無名の草原
───此処は何処だろうか。
周囲はどこまでも広がる草原。透き通るような星空には、まるで硝子のように蒼い月が浮かんでいる。
微かに響く虫の音と、それに紛れるように遠く響く唸り声が木霊して耳から離れない。
灰色の草臥れた寝間着でこんな場所にいる。それはひどくファンタジーな事だろう。
ついでに普段はド近眼である為に外せなかったビン底眼鏡は机の上に置いてきたようだが、それでも普段以上にクリアな視界もファンタジーと言えばファンタジーかもしれない。
これが、この状況が夢なら話が早い。いつ目覚めるかは知らないが、いつかベッドの上に移動するのだから。
だが、これが夢だとは思えない。風が頬を撫で、砂利が足裏に刺さり、青臭さと土臭さが混ざったような匂いに、静かに響く虫の音、それに驚きすぎて開けた大口に入り込んだ砂の味が、夢と楽観視させてくれない。
この状況が一体なんなのか。それは考えたところで多分分かりそうにない。
もしかしたら荒垣宗司は実在の人物ではなく、むしろ現状こそが本来の世界で、日常こそが夢なのかもしれない。そして夢の自分を本来の自分と錯覚している可能性も有り得るのかも。……まあ、それこそ夢のような話だが。
足裏に刺さる砂利に辟易しながら、ともかく周囲を探るために前へ、何処かもわからぬままに進んでいく。泥濘に足元を汚しながらも、ゆっくりと進んで行かなければ、この状態のままで何かが終わってしまう。そんな漠然とした不安に足を前へと移動させる。
「───クソッタレ」
延々と続くような草原、どれ程歩こうが変わらぬ遠吠え、泥濘と砂利で悲惨な両足。
体力がただ減るだけで、変化らしいものは一つもない。精々月の位置が僅かに変わったように見える程度。現実でこのような悪路を素足で歩いた事など当然なく、いくら田舎暮らしの若造とは言え、このような状況では消耗も激しい。
何より何も分からないという現実は、想像以上に、想定以上に、不安や恐怖を掻き立てる。
ぼんやりと、周囲を蒼く照らす月光が憎らしい。薄らと見える事を有難いと思うよりも、背高な草に隠された、見たくもないモノが腐乱しているのを発見してしまう原因となったせいで、胃液を盛大にぶちまけそうだ。
ああ、それでも───歩かなければならない。
此処にいる、此処に留まる、そんな事は御免こうむる。
こんな状況だ。平々凡々に生きてきた日本人だ。どんな場所にいても、どんな状況でも結局は危険な事は変わらない。歩いていても、歩かなくても、いつかはそこの腐乱物のようになる可能性はごまんとある。いっそ此処で足を止めても結局何も変わらないのかもしれない。
だが、だけど、だからこそ。
足を止めてはいけない。歩を進めなければいけない。
生きているのだから、まだ生きているのだから、───だから我武者羅に生きなければいけない。
生きているのだから、死ぬ事は許されない。死を享受してはいけない。
足掻いたその先に可能性があると信じて、ただ愚直に進んでいこう。
───それからどれ程の時が経ったのか。
倦怠感が全身を支配して、既に見覚えのない形に成り果てた両足は感覚がすでにない。
這って進んだ際に必死に動かした両腕は、最早使い物になりそうにない。
五感もすでに機能停止寸前、心音は刻一刻と緩やかに。唯一変わらないものは、この諦めの悪さだけだろう。
意識もすでに朦朧としていて、眼前に何があるかも分からない。
それでも這い回って、這い回って、這い回って、───辿り着いた。
◆
黄金の果実を管理する女神。黄金の果実を守護する多頭竜。
巨大な樹木と、それを管理する者達だけが存在する世界に、久方ぶりの客人が現れた。
それは薄汚れた象牙色の人間で、どのように此処に辿り着いたのか、その出で立ちは悲惨そのものだ。
衣服はすでに擦り切れて最早布切れと化している。剥き出しになった皮膚は黒ずんでおり、這っていた跡は赤く染まっている。汚泥に曝された傷は膿んでおり、毒虫にでも刺されたのか、所々が紫色に変色していて、元の象牙色を見つける方が難しい。
余程無茶な行為をしたのか、それとも積み重なりこう成り果てたのか。
その存在に果実の管理者である女神ではなく、果実の守護者である龍が興味を示した。
過去に英雄と呼ばれし存在がこの樹の下に辿り着いた際は、大抵が裏技的、分かり易く言えば何らかの力による干渉と言う方法でのみ、この世界へと訪れていた。
だが、目の前の存在は違う。なんの力も持たず、何の偉業も起こさぬままに、ただ導かれるかのようにこの樹の下へと訪れている。
それはつまり、この樹そのものがこの存在を呼び寄せたのではないかと、かんらからからと吠いながら、ぼんやりと樹を女神へと語りかける。
それに女神はちらりと一瞥した後、嫋やかに果実を一つ収穫する。
黄金の果実、世界樹の実、森羅万象の欠片。
数多の呼び名を持つ果実には、それ相応の力がある。
それこそ、瀕死の人間に果汁の一滴でも垂らせば肉体が修復する程度には、強大な力を有している。
女神は何処からか取り出した小さな刃物で、するりと果実を切り分けると、そこから溢れた果汁を人間の唇へと数滴落とす。
それでもう安全だと、いまだに変化のない人間を一瞥する事もなく、女神は果実を食べながら、後の事は全て龍に押し付けてから樹の手入れを再開した。