十話
遅くなって申し訳ない。
期待してくれた方々、何度謝っても足りないくらいです。
いつの間にか、周りの冷たい喧騒は鎮まっていた。
私は霞んでいる目で間に立つ倉谷を見る。
「よし、それで良い。ここは俺が預かろう。あーストップオーケ?」
横に目を向ければ、相変わらず髭面の親父が卑下た笑みを浮かべ、血の海に立っている。
手の向こうに、愛用している銀光を帯びた銃が見えた。もう、持つ気力は残っていない。
と、いうより。もう、撃つ気になんて、なれない。
がちゃりと、鎖の落ちる音がした。違う、あれは撃鉄を引く音。遠くから聞こえる。
木のテーブルが軋む。違う、あれは引き金を引く音……逃げる? どうして。
このまま、堕ちてしまえばいい。もう銃が持てないのなら、もう人が殺せないなら、私がこの地を踏んでいる事は、まるで無意味なのだから。だから、私の居場所は要らない。
これで良かった。多分、きっと。こぽりと言う音と共に、血が顔に張り付いた。
いつも感じている、生温かく心地良い液体。それが目の前で横に滑った。
あまりに呆気なく、その色は地面に落ち花を残す。乾いた笑い声が自身から漏れ、生温かい空気に白を作った。目の中が焼けたように熱くなる――開いてはいけない。
何かが、膝の上に落ちてきた――見ては、いけない。
「殺さないって、言ったからね」
頬の上で糸状の動く物が暴れている。冷たく、針金のような物が這っている。
「だって君は。僕と同じ」
――『夜の住人』
思考が赤い海に沈んでいく。指を動かす、赤が濁る。目を開く、赤が濃くなる。
浮上は出来ない、沈むだけ……いつの間にか、何かに手を当てていた。そっと撫でてみると、それは温かな熱を帯びて、私の手を触った。もう一度触ろうとすると、それは後へ逃げる。追う様にして、私は前へ進む。泳いでもいない、歩いてもいない。しかし、進む。
そして、私はその肩に手を伸ばした。弾くようにして、向こうが振り向く。
黒い、黒曜石の色をした絹糸が私の睫毛を掠める。キンモクセイの香りが鼻を擽り、氷を打ったような綺麗な音色が耳に届く。そして、無邪気に笑う少女の笑顔が眼に写った。
それは見慣れている顔。また乾いた笑い声が零れる。きっと、私は壊れている。
首に腕を回し、抱きしめようとした瞬間。彼女は崩れるように消えていった。
その残滓は赤に流されて、散っていく。その様子を私は無言で見守った。
黒い点が視界を遮る。染みのように汚れた黒が大きく、小さくなりながら上下する。
――邪魔だ。
手を伸ばし、親指を架空の撃鉄に掛け、人差し指を曲げる。ガチリと鉄が噛み合い、手の平から熱が遠ざかる。手首を固定し、息を止め黒い点を睨み付けた。
聞き慣れた、心地良い破裂音は身体に染み渡り、赤い海から引き揚げる。
「ああ、やっと」
――やっと此処に、この場所に。
「帰ってこれた」
向こうで黒い人影が、赤い液を散らし地面へ花弁を落とす。
手には持ち慣れた冷たい感触。目の前には、腕が爆ぜた部分を虫で修復しているヨルの姿が写る。ああ、なんて懐かしい。手を伸ばそうとするが、足が動かずに彼の背中に抱き付くような風に倒れこんでしまう。温かい感触が身体に走り、腕を首に回す。
「まだ、使い方が良く判らない」
整った顔から、クスリと小さな笑みが零れ、手首を包まれる。
不意に何か布のような、水のようなもので目を覆われる。あの、赤い空間が広がった。
また、幾つかの黒い染みが揺れている。それを獲物を狙うネコの様な目で追いかけ、そちらの方へ手を誘導される。そして、重なった手に圧迫感を感じ、指を引く。破裂音がした後、黒い染みは潰れて赤を濁していく。そして、何も無かったように溶けていった。
さ、もう一回。そう後から言われ、私の身体は彼から外される。
手が離され、視界が元に戻る。擦り抜けていった温もりを愛しく思う暇もなく、私は再び目を閉じ赤い海に身を沈める。黒い染みの幾つかが、八方に揺れた。それに焦点を合わせ、弓の弦を引くように赤い線を伸ばす。早まっていた呼吸を整え、トリガーを引く。
黒い染みがブレて、逃げるように大きく横に揺れる――外した。
「追わなくてもいい。目じゃなくて、空気だけで捕らえられるから」
今度は目を閉じ、頬を撫でている絹の先を狙う。
また、手の甲に柔らかな感触が広がった。水が弾ける音と一緒に、赤が濃くなる。
「記録ディスク、消失してもたヨ。運悪かった思うしかないネ」
遠くから、聞きなれない声が響く。
「それは、仕方ありませんわね。別に良いでしょう、それでも十分の一は入ってきます」
ああ、そう言えば変な二人組に絡まれていた気がする。少しずつ頭の中がクリアになっていき、今の状況をようやく把握した。懐かしいような、ずっと見てきたような微笑が横目に写っている。目があった瞬間、布のような白い手で髪を撫でられ、瞼が落ちた。
すると、彼はクスリと笑い、手に髪を一房掴んで口付ける。まるで、昔読んでいた絵本の王子様のようで、あまりに似合っていたから、思わず笑いが込み上げてしまう。
それを察したのか、彼は拗ねたような表情で私を正面から見据えている。私は彼の真似をするように、その茶色く跳ねた毛を手で梳いた……さっきから周りの視線が強くなっている気がする。
「……仲が良いとは思っていたが、うーん。恋すると性格まで変わるか。父さん悲しいぞ」
「誰が父親?」
――掠っただけか。少し、腕が下がったかな。
「ん。さて、と。放ったらかしにして御免なさいね。ヒゲの人」
「素晴らしい。すばらしい、すばらしい! いや、まったくだ」
振り向いた先には、その丸まったヒゲを揺らしながら馬鹿笑いをする、あの男。緩んでいた手から、銃身が抜けるようにして地面へ落ち音を立てた。握力、弱くなってる?
どうやら、日本語は通じるようだが、どうにも普通の話し合いは出来そうも無い。まあ、いきなり頭を貫くまでも無さそうだし、後で縛って尋問なり拷問なりで口を割らせるかな。
その意を察しているのか、ヨルが横で苦笑いをしながら、私が落とした銃を差し出してくる。ご丁寧に撃鉄まで上げてくれている上に、新しく弾も装填してくれているようだ。さっき持ったときより、少し重たく感じる。その銃身を上へと掲げ、指を引いた。
あの狂信者に聞こえるように、その腐って虫の巣食った脳髄に響き渡るように、地面を打ちつけるような轟音が響く。火薬を目一杯使った弾薬なのだから、コレが聞こえない奴は耳が無い奴か、幻聴の酷い奴くらいだろう。目の前の男は、後者だったようだ。
ひたすら、見えない何かを褒め称えるように、賞賛の言葉を繰り返し、口の端から泡が出ても拭おうとせず、ただひたすら飛び跳ねながら踊り狂っている。まるでナチス時代にヒトラーの後を追っていた兵士たちのようだ。といっても、誰も文句を言わないだろう。
段々、向こうも息苦しくなってきたのか、笑い声も途切れ途切れに鳴っているが、何故か空気を求めようともしない。車のボンネットの上で見物していたネイが大きく息を吐く。
まあ、こうなったら、聞き出せそうにも無い。撃ち殺してしまっても良いだろう。
舌を垂らしながら、だらしなく笑っている男の頭に標準を移す。が、それをヨルの手に遮られ、文句を言おうとした瞬間、横を擦り抜けて男の前まで駆け寄って。
「ねえ。ちょっと話あるんだけど。聞いてよ」
はみ出ている舌にナイフを当てていた。
「この虫、此処に落としたのってアンタなの?」
舌から赤が混じった涎が垂れ、それでも男は笑っている。
「ミケちゃんに植え付けたのもアンタ?」
当てていたナイフに、ぬめりとした舌が這う。その隙間から笑い声が漏れて、消えた。
「じゃ、良いよ。こっちに聞くから」
笑い声が漏れていた口の中に、ナイフと拳がズプリと沈み込み、地飛沫と共に引き抜かれる。白い虫が数匹ほど零れ落ちて、その衝撃で水を吐き出しながら弾け飛んだ。
肉は普通の人間の半分に減り、骨は溶けたかのようにスカスカになっている。血はまるで、人の血では無いような薄い桃色に変色していた。その水溜りに、死ななかった虫たちが群がり、皿に注がれた血を見せられた吸血鬼のように、必死に争い啜っている。
ヨルは、その中の太って丸くなった虫を手に此方に戻ってきた。そして、車のライトに背を乗せていた例のストーカーの元へと歩み寄り、その首筋に虫を乗せると川を食い破り、中へと潜っていく。勿論、その様子を間近で見た倉谷は昏倒寸前だ。まあ、気絶しなかっただけ良い。
「これは、どうなるのですか?」
「この虫は、記憶を腹に溜めてる虫だから。人に移れば記憶も移るんだよ」
「脳を操作するカマキリの寄生虫みたいなもんやネ?」
そんなものなんだろうか……まあ、それが一番近いんだろうけども。
びくり、と虫を入れられた男の頭が跳ね上がった。多分、脳髄を食っている最中なのだろう。首筋のあたりが盛り上がって、傷口から白い液が漏れて背中伝いに筋を作っていた。
「っていうか、ミケちゃんの知り合いなんだっけ。今更だけど、良いの?」
「べつに。しつこい追っかけが居なくなって嬉しい限りよ」
それに、コイツに対する記憶が記録になってしまっている。いつ、そうなったのかは分かっているけど、何故そうなっているのかは判らない。とにかく、私は彼が弄られている事に何の感慨も浮かばないのだから、それはそれで良いのかもしれない。きっと、私の記憶は白紙に戻されたのだと思う。でも何故か、倉谷の事は辛うじて、頭の片隅に残っていた。色濃い記憶は留まる、と言う事でもないのだろう。
それなら、ストーカーの事も覚えていておかしくは無い。私の記憶が本当に虫に食われたのなら、今の私は誰の記憶を使っているのだろう。見たことの無い少女か、野菜を打っているオジサンか、それとも動物か……ネコ。暗い路地裏から、ネコの鳴き声が聞こえた。
そちらへ、駆け寄り両角を見るように目を泳がせる。いた、灰色のネコ。首輪、してる。
抱きかかえようとすると、爪を立てられ唸られた。そして、地面に下りると元いた場所で蹲る……頭の後ろが弾けた三毛猫を、大事に抱えながら――目を閉じた。
もう一度、触ってみる。今度は威嚇される事無く、首に手を回すことが出来た。その場から、少し動かして三毛猫の身体を見ている。まだ、胸の部分は微かに熱を帯びており、先程まで生きていた事が分かった……この仔、なのだろうか。だとしたら、悪いことをしてしまった。ふと、目を開けた灰色のネコと目が合う。その目は黒く透き通っており、微かながら懐かしさを覚えた。
このままにして置いてあげようか。そう思って踵を返したのだが、灰色のネコはいつの間にか私の足元に擦り寄ってきた。ネコは気まぐれと言うが、あの三毛が可哀想だろ。
そんな事を言っても、ネコに分かる訳が無い。まるで、あの三毛猫と思っているかのように、彼は私の足に尻尾を巻きつけながら付き纏っていた。思わず、溜息が出てしまう。
仕方ない、別にあのマンションに制限も無い訳だし、飼ってみるのも良いかな。
――ヨルも流石にネコには嫉妬し無いだろうし。
「ミケちゃーん。こっちは準備オーケーです」
「っていっても、言葉が判らないのでは意味が無いでしょうに」
ヨルの間抜けな呼び声を追うように、ネイの上品な突っ込みが入る。
まあ、元がドイツ人だしね。分からなくて、当然だと思う。
横に人形のように転がった頭の口からは、ドイツ語らしき発音が延々と流れている。その横には首の無い、だがコードのように伸びたタンパク質の糸で、首と繋がっている胴体が足を伸ばした状態のまま放置されている。もし、このままの状態で意識を取り戻したら。
その前に信号伝達が出来てないから、痛覚も感じないのだろうけど。
紙一重、藁一本で繋がっている胴体に、倉谷が手を乗せた。
「シロの姉さんに聞いたら、分かるんじゃねえの? 医学習ってるんだろ?」
確かに、あの部屋には医学の本が何冊かあったけれど。あんな人が、ドイツ語読めるのか少し心配なんだけど。
「あら。貴方達はシロさんをご存知なのでしょうか?」
なんか、あんまり驚けないのはシロ関連だからって思いたい。
あいつが、総理大臣と知り合いだと言われても信じれるくらいだ。何せ、裏で色んな事してるって噂が何処からとも無く囁かれてるし、数年前は数億くらいの金を騙し取って、そこの会社を買収したと……ちなみに、この時は私も横で見ていたので正確な情報だ。
それもノートパソコンと携帯電話と公衆電話だけを使い、手の上で躍らせていたのだから、かなり巧妙な手口だったんだろう。機械音痴な私には何をやっているかは、分からなかったけれど、すごい事をやっている事は充分に分かったし、彼が裏に通じていると言う事は私が保証できる。あいつも、大人しかったらコート以外は普通の男なんだろうけども。
ま、話も進めなきゃいけないし。
「取り敢えずは知り合いよ。それで、アンタ達は?」
「雇われたのですよ。貴方の記録ディスクを持ち帰るように、と」
――記録ディスク……何それ? まあ、よく判らないのは昔からだし、別に良いけど。
私は頭を手に取り、倉谷に投げ渡す。白い糸はゴム状に伸びて、切れる事はなかった。
「それじゃ、行きましょうか。リンが運転――で良いわね?」
立ったまま気絶している倉谷を除き、ほぼ全員が頷いた。
やっぱり、肝を鍛えてやったほうが良いかもしれない。私は助手席のドアを開け、シートへと腰を降ろす。その後を追うようにして、灰色のネコが私の膝に座った。
このネコの名前も、そのうち考えないといけないかな。
横では、ヨルが犬の様に唸りながら、私の膝を睨んでいた。
「うー僕が座りたかったのに」
子供みたいな事を言わないの……やっぱり、ネコでも拗ねるか。
私は息を吐いて、目を閉じた。やはり、赤い世界は見えなかったが、変わりに小さな光がぽつぽつと見える。瞼越しから見る街の光は、いつ見ても綺麗だ。ぼやけていて、形が無くて色も判別できないけれど、その不完全さが私は好き。だから、いつも車の助手席に座る時は、目を閉じて耳を遠ざけて無音の世界で縋るように、光を見ていた。
そして、いつも横には――誰だっただろうか。とても、大切な人だったのに。
涙が零れ、頬を伝う。ああ、やっぱり私は何かを失ったのだ。とても、大切な場所を。
いつの間にか瞼は落ちて、意識が底へと沈んでいった。
きっと目が覚めた時、私は私ではなくなっている。そんな確信を抱いて。
私はその日、私を亡くした。そして、再び私を手に容れた。
違う身体を貰った訳じゃない。違う記憶を手に入れた訳じゃない。
それでも、私は別の記憶を糧に此処に立っている。だから、きっと私は影の部分に立っているのだろう。真っ暗な木陰の下、一人でその時を待っているだけの私だ。
だから手を伸ばしても、手を伸ばしたくても、私には掴まる物など、何も無い。
助ける事も無く、助けられる事もなく、ただ私は怨むように鉄の銃弾を撃ち続けよう。
そして、もし許されるならば、この汚れを纏った身体を無くしてほしい。
そして出来るならば、再び彼と一緒に過ごせる事を夢に見たい。だから、もし私に少しだけでも手を差し伸べてくれるならば、この身体のまま眠らせて欲しい。
路地裏の三毛猫の目が再び、安らかに閉じられた。
前書きでも書いたように、本当にすいません。
言い訳になってしまいますが、田植えの4日連続で完全に朽ちてました。
容量も少ないです。でも最期のラストスパートとして、今日を含め3日間だけ連続更新したいと思います。
それから、毎回立ち寄ってくれている方。本当にいつもありがとう! とても嬉しいです。