0217
切れ間のない曇天の、少しだけ薄暗い朝の空気の下、変わらない軽快な蹄の規則正しい音が響き渡る。
御者台に座るのは、昨日に続きジェロアとリーベル。手綱をしっかりと握るジェロアの隣では、相変わらず青ざめた顔色のリーベルが酔いを覚ますように、甥と同じ蒼い瞳を遠くの景色へと向けていた。
「⋯リーベルよぉ」
「⋯⋯⋯何だ?」
古き友だからこそ遠慮なく、リーベルよりも淡い空の色を宿す瞳をちらりと向けて、ジェロアが忠告の一言を投げつける。
「俺が言うのも何だけどよぉ⋯もう少し、飲み方ってモンを考えろよなぁ」
かつてのリーベルを知るジェロアは、だが強く窘める事はしない。
元より酒を好んではいたが、ここまで無茶な飲み方を繰り返すようになったのは、ある事件がきっかけだと知っているから。
「⋯うるせぇよ」
ぶっきらぼうな言葉で返されても、ジェロアは苦笑を浮かべるだけ。
「⋯全く。甥っ子君も保護者さんも、リーベルのお守りは大変だろうなぁ」
十年前と何ら変わりのない言葉の応酬に疲れたリーベルは、隣に座るジェロアの肩を拳で力なく小突いた。
ははっと乾いた笑い声を発するジェロアの空を宿す瞳は、けれど笑ってはいなかった。
このまま何事もなく街道を北上して行けば、昼になる前には商業都市メルカトスへと到着する。
その到着こそリーベルと、そして友の甥との別れとなる。ラテーレ村を率いる村長としての仕事を持つジェロアは、決して彼らと一緒に居続ける訳にはいかない。
共に過ごした短い時間での出来事。たった一日程度の付き合いでも、ジェロアは確かに実感してしまっていた。
かつて恋した人、サリア・フォンスの息子に課せられた大きな力と、人の力では抗いようのない無情な宿命の過酷さに。
ちらりと振り返り幌の中へ視線を向ければ、昨夜の興奮冷めやらぬまま朝を迎え、疲れたように眠る女性達が揺れる車台の隅で寄り添い、毛布を分け合って穏やかな寝息を立てている。
スペラを中心にゼフィラとフィデスが安心しきった顔で目を閉じている光景は、ジェロアの表情を綻ばせる。
人とは異なるフィデスは分からないが⋯旅慣れてはいても王族であるゼフィラが、かなり気を張り続けて同行している事は、ジェロアには一目瞭然だった。
「⋯お姫さん、疲れてるみたいだねぇ」
すぐ隣のリーベルにだけ聞こえる程度の声で、囁くように事実を言葉にした。
問われたのかと思い、リーベルもそっと視線を幌の内側へと向ける。
首元で短く揃えられた深い碧色の髪は、珍しくその毛先が跳ねている。本来ならば公国の姫君として優雅な暮らしをしているはずのゼフィラは、けれど一つの揺るがない想いを胸にこうして同行している。
「ゼフィラちゃんはな、ルティウスの傍にいられりゃ、それで満足らしいんだよな⋯」
ジェロアよりも低めた、風に紛れそうなほど小さな声で呟き、リーベルは二日酔いとは異なる理由から表情を顰めていた。
出会ったばかりの時、ゼフィラは大きな過ちを犯した。
帝国や第二皇子からの追跡を避けるべく、素性を隠しているルティウスを、大勢の前であろう事か『殿下』と呼び身分を露呈させてしまう。
ここで終わっていれば単なる失敗で済んだものの、ゼフィラは詫びと称して、自らの喉に刃を突き立てようとした。
八歳という幼さで、自分を庇い惨殺される母親を目撃し、血の海に沈む冷たい腕に抱かれていたルティウスにとって、一生消えない心の傷を抉るのと変わらない愚行だった。
レヴィによってどうにか繋ぎ止められたルティウスの心は、微かに成長の兆しも見せている。しかしそれは同時に、あまりにもレヴィを主柱とし過ぎている節を感じさせ、リーベルの内心に一抹の不安を抱かせてしまう。
「あ~⋯やっぱりあのお姫さん、甥っ子君に⋯?」
ジェロアの問いは明言を避けたもの。だがリーベルはゼフィラ本人の口から聞かされているため、正確にその意図を読み解き、同じように明言はせず暗に正解である意を返した。
「昔のお前さんと似てるな?」
かつての友が、自分の姉に抱いていた儚い想い。すぐそばで見てきたリーベルは、けれど慎重に言葉を選んでジェロアを揶揄う。
「⋯全くよぉ⋯⋯昔っからそういう奴だよな、リーベルは」
恋心以上の憧憬すらも抱いていた、リーベルの姉サリア。優しく、時には厳しく、しっかりしているように見えて時々抜けていた、綺麗な女性。
記憶の中に残る笑顔を思い出せば、勝手に口角が緩んでしまう。それほどまでにジェロアは、サリアへ傾倒していた。
だがそうして美しい思い出に浸れるのも、最期の姿をその目で見ていないからだ。
リーベルもジェロアも、サリアの葬儀に参列するどころか、その最期を知れたのすら全てが終わった後。
帝国から届いた、第二皇妃崩御という公式の声明がなければ、サリアの死すら知らずにいたかもしれなかった。




