0056
走りながら、修復されたコートに袖を通し緩く羽織る。真新しい慣れたコートを翻し無我夢中で走るルティウスが向かうのは、ここ数日皆が通っていた場所。大河の流れる水の音が聞こえてくる頃には、視界の端に彼の姿を見つけていた。
「⋯レヴィ!」
名を呼ぶとゆっくり振り返った竜神は、再建されたばかりの桟橋の上で、やはり空を見上げたまま座り込んでいた。
「⋯ルティ、お前は⋯⋯⋯」
しかしレヴィは、何故か苛立ちを滲ませる。怒らせるような事をした覚えは、つい最近は何も無いはず⋯自信は無いが、それでもルティウスはレヴィの傍へと駆け寄りながら、苛立ちの原因について訊いてみる事にした。
「何で怒ってるんだよ?」
「どうしてここへ来た?」
「⋯来ちゃいけなかったのかよ?」
「そうではなく⋯何故、そんな姿のままで来た?」
「⋯姿?⋯⋯⋯あっ!」
レヴィが苛立った原因は、やはりルティウス自身。以前の外出時は、皇子である素性を隠すための変装を条件として許可したが、今のルティウスは男の姿のままである。その上、礼服のコートまで羽織っている。帝国を訪れた事のある者なら、ここに居るルティウスがあの第三皇子だと気付いてもおかしくない。
「⋯ご、ごめん⋯つい夢中で⋯⋯」
今更慌てて身を低くし、レヴィの隣へと腰を下ろす。溜め息を吐きながら上着を脱いだレヴィが、真っ白な衣をルティウスの頭から被せていた。
その瞬間、レヴィの左肩に残る大きな傷痕が視界に映り込む。服を脱ぐ動作も、僅かに左肩を庇っているようで不自然さを感じた。怪我の具合はどうだと聞きたいが、触れてしまえば不機嫌にさせてしまいそうで口を噤んだ。
「⋯⋯で?そんなに急いで出てきた理由は?」
「あ、うん。あのさ⋯コレ!」
気を取り直したようにルティウスは、自身が羽織っているコートの襟をを掴んでレヴィへと見せる。修繕を依頼してくれていたレヴィへ、一刻も早く感謝を伝えたかった。
「レヴィが、直してもらえるように頼んでくれたんだろ?」
「⋯あぁ、そんな事もあったな」
まるで忘れていたかのような気の抜けた返事だが、素直に答えてくれるとは思っていない。けれど⋯思い出が詰まっている服だと聞いたレヴィがルティウスのために行動した事実は、修復されたコートが物語っている。
「⋯ありがとう、レヴィ」
物はいつか壊れ朽ちる。それでも、今度こそ大切にしようと決めていた。袖を通した農暗色のコートには、母の想いに加えてレヴィの優しさも込められたのだから。
「⋯そんな事のためだけに、わざわざ出てきたのか?」
「だって、早くレヴィに伝えたくて⋯⋯」
「軽率過ぎるだろう⋯全く」
叱られるのも無理はない。ルティウスの身を案じる者からすれば、あまりにも警戒心が足りな過ぎるのだから。反省し項垂れる少年の隣で、しかしレヴィはふっと息を吐き微笑む。
「お前の事だから、本当はそれだけでは無いのだろう?」
「⋯⋯何でわかるんだよ?」
「ルティはわかりやすいからな」
こうして揶揄われるのも随分と久しぶりに感じる。ずっと傍に居たはずなのに、ここ数日は離れている時間の方が多かった。過保護なレヴィらしくないと感じるが、そうなってしまった原因は一つしかない。レヴィが抱いているだろう隠された想い⋯気軽に踏み込んでいいものではないと理解していても、問わずにはいられなかった。
「なぁ、レヴィ」
「何だ」
答えてくれるかはわからない。それでも問うべきだと、直感が告げている。
「オストラってさ、レヴィの何なんだ?」
「⋯⋯⋯⋯」
光となって消え去った海竜オストラ。天へと登る輝きを静かに見送るレヴィの後ろ姿からは、母の墓前に立つかつての自分さえも想起した。深い哀しみに包まれていると感じたのは、きっと気のせいでも思い違いでもない。
「⋯⋯⋯そう、だな⋯」
相変わらず空を見上げているレヴィは、しばらく逡巡した後、決意したように口を開いた。
「アレは⋯⋯人で言うなら、私の弟に当たる」
「⋯⋯⋯えっ?」
たった一言で、ルティウスは察していた。レヴィからこんなにも悲哀を感じたのは、己に近しい者をその手で葬ったからなのだと。
末の弟として生まれ兄しか居ないルティウスだが、想像する事は出来る。暴走した兄弟を止めるべく、その命を自らの手で奪う決断を下す事になったら⋯レヴィのように迷わずやれるだろうか、と。
必死に想像を膨らませ考えてみても、答えは『否』だ。
「あのままオストラを放置すれば、溢れ出した邪気にお前が飲まれていた。そうなれば、私の加護があろうとも無事では済まない⋯」
「だから⋯とどめを刺したのか?」
「そうだ」
肯定する声は、それまでよりも強く迷いが無い。自分を救うために、彼は『弟』と呼べる者をその手で殺した。自分のせいで彼にその決断を、兄弟殺しの咎を負わせてしまったのかと、ルティウスの方が後悔を抱きそうになる。
「⋯一番の理由はお前を守るためだったが、もうひとつある」
「もうひとつ⋯?」
気持ちの整理を付けるかのように言葉を区切り、空を見上げたまま、レヴィはゆっくりと告げた。
「奴は⋯既に自我を失っていた。私が知るオストラとしての意識は無く、ただ本能のままに暴れるだけの、魔物と変わらない獣⋯⋯だが、最期の瞬間だけ、奴の声が届いた⋯」
まるで遺言のような音なき声。欠片だけ残されていた思念は、確かに伝えてきた。あまりにも長い間、この結末を待ち続けていたのだと。
「満足そうだったよ、オストラの最期の声は⋯⋯。愚かな竜ではあったが、私に止められる事を望んでいたのだろう⋯」
「レヴィ⋯⋯」
声を聞く限りは、結末に納得しているようだった。表情も穏やかで、普段と変わらないように感じる。だけど空を見上げる眼差しだけは、隠し切れない後悔が滲み揺らいでいるように見えた。




