天使の梯子
太陽の光線は雪山の間から真っ白いゲレンデに色とりどりの美しいラインを引き、なだらかな曲線を描くスキーヤーやボーダーたちが影と共に舞い、きらきらと光を反射させている。
正月の三が日を過ぎると一度客足は落ち着くようだ。私もその時期を狙ってこのスキー場に足を運ぶのだが、今回は出会った人間が不味かったようだ。
私は滑ることより空気の澄んだ空の青々しさとゲレンデの雪のコントラストが映える景色や冬独特の匂いやその雰囲気が好きで、はるばる首都圏から車を数時間走らせる。出会いを求めることや自分の勇士を見せびらかしたいといった目的の異なる輩とは根本的に原動の意味合いが違うのだ。
とはいうものの、私ももちろん滑らないわけではない。一人静かに背景を楽しみながら広々とした白い大地をゆっくりと流したいのだ。輝く光の一つ一つに焦点を合わせ、目に留めておきたい。脳裏に刻みつけておきたい。
真っ青な空を舞い落ちる雪が時より起こす幻想的な瞬間などを見つけ出し、止まってその手を差し出し、触れたいのだ。
「何が楽しいんですか?」
その男の言い草と言ったら、粗暴でガサツ過ぎると私は思う。
休憩場の外にあるベンチで私が雪に覆われた山々を眺めていると退屈そうな男の声が聞こえた。
「何か見えるんですか?」
「いや、別に」
上下のウェア共、目の覚めるようなカラフルな色で染まったそのガサツ男は、板を立てかけ、私と同じ方向を覗き込んでいたが、私のマイナス何十度はあるだろう冷たい言葉にその口を閉じた。
私が一々丁寧に説明したとしてこの男に理解できるとは到底思えなかった。
ガサツ男は態度で物語っていたのだ。
俺に惚れろと。
見ろ、この勇士をと。
ゲレンデ近くに冬の間だけ住むウィンタースポーツに人生の半分を捧げているアスリート気取りの素人は少なくない。
彼らの何が悪いということはないが、ただその見せびらかすような滑りを視界に入れるのはあまり気持ちのいいものではない。私自身、そのプロに近い存在だっただけにどうしても鼻についてしまう。
ファミリーで楽しんでいるような場所で女の子を横目にちょっとした技術をこれ見よがしに披露して見せている男の軍団など、一体何のために美しいゲレンデに来ているのか聞きたくなるというものだ。
この男もその口の人間だろうと私はベンチから尻を上げた。
先ほどからベンチに座る私の目の前の小さなキッカー(ジャンプ台)で、その微妙な技を披露して見せているのだから、私の推理に間違いはないだろう。
「何か見入っていましたよね? 何ですか」
口を結んだと思ったのは勘違いだったようだ。立ち上がり腰に手を当てて体を軽く揉みほぐしている私にガサツ男は聞いてきた。
「あの山ですか?」
視界いっぱいにそびえ立つ真っ白い山を指差し繰り返し聞いてくる。私が答える気がないということに気が付かないようだ。 男はゴーグルを外して「俺には何も見えないけど」と小さな声でつぶやいた。
目を凝らして山を見入る男はなぜなのか、諦めずに視界の中の白い景色を睨んでいる。私の目には映るが、このガサツ男には見えないのだ。そんなものだ。
それがこの男と私の違いなのだろう。
私はほぐれた体を動かして足腰の筋を伸ばし、この男の存在を無視して板を装着し、目の前のなだらかな下りを滑っていった。
「あ! ちょっと待って!」
慌てたような焦った声が背後で聞こえた。
新雪を探して板を滑らせる。手入れされた板はよくワックスがかかっていてスムーズにターンできる。道なき白い広野を自分だけの道を作り出す。どこに行こうと、どこへ向かおうと自由だ。太陽が反射して私の道はきらきらと光っていた。
輝かしい未来が見える。
脳裏に浮かぶ見知った誰かが私に言った。
お前なら世界に行ける。
「ちょっとくらい話をしてくれてもいいじゃないですか!」
だんまりを決めている私にしつこく付きまとうこのガサツ男は、私と同じ緩やかなスピードを保ち、私の隣に位置してゆっくりとカービングしながら馴れ馴れしく話しかけてくる。
「何が見えるのか、聞いただけなのに」
拗ねたように言葉を続ける男を尻目に私は少しだけスピードを速めた。
冷たい風が頬を凍らせる。視界が狭まると同時に美しい風景は急速に後ろへと消える。目が覚めるような冷やかな空気を吸い込み、酔ったような感覚を呼び起こす。
突然大きな影が横を過ぎ去ったかと思うと、目の前に目の痛くなるような色のウェアが現れた。その背中は板に荷重をかけるために左右に揺れている。
雪面を彫るようにターンし、白い飛沫をあげ、雪の大地を削り、男の背後に道を作っている。
風にウェアをなびかせ、バランスを取るために時より腕を広げ、前方だけを一心に見据え、鳥が空を舞うように風と一体になって斜面を滑りゆく男の背中を正面に、私は男が作った道を通り、その姿を脳裏にいまだ残る誰かの姿かたちに変貌させ、ひたすらに後を追った。
インナーの中の脇や背中が汗に濡れている。割れるような頭の痛みに顔を歪める。男は大きくターンをして広々とした斜面を大きく使い、右へ左へと揺れる景色を楽しんでいるように見える。
グランドトリックと呼ばれる技術を駆使し、何度となく板を反転させ、スピードにのりそうな板を操り、体の回転によって向きを変え、伸び伸びと降下していく。
下り斜面はターンしなければどんどんとスピードが増す。増したスピードは恐怖心を育て、縮こまった心は体を固くし、強張った体は腰を重くする。後ろの足に重心をのせたままターンを繰り返す私には到底男に追いつくことができない。
待て。待ってくれ!
私の体は意思と反して思うように動かず、私は男の小さくなる後ろ姿を眩しそうに見送ることしかできなかった。
「あの」
スキー場に隣接している食堂でうどんをすすっていると知らない男が私に話しかけてきた。
テーブルの横に立って私を見下ろしているその男は、カラフルなウェアに身を包み、申し訳なさそうに口を開いた。
「先に行っちゃってすみません」
ニット帽とゴーグルを外したあのガサツ男は、まだ青年と呼べる幼い顔をしていた。帽子のせいで寝起きのようなクセのついた髪型、黒い髪に部分的に金髪が混ざっている。片耳にはいくつもピアスがぶら下がり、細い眉と同じくらいに細い目を吊り上げ、色白い顔の頬と鼻だけをほのかに赤くさせ、私に謝罪した。
謝られる必要などない。私たちは共に滑っていたわけでもなく、友達でも、知人でもないのだ。
じろじろと値踏みするように男を眺めた後、私はつぶやいた。
「いや、別に」
「一緒に座ってもいいですか?」
ゲレンデで嫌というほどこの男の存在を無視した行動をした私に飽き足らず、前の席を指差す。
空席を否定することはできない。連れがいないことはもう悟られているだろう。
拒否する理由を見い出せず、私は「どうぞ」と言って箸を持った手を差し出した。
背は高い。それなりに筋肉もついているだろう。背中を丸め、弱々しく椅子を引くそのおどおどとした動きは、見かけにそぐわない。
雪の中でのあの優雅な滑りは幻だったか。それとも別人か。
「織田さん、ですよね?」
持ってきたペットボトルをテーブルに置いて、男は私を見た。私の名を知っているこのガサツ男に、私は見覚えはない。
「そうだけど」
君は誰? そう聞きたい気持ちを抑え口を閉じた。
どこかで会ったのか。それとも、以前の私を知っている人間か。
面倒な話はしたくはない。そんな時間を過ごすためにここに来ているわけではない。
「いつもこの時期にここに来ますよね? 俺、いつ声をかけようか悩んでたんです」
うどんを箸で摘まみ、口に入れる。揚げを残したままの器の中をかき交ぜ、沈黙を守った。
「俺、河内といいます。織田さんのファンでした」
視線を上げる。
目をきらきらと輝かせ、嬉しそうに笑うその河内という男は何も言わない私にべらべらと昔話をし始めた。
「俺、織田さんのやるトリックが好きて、織田さんの出る大会を追いかけてました。超ダイナミックなのに正確で綺麗! 俺、織田さんに憧れて本気でボードやるようになったんですよ」
やはり面倒だ。
私はこんな無駄な時間を過ごすためにこのスキー場に来たわけではない。
「大昔の話だよ」
ぶっきら棒に言って私は立ち上がった。
食べ終わった皿を返すという理由をつけて、この場から退散したかった。そんな話は聞きたくもない。
面倒だ。結局最後に聞かれることは同じだ。
「揚げ、食べないんですか?」
椅子に座ったまま河内は背筋を伸ばして私を見上げる。きつねうどんのメイン具材が器の中にあることに首をひねっているのか。
「苦手なんだ」
なんできつねうどんにしたのか、とかいうくだらない質問は受け付けないとばかりに大股で歩き、皿を返却口に戻す。
そのままテーブルに戻らず、河内という私のファンだった男に一瞥もくれることなく食堂を後にした。
嫌な気分をさせてまでここにいる意味はない。
借りた板とブーツを返すべく、レンタルコーナーに進む。
「織田さん! ちょっと待ってくださいよ、織田さん!」
遠くから聞こえる河内の声は広いゲレンデでも十分目立つ大きさだった。無視することは簡単だったが、家族連れで楽しんでいるスキーヤーたちを心配させるのは心苦しい。だからといって、うるさい、などと怒鳴り散らすわけにもいかない。ソリを持った小さな子供を驚かせたくはない。
立ち止まり、後ろを振り向く。
どうせ同じ台詞を吐くのだ。最後には同じ質問を投げるのだ。
「帰るんですか?」
「ああ」
溜め息を吐くように言った私の返事を聞いて河内は早口に言葉をつなげた。
「すみません。嫌な気分にさせたなら謝ります。嬉しかったから! 俺、織田さんに会えて嬉しかっただけなんです」
必死さは伝わる。
知っている。こんな顔をした人間を私は知っている。
握手を求めるファンたち、憧れの人と会えた喜びで震え、サインをねだる。
興奮した雄叫び、口笛の音、大きな拍手が風と共にうねり、怒鳴り散らすように口するポイント数、鳴り止まない歓声。
視界の先にいる男は嬉しい気持ちを全面に出して、興奮した面持ちで上気した言葉を一気に口にすると「また来て下さい」と言って頭を下げた。
「ああ」
耳鳴りのように残る思い出の中の歓声は、頭痛持ちの私の気分をなお一層酷くさせた。
「河内って、あの河内か?」
学生時代からの友人である渡部とスキー場であったことを肴に酒を飲んでたところ、渡部が言った疑問が店の一角に驚きを招いた。
あの台詞を吐かず頭を下げた河内の一生懸命な目を思い出し、あのスキー場は気に入っていた場所だっただけにもう行けないと思うと多少寂しい気もした。
自分を知っている人間にはあまり会いたくはない。
「あの、って知ってるのか?」
「お前知らないのか?」
芸能人ならわかるはずだが、あのインパクトのある風貌に心当たりがない。
「数年前に出てきたボーダーだ。河内好太。もう名前を聞かないからやめたのかと思ったな」
グラスを片手に渡部は記憶をたどるように遠くを見やる。
ボーダー雑誌やテレビはここ数年見ていない。スキー場に貼られたポスターくらいが私の情報源だ。
本気でボードをやるようになったと言っていたが、もうやめたということか。
渡部の手元のグラスには甘そうなカクテルが入っていたが、氷が解けて半分水となっている。
「へえ」
関心なさげに相槌を打つと渡部が不味そうな顔をして口に含んだカクテルを飲み込んだ。
「織田、滑りに行くなら俺も誘えよ」
「ああ、そうだな」
私は滑りに行っているわけではないのだ。だが、それを渡部に説明しても、口当たりの悪いカクテルを飲む以上に不味そうな顔をするだけだ。
ガサツ男の河内にも同じことが言えるだろう。
滑りに行く以外に一体何をするためにゲレンデに行っているのか。私自身ももやもやした気持ちを見定めようと必死なのだから。
渡部は会社勤めのサラリーマンだ。妻子もいて、冬のシーズンには家族で滑りにでも行くのだろう。子供に早くからボードやらせたいと言っていた。
あのスキー場は家族や初心者にはとてもいいところだった。斜度が緩やかな所も多く、リフトやコースも豊富だ。自分のレベルに合ったコースを選ぶことができるだろう。無謀なボーダーはキッカー辺りで各々好きに滑っていた。
静かな場所もある。光と影が舞う美しい斜面、ゆっくりと流れる景色は壮大だ。あの河内という男と関わらなければ、空の色が変わる夕方まで私も滑っていただろう。
ゲレンデの特定の所に柵で囲まれたキッズランドと呼ばれる子供用のコースがあったことを思い出して私は口を開いた。
「○○スキー場なら、きっと奥さんも子供も楽しめると思うよ」
私は笑顔を顔に貼り付けながら苦々しい話を終わらすべく、施設の情報を話し出した。
私に妻子はいない。親に甘えて実家に住まわせてもらい、仕事といえば小さな写真屋の受付をしているぐらいだ。
傍からみればただの親のすねかじりであり、いい年してアルバイトをして好きなことをしている出来損ないの息子に見えるだろう。
誰にどう思われようとどうでもいいが、両親を思うと心が痛い。
「何か好きなことをしたらいいんじゃない」と母は微笑み、「やりたいことが見つかるまでゆっくりすればいい」と父は頷く。
気がつくともう五年以上このままだ。三十も間近だというのに、好きなことややりたいことはいまだ見つからない。
好きなことややりたいことは、今の私にはできない。
焦りや苛立ちは私を暗闇に引きずり込む。
自分には何もできない。自分には価値がない。
生きる意味も目的もない。
悩める若者でもない私は自力で道を探すしかないのだが、自分の力を失った私に探す手立ては見当たらない。
できる事といえば、周りを妬むことぐらいだ。
正月を両親と過ごし、おせちや雑煮に飽きてくるお決まりのこの時期、スキー場の情報サイトを眺めながら私は昨年会ったあのガサツ男を思い返す。
プロに手が届いたとでも思ったのか。一時期の成績にしがみつき、廃れた自分自身に目をつぶり、まだできる、まだやれると光ってもいない希望に縋っているのか。
少々調子の悪いパソコンが呻り声をあげていて、あまり長く画面を見ていられない。長時間モニターを睨んでいると案の定頭痛がしてきた。
面倒になって昨年と同じスキー場に行くことにして私は準備に取りかかった。
長距離運転は嫌いではない。
一人きりでいる時間を忌み嫌うこともない。動きの悪い体の調子を見ながらだが、片道二時間ほどなら問題は何もない。
好きな音楽を聴き、高速を走る様々な車の車種を言い当てる。ビルが多かった首都圏から離れ、だんだんと山が近づいてくる。移り変わる景色は背中を不気味に押すせわしない場所から心穏やかな懐かしい場所へと変化していく。
だが、問題は他にあった。毎年いるわけでもないだろうと安易に高を括った私の推測は見事に外れたのだ。
「こんにちは、織田さん」
背中越しに聞こえた声に私はうなだれた。
「どうも」
かろうじて答え、レンタルコーナーに向かい歩を進める。
「今日もレンタルですか? ブーツと板ですよね。俺が選びますよ」
颯爽と前を歩いていく河内は昨年と違い、黒いウェアにスキー場の名の入った蛍光色のゼッケンをしていた。
自然と疑問が口をついた。
「ここで働き始めたのか」
「もう何年も前からここで働いていますよ。昨年会った時は休みだったんで、自分のウェアでしたけど」
後ろを歩く私に河内は細い吊目をだらしなく下げながら答える。
河内が選んだ板は別にこれといって他のものと変わり映えのしないものに見えた。だが、河内は私に笑顔を浮かべて小声で言った。
「織田さん用にチューンナップしておきましたから」
さぞかし気分がいいのだろう。河内は微笑みを絶やさずレンタル用紙の必要項目を埋めていく。
「お名前と住所、電話番号をお願いします」
髪は変わらす派手だが、今日は耳にピアスは付けていない。何がそんなに嬉しいのか口角を上げ満面の笑みで私にペンを渡す。
ペンを走らせる私の姿を一心に見ているのがわかり、背中がむず痒くなるのを感じた。
「いたずら電話はするなよ」
用紙を差し出しながら私は無愛想に告げる。
「あの時織田さんが何を見ていたのか知りたくて、あの山をずっと見てるんですけど、俺には何も見えないんですよね」
見えるわけもない。見える人間と見えない人間がいるのだ。
板を装着する前に体をほぐす。ゲレンデに着いたと同時に準備体操もろくにしないで滑り始める人は多い。スノーボードやスキーもスポーツだ。体中の筋肉を使うのだから板を身に着ける前に足腰の筋を伸ばし、体をよく温める必要がある。ほんの少しの体操で転倒や怪我を予防できる。
視界の端のカップルが到着したばかりだというのにそそくさとゲレンデを滑っていく姿を目の当たりにして、私は大袈裟に溜め息をついた。
河内は私のついた溜め息を自分への返事と受け取ったのか背中を丸め、とぼとぼとどこかへ消えていった。仕事に戻ったのだろう。
私は私のしたいことをすればいい。あの男に気を使うことはない。
今日は少し雲が出ている。太陽は昇り切っているがその姿をはっきりとは確認できない。雲の間から淡い光を発してその存在を主張しているが、風がないせいで覆われた雲は移動手段をなくし、高みまで昇った太陽の勤勉さは報われない。
太陽の眩い光をなくして、美しい光景は見られない。切り取りたくなるような山の影と真っ直ぐに伸びる日光のライン。
私を魅了する山の空気に浮かぶはずの斜めの光線を今日は拝めないかもしれない。
このスキー場で気に入っている場所がある。
リフトを二つ登り、山の頂上に沿って尾根に作られたコースで、パノラマの絶景を一望できる。雄大な景色に身を置いて、その一部となって滑ることができる。空を近くに感じ、人の住む地上を遠くに見せてくれる。
申し訳なさげに建っている侘しい休憩場で、一人ひと息ついている時も視界は全く退屈しない。
今日は天気があまり良くはないが、空気は程良く澄んでいる。パノラマとまではいかないが美しい光景は健在だろう。
目的の場所へ行くため二つ目のリフトの列に並んでいると河内が従業員としての業務をこなしていた。例年より雪が多いのか、リフト上の屋根に積もった雪を降ろしている。
体中の筋肉を総動員して重い雪をスコップでかく。食堂で会った時と同じように頬と鼻が赤かった。汗の粒が見えるようだ。
見上げていた私と視線が絡まり、河内は嬉しそうに声を出した。
「織田さん! パノラマコースですか。気を付けていってらっしゃい」
なぜか恥ずかしい気持ちになり、私は視線を外し小さく頷いた。
リフト降り場横に設置されているベンチに座り、期待していた景色を目にして私は満足気に頬を緩める。
やはりここのスキー場はいい。
雪を踏む音。新雪のギシギシという擬音が耳に気持ち良くこだまする。遠くの白い山の先にほんの少し太陽の光が顔を見せていた。
葉のない木々に降り積もった雪が重さに耐えきれず跳ねる瞬間、寒さを知らない鳥が数羽一気に羽ばたいた。
ここは静かでいい。
人間が出す耳触りな雑音のない雪に囲まれた山。人間の手を借りず、あるがままにその姿を映し出す力強い自然。
一人心を洗うには格好の場所といえるかもしれない。
「今日は天気が悪いですね」
男の言い草が悲しそうでも、詫びれた素振りもなく、ただ会話の始めの一言に過ぎない飾られた言葉と感じて、私は頭に上る熱いものに気がついた。
「吹雪いてなくて良かった。織田さん、この景色が好きなんですよね」
上った血は急激に冷め、今度は脱力した体の重さを感じた。軽々しく口を開くこの河内という男にほとほと気が滅入る。
「いつもこの場所にいるし、滑らないで景色ばっかり見てる。でも見てるのは景色だけじゃないんじゃないかと思って―」
顔を出したばかりの光を、そのただ一点だけを見つめて私は河内の言葉を聞かぬようにした。煩わしい会話などしたくはない。
「何を見ているんですか?」
話などしたくない。これ以上は御免だ。
今日何度目かの溜め息をつき、私はこれで終わりだとベンチ横に立つ河内に顔を向けた。
「なあ、君」
「河内です」
訂正なのか、覚えろということなのか。私はそのどちらもする気はなく、男の台詞を聞き流し言葉を続ける。
「プロボーダーだったの?」
過去形にして、河内の心を試す。驚いたように目を見張り、表情を曇らせる。私への質問の答えを得られるという期待を潰された歯がゆさからか、それとも私の質問に答えることが男自身の心に憂鬱を招くのか。
「調子がいい時があっただけです。それでプロと呼ばれた時期もあったかな」
「やめたの?」
「ボードはやめてないですよ。ほら」
片足に装着されたボードを指差す。曇ったはずの表情は柔らかくなっている。
なぜだ?
「織田さんもやめてないじゃないですか」
目の前の平らな雪面をスケーティングしながら河内は言う。私に向かって「ほら」と、立てかけてあるボードをあごで示して「ね?」と。
胸がむかむかしている。こめかみの血管が浮き出ているのではと私はいぶかった。こんな男に怒りを発散させても意味がない。
「あんたの話だ」
「河内ですってば」
思わず睨みつける。
「いいですよ、あんたでも。えーと、俺の話だっけ?」
なんなんだ、この男は! へらへらと笑いながら勝手に楽しそうに話を進めるな。人の気も知らずに一体何を考えている!
「運が悪かった。ただそれだけですよ。プロでなくてもボードはできるし、ここにいれば、織田さんにも会える」
にやと笑い私を見る。
苛立ちは限界まできていた。この男とここにいることが我慢ならない。
「もういい! 私に話しかけるな」
立ち上がりバインディングにブーツをはめ込む。体をほぐしていないが、今は何よりここから立ち去ることが優先だ。この河内という男と一緒にいる時間が不快でならない。
「なんで怒ってるんです? 俺、変なこと言いました?」
河内の問いになど耳も貸さず私はコースに板を滑らせ始めた。
「待ってください! 俺の話をしただけです」
背中に聞こえる河内の声は、だんだんと小さくなっていった。
「織田さん!」
私の名は織田ではない。今は名も分からぬ生きる意味も見い出せない価値のない、ただの人だ。
「オーダ! オーダ!」
真っ白い大地を滑り下り、斜めに横切る景色がその速さに形を失い、私はただ一点だけを見つめて板を走らせる。
脳内に広がる幻聴は以前の私の名を呼び、その歓声を響かせる。
運が悪かったなどと言えるものではない。
天は私を選んだのだ。
地獄を見せる人間として、私を選んだのだ。
なぜなのか? 自分に問いても誰に聞いても答えは得られない。
運が悪かったなどと言えるものか!
きついスラロームに入る準備ができていなかった。体が硬直し、頭が割れるように痛み、急激に寒さを感じた。
急な斜面に恐れをなし、視界がぼやけていた。
速過ぎるスピードのままカーブが続く。板を操るというよりしがみついているかのように足を強張せ、うまくカービングできない。
目の前に迫る白い壁は私を迎え入れているようだった。衝撃がくると身構えて、私は強く目をつぶった。
「オーダ! オーダ!」
両手を上げて歓声に応える。
努力が実ったと感じ、感極まって空を見上げる。青く澄んだ空が私を祝福しているようだった。私は多くのプレッシャーに耐え、自分自身が求める期待に応えたのだ。
充実感で心を満たし、高きプライドを守り抜いた達成感に何度も拳を振り上げた。
気付けば雪に埋もれた自分の体を感じた。
カーブにぶつかり、反動で反対側の林の方へ飛ばされたようだ。大きな怪我はしていない。ずきずきと体中が痛むが、激痛ではない。
頭を打ったのか頭部を触るとぷっくりと腫れた場所があった。指の平で凸凹とした縫い目に触れ、膨らんでいる箇所の反対側であることに安堵した。
頭皮の縫い目は十センチほどの傷になっている。指でなぞり、同じ場所だったら死ねたかもなと自虐的に笑った。
空が暗くなっている。何時間こうしていたのか、私は時間の感覚をなくしていた。
雪が降ればいい。
そのまま私の体を覆ってしまえばいい。
空には雲が厚くその色を隠している。太陽が沈む時に見せる幻想的なグラデーションが見れないのが残念だ。
群がる木々の隙間をぬって風が音を発していた。
ウェアの奥、インナーのポケットで携帯電話が震えた。こんな山奥でも電波があるとは、もうどんなものからも逃げられないなどと考え、携帯を開く。
『織田さん! どこにいるんです?』
耳元から聞こえる声はあの河内だった。
「雪の中」
『転んだんですか?』
先ほど感じた怒りがふつふつと湧いてくるようだった。私はこの男のことが心底嫌いなようだ。
「うるさい。ほっといてくれ」
『どこにいるかわかりますか?』
「来なくていい。自分で戻れる」
『スラロームコース横かな。第二東コースの間ら辺かも』
勝手に独り言を言い、勝手に話を進める。
『すべてのコースは見回ったんです。転んで林の方へ―』
「来なくていい!」
だから勝手に話を進めるな。私のことはほっといてくれ。
乱暴に電話を切り、腰を上げる。体中が小さな悲鳴を上げている。ギシギシとオイル切れのような音を鳴らして私は歩き出した。
下った方がレストハウスにある受付に近いだろう。板を杖代わりにしてゆっくりと歩を進めた。
耳鳴りのように脳裏に繰り返し広がっていた歓声は、もう聞こえなかった。現実に振り戻されたせいだろう。聞こえるのは風が舞う音、雪の衣を羽織った木の揺れる音だけだった。
来なくていいと言ったのに、河内は林の中の私の姿を見つけてほっとしたようにひざに手を付いた。
「心配しました」
体の痛みと河内の言葉に耳を貸さず、雪道を歩く。ただ黙々と。
「怪我はないですか?」
ないとばかりに足を速める。
「板、持ちましょうか?」
大袈裟に板を使って雪の覆う大地に道を作る。
「肩、貸しますよ?」
「うるさい! 私に話しかけるな」
背後で息を飲むような音が聞こえた。私はそれさえも無視し、歩き続ける。
一歩一歩が困難だ。雪は重く、手足のしびれは酷くなるばかりだ。
「俺、前歩きます」
傷心した様子でつぶやくと河内は雪を掻き分け私の前に出て歩く道を作り始めた。
背中に感じる視線を失って、私は力んでいた体から力を抜いた。強がって元気な振りをしたせいで極度の疲労が一気に放出される。今にも座り込んでしまいたかった。
前方には力強く雪をかく河内の背中が見える。道ができているおかげで歩くのは大分楽だった。
借りた板とブーツを返し、私はくたくたになった体をベンチに預けた。立ち上がるのが億劫だった。これから二時間もかけて自宅へ帰らねばならない。
数十メートル先の駐車場に停めてある車まで移動するのさえ難しく感じた。
だらしなく口を開けて呆けたようにベンチから動かない私に、背中を丸めた背の大きな男が 恐る恐るといった様子で声をかけてきた。
「大丈夫ですか?」
この男も懲りない。
あれほど邪険にしているというのに、根性があるというのか、それとも嫌味なのか。
私は濡れていない顔を両手で拭うと小さく頷き、立ち上がろうと腰を上げた。だが、上げようとした腰は私の言うことを聞こうとしなかった。力を入れているつもりの足もその力を発揮しなかった。
仕方なくもう一度背もたれに体重をのせる。まぶたを閉じ、大きく息を吐く。
動け。
動け。
ぐっと足先に力を入れアプローチの時のように上半身をリラックスさせ、反動を使う。キッカーでトリックを決めるようにひざに集中し、スピンをかける勢いで立ち上がる。
「よし」
小さくガッツポーズをする。視界が急に高くなり、肩幅に広げた足が必死に私の体重を支えた。
次は歩くのだ。足を動かし、一歩ずつ前へ。なんてことはない。いつも歩いているのだから。以前の私も今の私も変わらない。
だが、足は少しも動こうとしない。持ち主の意思を完全に無視している。
すぐ横にあった柱に手を伸ばす。何度となく深呼吸をして動かない体を意味もなくなじる。そして嘆く。
「車まで送ります」
近くから発せられた声に私は驚いて振り返った。
ずっと私の哀れな姿を眺めていたのか。
私の吊り上がる眉を河内は視界に入れることなく勝手に私の腕を持ち上げ、肩に背負うと引きずるように歩き出した。
憐れみか。同情か。
あの織田が、ボードで転び一人で歩けなくなったと嘲笑っているのか。
「いい、触るな」
私の強気な言葉に見向きもせず、「一人で歩ける」という私の弱々しい強がりも、「離せ」という拒否もみな意に介さず、河内はひたすら前を見て歩く。
「離せ、河内」
男の名を初めて呼んだにも関わらず、私の腕を強く握り、背中を支える河内はその顔色をほんの少しも変えなかった。
諦めてされるがまま駐車場に移動する。車を指差し、ドアの前でやっとのことで私は解放された。
片手を上げて礼をする。
車のドアにキーを差して開ける。ただこれだけでも時間がかかり過ぎる。
「運転なんてできないですよ」
背後の声が断言した。河内はたたみかけるように続ける。
「一人で帰れるわけないじゃないですか。泊まってってください。俺んちすぐそこですから」
「運転くらいできる」
動かない体と違い強がった口は疲れを知らない。うごめく黒い感情も健在だ。
「同情か? 可哀想だとか思っているのか?」
「そうじゃない! 心配してるだけですよ」
「頼んでない」
河内の青白い顔が真っ赤になっていた。口を一文字に結び、眉間にしわが寄っている。
「あんたが俺に心を開かないのは、ただ単に俺が気に入らないから? それとも何か理由があんの?」
理由? 大ありだ。
怒鳴り散らす河内は鼻で大きく息を吐き、拳を握っていた。
「そうやってひねくれて、拗ねて、イジイジしていればいい。可哀想だと思っているのは自分だろ。自分で自分に同情してるんだ!」
車に寄りかかり体を支え、怒りに燃える男の怒号を聞く。その若々しい言葉は私の重く気だるい体によく染みる。
この不自由な体になった自分が哀れで可哀想だ。そうだ、私は私に同情している。
「織田さん。俺の知っているあんたはそんなんじゃない」
「そいつはもういない」
そんな男はもういない。織田と呼ばれたプロボーダーはいない。
「わかってるってば!」
「何がわかってるんだ? 運が悪かっただと? 運だけでプロになったとでも思っているのか? 運が悪かっただけで私がやめたとでも―」
勢い余って体を起こしたせいで重心がずれ、体重を支えるのさえままならなかった足はバランスを失い、私の体は足元から崩れていった。
尻持ちを付き、車体に背中を打ちつけた。痛みに呻りながらも私は言葉を切らなかった。
「―思っているのか? 好きでやめたわけじゃない。運が悪かったわけでもない」
語尾の台詞は小さくなっていた。
運が悪かったのではないのだ。私が自ら招いたものなのだ。
河内は私の足元に座り、なだめるように諭すように口を開く。
「思ってない。それは俺が運のせいにしただけだ。俺の話だよ」
無様に座り込み、息を切らさせてウェアのパンツを握る私の手に、河内は自分の手を重ねもう一度言った。
「俺の話だよ、織田さん」
どうせ運転はできない。家に帰ることはできないのだから泊まるしかない。だが、この男に世話になるわけにもいかない。
このスキー場に宿泊施設があったことを思い出して河内に案内してもらった。
「俺んちに泊まればいいのに」と口を尖らせて拗ねる河内にフロントでもらった部屋の鍵を渡す。
「部屋までもう少し頼む」
みっともない姿をさらけ出してしまった。体の半分を背負ってもらわなければ一歩も進めないのだから、私はやはり可哀想だ。
あと少しでベッドに横になれるという気の緩みと安心感が体の緊張を解いたのか空腹を訴えて腹が鳴った。エレベーターで部屋に行く最中ずっと、河内は私の腹の虫の鳴く音を聞き続けた。
顔をほころばせる河内に私は横目で睨みつけるしかできなかった。
整理整頓された部屋の中、清潔なシーツがしわ一つなくかけられたベッドに私は体を投げ出した。かろうじて動く首を河内に向けて言う。
「すまなかったな。助かったよ」
「何か必要なものはないですか?」
うつ伏せのまま頬を枕に沈め、やっとのことで口にする。
「ない。大丈夫だ」
私のまぶたは重過ぎた。掛け布団を私の体にかける河内の姿がだんだんと細くなっていく。
私は視界が閉ざされると同時にまどろみの中にその身を置いた。
目を開けると白い天井が視界に映った。設置された蛍光灯が薄暗く感じるほど私のいる部屋は明るかった。太陽の日差しを受け、真横にある大きな窓が眩しいほど光り輝いている。
手足が動かなかった。
顔をかろうじて少し左右に振ることができるくらいで、今の私には自分の四肢を自由に動かすことができないようだ。
視界を広げベッド近くを見渡す。
ピッという音を鳴り響かせ、絶えず決まった形のグラフが表示されている心電図が己の存在をアピールし、何かの薬剤が入ったボトルが吊られリードのように私の腕につながっている。
今日は、いつだろうか。
どのくらいこうしていたのか。
私の記憶は曖昧だった。たが、なぜ病室にいて、動かせない体をベッドに横たえ、点滴につながれ、重々しい機械を取り付けられ、視界の大部分をしめる白い天井を眺めているのかは、理解していた。
手術はとりあえず成功したということだ。
こうやって目を覚ますことができているのだから、喜ぶべきだ。
剃られた頭に触れてみたいが、腕が動かない。
そういえば、足も動かない。
指先でもいい。少しでもいい。
動け!
動け!
脳が手足の動かし方を忘れてしまったかのように、微動だにしない自分の体に私は焦り、取り乱した。
胴体だけでもいい。なんとか体を動かさねば!
私は動くことのできる首を左右に大きく振り、次に肩を揺すり、反動を使って体をひねってみた。母親に菓子を買って、買ってとねだる子供のように、嫌々と首を振る幼子のように。
意思表明なのだ。
動け!
動け、私の体!
体全体を右へ左へねじり、かけられた布団がばさばさと浮き上った。大きな反動に任せて体を回転させる。
狭いベッドの上、大の大人が回転できる大きさはない。転倒防止の取っ手はなく、私は冷たい床に真正面から落ちた。
右側の後頭部に何か冷たいものがのっている。頭をずらすとその冷気を放つものはゴトとベッドの脇に落ちた。
目を開くと知りもしない部屋の中に私はいた。うつ伏せた体を動かし上を向く。明るい朝日が窓から室内全体を照らし、低い天井に小さな丸い影が揺れている。
動かない思考の尻を叩き、昨日のことを思い出す。そういえば、体の調子が悪く、帰れなくなってスキー場に隣接されている宿に泊まったのだ。
懐かしい夢を見た。もう五年以上前の恐怖に震えた日。
背筋を伸ばし、腕を揉み、手を擦る。
日課となっている朝のマッサージを行うため、ベッド上に座る。オイルの切れた関節は今もギシギシと嫌な音を出すが、筋肉痛と麻痺の残る足は昨日よりは幾分か調子がいい。
太腿から足の先まで入念に揉みほぐす。せっせと指先を動かし続けていると体が温かくなってきた。
ベッド横の小さなテーブルを見ると軽い食べ物とペットボトルの水が置いてあった。
コールドパックが落ちている。
先ほど私の頭から落ちたものだろう。丁寧にタオルに包まれ、今はあまり冷たくはない。河内の顔を思い浮かべ、私は頬が緩むのを感じた。
私が寝た後、コンビニで買ってきたのだろう。サンドウィッチやおにぎりは冷たい空気に触れて少し固かった。
テーブルに小さなメモがある。
『朝、また来ます。河内』
テラスで朝食を頬張る河内は忙しそうにスプーンを動かしていた。朝からカツカレーの大盛りを注文し、誰も横取りするわけでもないのに大口を開けてせわしなくカレーを口に運んでいる。
コーヒーを飲む私の目には飢えた犬に見えた。ピアスをしたゴールデンレトリバーといったところか。
「今日、仕事は休み?」
仕事の日はピアスを外している。片耳の吊られたリングを視線に捉え、河内に聞く。
「休みです」
皿の上を綺麗にして、河内は頷く。「ご馳走様でした」と小声で言い、私を見た。
「体の調子はどうですか?」
「もう大丈夫だ。悪かったな、迷惑かけて」
「いえ、ぜんぜん迷惑だなんて思ってません。うちに泊まればよかったのに」
まだ言っている。河内のお節介は諦めの悪さからくるものだろうか。
グラスの水をブツブツとつぶやく不満と共に飲み込んで河内は言った。
「今日はどうするんですか? もう帰ります?」
寂しそうな表情と気を揉むような心配気な顔をして私に目を向ける。
なぜそんなに私に関わろうとするのか、河内の心情を推し量る。プロボーダーでいることをやめた理由は、運が悪かったせいだと言っていた。それを言い訳だとも。
自分自身に正直で、他人に対しても誠実なのだろう。知りたいことを知り、やりたいことをやり、できないことを理解し、今を受け入れる。
私は視線を背け、窓から外を見渡した。
天気がいい。光の源である太陽が自由豊満に温かい輝きを放っている。白い雪山を照らす陽光はさぞ美しいだろう。
「今日は午後から少し曇るみたいだけど、いい天気ですよ」
「じゃ、少しだけ滑るか」
満面の笑みを浮かべ、上機嫌で返事をする河内には暗い一面など見当たらなかった。
パノラマコースから見える情景はやはり期待通りだった。青と白、空と雪山のたった二色の世界は互いに互いの発色を目立たせ、争うことなくその色の美しさを引き立て合っていた。
「すごい、綺麗」
ベンチの隣に腰かけた河内のささやくような感嘆の声は、魅入られたように佇む私にも聞こえた。
「ああ」
「癒されますね」
青い空と真っ白な山の狭間に吸い込まれそうだ。どんなにあらがっても、どんなにもがいても見たことのないブラックホールのような巨大な力に飲まれ、その美しさや自然の壮大さやその力強さを目の当たりにして人は自分の貧弱さを知る。
「無力だな、人間は」
「そうですね。自然は超でかくて、なんて言っていいかわからないくらい綺麗で。自分の悩みなんてちっぽけだって思える」
背後のベンチに座ったままの河内が大袈裟に動くのを感じた。
「あ、俺の話ですよ」
付け加えられた言葉は昨日聞いた台詞と同じものだった。私のことではなく、自分のことだと。私がちっぽけではなく、ちっぽけなのは自分だと言う。
「俺は、好きでやめたんです。自分の限界が見えたから、自分で決めて今の道を選んだんです。後悔することもたまにはあるけど、今は今でそれなりに楽しいから」
皆決まったように口にする質問。私はそれに答えるのが嫌いだ。
あなたは素晴らしいボーダーだった。目指していた憧れの人だった。そう言った後、あの残酷な言葉を問いかける。
河内の視線の先にいるのは私だろう。背中に感じるその熱い眼差しを正面から受ける勇気はまだない。問われたわけでもないのに自ら語った河内の真っ直ぐな言葉は、その心に薄汚れた暗い感情など微塵もないようだった。
この澄み切った美しい空のように。
その質問の答えを口にする勇気は、私にはまだない。
「置いていくぞ」
私は青々とした空から逃げるように板を滑らせた。
「まだ覚えてる」
先に滑り出したにも関わらず簡単に追いつかれた私の横で、河内は言った。
「まだ覚えてる。体や頭が」
相槌も打たず、私はただ聞いていた。耳だけを傾け、視線は迫りくる雪面を見、斜面の行き先を捉えるため全身の集中力を高めた。
「スタートの音やジャンプ中に見える景色、着地した時の足に響く振動や周りの騒がしさとか」
河内が何を言いたいのか、何を伝えたいのか。私にはそのすべてがわかるような気がした。
「すべてだった。ボードが俺のすべてだった。高みへ上りたかった。織田さんのいるところへ」
自分の名が耳に入り私は河内の方を向いた。スピードを緩め視界を広げ、河内の全身を視野に入れる。
「織田さんが俺のゴールだった。俺の目標だった」
やはりあまり体が動かない。このスピードの世界についていけてない。本調子ではないのは確かだ。
そういうことはよくあった。大会の前に少し羽目を外してしまい肝心の本番の日、本領が発揮できないことがプロ時代にもあった。それでも、その時できることをやった。自分の持っている力を出し尽くすことが大事だった。その先にある高みが、壊さなければいけない壁が、目の前にあればあるほど私は自分を超えていった。
ひざを曲げ、後傾姿勢でバランスを取りながらスピードを殺していく。
後ろへ姿を消す私に気づき、河内は勢いよく板を立てた。ザザッという雪の悲鳴が聞こえ河内の焦った声が山にこだました。
「織田さん! 大丈夫ですか?」
「目標が小さいな」
腕を上げ、大丈夫だと軽く手を振る。私が目標だなんて、高みはもっと上だ。
ゆっくりとターンしながら河内のいる場所まで斜面を下る。
「少し休みましょう」
「いや、もう少し滑ろう。――河内、なぜだ?」
両足を板で括られ、白い大地に立ち、新雪の舞う風を受け、少しの間私たちはその場に佇んでいた。
ゴーグルの奥の河内の目が細まるのが見えた。聞きたくもない質問を投げる。自分でもよくわからない内に口が勝手に動いた。
答えたくもない問いに私自身答えるためだろうか。
「なぜ、やめた?」
「だから、限界が見えたんです。これ以上は無理だって。あの高みに、俺は上れないんだってわかったから」
「諦めたのか?」
河内の手がゆっくりとゴーグルを外した。あらわになった幼い瞳に陰りが見える。
「俺は、限界を悟っただけです。追いかけていた人は何をしているのかわからなかった。目標にしていたあなたは、もうどこにもいなかった」
「だから?」
私はゴーグルを外したりはしない。露骨に歪む表情をわざわざ見せる必要もない。
「別に織田さんのせいじゃない。俺が自分で決めたんだ。でもー」
もうそろそろ出る頃だ。私の大嫌いなあの言葉が。
誰のせいでもなく自分のせいだからなのか、事態を招いた自分を許すことができない私は今を受け入れることができない。
河内のように自分の限界を真正面から見ることもできない。高みに上れないことを知っているから、目指すことさえもできないことを知っているから、恐ろしくて顔も向けられない。
「でも、なんでいなくなったんだ? なんでやめちゃったんだ? って織田さんを恨んだこともあった」
ゴーグルを右手に握りしめて、河内は続ける。
「目標である織田さんがいれば、俺はもう少し頑張れたかもしれない。織田さんに相談できれば、もっと高みを目指せたかもしれない。もし、あなたが俺を助けてくれてたら、プロをやめずに済んだかもしれない」
私は黙って聞いていた。河内が胸の内を晒すのをただじっと聞いていた。
「でも、どれもこれも見当違いだ。最もらしい理由がほしかっただけ。織田さんや誰かのせいにしても何の意味もない。やめたのは俺だから」
耳鳴りがする。鈍い痛みが頭を締めつける。私は河内を見上げ、苦々しげに眉を寄せて言う。
「聞きたいことがあったんじゃないのか、私に」
「話したくないこともあります。俺は聞きません」
「じゃ、聞くな」
私の拒否の言葉を真に受け河内は口を結び、下を向いた。
話す覚悟もできていないのに河内には語らせたのか。傷をほじくり回し、血が出るのを見ていたのか。
私は河内のように心を開くことはできない。そう簡単に口にできるほど、こびりつく記憶は綺麗じゃない。
私は自分がどうしたいのか、どうすればいいのかいまだわからないまま首を振った。
「行こう」
頭痛のする頭と心を覆う迷いを振り払い、私はコースに視線を戻した。
天気予報は当たった。午後から雲が出てきて山を照らす太陽の光に陰りを作っている。
今日は見られるかもしれない。私の望むものが拝めるかもしれない。
私は期待を膨らませ、河内をパノラマコースの先にある休憩所に誘った。
私が働いている写真屋に数多く飾られている額に入った様々な写真は、美しい景色を切り取ったような風景写真が多い。その中の一つに私は全身を凍らせた。文字通り凍ったのだ。
瞬時に固まった体が、その細胞一つ一つがその写真の光景に飲まれていた。畏怖し、写真から伝わる温かみに触れ、救われ、心焦がされた私はその情景が見られる場所を探すことにした。
ここから見える景色は、条件が合えばその写真と同じような美しい風景を見ることができる。店にある写真と全く同じとは言い難いが、私の望むものは見える。
「何が見えるんですか?」
初めて話しかけられた時のようにハテナ顔で尋ねてくる河内に私は微笑みながら答えた。
「梯子だ」
「はしご?」
「ああ、梯子だ」
首を傾げたままの河内はよくわからないといった様子で山を眺める。
「梯子なんて見えませんけど」
「ははっ、そうか?」
私は笑っていた。愉快だった。見えないのだ。やはりこの男には見ることができないのだ。丁寧に説明したとしてわかるだろうか。私の見ているものが、私の望むことが河内にわかるだろうか。
ゆっくり首を振ると私は「別にいいんだ」と言った。自分自身に語りかけるように。
「なんで俺には見えないの?」
半ば怒ったようにつぶやく。河内は己の非力さに憤慨したかのように声を荒げた。
「なんで織田さんには見えるのに俺には見えない?」
私の眺める方向を必死に見る。目当てのものを探すため凝視する。
「なんで? なんで? 梯子って何?」
何度も繰り返し口にする河内の背中を見つめて私は声をかけた。
「別にいいんだよ、河内」
見えないものは見えない。河内のように前を向いている人間には見えないのかもしれない。私のように望んでいないから、河内には見えないのだ。
「織田!」
リストハウスに戻り、一休みしていると見知った声に名を呼ばれた。 奥さんと子供を連れた渡部だった。
「なんだよ、お前も来てたのか」
大股で私の方へ歩いてくる渡部の姿を見て私は懐かしさに笑った。ウェアを身につけた渡部はあの頃から何も変わっていなかった。
学生時代、共にボードに時間を費やした。暗くなっても習得したいトリックを練習する日々。インナーにまで入ってくる雪をかき出し、崩れたキッカーを何度も直し、食事を取ることさえ忘れて一日中ジャンプに明け暮れた。
「どう? 滑れるようになった?」
キッズランドへ走り出した子供と息子を追う奥さんの後ろ姿を見やる。
「ああ、まあまあだな。ソリの方が楽しそうだよ」
それはしょうがないと笑い、私はリフトの上を指差した。
「渡部は? 滑った?」
「ああ、一回上まで行ったよ。ここ、キッカーがあるんだな」
いたずらっぽく笑顔を浮かべると渡部は体を揺すった。一緒に行こうと親指を立てる。
「河内、お前渡部と行って来いよ」
私の後ろに棒立ちになっている河内に声をかけると、遠慮気に手をかざした。
「河内?」
渡部は目を丸くして私の背後に立つ隠れてもいない河内を見た。渡部に軽く会釈してから河内は首を振る。
「俺はいいですよ」
「そうか? じゃ、織田、行こうぜ」
強引にでも私を連れて行く気なのだろう。渡部は嬉しそうに肩を回す。
「大丈夫ですか? 織田さん」
心配そうに私の顔を覗き込む河内の困ったような顔が、入院中何度も見舞いに来た渡部の強張った笑顔にあまりにも似ていて、私は思わず吹き出した。
「なんだ? その顔は。心配ならお前も来いよ」
河内の背中を叩いてから、私は板を手に取った。河内はほんの少し頬を緩めると「よっしゃー」というおかしな叫び声を出し、両手を大きく広げ腰を捻らせた。
このスキー場のスノーボードパークには小さいながらもアイテムがいくつかあり、七メートルキッカーから複数のジブ(ボックスやレールなどを滑る)トリックを決めながら滑り下りることができる。
私は昨日の衝撃と筋肉痛で固まった全身の筋肉を叩き起こすため、念入りに準備体操をしながら二人が舞う姿を眺めていた。
空中でスピンしながら回転し、片手で板を持つ。もう一方の腕は高く空に上げポージングを決める。着地の反動を体で受け止めバランスを保つ。
「いいねぇ、河内!」
渡部が吠えるように声をかけた。河内はボックス手前で止まり、腕を大袈裟に振って応え「織田さん! どうでした?」と走り寄ってくる。
もう二度とエアトリ(エアートリック)などしないと思っていた。もう二度とワンメイクなどしないと思っていた。
渡部に無理矢理にでも連れていかれなければ、決してやることはないだろう。キッカーの近くにも寄らず、ボックスを視界に入れることもしない。
「もっと高く飛べるだろ」
一時期でもプロを名乗ったのなら素人レベルのジャンプで満足などしない。私の小言を聞いて河内は嫌な顔せず「はい」と言った。
渡部がアプローチ(助走)に入り、一気に飛び上がった。上半身を下半身の反対方向へひねり、空中で板を平行に保ったまま半回転した。
「うわっ」
悲鳴のような声を出して渡部が着地時に体制を崩した。雪面に手をついてバランスを取ろうとするが後傾したせいで尻から転がる。
「のぉー!」
斜面を背中で滑る。無様だ。
だが、渡部は楽しそうに笑顔を作る。
「ああ、くそぉ。笑ってんじゃねぇ! お前もやれよ」
私も笑っていた。あの頃に戻ったような錯覚を覚え、表情が緩み、大口を開けて笑っていた。
渡部はプロにはならなかった。スノーボードのスクールに共に通ってはいたが、芽は出なかった。スキー場などのインストラクターにもならず、卒業後山から降りて地元に戻り、一般企業に就職した。
私は渡部とは違い、就学中から全国区の大会に出てキャリアを積み、卒業を待たずプロへ転向した。
「私の番か?」
スケーティングしながら寝転んだままの渡部に近づき、手を取って引き上げる。
「出たな、貴公子」
甘酸っぱい思い出の中のニックネームを口にされ、私は苦笑いをした。あまり好きになれなかった呼び名だ。
板を外して斜面を登る。五年ぶりのキッカーを目指して。
ブーツをバインディングにはめ、アプローチに入るために体をほぐす。
私の視線の奥に渡部がいた。キッカーの先、ワイドボックスの横に立ち口元に手を当てて私の名を呼んでいる。
「織田! リラックス、リラックス!」
大きく息を吐き、肩を上下に動かす私に隣で様子を見ていた河内が「楽に行きましょう」と声をかけた。
何度となく頷き、私は大地を蹴った。
程よいスピードに保ち、緩やかにキッカーの左側からアプローチを試みる。
グローブの中の手が汗で濡れていた。風がいつもより冷たく感じる。息が荒くなり、酸素が思うように吸えず苦しい。視界が狭まり、体が勝手に硬直する。
キッカー手前、本来なら恐れを捨て一気に加速に入るのだが、私は意に反してスピードを抑え、恐怖におののいて急ブレーキを踏むように雪を削った。
飛べるわけがない。
今の私に、それができるわけがない。
身の程を知らず、渡部にのせられてノコノコとこんな所を滑っている。
懐かしいと勘違いし、以前の自分との違いに蓋をして、私は一体何をしている?
ジャンプするならばキッカーの先端で全身を使って板を持ち上げ、反動で浮かせるのだが、私は真逆のことをした。
手と尻をついて、全身で板を止めたのだ。
無理だ。無理に決まっている。
できるわけがない。できるわけがないんだ。今の私は、貴公子と呼ばれた私ではないのだから。
雪に覆われた大地に座り込み、肩で大きく息を吸った。上を見上げると曇り空の隙間から光が射していた。
「織田さん」
河内の声が聞こえたが、私には振り向くことができなかった。笑顔でごまかす気力もなかった。
「戻って休む」
渡部の視線を避けてリストハウスへ戻る。口を閉じたまま私の肩を軽く叩いた渡部は、きっとあの時と同じ表情をしているだろう。
ベッドの横でした不器用な笑顔。憐れむような優しい顔。
見たくはない。
ブーツを脱ぎ捨て、ベンチに深々と腰を下ろし、私は目をつぶっていた。
頭痛がぶり返し、眼球の奥がうずく。今の弱々しい自分を目の当たりにして私は自分の存在を否定する。
心が痛いというよりは、心臓を取り出したい気分だった。
「織田さん」
まぶたを開けると河内がいた。
ニット帽とゴーグルを外し、金髪の前髪がうっとおしげに顔にかかり、艶の豊かな肌をさらけ出し、細いはずの目を丸くしている。
頬の赤みが手伝い河内は年若い少女のような顔をして立ち、そして言った。
「織田さん、俺聞かないって言いましたけど、やっぱり聞きたい」
ガサツだ。河内はやはりガサツ男だ。この状況で、この状態の私に、その台詞を吐くのか。
「聞かなきゃいけないと思う。だって織田さん、すげぇ苦しそうだから」
「どういう意味?」
「吐いた方がいいこともある。言わないより言ってしまった方がいいこともある」
やはり聞くのか、あの質問を。私の嫌いなあの問いを。
「俺には聞く権利がある」
「は?」
私は思わず口を開けた。真面目な顔をして河内は続ける。
「俺には聞く権利があります。だって、織田さんを目指してたんです。織田さんを目標にしてたんです。なのに、突然いなくなった。誰に聞いても知らないって言うし、何の情報もなかった。怪我でも事故でもなく、何の前触れもなく、あなたは俺の前から消えた」
上気し一層頬を赤らめて話す河内の真剣な眼差しが痛かった。
目標を失うということがどういうことか、私には理解できた。河内が取ったであろう行動が想像できて、申し訳ない気持ちが私に芽生えた。
「――なんで、やめたんですか?」
思いの外すんなりとその嫌悪する質問を受け止められたことに、私自身戸惑った。体ごと体当たりするような雑な台詞、真っ直ぐな河内の誠実さと心の清らかさに私の感情が動かされたのかもしれない。
責任はある。河内の目標を奪ったのは私だ。
小さく深呼吸をして、足を組み、私はゆっくりと口を開く。
「将来を期待された男がいた。輝かしい未来が見える。お前なら世界に行ける。そう言われ続けて自惚れ、鼻高々になって雪を舞った。女たちはこぞって寄り付き、天狗になった男は自信過剰になり意気揚々とエントリーした大会に出続け、周りに踊らされるまま困難なトリックを自分のものにしていった。能力を認められ自らの力を過信した男は練習で幾度も幾度も転び、頭を強打しようと、少しぐらい意識を失おうと構わず習得に力を注いだ。男は自分を見失っていた」
一度言葉を切り、私は渇いた唇を舐め、河内に聞く。
「急性硬膜下血腫って、知っているか?」
首を横に振る河内に私は簡単に説明した。
急性硬膜下血腫とは、硬膜の内側に血腫ができる状態であり、脳が強く揺すられることで、脳と頭蓋、硬膜の間でズレが生じ、衝撃によって切れた静脈から出血が起こり、血が溜まる症状。最悪死に至る。
「私の場合、気付くのが遅かった。自分で自分の症状を軽んじていたからだ。頭痛やめまいが増え、やっと検査をした時には遅かった。意識を失って昏睡状態になったのは手術の前日だ。頭を強打しても短時間気を失っても、すぐに重い症状が出ないこともあるそうだ」
お前も気をつけろよ、と河内に視線を投げる。小刻みに頷き、河内は声の出し方を忘れたかのように黙っていた。
「怪我をしたわけじゃない。クラッシュしたわけでもない。これは自業自得なんだ。自分で撒いた種だ。私が勝ち取ったものはすべてなくした。すべてだ。今の私には何もない」
手を広げ天を仰ぐ。
「残ったのは、そうだな。後遺症だけだ」
「後遺症って?」
食いつくように言った河内の言葉に私は眉をひそめる。
「若干の麻痺がある。リハビリで大分よくはなったが、まだ残っている。言語障害や精神障害もあるそうだ。このことは、地元の特定の知人にしか話していない。ボード関係の人間にはただやめたとしか言わなかった」
あることやないことまで好きに言われ、好きに書かれるだろう。噂は勝手に一人歩きをする。引退やら復活やら、当人の気持ちを無視したところで盛り上がるのは目に見えている。
私は話しながら知らず知らずのうちに微笑んでいた。緩んだ頬が上がり、虚ろな目は細められていた。自分自身を嘲笑っている。
あの頃の私はいない。華麗に舞う私はいない。それでしか自分を表現できない私は、生きることもままならない。
「見えるか?」
私の視線の先を捉えて河内が後ろを向いた。
「天使の梯子だ」
雲に隠れた太陽の光が灰色の厚い雲の切れ目から光線の柱を地上へ降り注いでいる。リフトに乗ってあの尾根のコースに行けば、山頂に舞う美しい塵に光が反射し、天から放射状に光の線が引かれている美しい光景に出会えるだろう。
見えるものにしか見えない天使の梯子。
生きる意味を見い出せないのなら、好きなところで死んだ方がいい。ゲレンデに現れる梯子をのぼって、地上から姿を消せればいい。あの天使の梯子が私を迎えに来てくれているのなら、いつでも喜んでのぼろう。
「見えません」
河内の背中が震えていた。
「俺には見えません。あんな綺麗なもの」
背中を私に向けたまま河内は言う。
「織田さんは今も変わらず俺の憧れです」
「何を言っているんだ? 私はもう以前のようには飛べない。自分の生きる目的さえわからない男の何を憧れるんだ!」
声を大きくして私は弱い自分を蔑む。お前の憧れた私はいない。あの頃の私はもういない。
振り向いた河内は目を潤ませ、拳を握っていた。
「俺は織田さんのトリックだけに憧れていたわけじゃない! もちろん、貴公子と呼ばれるほどボード界には珍しい織田さんのスタイルに超憧れてたけど。それだけじゃない」
真っ直ぐに私の目を見る透きとおった河内の瞳が揺れていた。
「織田さんは諦めなかった。固く自分を信じてた。やれる、できるって自分の力を信じて疑わなかった。見ている俺にも伝わった。この人はどんな困難も乗り越えられる心の強い人なんだって、俺にもわかった」
絡ませていた視線を背け、私は首を振る。溜め息を吐きもう一度首を振る。
「だからいないんだよ、河内。その時の私はいないんだ。終わったんだ。私の人生は終わったんだ!」
「人生が終わったわけじゃない! 生きることをやめたがっているだけだ! 前を向くのを怖がっているだけだ!」
取り乱したように言葉を吐き、燃え立つ感情が弾け飛ぶ。河内は苦しそうに顔を歪めていた。その口から出る言葉は縮こまった私の弱い心を容赦なく刺す。
見たくない現実から目を背け、耳を塞ぎ、背を向ける。理解することを恐れ、無知を装い、今の私から逃走する。
「無理なんだ。もう無理なんだよ」
「無理じゃない! あの頃のあなたも今のあなたも、同じ織田さんです。心の強い人で、逃げ道など考えず、目の前の壁を乗り越えられる人だ」
河内が呼び起こすのは過去の私か、それとも本当の私か。
「織田さんが今の自分を受け入れられないのなら、俺が受け入れますから。目標が見つからないのなら一緒に探しますから。終わっただなんて! 無理だなんて言わないでください! 織田さんは」
河内の頬に涙が伝った。
「織田さんは、俺の憧れの人なんだから!」
「なんでお前が泣いてるんだ?」
私の言葉に河内ははっとしたような表情を浮かべ、握った拳を開き乱暴に顔を拭った。強く口を結び唇を噛むと小さな声でつぶやく。
「織田さんがいなければ、今の俺はいないんだから」
誰かの支えになっていると知れば私も何か変われるだろうか。過去の私ではなく、今の私も誰かを支えられるのだろうか。
以前の私が誇っていた心の強さを取り戻せれば、今の私でも前を向けるのだろうか。
今まで、感情をあらわにして今の私自身を誰かに語ることはしなかった。頑張れと言われても頑張りようのない自分の状態を訴えることもしなかった。
「私はもう飛べない」
「飛べなくてもいいです」
私の弱音を一蹴するように即座に河内は答えた。
「他にやりたいこともない」
「一緒に見つけましょう」
私の不安げな目を見て、河内は力強く頷く。
「見つけられる自信がない」
「そんな自信いりません」
眉間にしわを寄せて私は河内の顔を覗いた。
「未来のことに、勝手に自信を持たれても困ります」
河内は笑う。自信過剰だった覚えはないが、今までボード以外に夢中になれるものはなかった。
「知らないことや初めてのことに出会える楽しさを味わえる。目標や意味はそのうちまた見つかります。だって世の中は、知らないことばかりだし、初めてのことばかりだから」
「子育てなんて、初めてづくしだぞ」
渡部が河内の背後から突然顔を出した。小さな男の子がおぼつかない足取りで私の足元に歩いてくる。
「うちの貴公子」
笑顔を浮かべた渡部は自慢の息子を指差す。小さな帽子をかぶった可愛らしい頭に河内は手をのせて微笑む。
初めての雪山、初めてのソリ、初めてのスノーボード。
初めて目にするものばかりで、その小さな瞳はきらきらと輝いている。これから知らないことを知っていく小さな貴公子に私も笑顔を向けた。
世界にはいまだ知らないことばかりだ。初めてのことに戸惑うのは当たり前だ。生き方や目的は、その都度見つかるのだろう。何も知らず 何も経験せずに、何もかも知ったような顔をして諦めるのは間違いだ。
人にはできることとできないことがある。
渡部はプロボーダーにはなれなかったが、私はプロを経験した。
渡部は親となり息子を育てているが、私はまだ未経験のことだ。
今の私にできることは何だろうか。
それを探すことが、生きるということなのかもしれない。
「もしかして、織田康正? やべー! 俺ファンだったんすよ。なんでやめちゃったんですかぁ?」
本名は康正だが、プロ転向時に登録名を変えた。懐かしい名だ。その名で呼ばれることも久しぶりのことだ。
そして嫌悪感しか生み出さないはずの問いかけに、なぜか私は笑顔で答えることができた。
「ちょっと体を壊してね」
「マジっすか。超もったいねぇ! 俺、見てましたよ。選手権大会のエアトリ。空中で止まってるみたいだったし! 着地もやべーし。マジ日本人とかねーし」
彼の姿や話し方が思い出の中の今も生き生きとしているボード仲間たちと重なって、私は笑っていた。河内が「俺も見てた!」と言って私がしたトリックを興奮気味に彼と話し出す。
「前日に足を痛めて左足首はテーピングでガチガチだったんだ。あんまり動かせなくてね。あの大会は難しかった」
「マジで? 怪我してたとか全然気づかなかったし」
「本当ですか?」
彼は口をあんぐりと開け、河内は目を見開く。
「でも、織田さん優勝しましたよ。あの連続技で」
「ああ、キャブ(利き足を前にする滑走)にせざるを得なかった。でもおかげでポイントは高かったね」
壁は高かった。乗り越えなければならない壁は怪我をした自分には大きく見えた。だが、やらねばならなかった。越えねばならなかった。
その時自分にできることをやった。自分の持っている力を出し尽くすことで未来が開けると信じていた。
「握手してください」
彼が手を差し出す。私は立ち上がって彼の手を取った。こんな風に他人の手を握りしめることも久しぶりの感覚だった。
「あーマジ、自慢しよ俺。あ、体大事にしてください」
大きめの派手なウェアを着こなした彼は笑顔で会釈する。
握手をして喜ばれることや他人の優しさに触れることで心温まる記憶が蘇った。頷いて礼を言うと目の前の河内がゆっくりと右手を出した。
「俺も握手してください」
河内の顔を見上げて私が首を傾げると「俺、織田さんのファンです」と言い、続けて一言付け加える。
「今も、これからも」
私は河内の温かい手を握る。
横を見ると渡部が両手を擦り合わせて順番待ちをしていた。小さな貴公子も一緒だ。
河内と視線を合わせ、私は声を出して笑った。
-----------------------
「あれ? 織田康正?」
数日の間、私はこのスキー場に身を寄せた。整形でもしたのかと思うほど私の顔を見て声をかけてくるボーダーが多くなった。
私自身では自覚はないのだが表情が明るくなったのだろう。自信なさげに下を向いて歩くことをやめ、背筋を伸ばし胸を張って前を見る。視界も広がり気持ちが軽くなったように感じる。
仕事用のウェアを着て隣を歩いていた河内が足を止めた。細い目を一層細くした河内の見る方角に私も顔を向ける。
視線の先の紅の空に、天から射す美しいラインが浮かんでいた。
「綺麗すぎて、のぼれないな」
私がぼやくと河内が口を開いた。
「天使の梯子ですから」
のぼるのはまだ先でいい。知らないことややってないことがまだまだ私にはありそうだ。
大きな壁を見つけたら、また越えればいい。へこたれそうになったら、手を貸してもらえばいい。無力な自分を感じたら、一休みすればいい。
人生は長いようで短い。
死に急ぐことはないのだ。
梯子をのぼるのは人生の最後、やりきった達成感に両手を突き上げた時でいい。人生の表彰台で白く染まった髪を満足げにかき上げた時でいい。
迎えに来た天使に、曲がった背筋を真っ直ぐに伸ばし、しわの深くなった顔に自信満々の笑顔を浮かべられるよう今、私に何ができるか。
見つけるのが楽しみだ。
終