0091
「ね、ゼフィラちゃん」
緊迫した空気を和らげたのは、緩やかに警戒を解き始めていたフィデスの声。
握り締めていた短剣を差し出し、持ち主であるゼフィラへと返す。その様子を見たリーベルもまた、胸倉を掴み上げていた手を離し、ゼフィラを解放した。
「キミはさ、間違えただけなんだよね?」
「…………」
「間違えたんなら、やり直せばいいんだよ」
無邪気な少女の笑顔は、少しだけ歪んでいた。既に瞳の色は、人に紛れるための緋色へと戻っている。
「…よろしいのでしょうか?」
「そんなモン、ボクらが決める事じゃないよ。でもキミはまだ、やり直せるじゃん?」
過去の傷を刺激され心を壊しかけたルティウスだが、彼の傍にはレヴィがいる。きっと今頃、レヴィに頭を撫でられて不貞腐れている事だろう。そう確信が持てるからこそ、フィデスは今、笑えている。
「人間はさ、やり直せる生き物でしょ?だからちゃんと、普通にゴメンって言ってあげなよ?」
ゼフィラへ向けた柔らかい笑みに自嘲が含まれているなど、リーベルもゼフィラも気付かない。
故郷の地を再生不可能なまでに枯れさせたフィデスだからこその、人間という種への期待が込められた一言。
「…はい、今度は間違えません!」
差し出された短剣を受け取り、腰の鞘へと納めるゼフィラは、初めて公女らしい嫋やかな表情を浮かべている。
「…で?一国の公女様が、何だってこんな西ベラニスみたいな端っこにお一人でいらっしゃってるんだ?」
とてつもない回り道となったが、ようやく本題に入れる空気だと察したリーベルは、握り続けていた長剣を鞘へ納めてからゼフィラへ問う。敵や刺客ではないと分かっても、その真意だけは聞き出す必要がある。
「はい。先ほども申しました通り、わたくしがこちらへ出向いたのはサルース殿下のご依頼によるものです。弟君であるルティウス殿下を、秘密裏にヴェネトスへお連れするように、と」
「秘密裏…?何だってそんな必要が…」
「公国には、帝国第二皇子の手が伸びております」
真剣な表情で告げられたゼフィラの一言は、リーベルとフィデスを驚愕させる。
ベラニスの街で自警団の長をしていたリーベルの耳には、近隣国であるグラディオス帝国の情報は逐一届けられていた。ルティウスが皇子でありながら国を追われる立場となったのも、全てが第二皇子による反乱が原因。ベラニスでは刺客の存在を見つける事は無かったが、大陸の異なるヴェネトスにその魔の手が伸びているとは予想もしていなかった。
「お嬢さんにわざわざ依頼したっていう第一皇子は、一体どうしてるんだ?」
リーベルにとって最も気になる点は、ルティウスやラディクスと同等以上の立場である、第一皇子サルースの現状。公国に落ち延びたという情報は得ていたが、その後の足取りまでは掴めていない。そして公国の第二公女の婚約者であるという彼が、かの国で不遇な扱いを受けるはずもない事だけは容易に考えられる。
「はい、サルース殿下は現在、我が姉…第二公女セレーナの庇護下にあります」
「城に居るのか?」
「いえ…彼は今、セレーナ姉様が用意した別邸にてお過ごしです」
「そこは安全なのか?」
「…………」
ルティウスが掲げる帝国奪還の目的のためには、第一皇子の存在は不可欠だ。第二公女の庇護下とはいえ、彼の安全は優先されて然るべき事項。しかしゼフィラは肯定しなかった。
「ゼフィラちゃんがここまで来たのは、その事を伝えるため?」
第一皇子の現状を知った上で流れた沈黙を破る、フィデスの問い。その声にゼフィラは無言で首肯する。
「なるほどねぇ…このまんまボクらがヴェネトスに向かってたら、ルティ君どころかお兄さんも危なかったってコトかぁ」
「左様です。なので…東におります友人からの情報を待って、わたくしがこちらへ出向いた次第でございます」
「…東の友人?」
何気なく告げられたその存在。リーベルが表情を顰めて問い返す。彼女に情報を渡した者が誰なのか…それはつまり、ルティウスの素性を知る者という事になる。
「はい。わたくしが学院時代に出会ったお方でして…テラピアという女性なのですが…」
「「テラピアちゃん?」」
もう何度目か分からない、リーベルとフィデスの声が重なる瞬間だった。
「何だよ~…テラピアちゃん、一言も、そんな事言ってなかったじゃねえか!」
頭を抱えて嘆くリーベルの隣では、悔し気に文句の台詞を吐くフィデスが腕をぶんぶんと振りながら喚いている。
「ホントだよ~、ボクらにくらい教えてくれてても良かったじゃん!」
一瞬の警戒は即座に霧散する。二人にとっても、そしてルティウスにとっても良き理解者であるテラピアの密やかな協力によって、何も知らないまま公国へ向かってしまうという最悪を避けられた形になる。
「そうだよな…確かテラピアちゃんは、ヴェネトスに留学してた事があったよなぁ…」
「はい!彼女とは当時、魔法の腕を競い合う仲でございました!」
嬉しそうに当時を語るゼフィラの表情は、恋する女でも公女でもなく、向上心に溢れた一人の女性のものになっていた。
「テラピアちゃんの現状も、知ってるって事だよな?」
「はい。第二皇子の反乱によってお父上を亡くされ、今はベラニスの領主に就かれている事も存じております」
テラピアとゼフィラには、風の国で魔法を学んだという共通項がある。テラピアもまた、領主となる前までは留学で得た魔法技術を生かし、ベラニスで神官をしていた。リーベルも彼女の治癒を受けた経験があるため、その腕前は熟知している。
「彼女は、風に乗せてわたくしへ極秘に教えてくれました。ルティウス殿下がこちらへ向かわれる、と」
「そのタイミングで、第一皇子の依頼か」
「はい」
ベラニスに於いても、帝国第一皇子の先見の明はあまりにも有名だった。まるで未来を見通しているかのように先々を予見し、最善の一手を打つ。そんな彼が遣わせたゼフィラがこの場に居るという事は、決して無意味なものではないのだろう。そんな彼が、ゼフィラに頼らざるを得ない状況であるという事も、リーベルは既に察している。
「第一皇子には、会えるのか?」
「…正攻法では難しい状況にございます」
「だろうなぁ…」
複雑な現実が随所に散りばめられている事を知ったリーベルは、がりがりと頭を掻き遠くを見ている。何かを悩んでいる時に行ういつもの癖だった。
同じように腕組みをして考え込むフィデスだったが、思い出したように顔を上げてそれを言った。
「ルティ君、大丈夫かな?」
「あ?今更だな…ま、レヴィが何とかすんだろ?」
「それもそっか♪」
二人は信じている。あの『過保護な竜神の保護者』が、ルティウスをあのままにしておくはずはないと。
そんな信頼の言葉を聞いたゼフィラは、首を傾げていた。
「レヴィ…あの、氷の魔法を使った水の竜の方ですね?」
目の前で四翼を羽搏かせて飛び去った姿から、ゼフィラも理解はしていた。彼が、自分達の主神である風の竜神アールが言っていた『水の神』なのだと。
「ここはもう、自警団に任せて問題ないだろ。俺達も、ルティウス達と合流しに行くか」
「だね!」
周囲を見回せば、今もまだ働き続ける自警団員の姿がある。完全に片付け終わるのには数日を要するだろうが、それまで待っている暇などリーベル達にはない。
もう必要は無いと判断し、解除された遮音結界。それと同時に奔走する自警団員の元へ駆け寄ったリーベルは、自分達がもう居なくなる旨を伝え、改めてルティウス達に関する口止めをした後、ようやく西ベラニスの港を出発する事になった。
「あっ、ゼフィラちゃん!」
少しだけ開かれた場所を通り、簡素な港を抜け出て森へ入る頃、再び思い出したようにフィデスが言い出した。
「合流したらさ、レヴィに謝っといた方がいいよ?多分、めちゃめちゃ怒ってるから…」
トラウマを抉られたルティウス本人ではなく、保護者たるレヴィへ謝罪しろという忠言。それこそが、かの水の竜神がどれだけルティウスを大事にしているのかという証にも思えた。
「畏まりました。でも…許して頂けるでしょうか?」
「大丈夫だって。キレたレヴィの手綱は、ルティウスが握ってるからな」
それまでとは打って変わって和やかな雰囲気で進む三人が、離脱したルティウスとレヴィと合流するまであと少し。




