0209
「甥っ子くーん、保護者さーん、無事かーい?」
響き渡るのは御者台で手綱を握り続けるジェロアの声。白く輝くルナリスフローラの花畑、その縁で停止した馬車からは、誰よりも先にフィデスが飛び出しルティウスへと駆け寄っていく。
「ルティ君~っ!」
そのまま突進する勢いでルティウスに抱きつこうとしたが、さりげなく立ちはだかるレヴィがフィデスを制していた。
「わわっ!ちょぉっとレヴィ?急に出てきたら、ぶつかっちゃうでしょーがっ!」
「黙れ。ぶつかったところでお前が弾け飛んでいくだけだろう」
文句を言うフィデスを見下ろして、レヴィは冷徹に答えている。
相変わらず容赦が無いな⋯。苦笑するルティウスの傍らでは、スペラも楽しそうに笑みを浮かべている。澄んだ笑い声が小さく響き、気付いたフィデスがスペラへと視線を向けた。
「えっと、キミがスペラちゃん⋯?」
スペラと並んでも、胸元までしか届かない小さなフィデス。大きな緋色の瞳をきらきらと瞬かせる少女は、ウィステリアの瞳をじっと見つめてから、安心したようににっこりと笑った。
「うんっ!やっぱり、本物はすっごくキレイな魂をしてるねっ♪」
ルティウスとレヴィも目にした、セイレーンに擬せられていた偽りの歌姫。黒髪の艶やかさも、瞳の透明感も、透き通るような美しい声も、何もかもがこの本物の輝きには敵わない。
「⋯わっ!マジで、本物のスペラちゃんだ⋯!」
救えた事への喜びを噛み締めようとしていたルティウスとレヴィの耳に、さらに騒々しい声が届く。
「⋯おい、あの魔物の姿と特徴は近いけどよ、全然似ても似つかねえじゃねえか?」
目の前に立つ歌姫の存在に、拝まんばかりに感極まった様子のジェロアと、既に記憶の中にしか存在しないセイレーンの姿とスペラを比べるリーベルも、馬車から降りて合流を果たしていた。
「叔父様っ!良かった、無事だったんだね!」
何も知らないルティウスは、二人の元気な様子に心から安堵する。自身の魔力が彼らを窮地から救った事など、露ほどにも思い至ってはいない。
「ちょっとちょっと、甥っ子君!マジで、本物だよね!スペラちゃんじゃーん⋯うわぁ、後で握手とかお願いしてもいいかなぁ?」
嬉しそうにリーベルへ向いていたルティウスの腕を掴み、確実に聞こえる音量で必死に耳打ちをするジェロア。落ち着きなく何度も視線を向けていると、歓喜の声を聞き取っていたスペラ当人もまた少しだけ嬉しそうに、それでいて照れ臭そうに微笑んでいた。
「えっと、ルティウス君とレヴィさんのお仲間⋯だったわね?」
確かめるように視線を巡らせた先で、代わりに涼やかな声を発したのは嫋やかな表情のまま合流してきたゼフィラ。
「左様でございます。お初にお目にかかります、スペラ・シデリス嬢。わたくしは…ゼフィラと申します」
非の打ち所のないカーテシーと共に自己紹介をするゼフィラを目にして、スペラもまた普段着らしい軽快なティアードワンピースの裾を指先で軽く摘み、無意識に、舞台に立つようなカーテシーで返した。
「これはご丁寧に…って、え?ゼフィラさんって、もしかして……?」
公国の貴族とも縁のあるスペラにとって、ゼフィラの名は耳馴染みのあるもの。会釈の体勢から視線だけを上げ、ウィステリアの瞳を丸くして見つめる先にあるのは、隠し切れぬ気品を湛えた公女の笑みそのものだった。
「ふふっ、貴女ならわたくしの素性も、名前一つで認識されてしまいますわね」
メルカトスの歌劇場だけに留まらず、ヴェネトス公国の首都や貴族街ノービリアでも舞台に立つスペラにとって、ゼフィラとの邂逅はまたとない好機。
「ルティウス君っ!ねえ、公国の公女様までご一緒だなんて…貴方達、一体…?」
静かながらも、ジェロアを上回る熱量で興奮を露わにするスペラに、ルティウスは思わず苦笑を浮かべていた。
「⋯えっと、俺達は⋯⋯⋯」
咄嗟にルティウスは、蒼い瞳をレヴィへと向ける。視線に気付いたレヴィは柔らかく微笑み、ゆっくりと頷きを返すだけ。
素性を明かしても問題はない⋯。
頼もしい保護者からの許可を得たルティウスはスペラへと向き直り、自身の出自を告げた。
「俺さ、帝国から来たんだよね⋯」
自ら皇子と名乗る事に躊躇い、ただ出身地だけを明かすルティウスへ、様子を見守っていたゼフィラは迷う事なく、あえていつもの呼び方で語り掛けた。
「殿下、それではきっと伝わりませんよ?」
その呼び名に、ルティウスは慌てて蒼い瞳を見開き、ゼフィラへと詰め寄るように向き直る。
「ちょっ、ゼフィラ!」
「え、殿下⋯⋯?えっ、皇子様?えっ⋯⋯」
同じようにウィステリアの瞳を見開き、何度も瞬きを繰り返すスペラは、思考が追いつかないままどこか見当違いな一言を放ってしまった。
「⋯本当に、男の子だったのね⋯?」
「いや、そこなの?ていうかまだ女の子だって疑ってたの?」
男だと露ほども信じてもらえていなかった事に、今度こそ崩れ落ちそうなほど落胆するルティウスを、レヴィとフィデスは楽しげに見守っていた。




