透影(すきかげ)
恵理子が大好きだった母親は小学5年生の時に死んだ、
しばらくは父親が炊事もやっていたが中学1年頃から恵理子がやるようになった。
最初は弟2人から「不味い」と言われて良く喧嘩したが、その度に父親が兄弟を宥めて
「いつも仲良くしなければだめだ」と教えてくれる、優しい父親だった。
今朝は家族の朝ごはんを作る時に、治とのデート用のお弁当も作った。
何時もより、腕によりをかけて作ったものだから弟達は
「ねぇちゃん、すごかねーごちそうたい」と喜び
卵焼きや、魚肉ソーセジを油で炒めただけの物を、とても美味しそうに食べてくれた。
恵理子は弟達が可愛くて仕方ない、特に高校に入ってからはまるで母親のように良く世話をした、
弟二人も姉に言われたことは良く聞く良い子になっていた。
母親はいないが幸せな家庭であることを恵理子は、教会に行くと必ずマリア様に感謝した。
恵理子も信仰心深い隠れキリシタンの末裔である。
二人が探し出したこの場所は丁度日陰になっていて、海からの風が気持ち良かった。
恵理子は持ってきた網のバッグから、昨夜から冷凍させた麦茶と、朝作った弁当とを出した。
最後にカセットテープレコーダーを取り出して、スイッチを押した。
『あなたがいつか 話してくれた
岬を僕は たずねて来た
二人で行くと 約束したが
今ではそれも かなわないこと
岬めぐりの バスは走る
窓に広がる 青い海よ
悲しみ深く 胸に沈めたら
この旅終えて 街に帰ろう』
静かな海に歌声が流れる、2人は何も喋らすに海を見ていた。
治は聞きながら、考えていた。
「これが、彼女と言うもの?付き合うと言う事?」
「自分は恵理子が好きなのか?」
確かに恵理子は可愛いと思う、それ以上に自分の事を好きだと言ってくれた、
だから「付き合おう」と言われた時に良いよと言った。
それは、適当な気持ちなのかと言うとそうではない、昨夜二人で夜の海を見ていると、
変な気持ちだった、なんとなく落ち着くそれでいてドキドキする気持ちが有った。
中学時代でも好きな子はいたが「付き合う」と言う感覚は無かった、
勿論今でも「付き合う」と言う意味はよく理解できていないと自分でも思う。
正直な話「彼女」と言う感覚すら良く分かっていない、彼女と好きな人と友達の区別が何なのかすら分からないが、
高校生になった途端に、彼女とか付き合うとか言う単語を良く耳にする。
付き合うとは一体なんなのか、好きな女友達とどこが違うのかが分からない。
でも、今こうして恵理子と二人で海に来ていると、中学時代には感じれなかった「感じ」がある。
京子の事は今でも好きだが、多分今は恵理子の方が好きなのかもしれない自分がいる。
昨日の夕方初めて会った時も、みんなで飲んでいる時も、2人で堤防まで行った時も「好き」だと言う感覚は無かった。
それが、恵理子が足元のロープに躓き腕にしがみついて来た時に微かに触れた恵理子の胸の膨らみを感じた時に何かが変わった。
中学3年生になる頃に、ヒロちんが学校に持ってきた週刊誌をみんなでこっそり見た、そこには女性の裸の写真が有った。
治は「すごかね」と口では言いながら、頭は写真にくぎ付けだった。
別に女性の体を知らない訳ではないが、感じる物が何か違ったのだ。
それからは、性に目覚める事が「悪い事」をしている感覚がありながらも、深夜放送のラジオ番組のエッチな話をボリュームを下げてこっそり聞いたり、大人の週刊誌を借りて来て布団にもぐって懐中電気で見たりもしていた。
しかし、それはあくまでも「大人の世界」の事であって自分には関係の無い世界。
昨夜まではそう思っていた。恵理子の胸を感じるまではそう思っていた。
「触ってみたい」そう言う思いがあった。
中学の頃に面白がって女生徒の胸を触っていた思いとは違う何かが有った。
「付き合う」と言う事はそれに向かう第一歩なのかも、そうも思う。
実際、今横に座って音楽を聴いている恵理子の、白いTシャツのはち切れそうな胸にも手を伸ばせば触ることができそうだった。
なんとなくモヤモヤした自分に気が付かれそうで、
「泳ごか」と言うとシャツだけ脱いで、ジーパンのまま海に飛び込んだ。
海水の冷たさが、モヤモヤした気持ちを吹き飛ばした気がする。
「海パン持ってきちょらんとね」と恵理子が叫ぶ「うん」と答えると、クスッと笑って白い短パンを脱いで海に飛び込んできた。
二人の目の前の海は浜の端の方で、岩場になっていたのですぐ目の前でも3メーターの深さはある。
勿論海底まで見えるほどの透明な海だから、飛び込むことに恐怖は無い。
足から飛び込んだ恵理子が海面から顔を出して「ふぅー」と息をつき髪をかき上げ
「気持ん良かね」と治の近くに寄ってくる、二人の距離が縮まるそれも海面に出ている顔だけが近づいてくる。
治はなんとなく恥ずかしくなって、
「向こうに行くばい」と言うと20メータほど沖合の「瀬」に向かって泳ぎだした。
「15待ってよ」と言う恵理子の声がする、
海面から出ている「瀬」に着くと治は腰ぐらいの深さの所に座った、恵理子が顔だけ出して泳いでくるのを見ていた。
後2メーターぐらいの所で「ひどかね、先に行くちゃ」と拗ねたように言う。
2人で瀬に座った、恵理子はまだ息を切らしている、
白いTシャツが濡れて青い水着が映っていた、腰から先は海の中だが白い足が良く見えた、水着の青も水の中で揺れていた。
まるで、お風呂にでも入っているみたいに二人で腰まで海に浸かっている。
「15ちゃ、頭良かとやろ」と恵理子が聞く。
「そがん事なかよ」と治が答える
「ばってん、この前のテストや1番やったろう」
「そうばってんが、そがん事大したことじゃなかばい」
「かっこよかたい」と恵理子は笑う。
治にしてみれば、不思議だった。
これまで、何も知らない奴に同じような事を言われるのがとても嫌だった、だからそんな事を言われても返事すらしなかった。
でも今恵理子に「かっこよかたい」と言われるのは何故か嬉しく感じる。
「どがんして、おっが事ば、しいちょっと」と治は聞いてみた。
恵理子は治の顔見て、
「どがんしてって、好きやけんさ」
そう言って微笑んで「15やどがんして私と付き合うとね」と聞いてくる。
「どがんしてって、よう分からんばい」
「分からんばってん、付き合いたかとさ」
恵理子はただ笑っていた。
沖合の瀬に座る二人の周りの海はたぶん深さ5メーターはあると思う、
既に頭上に来ている太陽が海の底まで光を届ける、そこには大小の魚たちが気持ちよさそうに泳いでいる。
「お腹空かんね」と恵理子が治の顔を覗きながら言う。
「すこし」
「今日私お弁当作って来たとよ」と今度は首を傾げてにっこり笑った「すごかやろ」と治に言う。
「うん、すごか」
「戻って食べようか」と恵理子が言う
「うん」
「じゃぁー行くばい」と言って治は瀬に立ち上がる、恵理子は治の腕につかまって立ち上がると、
治を海に突き落とした、治が海中から顔を出すと恵理子は声を上げて笑ていた、治も笑った。
恵理子も続いて飛び込んで海面から顔を出したら治の姿が見えない、ふと足元を見ると海中に治が揺らいで見える
その直後海中に引きずり込まれてしまう、恵理子は必死で治にしがみついた。
海中で二人は抱き合う形になってしまう。
抱き合ったままで海面に出ると恵理子は笑う、笑いながら、
「ひどかね」と治の耳元で甘えた声で言う。
治は恵理子の胸の膨らみを自分の胸に感じていた。
透き通った海の底には、抱き合った二人の小さな影がくっきりと映っていた、、
まるで透影のように。