0002
水の神を祀り、知と武によって栄えたグラディオス帝国。代々の皇帝は水神の強い加護を受け、圧倒的な統治力を誇り国の繁栄に貢献し続けていた。そしておよそ五百年もの間、一切の侵略や侵攻を許さない強国として世界に名を轟かせている。
しかし次代の皇帝に即位すべく発起した皇族達による皇位継承の争いは、代々に渡って繰り返されていた。
順当であれば今代は、第一皇子サルースに次期皇帝の座が譲られるはずだった。水神の加護を受けたサルースの即位は確約されたも同然と、皇都に暮らす誰もが疑わない。心優しく明晰な第一皇子は民からの信望も厚く、彼が皇帝になる事をを望む声も非常に多い。
そしてそれを良しとしない第二皇子ラディクスが密かに暗躍していた事を知るのは、皇族関係者のごく僅かな人間だけ。
「ルティウス殿下、こちらにおられましたか!」
第二皇子ラディクスとは打って変わり、皇位に興味を抱かず平穏に暮らしているのが、第三皇子ルティウス。
正統なる血筋に生まれ、十八歳を迎えたばかりの少年の興味は、帝国の内部ではなく外の世界に向けられている。いつかは国を出て世界中を旅したい…皇子として生まれたが故の、自由への憧れを抱いていた。
そして願いを叶えるため、持って生まれた天賦の才を腐らせる事なく研鑽を積む日々を送っている。魔法を使うにはまず豊富な知識から…という師から教え通りに、今日もまた魔道士団本部の書庫にて魔法書を読み漁る。それがルティウスにとっての日常であった。
「…ん?アミクス?」
聞こえた声に紙面へ落としていた視線を振り向かせると、柔らかな金髪を揺らす親友の魔道士が、扉の隙間から顔を覗かせている。
けれども、ルティウスは少しだけ落胆した。何故なら『殿下』と呼ばれたからだ。
「何度も言っているだろう、俺を殿下と呼ぶなって…」
「そんな訳にはいかないでしょう?ここは貴方のお屋敷ではなく、皇都のど真ん中にある本部なんですから」
堅苦しい口調は職務のためである、そう主張するのはアミクス・ヴェリター。
グラディオス帝国の名家、ヴェリター侯爵家の嫡男で、数少ないルティウスの友人の一人。一般庶民とは異なり貴族の子息でもあるアミクスは、多少の軽口を叩いても不敬罪に問われる事など無い。だから気安く接してほしいと頼み込んでいても、彼の魔道士団としての誇りと矜持がそれを許さない。
やれやれと溜息を吐きながら、日没も近いこんな時間にアミクスが訪れた理由を尋ねる。本来ならば今頃は、本部施設の最上部にある広間で皇都警備の報告を行っているはずだからだ。
「俺がここに居るのはいつもの事だろ?で、一体どうしたんだ?団長への報告は?」
「殿下にお伝えしたい事がございまして、お探ししておりました」
「だ~か~ら~、その口調をだな…」
「嫌な噂を聞いたんだ」
最初は笑みを浮かべ、揶揄うように慇懃な態度を崩さないアミクスだったが、彼は唐突に素のアミクスを露わにする。急な雰囲気の変貌に一瞬だけ目を見開くも、真っ直ぐにアミクスの瞳を見つめて話を聞こうと向き直る。
確かにここ最近、皇都ではきな臭い話が絶えない。
領内に古代遺跡が複数存在しているグラディオス帝国周辺は、他国からの観光客も多い。騎士団学校があるため騎士を目指す若者達の出入りもある。つまり入出国共に人の動きは盛んだ。
だがここしばらく、そうした人の流れが減り始めていると、城で噂を聞いていた。
継承権順位も低いたかが第三皇子には関わりが無いはずの皇位継承問題が、ルティウスの成人と共に活発になっているとの噂も、街で耳にした事がある。ルティウス自身は話を聞く度に否定してきたが、本人の意志とは関係なく巻き込まれようとしているのだと、実しやかに流れる話を耳にしている為気付いている。
皇帝の座には欠片ほどの興味も無い。成りたい者が居るのなら喜んで身を引くつもりでいる。八年前に起きた事件以来、早く帝国を離れたいとすら願うルティウスが皇帝の座を望むはずも無いと、近しい者ならば既知である。一切のしがらみから解放されて自由に、平穏に生きたい…それが第三皇子の心からの願いなのだから。
周囲に誰もいない事を確かめてから、アミクスはさらに声を抑えて話し始めた。
「君のお兄さん、ラディクス殿下がね、どうやら兵を集め始めてるみたいでね」
「ラディクス兄様が?」
第二皇子ラディクスが皇位継承に躍起になっている。その事実は皇都では有名な話であり、その広まり方は貴族達を通り越して民衆にまで知れ渡る程。けれど兵を集めているという噂は初めて耳にする。噂の出所を尋ねるが、アミクスでもそこまでの情報は掴めていないようだった。
「僕にも詳しい事は判らないけど、父さんが気付いたんだ。ラディクス殿下の私兵の騎士達が、少し不穏な動きを見せているってね」
「信じ難いけど…ヴェリター卿がそう感じたのなら、きっと確かなんだろうな」
アミクスの父は、帝国魔道士団の長を務める優秀な人物である。代々の魔道士団長を輩出してきた名家の現当主でもあり、彼の手腕によって防がれた侵攻も少なくない。かつて騎士達が興した国でありながら魔法技術が発達したのは彼の尽力あってのものだ。その功績から騎士団への助言も行っており、皇都警備の半分を担っている。当然のように皇帝からの信も厚い。そんなヴェリター侯爵が気付いたのなら、確かに勘違いという事も無いのだろう。
「それにね……なんて言うか、少し嫌な予感もするんだ…」
「どんな?」
「うーん…何て言えばいいのかな。簡単に言っちゃうと、胸騒ぎ?みたいな…」
「本当に簡単だな……」
「仕方ないだろ?僕はサリア様みたいに神託を受けられるわけじゃないんだからさ」
偉大な魔道士団長の血を継ぐアミクスもまた優秀な魔道士の一人で、若くして皇都警備部隊の一軍を任されているほどの人物。そんな彼が自分に虚言を吐く事は無いと、ルティウスは全幅の信頼をアミクスに抱いている。
「まぁ胸騒ぎや予感は置いといて、陛下…父様には報せておいた方がいいかもしれないな。ラディクス兄様を止めてくれるかもしれないし……あぁいやでもヴェリター卿が気付いているなら、もう奏上されていて当然か…?」
「………」
成人はしているが、立太子でも無いただの第三皇子に出来る事は少ない。何事も無ければそれで良い。けれど伝えない事で最悪の事態を招くのだけは避けたい。知らないまま失うのは、もう嫌だったから。
記憶に刻み込まれた過去を反芻するようにゆっくりと目を閉じて、独り言のようにブツブツと考えついた事を端から口にする。けれどアミクスは、珍しく沈黙していた。
「アミクス…?」
ちらりと視界に入った親友の、杖を握る手に力が込められているのが目に見えて分かる。アミクスの予感は、昔から当たる事が多い。良い事も悪い事も。
「…ルティ、どうか気を付けて。冗談ではなく本当に…本当に嫌な予感が、胸騒ぎが止まらないんだ」
人前では決して使わない呼び名。その愛称で呼ぶのは、本当に真面目な話の時のだけであり、心の底からルティウスを案じている事が窺い知れる。気付いたルティウス自身もまた、真剣にアミクスを見返して頷いた。




