二話
第二部 灰色の雨
ずっと昔から聞いていた。とても綺麗な、あの音を。
一瞬しか聞こえない。ゆったりとした、あの音を。
私はずっと聞いていた。生きているモノが止まる音を。それは、ちょっとした他人からの悪戯。それは、ちょっとした人間の贖罪の形。
私たちは混ざっていった。身体じゃない、すべてが混ざっていた。
そして、私は選ばれる。小さな小さな人形の一部。そんな、雨上がりの日暮れ。
伽藍としている公園。数年前なら、幼児を背負った主婦や遊具で遊ぶ小学生の姿もあったのだろう。きっと、楽しげな声が聞こえたり、口喧嘩をしたりして泣いている子供もいた筈である。
それは騒がしく、耳に痛かったかもしれない。時に殴ってやりたいと、思う時もあったかもしれない。だが、今はそれが懐かしく思えてならない。
私は空想の世界から、現実へと意識を戻した。まるで、キノコが繁殖しているかのように横スレスレで建てられたダンボールハウス。所謂、ホームレスの寝床であるのだが、ホームレスと言っても、リストラされた人間や中年の男ばかりでは無い。むしろ、戦火により帰る家を無くした子供や、目の前で友達が溶けていくのを目の当たりにし、塞ぎこんでしまった中高生も此処に居る。
だが、今は構っている暇は無い。随分と遅くなってしまったであろうが、余程大切な仕事なら一ヶ月くらいは、待ち惚けをしている奴もいるだろう。数日で帰って行く奴なら、そんなに急用でもないし、金も持っていない。
これで、生計を成り立てている私は随分いい加減だと思う。
「あ、姉ちゃん。こんなトコに来るなんて、珍しいね」
下の方から、声変わりのしていない、未成熟な声が聞こえた。私は半歩ほど下がり、じっと見つめてくる、その小さな双瞼から目を逸らす。
「倉谷さん、痣だらけで帰ってきたよ。あれ、お姉ちゃんの仕業っしょ?」
「まあ、ほんの小さな事故よ。ところで、この辺で外部の人間見なかった? 福朗くん」
美袋 福朗。小学生の時に六ヶ国大戦の戦火に巻き込まれ、肉親を無くした上に実家が無くなってしまった為、ホームレスをしている。ただ、街の裏道や地下水道の構造などを把握している為、犯罪の取締りには一役買っている。
本人曰く「好奇心旺盛な悪戯っ子の特典」だそうだ。その福朗がある大きな木を指差した。
「さっきまで、あそこにスーツの男の人が立ってた。なんか、訳ありみたいだったけど、少し前に姉ちゃんのアパートの方向に歩いてったよ」
これは予想外だ。余程の急用がある、金の持ってる客かもしれない。面倒な仕事でない限り、引き受けるのが吉か。ああ、でも事務所まで探ったんなら、面倒臭いんだろう。
金か時間か。私の頭の中で天秤が不安定に傾いたりしている。
「ま、仕方ない。面倒臭いのが仕事、仕事……と」
私は再びボロバイクに跨りエンジンを掛ける。
「そうだ、姉ちゃん! うちの隣の多恵さんが赤ちゃん産まれたから、今度見に来てくれって言ってた!」
苦笑しながら、人差し指と親指で輪っかを作った。
そして再び、私は非常階段を重い足取りで上っていく。
全く。私は一応、標準体重より軽いと言うのに、なんで簡素なダイエットみたく、最上階まで上らなければならないのだろう。そう愚痴りながら、私は先ほどまで鉛が飛び交っていた場所へと辿り着いた。
と、後から階段を上る足音が聞こえ、振り向く。さっきのサラリーマンを彷彿とさせるようなキッチリとしたスーツを着ていたが、頭がとても涼しそうだ。これ以上は敢えて考えるのは控えよう。
「もう諦めようと帰るところだったんですよ。いや、良かった」
そして、頭のスイッチを切り替える。
「すいません。こういう仕事の仕方なんで、私としても間に合って良かった」
あくまで無感情に、そして皮肉を篭めて口元を吊り上げる。
「死街地三丁目夜音アパート五階……葉月駆逐請負事務所へ、ようこそ」
この街で行われたのは、戦争と言う名目の実験だった。人の殺戮が目当てじゃない、ただの実験。生き残った私たちは、確かに実験に置いて特異な物となった。
例えば、私はネコの様に身体が柔らかくなり、結構な高さから落ちても、体勢を立て直せるようになったし、今は夜目がきく。別段、不自由では無いので言いのだが、もちろん成功例ばかりじゃない。失敗作も、少なからずいると言う事だ。
それは、犬と不完全にくっ付いてしまった異形な男だったり、理性を完全に失い、生きてる身内を襲って喰らう人間だったりする。つまり、害が在れば殺す。と、言うのが私の仕事なのだが。
たまに、外部から純粋な殺人を頼まれる事がある。そっちの方が、収入多いから嬉しい。
部屋は半年近く放っておいたせいか、クモの巣やホコリで一杯だった。ついでにコーヒーを取ろうと冷蔵庫をのぞいたら、冷凍庫のアイスがドロドロに溶け、野菜室のキャベツには元気に動き回る青虫がいたが、とりあえず見なかった事にしよう。
クーラーもつかなければ、扇風機もつかない。おまけにソファーに座っている男はスーツ姿で汗まみれ。まったく、なんて暑苦しい空間だろう。
「とりあえず、この紙に貴方の名前と住所を書いて。くれぐれも偽装はしないように」
そう言って、ホコリの被ったメモ用紙とインクが少量しか残っていないペンを渡すと、その中年の男は手馴れた様子で自分の名前と住所を書きながら、愛想笑いをした。
「いや、それにしてもビックリですよ。まさか女の子、しかもこんなに幼いとは」
「外見で全てを決めるのは、止めた方が良いですね。そんなに信用がないのなら、お金は後払いで結構。終ったら、そちらにお伺いします」
そう皮肉交じりの言葉を返し、私は書き終えているであろう紙を男の手から取り上げ、住所を確認してからゴミ箱へ放った。私は案外コントロールが良い。野球のボールを十回投げたら、六回は真ん中に当てる自信はある。まぁ、今回は目標から外れて壁に当ったのだが、人間なのだから、こういう事も稀にある。
と、用も済んだ事だし、このオジサンには帰ってもらおうとしよう。
「あ、あの。まだ、写真をお渡ししていないのですが」
……断じで忘れていたわけじゃない。帰り際に貰った方が効率的に良いじゃないか。
「机に置いて帰って。私が他人を嫌うって事は、噂で聞いてるでしょ」
少し声が上擦ったかもしれない。男は怪訝な顔をしながらも部屋の扉を開け、半身を外に出したままの状態で止まり、顔を私の方へと向け「くれぐれも、お気をつけて」等と言い捨てたまま、さっさと部屋を出て行った。ほら、やっぱり厄介な仕事じゃないか。明日、雨だったら止めておこう。勿論、雨雲が少ししかなくても、風が少し吹いていても。
結果、神様はなんと非情な事だろう。私がキリシタンなら、キリストの銅像をハンマーで粉々にして、尚且つ活火山の中に放り込んでいることだろう。
つまり、私の頭の上には雲ひとつ無い憎い位に済んだ青空と、微風すら吹いていない空間が広がっていたのだ。いや、もしかしたら、あと1時間ほどでスコールがあるかもしれない。
それまで待っているのも「今日は高気圧に覆われ全国的に快晴」ラジオから忌々しい声が流れてくる。ああ、これから面倒臭い一日が始まるというのだから、せめて朝の紅茶とシャワーくらいは済まさせて欲しい。
いや、前者はともかく、後者は無理があるかもしれない。昨日も風呂に入ろうとして、床に広がるカビの集団に顔をゆがめた記憶がある。仕事が終わったら、掃除と電気の代金は払っておこう。
……そうだ。電気が無ければ、風呂が沸かないじゃないか。私は鬱な状態のまま、半ズボンと実家からこっそり盗んできた父のTシャツに着替え、歯磨きと洗顔を終えた。流石に洗面所は昨日のうちに洗っておいたから時間を掛けずに済んだのだが。私にとっては、その仕事だけで今日一日が潰れてしまえ、という気持ちなんだけれでも。まぁ、愚痴っていても仕方ない、頭のスイッチを切り替えるとしよう。
家を出た私は汗と雨の臭いが染み付いた服を着て、公園に向かっている。昨日渡された、クシャクシャのメモ用紙と写真を持ちながら。私は記憶力が破壊的に皆無である。
今までしてきたバイトの同僚の顔すら、辞めて1日で完全に忘れ去ってしまったのだ。つまり、昨日あの男に言った事は大嘘。住所も名前も最初の一文字すら覚えていないのである。
「格好つけたがり」前に一度、自分自身をそう評した事があるのだが、まったくもって大当たりだ。ちなみに昨日の男の名前は菊地洋介と言うらしい。群馬県に住んでおり、両親は他界していて妻とは3年前に離婚、原因は援助交際がバレて裁判沙汰になる。
結局、再婚した女性との間にも子供に恵まれず、今は別居状態にある……なんて平凡な男であろう。これほど、楽な人生は他に無い。
世の中に流されたまま生きて、二回も結婚しながらも誰からも怨まれていない訳だし、肩身の狭い思いをしている訳でもないのだろう。その上、今の奥さんと別居中なら、いくらでも大好きな浮気な出来るじゃないか。
まったく、これほど嬉しい状況は無い。と、男は思うんだろうな。いや、私もそれには同意見ではあるけども、少なくとも羨ましいとは思わない。私は波乱万丈が好きで、尚且つ見物しながら紅茶とアップルパイを食べられれば、それで良い。
登場人物になるなんて、まっぴらゴメンだ。片足どころか指一本入れたくも無い。理由は「面倒臭いから」そうやって、私はバイトを一日単位で辞めているし、人の顔や名前だって覚える事をしない。
だがシロは別格、アイツは覚えたくなくても、嫌でも覚えてしまうような格好をしている。会った当時も38度の炎天下の中、彼は平気な顔で黒いロングコートを着込んでいたのだから。そういえばアイツと会ったのは3年前……いや、やめておこう。面倒臭い、って事もあるけれど。
「ああ、とうとう着いてしまった」
あのダンボールハウスが立ち並ぶ公園とは違う、また一味違った広場。折れ曲がった鉄製の遊具、焼け焦げた人工芝、そして極めつけは一切水の出ていない噴水。
それらは、ここが元公園である事を物語っていた。緑も青色も鮮やかな花の色も無い、あるのは無造作に切り取られた灰色と焦げ茶色だけで、まるで前世紀の「シロクロてれび」という物を彷彿とさせる。勿論、実物を見たことは無いんだけど。
まあ、そのシロクロ世界にも住んでいる奴等は居る。あの倉谷も、此処出身だ。
私はカビの生えたパンや、青虫のついたキャベツの入った袋を下に置き「おい。ドブネズミ共、エサを持ってきたぞ。ついでに、一仕事やってもらうからな」と、その言葉と同時に草陰から何人かの男が、ボロボロの服ともいえない布を着て出てきて、袋の中を漁り始めた。
「すまんなぁ。オレ達はアンタの手伝いくらいしか出来ないのに、飯まで与えてくれるなんて、ホントにすまん」
「バカを言わないで。仕事中に空腹で倒れられたら困る。だから与えてあげるだけ。感謝するなら、依頼主に感謝しなさい。そんなゴミみたいな飯なら、いくらでもどうぞ」
そうだ。私が他人に親切なんてするはずもないし、しようと思った事は今までに一度もない。確かに恩を売っておけば、何かが返って来るかもしれない。だが、返ってこなければ骨折り損である。人間は他人に頼らずに生きていけるのだから、出来る事は自分だけでやるべきなのだ。ちなみに今回、私は面倒臭いと言う理由でコイツ等に手伝ってもらう。面倒臭いって言うのは、私にとってこれ以上に無い理由なのだ。
「はは。それでも感謝はさせてもらうさ。俺らホームレスにとってカビパンもステーキも似たようなもんだ。育ち盛りの子供には少ないくらいだがな」
「強請るんなら、骨と皮しか残ってない子供でも引っ張って来なさい。インスタントラーメンならくれてやるわ」
いや、冗談のつもりだったんだけど。まぁ、今回の収入を300万と考えれば、手元に8割くらいは残るだろう。勿論、電気代と自分の食費を合わせての出費だから、8割残るのは確実だ。
「ほら。食事が終わったら、仕事開始。食べた分はしっかり働いてよ。それから経費削減の為、一人につき自動小銃一つずつ。弾は倉庫にあるから、十分の一までなら使ってよし。銃で身を守るにしろ、私を援護するにしろ、絶対にヘマはしないでよ。何しろ、私の武器は、六連発リボルバーとカギ束だけなんだから。それに、アンタ達が死んだら私に全責任が吹っかけられる」
そう言って、私は公園の入り口に立てかけておいたバイクに跨った。
ほら、神様ってのは随分と不平等だ。今頃になって、槍の様な雨と木を根こそぎ持っていきそうな風が吹き荒れている。こうなってはキリストの像を燃やすだけじゃ、飽き足らない。今は、近くにある教会や聖母子像をぶち壊したい気分だ。
と、キリスト教徒に言ったら、きっと私は袋叩きにされるだろうし、もしかしたら教典で頭を撫でられ、哀れんでくるかもしれないだろう。
だから、今は胸の中にそっと仕舞い込んでおこう。あとで、キリスト信者が居ない場所でこの怒りを思いっきり、ぶつければ良い。
話が逸れた。つまり、私は荒れ狂う雨と風の中で仕事をしようとしている。こんなバカらしい話は無いが、もう此処まで来れば仕事をしなければいけないし、面倒臭いとか何とか言ってる暇も無い。
あと一歩を踏み出せば、東京の千代田区。一瞬にして永遠の戦場の中心となった、いや今でも戦場であり、この世で一番と言っていいほど、不発弾と死体が埋まっている場所。
全ての街が溶けていったのに対し、こちらは崩れていったのだ。爆風と炎の中で何人の人間が苦しんだだろう。
ある意味、永遠の平穏を「負け取った」街では無いだろうか。
「いつ来ても静かな街だ。今度、インスタントラーメンとサブマシンガンを持って、ピクニックでもしにこようかな」
そんな事をやっては、政府軍から良い標的にされるだろうな。罪名は武器不法所持と無断外出罪ってトコだ。と言っても、今のご時世は一般人でも自動小銃と手榴弾くらいは持ってる。流石の私でも、戦場の真っ只中に丸腰で放り込まれたら、両手を挙げて下着姿になってでも降伏して、必至に命乞いをする事だろう。
つまり今は、そう言う時代なのだ。いつ、どこで、何をしているときに銃弾が飛んできて頬を掠めるかもしれないし、運が悪ければ頭を撃ち抜かれ、頭の中を地面にぶちまけたうえに清掃員に多大な迷惑を掛けることになる。
運が良くて、一丁でも銃を持っていれば撃たれる前に、コッチから撃てば痛い思いをする事もないし、清掃員に迷惑も掛けなくて済む。
なんで、戦争をしているのに律儀に憲法第9条とやらを守っているんだ? 武器を持っていなければ死ぬって場所で、丸腰のまま平和を主張している社民党や、この戦争を支持したまま沈黙している自民党と民主党の頭の中はどうなってる。
「と、政治家の批評を戦場でする少女って、結構絵になるんじゃないかな?」
一人なのは分かっているけど、一人だから余計に独り言が言いたくなる。面倒臭い仕事の前は特に多くなるし、今回は格別だ。仕事の舞台が此処である事、それが既に面倒くさいってのを逸脱して、やりたくない。と言う感情を私に持たせている。
「ホントにココに逃げ込んでるの? これ、どう見ても女の子だし」
昨日貰った写真には、美少女と言って良いほどの容姿を持ちながらも、お嬢様という感じではなく、カメラに向かって花でも咲いたような笑顔を向けている。こんな笑みを向けられては、日本中の男共は2秒と経たずに卒倒してしまうだろう。ついでに茶色に染められた髪(もしかしたら地毛かもしれない)も私のように傷んでおらず、艶があり、肩口辺りで切り揃えられ纏めてある。
「ま、こんな所を歩き回るのは変人か異常者か。或いは、よっぽどの世間知らずか」
どっちにしろ、私の縄張りに無断で入り込んだのだから、腕の一本では済まさない。ああ、これ以上何もせずに棒立ちしていると、頭がおかしくなりそうだ。
「じゃ、援護は頼むわよ。ドブネズミさん達」
余程の事がない限り、援護は要らないけれど。私は、自分でも聞こえないような音量で呟き、一丁の銃とカギ束を持ち元ビル街の方へと走り出した。
――雨が降っていた。
ああ、何故こういう時まで神は私を妨害してくるのだろうか。簡単な状況説明をすると、富士の樹海、もしくは磁石が大量にばら撒かれたサハラ砂漠の真ん中に、ポツンと立たされた状態。
つまり、単刀直入に言うと……迷った。いや、間然にという訳ではなく、出口は分かってるし、私が立っている場所も完全に把握できている。それに、単に道に迷っている訳じゃなくて、脳内で迷っているのだ。
飛び交う銃弾の中へリボルバー……たしかS&Wと言ったか。これだけで、突っ込んで行くかどうか。常人なら飛び込まずに、動かずジッとしているか、逃げ出す。異常者なら喜んで突っ込んで行き、身体を穴だらけにされてカラスに食べられる事だろう。
生憎と私は前者であるし、この年で死のうとも思わない。まぁ、標的の少女が追いかけられてると言うなら、飛び込んでやらない事も無い。
いやホントに嫌な予想というのは良く当るというものだ。もし過去に行けるのなら聖母マリアと一緒にキリストの頭に無反動砲を一発打ち込んでやる。
「こんなに仕事熱心な私に、幸運の女神が微笑まないのは何でかな」
愚痴っている暇も惜しい。このまま殺されれば、私が漁夫の利を得られるが、もし連れて行かれたら私が2年間で作り上げてきた信用が無くなってしまう。それだけは困る、絶対に阻止しなければならない、お風呂と湯沸しポットの為に。
「どこの軍だか知らないけど、私の電気代と食費は渡さない!」
その言葉は鳴り響いていた数多の銃声を切り裂き、それと同時に放たれた一つの銃弾は軍服を着て機関銃を構えていた兵士の頭に当たり、それだけだった。
そんなの初めからわかってた事で、機関銃とリボルバーでは話にならないというのも百も承知である。今の状況を想定していなかった訳じゃないし、打開出来るとも思わない。
それでも、これは多過ぎでは無いだろうか? たかが、少女一人に数十人の軍人を集めるのかアメリカ政府っていうのは。なにやら、英語で会話しているようだけど、私にはサッパリ分からない。自慢では無いけれど、私は英語と数学の成績は赤点しか取った事がない。こういう時はアレだ。
「ここは私の縄張りだ。五秒以内に武器を置いて、立ち去れ。もし、私の言葉が分からないのなら、大人しく制圧されろ」
もう、5秒もいらないだろう。あと、10人くらいなら、8人くらい殺してしまえば、直ぐ怖気つくだろう。そのあと、残っている奴等の間を抜けて路地裏へ逃げ込む。うん、我ながら完璧なプランだ。さっき殺した、地面に倒れている人間の抜け殻を足で転がす。
「これが一人目」
硝煙の残り香が漂う中、撃鉄が上げられる音と引き金を引く音が続けて耳に入る。そして、瓦礫に隠れていた男の胸に当り、その衝撃でアバラ骨が砕け、骨の破片と血と中身がアスファルトに流れた。
「はい、これ二人目ね」
次は路地裏の入り口で呆然としている二人のうち一人。別にどちらでも良かったのだが、私が撃ったのは左の男の首。突然撃たれて、訳が分からなかったんだろうか、バカみたいな顔のまま、首から上だけが地面に転がった。
流石に、三人目の犠牲者が出ると固まったままだった男達が慌てて機関銃を構え直す。此処からは楽じゃないし、面白く無いだろう。きっと、肩とかも撃たれて血が出て痛いんだろうな。ああ、それでも私は笑っている。コレが楽しくなくても、面白くなくても、私は笑っている。それが当たり前なのだから。
「やっと起きたのか? じゃあ、私は逃げるとしよう」
アメリカは、よく此処まで良い兵士をかき集めたものだ。私を囲んで、一斉に引き金を引いてくれるなんて、私は銃撃が始まる直前に、壊れたビルの壁に沿って上へ駆け上がった。悲鳴と大量の血が当りに飛び散る。
まだまだキリスト様も私を見捨てては居ないらしい。それでも、何人かの兵士は残るだろう。ビルの上とか、崩れ落ちた建物の中で待ち伏せしているのが居る筈だ。どうせ全員、民間兵だろうけれど、これだけじゃ足りない。
もっと欲しい、もっと必要だ。だって私は壊れなければ、壊されるしかない。だから「もっと血の匂いが欲しい」私がどうなろうと構いはしない。壊れるだけ壊れてしまえば、気が楽だ。何人、人を殺してもすぐに日常に戻れるし、平静を装える。
もうすぐ血で溢れたコンクリートに足が付く、そうすれば上からか斜めからか、銃弾が撃ちこまれるだろう。そうすれば、隠れている奴等の位置が完全に分かる。あと、少しで此処は血と雨の匂いで充満する。今はそれだけが楽しみでならない。
足が地面に付き、少し遅れてから何発の銃弾が降って来る。一発が頬を掠め、皮を破り血が流れる。それでも、関係ない。撃たれたのなら、撃ち返すし、撃ち殺されそうになったら撃ち殺す。そう、自分の中で割り切っている。
「今度は性能の悪いライフルじゃなくて、ビル一つ吹っ飛ばせるランチャーを持って来い」
再び壁伝いに上へと進む。今度は落ちずに上へ上へと。十メートルほど上った所で壁を蹴り、地上と水平になった身体のまま引き金を引く。ああ、青空だったら、どれだけ心地良かった事だろう。そして、また新しい血の匂いが漂い始める。あと一人撃っておきたいが、もう地面が近づいている。
身体を反転させる。ソレと同時に背骨が軋み、微痛が走るが体勢は崩さない。そして、膝をクッションにして崩れたアスファルトの上に着地する。あと5人残っている。
もう次で終わりにしよう。
「五人目」拳銃を右手から左手へ。
ビルの上で逃げようとしていた兵士の後頭部に穴が開いた。
「六人目」そして、また戻し。
その横で、男を制止しようとしていた兵士の側頭部に銃弾が当り、微かに頭蓋骨が砕ける音が聞こえた。
「七……」
撃鉄は下りた。下りたが、音だけが虚しく元ビル街に響き渡った。ああ、格好をつけすぎて弾切れのことをすっかり忘れてしまっていた。これでは格好の標的になってしまう上に、何かに八つ当りも出来ない。まさしく、四面楚歌の八方ふさがりといったところか。
幸いな事に、銃口を向けた男だけは腕を目の前にクロスさせ固まっている。うん、逃げるのが一番良い。そうだ、そうしよう。
「って、逃げたら撃ってくるのは当たり前か。やっぱり、マシンガンかカラシニコフを――っ!」
動いた瞬間、問答無用で撃たれた。だが、足元に突き刺さっただけ幸運だと思おう。相手が洗練された兵士なら、威嚇ではなく、頭をぶち抜いていた。これに限っては神様、いやアメリカ様に感謝と言った所だろう。
「わかった、撃たないで欲しい。私は降参しよう」
私は両手を挙げ、弾切れの銃とカギ束を下に捨てた。今の状況で、弾を篭め直そうとは思わない。銃弾が降って来る中で、ポケットの中から弾を取り出すのは、よっぽどの死にたがり屋か或いは、とち狂った新米兵士くらいだ。
相手は私が思っていたよりも、すんなりと銃を引いてくれ、3人全員が私を囲うように出てきてくれた。
「ありがとう。日本話が分かる人たちで良かった。お礼ついでに言っておこう」
私は、死にたがり屋でも狂ってるわけでもない。ついでに、とんでもなく面倒臭がりやだ。だが、面倒な事に私は負けず嫌いでもある。
「生き残りたいのなら、援軍と言うものを覚えておけ」
銃声が四つ、うち三つは私の周りを囲んでいた三人の額や胸にあたり、新たな血の池を生み出す。そして最後の一発はというと、モノの見事に私の右頬を掠め地面に落ちた。
あと1センチずれていたら、私の口の入り口がもう一つ増えていたことだろう。もしそうなっていたら、一生外に出られなくなっていた。まぁ、贅沢は言えないので何も言おうとは思わないけれど。胸のうちだけで、私を撃った奴を銃殺しておこう。それにしても
「少し遅くないか? もう少し早かったら私は恥をかかずに済んだし、肌も傷つく事はなかったんだが。ねぇ、倉谷さん」
ついでに、疲れることも無かったろうに。
「すまんね。黒いコートを着た酒臭い男に道を尋ねられてたんだ」
「……シロか。アイツはまた首を突っ込む気だな」
「撃ち殺した方が良かったか?」
「いや、良いから放っておけ。状況が悪くなることは無い」
私は欠伸が出そうなのを我慢しながら、裏路地に向かい歩き始める……何かおかしい。
今まで横たわっていたはずの死体が、異様なほどに減っている。それどころか、血の池も無くなって、変わりに黒いシミだけが残っていた。そこに何事も無かったかのように雨が落ちてくる。
どうやら、思ったより危ない状況のようだ。得体の知れない敵に、素手で立ち向かおうとは思わない。空になったS&Wに、散弾銃の弾を篭めていく。
「裏路地。しか、ないよね」
「まあ、普通はそうなんじゃね?」
自称ホームレスの倉谷さんは、身長の八割程ある機関銃を片手で構えた。なんと言うか、いつ見ても無駄に力が強いと思う。
「銃刀法違反で逮捕されるぞ」
「見られてないから、ならないの」
「……おい」
私の恨めしそうな声が、聞こえているのか聞こえていないのか、倉谷は機関銃の安全装置を外した。今までも何回か、この機関銃は見ているが種類が全く分からない。
トンプソンでもなければ、H&Kでもない。どちらかと言うと、トンプソンに似ているだろうか。それにしても、異様にでかい。
「それ、目立つんじゃない。それに、狭いとこじゃ使えない」
「はは、俺のハンプティ・ダンプティは特別製でな。百メートル離れても、ゴキブリ駆除が出来るんだ」
また、随分とナンセンスな名前だ。
「くれぐれも、ゴキブリと間違えて私を撃たないでくれよ」
雨が降っている。
路地裏に入り私たちの目に入った光景は、余りに凄惨で滑稽だった。こんな事、一体誰が予想できるだろう。私は目の前にいる標的の事も忘れ、目の前の光景に釘付けになっていた。その少女が、いやコレは少女と呼べるのだろうか。とにかく、その人間が人の死体を喰らっていた。傍らには、腕が一本もがれた死体が一つと、それも、微かな笑みを浮かべながら。
気付けば、私もつられて笑っていた。
「食事中ごめん。すこし、話をしない?」
普段なら、頭に撃ちこんで終わらせてしまえばいいのだが、こいつは別格だ。
「……そこ、危ないよ」
返ってきたのは、少女の声ではなく、未成熟な男子の声。それに驚く暇もなく、まして銃を構える暇もなく、「彼」の接近を許してしまった。
血を浴びて、ますます白さが際立った肌が私の目を覆い、そして抵抗するまでもなく、そのまま横倒しにされ、脇腹と鳩尾に殴られたような痛みが走る。
起き上がろうにも、少年の力は強く、腕を上げる事すら出来ない。私の前にいた倉谷も、呆然と後ろを見て突っ立っている。
そのバカに罵声を浴びせようとした直後、私の横を横嬲りの銃弾の雨が通り過ぎた。
「オジサンは別ルートで逃げて! この子も後でちゃんと返すから」
少年の声が引き金となり、三人と多数の命がけの鬼ごっこが始まった。
いや、性格には倉谷の方へ行ったのは数人で、あとは全部私たちの方に向かってきているのだが。
「おい、何で私がアンタの行動しなきゃいけないんだ?」
「あはは。ゴメン、今考えたら僕と一緒にいるほうが危なかったかも」
人懐っこそうな笑みを見せるが、初めて見たときの血塗れの印象が強すぎるうえに、顔に血が付いたまま笑われても、逆に恐い。
溜息を一つ。今度は、きっと訓練された奴が居るんだろうな。そう思うと、頭が痛くなりそうだ。やっぱり、金に釣られるのは良くない。今度からは、安い仕事を選ぶかな。
頬の横を一発の銃弾が掠める。
「えと。どうする?」
「とりあえず、逃げる。でもって、アンタ吊るす」
「いやいや、過ぎたことを引き摺るのは良くないって」
それもそうだ。よし、気が変わった。
「お前を縛って向こうに渡す」
「やだなあ。こういう時は、何て言うの? 同じ穴のキツネ?」
それを言うならムジナだ。
言う前に、右斜め前の通りから五人。銃を構えて、飛び出してきた。
本当なら、もう終わっているはずなんだ。あの時、コイツの頭を撃ち抜いていれば、今頃は缶コーヒーでも買って、実に良い気分で家路につけたはずだろう。
「……私としては凄く嫌だし、不快でむかつくんだけど。とりあえず、妥協してあげる。途中までは、自分の足で進んでよ」
「え、あ。はい」
私は水溜りの手前、足に急ブレーキを掛け、その勢いで脇に立つ廃ビルの壁に足を掛ける。そして、辛うじてある様な溝に爪先を乗せ、上へと駆け上がる。途中にある窓枠の出っ張りや、水気を含んでいる歪な穴に足を預け、出来るだけ上へ上へ。
七階付近まで辿り着いた時、とうとう膝が限界に達し悲鳴をあげる。だが、まだ休ませはしない。まだだ……あと十歩いや六歩だけ「登らせて」欲しい。
そう言い聞かせ、登り続ける。三歩、四歩、五歩……もう充分だろう。そして、私は目を白黒させている少年の身体を窓ガラス越しに、中へ放り込んだ。顔に雨が当る。
思えば彼も良くやったものだ。普通なら対応しきれない、この状況で私の命令を忠実に聞き、従ったのだから。うん、教育すれば良い使い捨ての助手にはなるかも知れない。
だが、そんなことを考える暇もないまま、足と言う支えの無くなった私の身体は自由落下を続け、逃げ場所から遠のいてしまう。上から、砕けたガラスの破片が降り注いでくる。しまった、開いてるはすが無かったな。
少し罪悪感を覚えながら、右手に持ち替えたS&Wの銃口を下向きに構える。そして、銃声が鳴り響き、壁に大きな溝が開いた。
左手でそこを掴み、ようやく落下運動を止める。
下の方から、小さくチェックメイトと言う声が聞こえた。ああ、確かにその通りだ。
「忘れてない? 此処は私にとっては、庭と同じようなものだし、何より優秀で忠実なペットが居る。ま、せいぜい」
頑張りなよ。と、言う前に何発かの発砲音が聞こえ、あっという間に下にいた迷彩服の兵士共を肉塊へと変えていく。
それを一瞥し、私は左腕の力だけで彼を放り込んだ窓際まで跳躍した。
ガラスが散らばる部屋の中でぐったりと横たわる彼が居た。
「で、生きてる?」
「……辛うじて」
「なら、大丈夫ね。質問するから、短めに答えて」
彼は額から流れている血を拭い、コクリと頷いた。
「なんで、あんなのに追いかけられているの」
「いや、ね。僕って結構、女顔でしょ? だから女装して、男の人を騙しながら金とか集めてたんだけどね。ちょっと相手を間違えちゃって、ね?」
ちょっと間違えて、アメリカ軍に喧嘩を売ってしまうとは、つくづく運の無い奴だ。
私なら、日本人のある程度、金を持っていそうな奴を騙して生計を立てるだろう。生憎、ハイリスク・ハイリターンは好きじゃないし、面倒事は嫌いだ。
適当な金を奪って、適当な飯量を摂取できれば満足なのである。
「ん、バカね。じゃあ、次にアンタが人の死体を喰っていた事について」
彼の方がびくりと震える。だが、すぐに愛想の良い笑みを取り戻した。
「大した事無いよ。ネコがネズミを食べるように、君達が牛や豚を食べているように、僕はアレを食べていただけだ」
彼は平然と言い、綺麗に整った髪をクシャクシャと手で撫でる。言っている事が、まるで分からない。なんと言うのだろうか、人を目の前で殺されて「なんでもない」と言われているような……いや、なるほど私と同じ■■■か。
私は両手を結び、鼻にそっと当てた。
「それから、君は勘違いしているようだけど。僕は、此処に昔から住んでる人間だし、君のような■■■でもない。でも、君と違う訳じゃない」
「なら、アンタは実験の成功例と言う訳ね。それとも、私の標的とは違う、見当違いの人間という事?」
私と少年の話が、噛み合わさっていないのは分かる。だが、現に話しに支障が出ていない。呆れて溜息も出ないと言うより、感心して反論も出来ない。
ああ、コレが雰囲気に飲まれると言う事か。と、私は自己完結し、ようやく溜め込んでいた息を吐き出した。外では、雨が屋根を打つ音が聞こえる。
「もういい。アンタと会話しても疲れるだけだ」
私は気だるそうに、力の入らなくなった手をふらふらと振った。左手に握っているカギ束から一本、他とは別の感触のカギを抜いた。
「あ、もう一つ君が勘違いしてる事。僕らを襲ってきたのは、軍人じゃないよ。うん、言うなら君と同じ■■■」
それは明らかな矛盾。
彼が言い終わると同時に、部屋のドアが開き、間髪居れずに三度の銃撃が始まり、そして止んだ。いや、止んではいなかったものの、私たちには当らなかった。
ただの一発も、辺りで破損している壁の残骸でさえ、私たちの横を掠めず通り過ぎる。
その状況は把握できないものの、私は部屋の片隅にあるロッカーに向かい走る。絶対に銃弾を信じて、その結果として私は何発かの銃弾を背中に浴びる事となった。
今まで、当らなかった事が不思議だった――背骨まで届いた弾は何発だろうか、全て貫通しただろうか、お腹から血が流れている。これは流石に、死んだだろうか。本気でキリスト殴りたい――バカみたいな感情だけが溢れてくる。それでも、私はロッカーの前まで辿り着き、左手の中指に掛けていたカギを鍵穴に差し込んだ。
板の裏で、音がする。いつの間にか、私の方に銃弾が飛んでこなくなっていた。
代わりに、腰の辺りに柔らかい感触が。
「大丈夫? ダメだよ。僕から離れちゃ」
そして、へにゃりと平和呆けしたような笑顔が、そこにあった。
「バカ! 抱きつくな。これ以上、私に穴を空ける気か」
「大丈夫。君と僕には絶対に「当らない」し、君の傷も「ありえない」から」
彼の言葉は、当っていた。一発も銃弾を浴びなかったし、いつの間にか背中の激痛も消えていた。だが、頬の掠り傷は治っていない。
私は、動揺を無理矢理に押し込めて、窓を蹴破り下を見た。そして舌打ち、私はロッカーの中から、在るだけの銃器を取り出し、床に置いた。
「大丈夫。君は「死なない」よ」
そう言って、彼は私の手首を掴み、その腕の細さではありえない力で、私を巻き添えに窓から飛び降りる。
不思議と恐怖は感じなかった。迫りくる地面、圧し掛かるような重力、それでも私は笑っている。確かに私は、その状況を楽しんでいた。
だが、それを邪魔するかのように、下では何人もの人間が銃を上に向けて、こちらを睨んでいる。それと同様に、ロッカーから抜き取った、旧式のサブマシンガンを下へ向ける。
「ありがとう。アンタに、感謝する。今日――は、とても、良い日、だ」
雨が顔に当る感覚でさえ、下へ落ちていく恐怖さえ放り捨て、私は全ての弾を人の絨毯の上に撃ち込んだ。雨と血の混ざった臭いが、こちらまで漂ってくる。
それすらも、心地良い。そして二つの身体は、肉のマットの上へ落ちた。
「改めて、よろしく。私は葉月己家どう呼んでも構わない、けど」
私は手を掴んでいる彼の手を振り解き、睨んだ。
「私は、他の奴の臭いが付くのが嫌いなんだ」
だが、そう言ったのにも関わらず、空に投げ出された手は、再び私の手を掴んだ。
今度は、手首ではなく手の平を包むようにして。
「夜野住人」
彼はそう言って、私の正面に立ち微笑んだ。そして、再び手が空に舞った。
「話がしたい。どこか安全な所に行こう、ヨル」
彼――ヨルが不思議そうな顔をしている。
「私、記憶力悪いから。それで良いでしょ」
横から、クスリと笑う声が聞こえる。そして、また手を握られた。
……不思議と嫌な気分は無かった。
まだ、灰色の雨は止まない。
読んでいただき、本当にありがとうございます。
まだ展開はしません。
次話からドンドン展開させていく予定です。