0220
「⋯⋯⋯お兄さん?」
今更、貴族の子息として振る舞う心づもりも必要も無い。しかし皇妃として召し上げられるほどの女性を輩出した家の長男、その出自に対する一欠片の誇りは、朝焼けの空に紛れる小さな星のように、微かな光を灯し始めていた。
「リーベル⋯⋯俺ぁ、リーベル・フォンスだ。覚えたか?」
ベラニスを潤すカレント大河、その流れのように力強く、気ままな清流の如く自由に、数多の想いを込められた自身の名を、リーベルは誇らしげに少年へと伝え聞かせた。
乱暴な手付きで少年の、薄汚れたオパールの髪をぐしゃりと撫でる。これほど雑に接していい身分ではない事は想像に易いが、しかし少年は嫌がる素振りは見せず、少しだけ不満げな表情を浮かべて小さな唇を震わせた。
「⋯⋯ファム」
躊躇いがちに呟かれた、短い名前。しかしリーベルにとっては、それだけで十分だった。
「おう、ファムだな!いい名前じゃねえか!」
怒声を発した酔っ払いとは思えないほどの清々しい笑みを浮かべるリーベルが、ファムと名乗った少年の柔らかな髪を再び掻き回すように撫でる。やはりファムは少しだけ嫌そうな表情で、リーベルの乱暴な腕を軽く払った。
「やめてください…ぐちゃぐちゃになるじゃないですか…」
唐突に変化した口調は、ファムが心に壁を立てた証。拒絶という感情の揺らぎ一つさえ、死を願うほどの絶望から一歩を踏み出せた兆しに思えて、それまでの怒りさえゆっくりと鎮まっていく。
「何言ってやがる。こんな掃き溜めみたいな場所で、ぐちゃぐちゃもクソもあるかよ」
全てを諦めていた時の子供らしい口調と、どこか堅苦しい今の話し方。どちらがファムの素であるのかという興味が、リーベルのささやかな好奇心を刺激していく。
しかし少年の素性など、今となってはどうでも良かった。微かに生きる活力を宿し始めたファムを、この場所から連れ出す事さえ叶えば…と。
「おい、ファム」
隣で膝を抱えたまま座り込むファムの名を雑に呼び、リーベルはゆっくりとその場に立ち上がる。
「…何ですか?」
染み付いてしまっているのか硬い話し方のままリーベルを見上げるファムは、表情に拒絶と、だが隠し切れない期待の色を滲ませていた。
「付いてこい。お前さんは、まだこんな所で腐っていい歳じゃねえだろ」
粗暴な言葉でありながら優しさを感じ取れたファムは、渋々ながらも『もう一度だけ…』と、心の奥に生まれた再起の感情に従う。大きな背中を追うようにゆっくり動き出すが、しかしファムの両足が地面に立ち上がる事は叶わなかった。
どさりと、小さくも乾いた音が路地裏に鳴り響く。
次第に明るさを増していく夜明けの街。ファムが隣に追い付くのを待っていたリーベルが異音を聞き取り振り返れば、自身の影の下で、力無く崩れ落ちている少年の姿が視界に映り込む。
「おい、ファム…?」
慌ててリーベルは駆け寄り、小さなファムの身体を抱き起こした。細く小さな少年から急激に体温が失われていく感覚に気付いた瞬間、言葉を掛けるよりも先に両腕でファムを抱きかかえ、路地裏から全力で走り去っていく。
それからの事は、所々記憶が抜け落ちていた。
ただ必死にベラニスの街を駆け抜け、ファムを救うためだけに広い街区のほぼ全てを奔走し続けた。
医者に診せるべく診療所へ飛び込むものの、荒れた生活を繰り返していたリーベルを受け入れるどころか、その全てが門前払いの様相だった。
「頼むって!俺じゃなく、このガキを診てくれって言ってんだよ!」
中には、ちらりとファムに視線を送る医者もいた。だが、少年の身なりを目の当たりにすると、決まって全員が首を横に振っていた。
「帰った帰った!可哀想だがな、その子を助けたら、間違いなくウチがあの国からのとばっちりを食らうんだよ!」
最初は拒絶しなかった医者も、皆が似た内容の台詞を口走っていた。
けれどリーベルは諦める事なく、広いベラニスの街を端から端まで駆け抜ける。
きっとどこかに、ファムの素性など気にせず、容態を診てくれる者が居ると信じて…。
だがリーベルの前に立ちはだかるのは、閉ざされる医者の門だけではない。
「おい兄さん、こないだはよくもやってくれやがったな…?」
泥酔し、誰彼構わず拳を向けていた時の被害者が、仲間を引き連れてリーベルの行く手を塞いでいた。
「チッ…なんでこんな時に…!」
愚痴を零したところで、全ては自業自得。後先を考えず、ただ自身の悲しみと怒りを他者にぶつけ続けた八つ当たりの日々が、たまたま返ってきてしまっただけ。




