下(完)
休日、二日目。
明日には、妻と娘が帰ってくる。
朝は、いつもより少し遅く起きた。
台所に立って、適当にトーストを焼く。
妻がいれば、もう少しまともな朝飯になるのだろうが、俺一人ならこんなものだ。
コーヒーを淹れて、食卓につく。
ふと、昨日のことを思い出す。
鈴木テルの、あの顔。相変わらずだった訛りに、あの笑い方。
そして、観覧車の中で見た横顔。
あれから何年も経っているというのに、不思議なほど鮮明に思い浮かぶ。
どうして今さら、あのようなことを思い出してしまったのか。
トーストをかじりながら、ぼんやりと考える。
もしあのとき、俺がもう少し正直だったら。
もしあのとき、あれが何なのかを確かめていたら。
俺の人生は、少しは違っていたのだろうか。
――……いや。
きっと、何も変わらなかっただろう。
俺は東京に出て、大学に進んで、会社に入って。
そして妻と出会って、結婚して、美結が生まれて。
そうして今と同じように、くたびれたおっさんになっていたに違いない。
それでも、あの時のことを思い出すと、胸の奥が妙にざわつく。
それが恋だったのかと問われれば、よくわからない。
もしかしたら、ただの憧れだったのかもしれない。
観覧車の高いところで、少しだけ浮かれていただけなのかもしれない。
――だが、あの一瞬。
鈴木の顔が、やけに輝いて見えたのは確かだった。
コーヒーを飲み干して、俺は静かに立ち上がる。
今日は特に、予定もない。
洗濯でもして、軽く掃除でもしていればあっという間に一日が終わるだろう。
洗濯機を回して、居間の窓を静かに開ける。
冷たい風が入り込んできて、少しだけ頭が冴えていくような気がしていた。
テレビをつけると、妻と娘が騒いでいた、例のBLドラマの再放送が流れていた。
整った顔立ちの今時の若い男同士が向き合って、妙に真剣な顔をしている。
このような話、昔の俺は、きっと笑って馬鹿にしていたことだろう。
だが今は、ただぼんやりと眺めることしかできないでいた。
時代は、変わった。
世界は、変わったんだ。
ふと、鈴木の言葉を思い出す。
――息子に、男ができたんだと。
あの時の、鈴木の顔。
困ったような、それでいてどこか嬉しそうなその顔はあの頃と何も変わってはいなかった。
「好きにすりゃあええ、か……」
それは至って、簡単な言葉だ。
だが親にとって、それを言うのがどれほど難しいことか。
美結が佐藤さんを連れてきた時、俺は平然としたような顔をしていた。
もちろん、祝福もした。
だが心のどこかで、考えてしまっていた。
この子たちは、この先どう生きていくのだろうと。
そして同時に、もう一つのことを思う。
――もし、俺が今の時代に生まれていたら……。
あの観覧車の中で感じたものを、もっと真剣に考えることができたのだろうか。
あの感情が一体何であったのかを、誰かに相談するようなことができただろうか。
もしかすると俺は、男を好きになるような人間だったのかもしれない。
――……いや。
そうではないような気もする。
なぜなら俺は、妻のことを愛している。
娘のことだって、大切だ。
それは、疑いようもない事実であり、結果でもあった。
それでも、あの一度きりの感情が、どこかで消えずに残っている。
テレビの中では、男同士が手を取っていた。
娘なら、ここで歓声を上げていることだろう。
俺はリモコンを手に取って、音量を少しだけ下げていく。
――もし、もう一度鈴木に会うことができたのなら……。
あの時のことを、聞いてみてもいいのだろうか。
観覧車の上で、俺がしたことを。
あの時、どう思ったのかを。
「……無理だな」
そのようなことを聞いたところで、今さらどうなるわけでもない。
ただ一つ、確かなことがある。
俺は、男を好きになったことがあるの“かも”しれない。
それは、人生でたった一度きりのことだったのかもしれない。
あるいは、ただの勘違いであったのかもしれない。
結局のところ、その答えはわからないままだ。
けれど、それでいいのかもしれない。
人生には、答えの出ないことがいくつもある。
その一つが、たまたま鈴木であっただけだ。
洗濯機の終了音が、鳴り響く。
俺は立ち上がって、ベランダに洗濯物を干していく。
空はよく、晴れていた。
明日になれば、妻と娘が帰ってくる。
そして、またいつもの生活が始まる。
門田利昌、四十五歳。まだまだ、悩み多き人生を送っている。
――でも、それでいい。
ただ、ふとした拍子に、また俺は思い出すのだろう。
あの観覧車と、鈴木テルの笑顔を。
そして俺はきっと、懲りずに同じようなことを考える。
あれは一体、何だったのだろうかと。
きっと、この先もずっと。
答えは出ないまま、永遠の謎として俺の胸の中に残っていくのだろう。
完




