0015
辺りには本当に何も無く、目に見えるほどの濃い魔力がそこかしこに充満している。クレーターの端に立っていても、反対側を視認する事は叶わない。あまりにも広大な窪みは断崖のようで、かつて起こったという災害の規模がどれだけ凄まじいものだったのかが推し量れる。
「魔物……は、居ないみたいだね~?」
どす黒い靄が沈殿するクレーターの底からも、何かが居る気配は感じられない。護衛としての仕事は現状無いに等しく、ならば…と、ルティウスはその場に膝を着き、両手を組んで瞳を閉じる。誰かも知らない、理不尽に奪われ消え去った命達。安らかにとの願いを込めて祈りを捧げた。
けれど直後、事態は一変する。
「……伏せろ」
一人静かに辺りを警戒していたレヴィの一言を皮切りに、周囲は黒い炎の雨に包まれた。咄嗟に展開させていた水の結界によって守られてはいるが、炎が触れる度に爆発が起こり衝撃がルティウス達へ降り注ぐ。
「何だ、一体?」
「……モアの民、およそ百万人分の魂が寄り集まった成れの果て…死霊の王ってところかな……」
「そんなに?」
かつてこの場所で生きていた人々の多さに驚く。広大だとは思っていたが、国の規模もまた、現代ではクラディオス帝国ですら霞むほどの大国だったのだろう。
止む気配を見せない黒炎の雨と爆発のせいか、少しだけ魔力の消費を感じたルティウスは振り返り、背後で結界を維持しているレヴィの様子を確かめる。涼しい顔をしているが、自身の魔力が尽きれば彼もどうなってしまうか分からない。
せめて炎を降らせている者の正体と居場所さえ掴めれば…その思考がレヴィへと届いたのか、左手で結界を維持したまま、今度は右手が動き何かの魔法陣を生成し始めた。
「奴は実体の無い死霊の集合体。あの下に散らばる黒い邪気、それら全てが、この炎を降らせている元凶だ」
睨むように細められたレヴィの目がクレーターの底を向いている。視線の先を追って黒い靄を観察していると、レヴィの手から放たれた魔法陣がクレーターの奥へと飛翔し、瞬時に拡大し始める。大きな青白い魔法陣から光の柱が立ち上るのと同時に、再び魔力の消費を感じた。
「レヴィ……それ、使って大丈夫なやつ?」
「少し魔力は使うが、こうでもしなければ奴を実体化はさせられん」
何かを操るようにレヴィの右手が動いている。ゆっくりと握られていく指先が完全に閉じた時、魔法陣が大きな音を立てて割れていった。
「ど、どうなったんだ……?」
「水という『物質』を捩じ込ませて、無理矢理に実体化を促した。そろそろ姿を現すぞ」
「……なんて強引な」
「剣を構えろ。ルティの魔法剣なら、奴にも通じるだろう」
レヴィの指示通り、ルティウスは抜剣し刃へ魔力を流し込んでいく。死霊系の魔物と戦った経験は無いが、頼もしく博識なレヴィがきっと援護してくれるだろう。そんな確信を持って、いつでも飛び出せるよう構えた。
「フィデスはレヴィの近くに!」
「はぁい、よろしくね~」
こんな状況でも変わらないフィデスに少しだけ和むが、現在は既に交戦中。意識を切り替え、寄り集まっていく『邪気』と呼ばれた黒い靄の塊を注視する。やがて姿を成した『何か』は、巨大な人の骨に漆黒の靄と黒炎を纏った禍々しい見た目をしていた。
「あれが…死霊王…?」
「来るぞ!」
怒り狂ったかのように乱発される黒い炎の塊が、雨ではなく弾丸となってルティウス達へと襲い掛かる。剣と全身に水の魔力を纏わせて結界の外へと飛び出し、飛来する炎を回避しながら前進していく。クレーターの下り坂を活用して速度を上げ、あと少しで肉薄できる距離にまで近付いた。
接近する毎に肌に感じる歪んだ邪悪な波動は、尚も増幅し続けている。早急に仕留めなければ手に負えなくなるかもしれない。柄を握る手に一層の力と魔力を込めながら地面を蹴り、巨大な死霊王の頭上まで飛び上がる。水流と共に相反する属性の赤い火炎も纏わせ、渾身の力を込めて露出している頭蓋骨目掛けて振り下ろした。
狙いは、あの水竜達を一掃したものと同じ水蒸気爆発を局所的に発生させる事。即座に剣は頭蓋骨へと直撃する。しかしルティウスの思惑通りに爆発は起こらなかった。
「……えっ?」
それは一瞬の隙。爆発どころか、剣に纏わせていた水流は蒸発し、ただ剣と頭蓋骨が衝突しただけに終わる。水の生成が甘かったと反省し距離を取ろうとするルティウスの真横から、再び炎の弾丸が襲いかかった。
「ルティ!」
その様子を見ていたレヴィの声と共に、ルティウスの周囲に強力な結界が生成されていた。直接の被弾は免れたものの勢いを増していく弾丸に押されてしまう。自身でも防御結界を展開し耐えていた所に、頭上高く上がっていた骨の腕が豪速で振り下ろされ、結界ごと地面へと吹き飛ばされてしまった。
「…ッ……くそっ、めちゃくちゃ硬いなあいつ…」
実体化されているおかげで物理的な攻撃も当たりはする。だがそれは相手も同じ。無造作に腕を振り回すだけでも、その巨体に見合った威力を発揮してくる。咄嗟に剣を盾にして直撃は防いだが、レヴィが展開した結界も既に破壊されており全身に軋むような痛みが走った。
「……これは、ピンチってやつかなぁ?」
レヴィの傍で守られていたフィデスが、軽い口調で思ったままの現状を口にする。少しでもこの地の浄化が出来ればと考えていたが、あれほどの化け物の登場とあっては撤退も視野に入れるべきである。人の力でどうこう出来るような、生易しい相手ではない。
他人事のように呟かれたフィデスの言葉に無反応を決め込んでいたレヴィは、にこりと笑ってルティウスを見守る。
「……ルティは、まだ諦めていないさ」
レヴィの言葉通り、多少のダメージを負いながらも、地面に剣を突き立てて立ち上がり死霊王を睨みつけた。その瞳から闘志は消えていない。
けれど今のルティウスに余裕は無かった。相手は死霊でありながら禍々しい黒い炎を操る。最も得意としていた炎の魔法剣は通じず、剣に纏わせた水流を蒸発させられた事から力量不足は否めない。どう対処すべきか思案しているルティウスの脳内に声が届いたのは、その直後の事。
『我が力を使え』
それは既に聞き慣れたレヴィの声そのもの。けれど声に内包する雰囲気があまりにも違っていて、瞬時に誰の呼び声なのかを把握出来なかった。
尚も降り続く黒炎の弾丸を再び魔力を帯びさせた剣で弾き、狙い撃たれないよう周囲を動き回る。その間も脳内に響く声は、ルティウスへの助言を届け続ける。
『想像しろ。巨大な骸を飲み込む、さらに巨大な水の奔流を』
雨霰と降り注ぐ炎を凌ぎながら、視線をレヴィがいる方へと向ける。狙いがルティウスに集中しているからか結界を解除したレヴィが右手を伸ばし、走り回るルティウスへと向けられていた。
その表情はいつもの微笑み。
ただそれだけで、負ける気はしなくなった。
「……っ、簡単に言ってくれるよなぁ神様!」
届けられた声の通りに、ルティウスは剣へと魔力を込め始める。少しの水では爆発を起こす前に蒸発させられてしまう。ならばもっと大きな塊をぶつけてしまえばいい。助言によって考えついた力業の戦法ではあるが、理にかなっているかもしれないと思えた。
死霊王の巨大な骸骨を全て覆い尽くすほどの水の流れ…それをイメージしながら駆け回り、やがて片腕では支えきれないほどの力が剣に集束していく事に気付いた。
立ち止まり、魔力を溜める事に注力する。当然のように黒炎が降り注ぐも、それらは全てレヴィによって防がれていた。
『お前の隙は、私が埋めよう』
脳内に再び響いた声。それと同時に視界に映り込んだ、あまりにも美しい異形の姿。
魔法で隠していたはずの角に加え、同じ蒼色をした二対の翼を羽搏かせるレヴィが、ルティウスのすぐ上空を飛んでいた。
「それが……本来の姿……?」
「いや?今の私は分身体。ルティが力の解放をした事で、私も引き摺られたようだ」
会話の最中にも止まない炎の雨は、レヴィが片腕を振り抜くだけで生じた水の刃によって相殺されていく。圧倒的とも言える力に思えるが、レヴィが魔法を使えるのはルティウスと魔力が繋がっているため。レヴィ自身はあれ以上の出力で魔法を使う事は出来ないだろう。
守られている内にやらなければ…そう思い直して再び剣に意識を集中させていく。剣先から生じた水の塊は次第に膨らみ始め、辺りの空気に溶ける水蒸気も全て巻き込むように肥大化していった。
『その調子だ』
頼もしい声に後押しされ、さらに魔力を膨れ上がらせていく。気付けばルティウスの頭上には、死霊王を飲み込んでも余りあるほどに巨大な水の塊が浮かんでいた。それは徐々に形状を変え、竜の姿を象っていく。
自身を脅かしかねない存在の現出に気付いた死霊王もまた、的確にルティウスを狙い始める。しかしどんな攻撃も全てレヴィが弾き落とし、破片の一つさえ近付けさせない。そんな攻防を遠くから眺めていたフィデスもまた、辛うじて操れる力を行使し手助けする事を決めていた。
「意味がわかんないよね……あんな、普通の人間の子が……こんな大それた事をするなんて……」
レヴィと同じく力の大半を失っていても、地脈や水脈といった力の根源たる流れは視る事が出来る。そんなフィデスの視界では、驚くべき事態が巻き起こっていた。
「……千年もの間、復活の兆しすら見えなかった地脈が……ルティ君の魔力に引っ張られて、このクレーターに伸びてきてるなんて…」
それは決して人が為せる事ではない。封印されているとはいえ神の名を冠するフィデスも、そしてレヴィも想像すらしていなかった現象。
人の想いが呼び起こした奇跡。
後に語り継がれる事となる偉業だが、事を起こしている本人には一切の自覚が無い。
「……本当に、ルティは…………」
ルティウスの守護に徹していたレヴィも感嘆の声を漏らす。ぷつりと途絶えていたはずの水脈が引き摺られるようにその根を伸ばし、巨大なクレーターを埋め尽くそうとしていた。




