七話
第七話 白い部屋
目の前に、一つの波紋が広がる。
最初は小さく、少しずつ大きくなり、私の方へ近づいてくる。
よく見ると、目の前だけでなく、他方向にも同じような波紋が出来上がっている。
そこの中心に、手の平を寄せた。暖かくも冷たくもなく、形の無い空気。
存在しているとも、していないとも言えない、妙な感触。手を離すと、赤い糸が出来上がり、プツリと切れた。手の平が朱色に染まり、指先へ無色透明の液が伝っていく。
その液が滴り落ちた後、まるで肺を握り締められたかのように、呼吸が出来なくなる。
だが、苦しくは無い。他人の身体に起こっている事を、私が体験しているような感覚で、此方には一切の影響もない。そして、その感覚にも少しずつ、身体が馴染んでいく。
触るだけだった波紋を、次は自らの指で揺らしていく。
形が変わり、歪な花のような模様が、目の前に出来上がった。指は、やはり朱色に染まって、その先からは無色透明の液が一滴ずつ落ちる。息を一つ吐き、波紋に身を近づける。
それに合わせる様に、波紋は後へと下がった。
かと思うと、今度は不規則な動きをしながら、私の周りをふわふわと浮きながら、回っている。さながら、墓地を徘徊する火の玉。もしくは風に乗っている、小さな羽玉か。
そして、もう一度手を伸ばそうとした時、いきなり身体の自由が効かなくなった。
頭の奥の方から、少し高めの優しい声が聞こえる。
「……ちゃん――ミケちゃん。大丈夫?」
目の前に、綺麗な艶のある茶色の髪が見えた。
「ん……もう大丈夫だから、心配しなくて良いわ。ジュースありがとう」
そう言って、ヨルが買って来てくれたオレンジジュースを受け取る。
そのプルタブを開け、口に含んだ時、横から低い声が滑り込む。
「お前。あの街で怪我しただろう? 力も使ったのか」
「ええ。まあ、毎度の事だから、慣れちゃったわ」
そう軽く受け答えするが、キリカワの額からは、玉のような汗が噴出していた。
まるで、聞いてはいけない事を聞いてしまったかのように、彼は咥えていたタバコの灰を落とし、口から白い副流煙と共に、深い大きな溜め息を吐き出し、手で目を覆う。
とても嫌な予感がした。彼の不吉な予言は、良く当ると言ったが、私の<悪い予感>は確実に当る自信がある。彼の細く開かれた目が、その嫌な予感を後押ししていく。
「お前。血を見た時に、喉が渇いただろう?」
否定したくても出来ず、頭を縦に振る。
「虫が一段階成長して、味覚を蝕んだんだよ。今は、坊主の血を飲んだから、収まったがな。ただ、それは不規則で起きる上に、限られた者以外の血を含んだら」
そこまで言い、キリカワは一息つく。今更、死ぬとか死なないとかは、全く問題にはならない。今まで、銃弾の雨を掻い潜ってきたのだから、死ぬ覚悟くらいは出来ている。
だが、耳に飛び込んできたのは、あまり理解し難いものだった。
「……お前の人格が消滅する。とりあえず、ソイツから離れないほうが良い」
死ぬよりも、もっと想像のつかない事。肉体は正常に機能しているのに、意識だけが消滅するというのは、現実離れしている上に、どうもピンと来ない。まあ、当然だけれど。
脳死と同等という事では、ないのだろう。植物人間の症状とも違う。あれ等は、脳の機能が停止するものであり、自分自身の意識だけの消滅と言う事では無い。
絶望よりも、恐怖よりも、諦めきれぬ笑みだけが浮かぶ。
「そこの坊主は、ライカントロピー……狼疾ってやつか。理性で抑えてるみたいだが」
ライ……なんとかは知らないが、狼疾と言うのは、家に陳列してあった医学書に記されていたので知っている。自分を狼と思い込んで、人や生肉を食う症状。だった気がする。
だが、それならヨルの人格は、とっくの昔に壊れてしまっているはずだ。
「ご名答。ただ、体中に毛が生えたりとかはしないからね?」
ヨルは相変わらず、飄々とした態度で答えている。コレが年季と言うものだろう。
「僕の場合は虫と共存する為に、新鮮な肉を与えているだけだし。あの街から離れれば、そこまで強い食欲は沸かないし、十分に力も出せないよ」
虫と共存する為の食料。そんなのは、考えた事もない。
今まで、住処を共有しているだけだと思っていたのに、そこまで思考が行き通っていなかった。先ほどの、ヨルの血を舐めた時の事を思い出す。今飲んでいる、着色されたジュースより、数倍美味しいとも思える液体が喉を通って言った時、私の思考はそこに無かった。
あの赤い波紋に囲まれ、淡い高揚感を味わっていたのである。
「ミケちゃんの方も、今の所は収まってるでしょ?」
「ん――そうね」
考えながら、素っ気無く答える
確かに、さっきヨルに声を掛けられてからは、赤い波紋も目に付かない。
「でも、ホント不規則に波が来るから、気を付けてね。とりあえず、あの街から離れてれば、少量の血だけで事足りるみたいだし」
結局、原因はあの街……もう一度行ってみたほうが、良いかもしれない。
とりあえず、ヨルの血さえ飲んでいれば、大丈夫な訳だし。
だが、それに横槍を入れるかのように、電源を入れていたラジオから、男のアナウンサーの掠れた声が聞こえてくる。途切れ途切れで、全体は把握しきれないが、どうやらあの街は危険指定地域のAクラスに変更されたようである。疲れたような溜息が、私の喉奥から漏れた。仕方ない、チャイニーズを捕まえて話を聞いたほうが早い。
私はホコリだらけの床から立ち上がり、入り口へと向かう。
「お前の家まで乗せていくついでに、良い情報も格安で売ってやるが?」
「生憎と、良い知り合いが居るの。そこまで送って頂戴」
その知り合いの所へ行くのは、少し嫌なのだが、この際文句は行ってられない。
子供達と少女の見送りを受け、ワゴンの後部座席へと乗り込む。
それに続き、子供達と最後まで遊んでいたヨルも、私の横へ座る。
ヨルの目は、遊び足りない子供の様に、残念そうに細められていた。
「居ても良いのよ」
面白くなって、少し揺さぶりを掛けてみる。
「それは、やだ。ミケちゃんと一緒にいた方が良い」
此処までストレートに言われると、少し気恥ずかしい。そう。と、一言返して窓の方を見た。あの古ぼけた教会が、私達が来た事など知らない。という風に、寡黙に建っている。
――あいつも帰るときには、こんな風に見てたのか
昔の面影が頭に過ぎる。半開きの窓から風が通り、優しく頬を撫でられた。
綺麗に水拭きされた木製のテーブルと、そのテーブルの上に崩れている酒臭い男共。
床には、一晩で開けられたであろう、酒の瓶が無数に散らばっていた。後から、キリカワとヨルも続いて店の中に入ってくるが、酒の臭いに鼻が曲がってしまったようだ。
カウンターには、徹夜で男たちの相手をしたであろう、白髪の混じった、少し痩せている中年の男のバーテンダーが一人。
そして一番、近い席に座り、バーテンダーを呼ぶ。
「バナナミルクを貰いましょうか?」
「酒を頼んでくれよ。酒を」
そう言いながらも、カウンターの奥へ行き、ラップされたコップを持ち出してきた。
作り置き……彼は客をバカにしているのだろうか。そう思いつつ、溢れる一歩手前まで注がれた、コップの箸に口を付け、味の劣ったバナナミルクを飲みこんでいく。
途中、舌の真ん中あたりに固形物が滑ったが、あまり気にしないでおこう。
「それにしても。まさか、同性が趣味だったとは。そりゃ、幾ら男が口説いても」
「コレ。一応男だし、そう言う関係でもないから」
言い終える前に、隣に腰をおろしたヨルに指を差して、きっぱりと言う。
「おー男か。そいつは、スマンかったな。なんか飲むかい?」
どいつも、こいつも子供に薦めるな。
「じゃあ、ドライ・ジンを一杯。チェイサーも付けてよね?」
「ヨル! まだ未成年なんだから、お酒はダメ」
当たり前の事を言った筈なのだが、何故かヨルとキリカワは、不思議そうに此方を見ている。そういえば、ヨルの年齢って聞いたこと無かった気がする。もしかして……私より上と言う事だろうか。まあ、生肉だけしか食べていないなら、ありえなくも無いけれど。
丁度、私がバナナミルクを飲み干した所で、ヨルの頼んだドライ・ジンが届いた。
ジン特有の、軽い香草の香りが鼻を擽り、それに続き酒の臭いが鼻をつく。
「ミケちゃん? 一応、コレでも二十歳過ぎなんだけど……あれ? もひとつ上だっけ」
ヨルは、外見に似合わぬ酒を煽りながら言った。外見と違い、意外と年は取ってるのか。
なるほど、私を「ちゃん付け」して呼ぶ筈である。
「ああ、でも基本的に永遠の十六歳で通る筈だから、そう呼んでもらっても」
酔ってるだろ。
なんか、純粋な子供と思っていたんだけど、案外黒かったりするんだろうな。
「ちなみに、コイツは一夜で八人の女を鳴かした経歴があるぞ」
「ちょっと待ってよ! 僕だって誘われて行ったまでだよ。据え膳食わぬはなんとやらって言うじゃん」
そもそも、その婦女様方はヨルを男だと思って、誘っていたんだろうか?
もし違うとするなら、それはまた可哀想な一夜を過ごしたのかもしれない。
あ――そういえば。
「私、ヨルの血を舐めたんだよね……ニンシンしないかな」
「しないよ! っていうか、行為に及んでもさせないよ! 一夜限りの関係で、責任取れなんて言われたら、踏んだり蹴ったりにも程があるよ」
声を上げて、酒の残っているグラスをテーブルに、大きな音を立てて置く。
なんか、ヨルの素の顔が見れた気がする。
と、言うか一夜限りの関係って、凄く曲がった性格をしている気がするんだけど。
――ホントに避妊薬飲んどこうかな。
「あ。でも、今はミケちゃん一筋だから、気にしないで。ね?」
一転、創ってるのかと思うほど、爽やかな笑みと上目遣い。
いや、別に関係ないから。そんなに、覗き込まなくても良いから。
私は聞こえない振りをしながら、バーテンダーに問い掛ける。
「で。新しい情報入ってない? チャイニーズ系ので」
「十円コースと六万円コースがあるが?」
十円コースも聞いてみたい気もするが、そんな暇も無い。
「ちゃんとした情報をお願いするわ。飲み代も後払いでOK?」
そう言って、空になったコップとヨルの前にあった飲みかけの酒をカウンターのに置く。
ヨルの口から、不満そうな声が漏れているが、無視しておこう。
バーテンダーが二つのグラスを持って、また奥へと入っていき、三人だけが残される。
――そういえば、倉谷って車とか持ってなかったような。
と、考えたのも一瞬。すぐに何冊かのファイルを小脇に抱えて戻ってくる。
最近来たのだとばかり思っていたから、コレだけあるのは予想外だった。
まあ、人違いのものも混じっているだろうから、選別すれば十分の一くらいだろう。
それら全てがカウンターの上に置かれる。
「これだけじゃねえぞ。あと十冊はあるからな」
どうやら、骨が折れそうな作業になりそう。
私は、カウンターに置かれていくファイルを一つずつ、渡された紙袋に詰めていく。
「とりあえず、全部持って帰るから」
「なんなら、ファンシーな包み紙で包もうか?」
「ファンキーな包み紙が出てきそうだから止めとくわ」
最後のファイルを紙袋へ収めた所で、ヨルの腕を掴んで席を立つ。
そして、入り口へと向かう。しかし、キリカワは席に腰を据えてしまった。
「オレは酒でも飲むさ。ここから近いんだろ? じゃ、歩いてけ」
はいはい。と言いながら、ドアを開けようとした。だが、ドアのノブを握ろうとした手は空を切り、鈴の音が店内に響き、なにやら堅い板のような物に、頭をぶつけてしまった。
その衝撃で後へと倒れ、上の方から鋭い目で見下ろされる。
ひょろりと痩せ細った体、頬骨が目立った顔。口からはみ出た、爬虫類を思わせるような長い舌、服から漂う妙な薬品の臭い。生理的な嫌悪感が、内から込み上げてくる。
息は小刻みに震えて、時折壊れた笛のような音が喉から流れ出ている。
思わず、イーグルを取り出し構えてしまう。しかし、銃身が上がる前に脇腹へ衝撃が走り、肺の空気が一気に外へ掻き出される。そして、間髪入れずに今度は側頭部が揺れる。
――あ。蹴られてるんだ。
分かったからと言って、避けれるものでは無い。男の腕が振り上げられ、下へ。
思わず、瞼を瞑る。だが、その手が私に触れる事は無かった。それに代わって、血の出ていない腕が私の身体の上に落ちる。見上げると、あの男の肘から下が無くなっていた。
「女の子のお腹は、蹴っちゃダメって言われなかったかな?」
ヨルの手には、あのナイフが握られている。
腕を落とされた男は、動揺する様子も怯える様子も無く、その場に立ち、相変わらず舌のはみ出た口からは、涎が流れ出している。そして、今の状況がようやく把握できたのか、自分の腕の切り口を針の穴を見るかのように睨んでいる。切り口から遅れた様に、血が噴出して血の池を作っていく。前のような求血症状は無いが、嫌悪感は膨らむ。
そんな緊張が続く中、最初に動きを見せたのは痩せた男。ポケットからバタフライナイフを取り出し、ヨルに向かって我武者羅に黒光りするソレを振り回す。男に取っては、最高の攻撃だったのだろうが、ヨルは軽くかわして半歩ほど後へ下がり、低く唸る。
「フルオート」
身体が刻まれていく。千切り等と言う甘いものではなく、人の動きとは言えないような、人外の速さ。
だが、それでも男の方は苦しい表情も見せず、動かせる筈の無い腕でナイフを振り回している。
「サードバースト」
先程より早く飛ぶ銀光。たった一瞬で男の右頬は抉られ、腹に穴が開き、膝が吹き飛び、完全に身動きが取れなくなってしまった。床一面に白くて、ふわふわした物が飛び散る。
そして、最後とばかりに頭の頂から腰に向かって、ナイフを振り下ろす。
絶叫も立てぬまま、男の身体が崩れ落ち、耳の穴から太い糸が這い出てきた。
その動き回る白い糸をヨルは足で踏み潰し、男の死体を蹴り飛ばす。
「キリさん。この人の処理、お願いします。さあ、ミケちゃん行こっか?」
さっきの冷たい目は見当たらず、外観年齢相応の笑みを浮かべる。
此方が本当の顔であって欲しい……と思う。
「だ、そうよ。後は頼むわキリカワ」
苦虫を噛んだ様な表情をしたキリカワには、申し訳ないとは思いつつ、男の死体の横をすり抜け、店の外へと出た。相変わらず、日は照っており、雨の振る気配は全く無い。
昨日の冷たい雨と変わり、むしろ日傘を持っても良いくらいの陽気である。
こういう日は、買い物に限るだろう。ヨルの生活用品も買い換えなくてはいけない。
ああ、でも確か預金が二万円しかなかった気がする。やっぱり、食べ物が先か。
そういえば、牛乳も無かったし、賞味期限切れてるのも多いし。
とりあえず、最寄のスーパーに寄って行こうかな。
ちょっと、買い物付き合ってね。そう言って、後を振り向いてヨルに重い紙袋を渡した。
そこは既に戦場と化していた。
最新型の戦車が、無反動砲が、ある所では核弾頭が飛び交っている。
ソレは<ある者>にとっての聖域とも呼ばれる空間。その名もタイムサービス。
私は身を屈ませながら、暴走した人の波を縫い、下の方でヨルと一緒に品定めをする。
「あ、これ随分と安くなったわね。牛乳と安い肉も買ってと」
「あのさあ。こういうのに使っちゃうのは、勿体無くないの?」
――はいはい。食べれるだけにしておきます。
とりあえず、必要な物だけを籠に入れた後、レジへと向かう。
が、肝心なことを忘れていた。もう一度、戻しに行くとしても、かなり危険だ。
――私の足なら、店員くらいは撒ける。なら、いっそのことヨルを残して……。
「……はい。五千円だけ貸してあげるから」
「ごめん。絶対に返すわ。貴方だけには、借りを作りたくないし」
苦言が後から飛んでくるが、それには耳を傾けず、レジに商品を置いて行く。
「全部で千五百二十円です。ありがとうございましたぁ」
間の抜けた声が、制服を着た可愛らしい店員の口から奏でられる。
そして、野暮ったるい会話も無く、そのまま袋とお金を受け取りスーパーを後にした。
日の光が反射して、私の目元を掠める。
そこには、ポツリと置かれた一体の大きなクマのぬいぐるみ。
おそらく売れ残った商品。もしかしたら、私が子供の頃にあった物かもしれない。
――この子は結局売れ残っちゃったんだ。結構、可愛い顔してるのに。
私は窓の方へ近づき、そのクマのぬいぐるみに顔を寄せる。
ガラスに自分の赤い髪が映り、小さい頃の面影が無くなっている事に、今更ながら気付いた。昔は黒くて短い髪を整える振りをしながら、このぬいぐるみを見に来たものである。
確か、そのたびに母に叱られて肩を落とすのが習慣になっていた。
小さい頃の私を重ねながら、赤く長い髪を手櫛で整える。勿論、自分の髪を見るためではなく、売れ残った寂しいクマのぬいぐるみしか、視界には入ってきていないのだけど。
ふと、後からヨルに声を掛けられる。
「もしかして、これ欲しいの?」
「っ――! 要るわけないでしょ。さ、早く家に帰りましょう」
そう言って、ヨルの背中を引っ張りながら道路を歩く。
朝にも関わらず、人通りは少ない上に車も見当たらない。そう言えば、日曜日だっけか。
目の前に小さく私のアパートが見えた。少し足を速め、ヨルの手を引っ張る。
家が見えると、早く帰りたくなる人の気持ちが良く分かる。
それがヨルにも感じたのか、少しずつ互いの歩調が早くなって行くのが分かる。
その数分後には、二人共殆ど早歩きのような感じで、進んでいた。
歩き慣れた階段を一段ずつ上っていく。その後には、やはりヨルが付いて来ている。
「あ、ヨルの部屋は私の横だからね」
「え?一緒じゃないの?」
そんなことをしたら、私の貞操が危うくなる。とりあえず、向こうも冗談のようだったので、そのまま私の部屋の前まで歩いて行く。だが、そこには先客がいた。
客と言ってもビジネスではなく、むしろ逆の金を毟り取る客である。
「倉谷。なんで、此処に居るの」
「お、丁度良い。実はな、お前の部屋以外は貸出禁止にするからな」
まって。本当に勘弁して欲しい。幾らなんでも、唐突じゃない。
「誰が決めたのよ!」
「俺が決めたんだよ? このアパートの大家は一応俺なんだよ?」
後で、ヨルが笑っているような気がした。絶対に嫌な予感がする、誰か助けて。
それでも、倉谷に逆らえる事は出来ない。何せ家賃の滞納は二年も溜まっているのだから、これで追い出されないほうが本当に不思議である。それでもコレと一緒は気が引ける。
倉谷はポンと肩を叩き、ヨルに親指を立てて、そそくさと去って行った。
……もしかして、騙されてる?
「じゃ、予定変更でミケちゃんの伴侶として、いそーろーさせて貰います」
そう言いながら、ヨルは固まっている私の横をすり抜け、部屋のドアを開けた。
部屋の中から、ヨルの叫び声が聞こえた。ああ、多分タンスでも見たんだろうな。
あの中にも結構、物騒な物入れてたから――死んでないかな? 大丈夫だろうけど。
そんなことを思っていると、奥から転がるようにヨルが飛び出してきた。
肩で息をしながら、目尻には涙の粒を浮かべている。相当恐かったんだろう。
――うん。これなら、変な事される心配もないかもしれない。
「ちょっと待ってよ! なんで、風呂場空けた瞬間、死にかけなきゃいけないのさ!?」
あ――そっちのだったか。それは、悪いことをしたわ。覗き対策だったんだけど。
「まあ、危ないところは説明してあげるから」
そう言って、玄関で倒れているヨルの腕を引き上げ、部屋の奥へ引っ張って行く。
途中、後から嗚咽が聞こえ始めていたが、気にせず前へ進んでいく。
勿論、罠の説明も一つずつしていく。子供のイタズラの様な罠から、死に至るような獰猛な罠まで。もしかしたら、幾つか忘れている物もあるかもしれないが、良いだろう。
そして、二つあるうちの一つの寝室へとヨルを連れて入った。
少し絵が飾ってある、あまり生活観の無い部屋。確か二年前から放置したままである。
男でも抵抗の無いデザインの部屋だから、ヨルは此処で良いだろう。
クローゼットを開くと、大きめのワイシャツが顔を覗かせた。
「え! そういうのOKって事?」
何か勘違いしているようなので、銃のグリップで後頭部を殴った。
「ぅ――冗談のつもりだったのに」
そんな事、アンタの口から言ったものは、信用できないからに決まってるでしょ?
頭を少し膨らませたヨルをベッドに寝かせ、その部屋を後にする。
そして、横にある私の部屋に身を潜らせる。
部屋の隅で体育座りをする。欠伸をして壁に身を預けた。天井に飾ってある照明を見上げ、その眩しさに目を瞑る。光が入らないように、カーテンを閉めた。
白い。目を瞑っていても分かる。だって、ここは私の部屋なのだから。
暗い。目を瞑っているからでは、無い。本当に此処は、恐いほどに暗い。
寂しい。私しか居ない空間。唯一、私が休む事が出来る、すべての物が省かれた世界。
もう一度目を開ける。そこに広がっていたのは、ただ白いだけの壁と、白いカーペットを敷いただけの床だった。他には何もない……何も存在してはいなかった。
――寂しい
久しぶりです。すいません
めちゃくちゃ、ネタが難産だった。
でも、コレでようやく序章終了。そこ、遅いとか言わないで!
あと、修正もしておきます。
次の更新は……この週の内に(アバウト