0089
一方その頃。
西ベラニスの港を離脱したレヴィは、震えるルティウスを抱く腕に力を込めつつ、降下できる地を探し回っていた。
このまま風の竜が居るだろう天空へ向かっても良かったが、離れ過ぎてしまえばフィデスが追えなくなる。唐突な離別はルティウスを悲しませると分かっているからこそ、近くもなく遠くもない位置を飛び続けていた。
「ルティ……」
その名を呼んでも反応は返ってこない。大きな蒼い瞳を見開いたまま、どことも知れない虚空を見つめている。だがその目に映っているのが『現在』ではない事に、レヴィも気付いていた。
失念していた。
人間の世界では大人と認められる年齢であろうとも、心はまだ幼い子供でしかないのだと。
本人から、母親の死は聞かされていた。その傷が今も尚この子の精神を蝕んでいるのだと、気付いてやれなかった…。
悔し気に歯噛みしながら、レヴィは見つけた小高い丘の上へと降下していく。初めて出会った後、疲弊した少年を眠らせたあの場所と似た大きな木が立つその丘は、何者の気配も感じない静寂に包まれていた。
震える小柄な身体をそっと降ろし、木の根元に寄り掛からせる。
「ルティ…私がわかるか?」
正面から青褪めたままの顔を覗き込み、見開かれた瞳を真っ直ぐに見つめる。頬に触れてみれば、温かいはずの肌は嫌になるほど冷え切っていた。
「…か………さ、ま…」
「……ルティ?」
丘の上に吹く風の音に紛れるほどの小さな声が、レヴィの耳に届く。心が砕けたルティウスのか細い囁きは、しかしレヴィではない者を呼んでいた。
幼い少年の目に映っているのはきっと、かつて語った母親の最期の光景。
──母様は俺のせいで亡くなった…血の匂いとか、冷たくなっていく母様の身体とか、全部覚えてる──
「ルティ、お前が今いるのは『そこ』ではないだろう!」
寂し気に、だが幸せそうに話したルティウスの声を思い出し、取り戻すべくレヴィはルティウスの身体を抱き締める。
「お前の母親は、お前がいつまでも引き摺り続ける事を望んでいるのか?」
この世界に遺したものを探したいと言ったあの時のルティウスは、確かに笑っていたのだから。
レヴィの声が僅かに届いたのか、抱き締めた小さな身体がぴくりと撥ねる。
微かな反応だったが、当然のようにレヴィは見逃さない。壊れかけた心を繋ぎ留めたい一心で、何度もルティウスに呼びかけ続けた。
「私は、死ぬ事は無い。だから安心しろ」
「俺、が……俺の………せいで…」
かつて起こった惨劇の詳細を知らないレヴィは、想像する事しか出来ない。だがレヴィもまた知っている。大切な存在が目の前で奪われる悲しみも、己を責めたくなるその気持ちも。
だからこそレヴィは、ルティウスへ掛ける言葉も知っている。
「私は、お前の母親のようにはならない。私には死など無い。だから…もうルティだけが苦しむ必要はない」
何も見ていなかった蒼い瞳は、微かに光を取り戻していく。二人の魔力を繋ぐ聖石が仄かな光を放つと同時に、弱々しい声がようやく、今のルティウスを支える存在の名を口にした。
「…レ、ヴィ………」
「…ルティ?」
腕の力を緩めて、胸元に埋めさせていた顔を覗き込む。もう一度頬に触れれば、先ほどまでの冷たさは幾分か緩和されていた。
「ごめ……俺………」
心が戻ったのか、急に謝る少年はばつが悪そうに俯いてしまう。過保護な竜神に心配を掛けるまいとどんなに決意していても、この体たらく。そうして落ち込むルティウスだが、レヴィは微笑んでいる。反応がある事に安堵したレヴィは深く息を吐いてから、項垂れるルティウスの頬に添えた手で顔を上向かせた。
「何故謝る?」
「…だって、また……」
「いつもの事だろう」
このルティウスという少年は、いつだって全てを抱え込み溜め込んで、決して外へ吐き出そうとしない。それが偶然の重なりによる心の傷の上塗りだとしても…。
「怖くなったんだ…」
「何がだ?」
「ゼフィラが、剣を首に当てて…本当に、死んじゃうと思って……」
「リーベルが止めただろう」
「うん……そう、なんだけどさ…」
その時レヴィはようやく気付いた。ルティウスの心の根幹にある本当の傷。それは、誰かが血を流す事そのものだと。
自分と少しでも関わった何者かが、動かぬ骸になる事への恐怖が彼を蝕んでいる。
「先程も言った。私は死なない」
「レヴィは神様なんだから、そうだろうけどさ⋯」
「ならば、私が全てを守ろう」
「⋯⋯⋯え?」
何を言っているのかすぐに理解出来なかった。頬に触れていた白い大きな手は、不安がる子供を宥めるように頭を撫でている。
「お前の力も借りるがな。私が守れば良い」
「それじゃ、レヴィにばっかり⋯」
「フィデスも巻き込んでしまえ」
それはレヴィなりの、ルティウスに対する励ましと、付き合いの長いフィデスへの意趣返し。
過去、フィデスからは散々面倒事に巻き込まれてきた。そうした過去の貸しを、ルティウスのために返させるのも悪くはない。
だがルティウスは安心など出来ない。レヴィは確かに強い。竜神としての知識と経験を持つ彼は、その気になれば本当に全てを守れるのだろう。
けれど忘れてなどいない。
純白のローブの裏、レヴィの左肩に残っている大きな傷痕の事を。
蒼い瞳を閉じれば、あの時の姿を鮮明に思い出せる。
オストラの攻撃からニナを庇った時に負った怪我の事。この白いローブを赤く染めるほどの血を流してまで、ルティウスや街を守ろうとしたあの時の事を。
神と言えども、レヴィやフィデスにだって痛みはある。傷付けば血を流す。そんな姿は、絶対に見たくない。
自分と関わった者が傷付く事を恐れる⋯その対象は、人間だけではなくレヴィ達も含まれているのだと、レヴィは分かっていない。
「やだよ⋯あんたに頼ったら、またあんたが傷付くじゃん⋯」
「ルティ⋯?」
俯きながら震える声で吐露された、少年の本音。その言葉の重みを、レヴィは静かに受け止める。
「あんたが誰かを守ろうとして傷付いた事、俺は忘れてないんだぞ!」
今にも泣きそうな顔をして見上げてくるルティウスの瞳は、少しだけ潤んでいた。そしてレヴィにようやく全てを悟らせる。
「⋯だから、前にも言っただろう?」
けれどレヴィは冷静に、ルティウスを諭す。かつて伝えた言葉をもう一度、彼が行った実績を付け足してルティウスへと投げかける。
「あの戦いの時、傷を負っても私が戦えていたのは、お前が私を守ったからだ」
ルティウスが飛び回るレヴィに防御結界を張り続け、それによって反撃を可能とさせた事実。それは、ルティウスがただ守られるだけでは無いという証。
「お前が私を守ってくれるなら、私がお前を取り巻く全てを守れる」
「レヴィ⋯」
少しだけ驚いたように見開かれた大きな瞳からは、既に恐怖の色は薄れている。やがて不満そうに細められた蒼い目は、普段通りの、呆れたように過保護を撥ね付ける少年のものへと戻っていた。
「それってさ、結局俺の魔力の負担、でかくない?」
「嫌か?」
「別に俺は良いけどさ⋯」
ルティウスは思い出していた。
お前が全てを守れ⋯レヴィにそう言われた時の、嬉しい気持ちを。
「俺の魔力、枯らすなよ?」
「そんなヘマはしない」
いつの間にか、長らくルティウスの身体を襲っていた嘔吐きも船酔いの影響も無くなっていた。
ルティウスにとってはどこかも分からない丘の上は、冷たいけれど穏やかな風が吹いている。けれど心の中は、これ以上なく暖かかった。
「⋯ていうか、いつまで頭撫でてるんだよ?」
「辞めてほしいか?」
そう言うレヴィの口元は弧を描き、だが金色の瞳は優しげに細められていた。
「別にいいけどさ⋯」
見慣れた不貞腐れ顔さえ、今はレヴィを安堵させる。
死の境を彷徨い、さらに心を壊しかけた少年の、素の顔を見るのは久しぶりに感じられた。
「お前が疲れ果てたら、また膝を貸してやる」
「膝枕はもういいよ!恥ずかしいじゃん⋯」
すっかり元に戻ったルティウスの回復を喜びつつも、レヴィは密かに、遠くの気配を辿っていた。
ルティウスが持つ黄金色の聖石が嵌められた腕輪、それを標にフィデスが追ってきているのだと、魔力の動きで感知していたから。




