でも用意しよう、茶はいるか、茶請けならいくつかあるが、ああ、オススメは饅頭だ』
「あ、うん。お構い無く」
『遠慮入らんぞ──と言うか、他のが張り切って既に用意したらしい』
告げられた言葉に疑問符を浮かべるより早く、竜の背後から新たな頭部が三つほど伸びてきた。口に加えている椅子や机はともかくとして、お盆を加えて運べるバランス感覚は純粋に凄い。
運ばれた物を素早く並べ、横に裂けるように唇を歪め、眦を吊り上げた表情で他の首は帰っていった。……もしかして今のどや顔か?
『すまんな、今すぐ片付けよう』
「わざわざ用意してもらったんだ、ありがたくいただくよ」
『そうか、──気遣い感謝する』
気遣いだけでなく、出されたお茶の匂いで腹が減った事もあるので微妙な笑みで応えて椅子に座る。
急須に似た入れ物を器用に加え、髭で固定した湯呑みに深緑の液体が、たまに金色に輝きながら注がれていく。……大丈夫なんだろうか?
『粗茶ですが』
その知識を何処で得たと言いたくなったが、ともかく差し出されたものは飲み干すのが礼儀だろう。
覚悟を決めて一口飲むが、なんと言うか、美味い。緑茶そのものとは言わないが、かじりなく近い上等な何かだ。
気味悪く輝いているのに美味いのもファンタジーだからだろうか?
茶請けの饅頭は見た目は変わらないので口に含むと、上品な甘さと、仄かな甘い香りがして茶がより美味く感じた。だのに餡の色が唐辛子のような真っ青なのが非常に違和感を感じる。
『一息吐けたか』
「ああ、ありがとう」
『ならば対話の時間だ。まずは、そうさな、どうやって此処に来た』
問われて、むしろ疑問符を返すしかない。
気が付けば見知らぬ場所に立ち尽くし、漠然とした不安に突き動かされてがむしゃらに歩き回っていただけなのだ。途中で足が動かなくなり、這い回ってはいたがそれ以外に何か特別な事をした覚えはない。
だから素直に分からないと答えると、竜は瞼を閉じて、開いた途端に背後の木へと振り返った。
『お前はやはり選ばれたのだろうな』
「……何にだ?」
『神樹そのものにだ』
『神樹は何者をも拒絶する。守護を司る我と、管理を行う巫女以外で、この地に長き間止まれる存在はおらん』
『だのに御主は平然とこの場にいる。──やはり選ばれたのだろう』
内容はやはりファンタジーだ。神樹が云々と言われようが何処にでもいるような、ただ諦めが悪いだけの一般人に言われても正直意味が分からない。
何より神樹に対しての基礎知識が足りないので理解が出来ない。
「そもそも神樹ってなんだ」
『む──まだ記憶が戻らんか。<神樹の欠片>の蜜を取り込んだのならば既に取り戻している筈なのだが』
『まさか何らかの封印が──アルトリア、御主の目を貸せぃ!』
大音量に頭痛がする。
叫ばれるのはいいがせめて事前に何か言えと言いたいのだが、近距離で音波攻撃を受けた影響か、決め値悪くて暫く喋れそうにない。
頭を抱えてのたうち回る中、不意に目の前に足が現れた。分厚い革靴が眼前に唐突に現れて流石に驚いたのはしょうがない。
視線を上に上げると、真っ先に青いワンピースの裾が見える。腰の辺りには道具を入れるゴツい収納帯が装着され、中には選定ばさみや何やらよく分からない液体入りの瓶に刷毛、鎌がところ狭そうに収納されていた。
引き締まったウエストから一転して豊かな胸が何とも見事だが、何より袖無しのせいか横から覗いているのはどうにかならないのか。
さながら人形のような無表情な女性は、その翠の瞳を真っ直ぐに竜に向けている。──肌が白いと、鼻が高いと、こうも顔立ちが違うとは。
「どうかしましたか翁?」
『御主の目で小僧を見よ』
「彼を──分かりました」
途端、のたうち回る俺を押さえるために革靴のまま胸元に足を添えられた。力なんて特に入ってないのに動けないと言う摩訶不思議の状況に流石に思考が停止した。
「すみません、ですが動かれると困りますので」
翠の視線が真っ直ぐに此方を見詰めている。一瞬、その翠が陰りを見せ、何かが下から上へと無数に上ったかのように見えたのは錯覚か?
それから暫く、不思議な物を見るように俺を見た女性は、
「翁、彼は<外来者>です」
どうでもよさそうに告げた後、人の顔を跨いでいった。白だった。