0216
夜空には細く白い月が昇り、蒼い氷のテーブルを彩っていた食事は、そのほとんどが各人の胃袋へと収まっていた。
酒を楽しんでいたジェロアとリーベルもどこか呂律の怪しい会話を繰り広げ、時折レヴィが巻き込まれるという平和な時間が流れていた。
そんな時、月光に誘われるように椅子から立ち上がったスペラが、ルナリス湖へと視線を向ける。
「スペラさん…?」
隣に座っていたルティウスが振り向き、首を傾げながらその名を呟く。
けれどスペラは何も答えないまま微笑みだけを向けると、ゆっくりとその唇を開き、クリスタルのように透き通る一音が、夜風に乗って耳へと、魂へと浸透していった。
誰もが手を止め声を飲み込み、食い入るように耳を澄ませる。
メルカトスやノービリアだけに留まらず、ヴェネトス公国の名だたる貴族さえ黙らせるその歌声が響き渡るのは直後の事。
歌劇場へ足を運び、直接聴いた事のあるジェロアは、ぽかんと口を開けたまま手に持っていたグラスを指先から滑らせるものの、瞬時に気付いたリーベルが無言のまま受け止めて事なきを得ていた。
「凄いですね…伴奏も無いこんな屋外でさえ、ここまで響き渡るなんて…」
公女として一流の教養と芸術に触れてきたゼフィラが、震えるような感嘆の声を漏らす。湖から吹き込む冷たい風の中、ルナリスフローラの銀のざわめきさえも味方にし得る力強さを持ちながら、しかし澄んだ歌声は心地良く、面倒な公国の貴族達が気に入るのも無理はないと得心してしまうほど。
そしてスペラの歌声は、ゼフィラだけではなくフィデスとレヴィの心さえも揺さぶり始めていた。
竜神として数千の時を生き、悠久の時を刻む神の耳にも、その声は強く響く。
グラスを傾ける手を止めて聴き入るレヴィが、その左手を掲げるのはすぐの事だった。
小指を彩る蒼い指輪が輝くと同時に、白い花の中で歌うスペラの周囲には、目に見えぬほど微細な水滴が霧のように満ち始める。けれどそれはスペラを濡らす前に凍り付き、月光とルナリスフローラの光を反射して、ダイヤモンドダストのように全てが眩く煌めいていた。
水の神が歌姫へと贈る、最高の賛辞に等しい輝きの祝祭。
レヴィの魔法と競うようにフィデスもまた、土の神としての力を惜しげもなく振るい始めた。
ルティウスの左手首を飾る細い腕輪、そこに嵌められた聖石が仄かな黄金色の輝きを帯びると同時に、大地に根を張るルナリスフローラの蔓が意思を持つように這い、スペラの足元を優しく包み込むように集まっていく。
足元を揺らがせる事もなく自然に、スペラが立つ場所はゆっくりと宙へとせり上がっていった。
かつてこの湖が創られた際、水を生んだレヴィだけではなく、整地したフィデスの魔力も浸透したルナリス湖は、土の神の意思にも逆らう事なく応えていた。
本来は破壊のために使われる土の神の強大すぎる重力魔法。けれどフィデスは精密に操り、はらりと散り落ちた白い花弁を羽のように舞い上がらせるためだけに重力を操った。
ダイヤモンドダストの蒼白い輝きは、空中を舞い踊る花弁の輝きを受けて、さらに煌めきを増していく。
二柱の竜神が互いの魔力を編み上げるように織り成す光と花の競演、柔らかな輝きの中で歌うスペラの声に、いつの間にかジェロアは酒を煽りながら泣いている。
「…すっご、こんな……劇場でも、こんな綺麗なの……見た事、無いよぉ…」
人の力では到底不可能な、神ならではの精細な魔法による彩り。それは何度もスペラの舞台を見てきたジェロアだからこそ実感するもの。
褒められたレヴィとフィデスは満足そうに笑みを浮かべ、ちらりとジェロアを一瞥するものの、その視線はスペラから外す事が無かった。
「私は、彼女に相応しい舞台を整えてやっただけだ」
いつものように愛想の無い言葉を呟きながら、けれどレヴィの口角は持ち上げられたまま。
「ボクの力が、スペラちゃんを飾ってあげられてよかったよっ♪」
未だ温度を保ったままのグラスを両手で持ち、温かく甘い飲み物で喉を潤すフィデスも、嬉しそうに笑みを浮かべてスペラの歌声を楽しんでいる。
竜神も人間も、各々が独自の想いを抱いて聴き入っている歌声の中、ルティウスは一人、脳の奥を揺さぶられるような心持ちでスペラを見つめていた。
絹のように滑らかな長い黒髪を揺らし、蒼白い光を浴びて歌うスペラの姿は、この世の理から解き放たれた一輪の奇跡そのものにさえ思える。
レヴィが放った光の粒が彼女の輪郭を銀色に縁取り、フィデスの意志に呼応して踊る白い花弁が、まるでスペラを包み込むように螺旋を描いていく。
──アミクス、お前にも…彼女の歌声を、聴かせてあげたいな…──
脳裏に浮かぶ親友の影にそう語り掛けた刹那…。
神聖ささえ感じられるスペラの歌声は、一面に広がるダイヤモンドダストを溶かしそうなほどの熱量と輝きを伴って、ルナリス湖全体へと響き渡った。




