0052
それは遥か西方に位置する、雲よりも高い天空に聳える宮殿での事。
『風脈が揺らいだ⋯⋯⋯』
「アール様、それは本当ですか?一体何者が…?」
人にはおそらく辿り着けないだろう雲の上に存在し、遠い地上を見渡せるバルコニーの中央で、淡い碧色の四翼を畳んだ竜は東の空を向いて呟く。アールと呼ばれた竜が感じ取ったのは、懐かしき神の気配とその傍で巻き起こった根源の大きな揺らぎ。
それまでは宮殿の内部から下界の監視を行っていたが、あまりにも強大な力の揺れを感じたため、こうして直接『視る』ために外へ出て来ている。
『⋯ウェンティ、彼を呼んできてくれるかね?』
「畏まりました」
碧竜の傍に控える少女は、名を呼ばれて恭しく頭を下げると踵を返し、主が望んだ者を召喚するべく転移門へと向かった。
一柱残った竜は視線を遠い空の彼方へと戻し、風に乗って届く気配を辿るように金色の瞳を閉じる。
『レヴィ⋯君は、一体【何】を連れている⋯?』
自らが加護を与えた者とも違う誰かが、風脈と繋がった上に根源の力を行使していた。それは本来ならば有り得ない事で、碧竜が見守る風の領域内では禁忌としている。他の地域でも禁忌とされていたはずの根源への干渉が、何故水の領域から一斉に感じられたのか…。
巨大な竜の体躯は光り輝き、小さく収縮すると人の形を成していく。やがて光が収まると、そこに立つのは束ねられた長い碧色の髪を靡かせ、優しげな雰囲気を漂わせる男の姿。
「ついに動き出したんだな、レヴィ⋯⋯」
全てを知る風の竜神は、空へ向ける瞳を哀し気に伏せる。海底に沈め封じていたはずのオストラの気配も完全に絶えており、今度こそ葬られたのだろうと察する。そしてこの事実こそ、古き仲である水の竜神が抱いた覚悟の表れに他ならない。
古き友は、あまりにも大きなものを失った。
千や万の年月が過ぎようとも、永きを生きる竜にとって時間は癒しにならない。
どれだけの深い悲しみに囚われているかを知っているからこそ、僕は君を止めようとは思わない。
止められるはずが無いのだから⋯。
しばらくして、宮殿の入り口に当たる転移門が光り輝く。使いに出ていたウェンティという名で呼ばれた少女は、指示された人物を連れて主の前へと戻ってきた。
「お待たせ致しました、アール様。彼をお連れしました」
ウェンティの後ろから現れたのは、本来ならばここに居ないはずの人間。水神の加護を受け、国を統べる立場にありながら国を捨てた、グラディオス帝国第一皇子サルース。
「お呼びと聞いて参じました。もしや…東で何か動きが?」
サルースは皇子でありながら、アールの前に膝を着いて傅く。皇族といえども、神の前ではただの人でしかない。しかし持ち前の頭脳は既に、事態が動き始めていると気付いている様子だ。
「…君の弟、だったかな?」
「はい…?えっと、ルティウス…の事でしょうか?」
「きっと、その者だろう」
「⋯もしや、ルティウスに何か?」
「⋯⋯まだ憶測に過ぎないけれどね、どうやら君の弟は⋯選ばれてしまったみたいだ」
「⋯選ばれた?」
アールにはまだ、その先を伝えられない。サルースが末の弟をとても大切に想っていると知るが故に。
けれど今現在、無事である事だけは確かだ。他の根はともかく、風脈に触れた者がどうなったのかは手に取るように分かる。
「サルース、君の弟は凄いな。風脈に干渉して無事どころか、力を引き出せる水神の子なんて初めてだ」
「ルティウス、が⋯?」
目の前で語る竜神の言葉に偽りがあるとは思えない。それが真ならば、自分の弟は本当にとてつもない才覚に恵まれているのだと誇らしくなる。そして同時に、兄であるサルースは悔しく思った。全てをあの子に押し付ける事になってしまうのだと。
「⋯アール様、ルティウスはここまで⋯来るでしょうか?」
「来るよ、必ず」
風の竜神は確信している。サルースの弟、ルティウスは必ずこの『ヴェネトス』へ訪れると。何故なら彼の傍には、水の竜神が付いているのだから。




